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                       俺はあの保健室から立ち去ったあと、三人の友人たちと落ち合う気もさらさらなく、まっすぐ一人で車へと帰った。この文化祭へは、モグスさんの運転する車で来ていたのである。  実のところ俺は親に、フィナーレのワルツは連れの女友達と踊ってきなさい、というようなことを言い付けられていた。しかし俺は、結局この日に彼女とワルツを踊ることはなかった。というよりか、誰ともダンスを踊らないままに帰宅したのである。  俺はもうユンファさんのことで胸がいっぱいで、そんなことはすっかりどうでもよくなり、忘れていた――。    というのは、嘘だ。――踊りたくなかったからだ。  ユンファさん以外とは、もう踊りたくなかったのだ。    俺は幸せな夢から覚めてすぐの男の子らしく、ぽーっとしたまま車に乗り込んだ。  まだフィナーレのワルツは続いており、校庭に程近い駐車場に停めてあった車に乗り込むと、扉を閉めてもなお、そのざらざらしたノイズ混じりの舞踏曲は遠く聞こえた。  ただ、運転席で俺たちを待っていたモグスさんが驚いて、俺へと振り返った。俺が連れ三人と共にではなく、一人で車に帰ってきたからである。彼は焦った顔をしている。   「おい坊っちゃん、他の子たちはどうしたよ?」   「…あぁ…はぐれてしまいました…。彼らはトイレに行くと言って、僕、一人置いていきぼりにされたのです…、それではぐれてしまって……」    一葉落ちて天下の秋を知る――俺は後部座席に座り、外の景色をぼーっと眺めながら息を吐くように嘘をついたのである。しかし、いま自分がなんら悪びれずついた嘘にも、実は外の暗くなり始めた景色にも、特段の関心はなかった。…ただ、落ちかけた日の秋の青い暗さのなか、つむじ風に乗ってくるくるとアスファルトを這うように舞う茶色の枯れ葉を見て、俺はそのように思った。   「…ふふ……」    俺の頭も胸も、ユンファさんのことでいっぱいだった。ユンファさんという夢にうつつを抜かしていた俺は、もはや濡れた下着さえどうでもよかった――。  ちなみに、このときに俺たちの護衛は無かった。というよりか、友人の一人が十八歳の少年とはいえ、条ヲク家の護衛業に関連した家系の者であったため、彼が護衛の造詣(ぞうけい)も深いと判断されてのことであった。しかし、子どもたちに大人一人を着けるよりかは羽を伸ばせるだろうという大人の何気ない温情も、この度の俺の勝手な行動によりこれ以降は破綻した。  そして哀れにも彼が、俺のせいでこっ酷く叱責を受けたのはいうまでもない。   「あぁはぐれちまったのか…いやだけどソンジュ、お前、携帯はどうしたよ? それで連絡取りゃあよかったろ」   「それが…充電が切れてしまって」    俺はまた嘘を言った。ただしこれは今思い付きのものではなく、入念な嘘である。聴覚過敏持ちの俺の携帯はもともと音も鳴らない、震えもしないようにしてあったが、更に電源ももう既に落としてあった。  有事のときのために、彼らも俺もすでに携帯を持っていたのだ。しかし俺は煩わしかった――はっきり言えば彼らの存在が邪魔だった――ので、彼らに連絡などすることもなくこの車へと戻って来た。   「そうか…そりゃあ困ったな。いやよかったよお前だけでも帰ってきてくれて、…わかったわかった、オッケ、…俺がすぐ連絡取っとくから」   「……はい。よろしくお願いいたします」    そうしてモグスさんは、慌てて俺の友人たちに連絡を取った。  そして俺は、車の中でモグスさんが「ごめんねナナミちゃん、みんな側に居るかい? いやぁ坊っちゃんはもう車に帰ってきたんで、…おじさん迎え行くね」なんて、友人たちと合流するためにいろいろ四苦八苦している間、慌てて自分のカバンの中から、メモとシャーペンを取り出していた。   「…夢見の、…恋人……」    忘れたくないことは、メモをするものだ。  だから書いたのだ。『夢見の恋人』とだけ書いて、忘れぬようにサラサラと――ミミズに近い何か、三行半(みくだりはん)に近い何か、にょろにょろとした線、……俺のメモは独特だと人にはよくいわれる。   「…“それに、アルファだとかオメガだとか、ベータだとか…そんなのは、僕らのただの属性の一つに過ぎない。君がアルファだからって、必ずしも人が思い通りに動くわけじゃないんだ。…いや、むしろ君は今、損をしたんだよ。――ね。友達が欲しいなら、自分がアルファだという前に、君という人を教えてあげよう。”……」    ノートにミミズを這わせる。それを見ながら、メモしていることを口に出す。…これが俺のメモの取り方だ。  そしてそれを鮮明に思い出したいときには、このページを開く。すると脳内に保管されているメモ――口に出した言葉を、そのミミズを見ることをきっかけにして、思い出すことができる。…ある意味ではボイスレコーダーのような原理だが、何の意味もなさそうなミミズのわずかな差異が、俺にとってはその部分を思い出すための文字となっているのだ。あるいは一旦口に出しておいて、後々それをメモすることもあるが、何にしてもこうして、俺の脳内メモリのフォルダに『夢見の恋人』などと名前を付けて分類しているのである。  そうして俺は、そのあとモグスさんが「ちょっと迎えに行ってくるから、絶対車の中から出ないでくださいよ」なんて俺に言い据え、友人たちを迎えに行った間も――ずっと、ユンファさんの言葉や詳細な美貌の様相、得られた彼の情報の何もかもを、事細かにメモをしたのだった。         

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