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                     そうして俺は九条ヲク家の…という煩わしい枷を外せる世界で、pineとして脚光を浴び、世の人々に良くも悪くも声高に評価されている。…そして今や俺の作品はこのヤマトにのみ留まらず、広く世界へと羽ばたいてゆき――俺がすべてこだわりを持って翻訳している――、そちらのほうも上々の評価を得られている。    すなわちアルファでもなく、九条ヲク家の者としてでもなく、また九条ヲク家の次期当主としてでもない――pineという一人の作家として賛否両論をぶつけられつつ、何だかんだ俺は作家として大きく成功し、今に至っているのだ。    もちろん小説という限られた世界の造化に苦悩がない、といえば嘘にはなる。スランプに陥るときもあれば、何か机に向き合っているばかりでは、着想を得るための刺激に欠けることもある。進捗(しんちょく)(かんば)しくないときもあれば、集中できないときも、データのすべてを破れかぶれに消してしまうときもある。    しかしそうした創作の苦悩があろうとも、やはり執筆活動は嘘偽りなく楽しい。    これは俺の天職だ。  俺にとってこれほど心地良く幸福なこともない。  属性だ家柄だという、くだらないバイアスのみで褒め千切られてきた俺にとって、これほど居心地の良い世界もないものだ。――心から楽しんでできる仕事である上、自分の実力だけで成功できたという今の現状は、何ものにも代えがたい俺の誇りである。    そして今となっては、あのとき『夢見の恋人』のコピーを出版社へと送ってくれたモグスさんにも感謝している。  それこそあのときは否応ない強行に出た彼だが、こうなってはいよいよ「ごめん」などではなく、いつか「あのときはありがとう」と言うべきだ。    しかし――小説家になるという夢はこうして叶った。    それも自分の予想をはるかに上回る、もっと派手で華々しい結果をもってして、俺の夢は俺の実生活に定着するほど一つ、見事に叶えられたわけである。  もはやこれほど成功していては、全てが神の采配であったという他にない。小説家こそが俺の天職であり、こうなる宿命であったという他に言いようがないのである。    だが――そうして俺の運命を変えた、俺の人生を好転させた、俺に行かねばならぬ道を指し示した、……月。      俺の初心、俺の人生の契機、初志貫徹――俺はこれまで、あえて()()を忘れようと努めてきた。      これは俺がまだ高校生の、ある夏の日のことである。  俺が『夢見の恋人』で作家デビューを果たし、それから幾ばくか――このときの俺は、あの『夢見の恋人』の続編の執筆に追われていたが、それでも成績を落とすわけにはゆかず、学業と執筆活動の両立をなんとかやり繰りしながら過ごしていた。  それはまた下校中のことだ。俺はモグスさんが運転する車の後部座席で、ノートPCを膝の上にのせ、浅い黒いキーボードの上に指をのせたまま、それの画面を()めつけてじっと固まっていたのである。   「…………」    おりおり音を上げそうなほどであった。  それほど筆が進まない。まるで書けない。    ――いや、書けるはずがなかった。  もともと俺は、あの『夢見の恋人』――自分が眠っているときに見た夢と、そしてあの綺麗な人…ユンファさんとのあの一幕に願望をたっぷりと込めて書いた物語なのである。  他の作品ならば書けた。後に出版されることとなる、既に書き終えた作品もあった。しかし、強いてあの『夢見の恋人』の続編を書いてくれ、と頼まれた俺は、一も二もなく安請け合いをしてしまったのである。    しかしこうして後悔していた。――思えばインスピレーションなど湧いて出てくるはずがない。  あの『夢見の恋人』のインスピレーションの根源はユンファさんである。    彼とはもうあれきり会えていない。また残念なことに、彼は俺の夢の中にももう出てきてはくれなかった。  まるで自分で金稼ぎをした俺を恨んでいるかのように。信奉者が神で金稼ぎをするなどとは、到底許されないことである。これは信仰に対する冒涜――あのときだって俺は気を咎めていた。それはわかっていたはずだった、というのに。――金とはこの世で一番俗な報酬だ。俺は貪欲にも自分の夢を売り出し、それによって卑しくも大金を得てしまった。    これはあたかも罪である。それだから俺は今、罰を受けているのかもしれない。  俺は深い後悔と反省に羞恥まで覚えていた。やはり『夢見の恋人』だけは()()になどするべきではなかった。  しかし、(あやま)つは人の常、許すは神の(わざ)ともいうように、人の罪を許す許さないの審判を下す権利があるのは神のみなのである。  すなわち――俺のその懺悔の向かう先は、今もなおどこで何をしているかもわからぬ俺の神、ユンファさんであった。だが彼を心に思い浮かべて懺悔したところで、俺がどれほど許しを乞おうとも、彼が応えてくれるはずはない。    あるときまでは夢も見られた。  というのは、元よりロマンス作品好きらしい彼ならばあるいは、これで一世を風靡した『夢見の恋人』を読んでくれているんじゃないか。俺がその作品の続編の依頼を受けたのも、もうワンチャンスを狙っていたところがある。    そして、あの『夢見の恋人』をユンファさんが読んでくださり、自分によく似たユメミにあっと何かに気が付いて、あわよくばファンレターなどでも俺に連絡を寄越してくれるんじゃないか、などと軽躁(けいそう)な夢を見ていた時期もあったが――もちろん待てど暮らせど彼からは、そのような音沙汰はまるでなかった。  これは夢を売った代償の後難(こうなん)――もう俺には、あの夢を遡行(そこう)することはできない。     「……駄目だ…、駄目、駄目、駄目……」    書いては消し、書いては消し、書いては消した。  これは俺のユメミじゃない。というか、もうユメミは、俺だけのものではなくなってしまった。――葛藤に瞳を曇らせた俺の目には、もう美しい彼のことが見えなくなっていた。そうした静かな絶望のさなかに、右斜め前の運転席で車を運転しているモグスさんが、行き詰まりに直面している俺を慰めようとこう言った。   「すげえよなぁお前…あっちゅう間に売れっ子作家大先生じゃないの。なあソンジュ、やっぱり俺の見込み通りだったな。これからきっと、もおっと忙しくなるぜ? どーせ目指すんならよぉ、天下一の作家先生を目指しちまえよ。文豪っつうの? いやーお前ならできる。」    当人の俺よりもよほど誇らしげなモグスさんは、俺にそう笑いかけた。   「……どうかな…無理だよ、さすがにそこまでは……」    現にスランプといえばスランプに陥っている俺は、はっきりいって自信を失っていた。しかし、モグスさんの次の言葉にはさすがに目が上がり、車のルームミラーで彼の表情を確かめた。     「なあところでよぉ坊ちゃん…――あの“夢見の恋人”に出てくるユメミくんって、誰がモデルなんだい?」      モグスさんは息子の恋路をからかう父親のような、デリカシーのないニヤケ顔でそういった。         

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