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そのときに記しておいたメモが、のちに『夢見の恋人』を書くにおいても役に立ったことは言うまでもないが、のみならず、俺はユンファさんを想えばそのたびに――流星群の如くインスピレーションが降って湧いてくるのを感じた。…想いは募るばかりとは、まさにこのことである
あの文化祭の夜は、ちょうど中秋の名月の日であった。
俺は、電気の一切を消して暗くした自分の部屋の窓から、その大きく、一際明るい満月を眺めていた。――俺の自室には、机に座ればちょうど真ん前に縦長の飾り窓があったので、俺はあのときのユンファさんのように、自然と机に頬杖をついて夜空に浮かぶ月を見上げていた。
その夜空には幾筋もの流星が瞬いた――ように見えたほど、インスピレーションが湧いてきたのである。
「……はぁ…、……」
まるで月のように美しい人だった。
この日の満月は、はちみつを纏っているかのように潤んだ黄色をしていたが、彼はどちらかというとさらさら乾いた、青白く涼しげな色の月華を全身にまとっているような人であった。――青い月はしばしば奇跡ともされるほど稀な、ひと際美しい月である。
清く美しく気高い月は、人の目には至極ゆっくりと見えるペースでまばたきをする。日毎 あの美しい切れ長のまぶたが伏し目となる様は、いつの世も彼を見上げる人を魅了してやまない。
そして一晩だけ、彼は深い眠りに落ちる。
あの眠り姫さえ比べようもない美しい寝顔に、人は儚い死を重ねてカタルシスを覚えるのだ。
しかし彼はまたゆっくりと、あの美しい切れ長のまぶたを上げてゆく…――人の想像を絶するほどの時間をかけてゆっくりと、ゆっくりとだ、ゆっくりと……――そして人はまた、蘇った明るい満月の夜に歓喜する。
彼は自分を見上げる人間に分け隔てなく、微笑みかける。あまねく人々がいつも彼を欲しがる、しかし――鏡花水月、Ask for the moon.彼は決して手には入らない。
――なんて美しい人だったろう。
あんなに綺麗な人は初めて見た。俺は聡明なユンファさんの哲学にも心酔していた。
『アルファ属だとか九条ヲク家の者だとか、そんなことは何も関係ない。それは君の、属性の一つ――君を構成する要素の一つでしかないんだ。君という人を等身大で示さなきゃならないとき――誰かと親密な関係性を築こうというとき――その要素は一旦、切り離して考えるべきだ』と、意訳すればユンファさんはあのとき、そう言ったのだ。
『表面的な君の白と黒の模様なんかどうでもいいんだよ。そうではなく、その模様の中に隠れてる君という人は、どういう人なの?』
そのような、突然考えてもみないことを聞かれたような、驚きがあった。例えば嘘を吐いているつもりのないときに、『そんな嘘を吐くなよ。』と見当外れのことを言われたように思いながらも、それによって心の奥底に潜んでいた自分への嘘に気付かされたような驚きだ。
はじめは苛立ち、それから自己疑心――この警句にはややもすればそこで怒りのまま終わるところだが、ハッとした気付きに納得までゆければ、俺のように心酔となれる。
そうして人は、一つ賢さを得るのかもしれない。
そんなことを言ってのける人が、この世にいたとは。
とてもじゃないが、これはにわかには信じがたいことである。
というのも俺は、これまでユンファさんのいうその、属性の一つを自分の全てなのだと思いこんで生きてきた。
アイデンティティというより、自分は常に九条ヲク家の次期当主だというのを背負って、どこに行ってもその立場に相応しい顔、立ち振る舞いをするのが、もっとも当然のことだと思っていたのである。――それは周りが俺のことを、徹底してそのように扱ってきたからこそである。
しかし、彼は俺が九条ヲク家の者――というよりかもっと抽象的な、「名家生まれのお坊ちゃん」――だとわかっていてもなお、俺に対して媚びた真似は一切しなかった。
取り入ろうというたくらみなど欠片もなく、それによって自らに降り注ぐだろう甘露の恩恵など興味もなく、下心のない彼の純真な誇りは、むしろ俺を邪険にした。
自分がオメガ属として生まれておきながら、俺がアルファ属だと判明してもむしろ彼は、「だからなんだ」と突っぱねたくらいである。
彼は俺がアルファ属の、九条ヲク家のお坊ちゃんだとわかっている上でも、あくまで俺を少年――つまりある意味では年下という、下の存在として扱い、諭した。
初対面の俺のことを、年下だからと「ソンジュ」と呼び捨てにまでして、冗談めかした気遣いとはいえども、俺に命令までした。
それでいて真っ当な、騎士道に近しい誠実さのあるユンファさんは、あっさりと自らの非をも認めたのである。年下の少年に、「大人げなかった」と謝ったのだ。
年上としての矜持を持ち合わせながらも、年下だからといって侮ることはせず、その善悪の基準は対等である(但しユンファさんは、俺の恋心ばかりは侮ったがね)。
その目に浮かんでいた感情には、なんら嘘がなかった。
固くも柔らかくもなった声に、挙動の一つ一つにも、優しさにも、何もかもが彼の純然たるものだった。
俺を睨んだ。失礼だと、邪魔だと――俺に疑問をぶつけた。いったいなんの用なんだと。――彼は俺に微笑みかけてくれた。…少しも媚びずに、彼は俺へあまりにも美しい微笑みを向けてくれたのだ。
自分の誇りにかけて忠誠を誓う者以外には何にも屈しない、優しく柔軟でありながらも高潔な精神――彼はまるで、気高い騎士のようである。
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