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俺はさっと目を伏せた。
「――っは…? べ、別にモデルなんかいないよ……」
ちなみに俺はもう声変わりが始まっており、一人称も一貫して「俺」となって久しく、背に関してもここ数年でいきなりグンッと伸びていた(170後半はあったか)。
一旦は羞恥心から元気が出たが、目を伏せた先にあるつまらない文字列にまた俺はくさくさする。チカ、チカと点滅するカーソルの縦線は、結局また俺の目をぼやけさせた。
「おいおい、バレバレですぞお坊ちゃま。…カナエだっておめーそっくりじゃねえか。」
「…………」
それはそうだろう。
あの『夢見の恋人』がもともとは世間に公表するつもりのなかった物語である上に、まだ中学生だった俺は、あのカナエというキャラクター――周りからの総評を付け加えた、自分自身の理想の姿を描いたのである。
それこそ内情をよく知らない人へ「カナエのモデルは作者 自身です」などというのは自惚れの酷いナルシストのようで、とても言えたものじゃないが。
容姿に関してはこれまで言われてきたことをそのまま書いた。となると当たり前に身体的特徴は俺そのものとなる。まあというか、そのような他者からの褒め言葉に思い悩む自分の心境を描きたかったために、あえてカナエのことは美少年(と言われている)、という向きで書いたのである。俺は実際にそう言われてきた、そしてそれに葛藤してきたからだ。
しかし、実際のあのときの俺は、何も自惚れていたわけではない。良いも悪いもなく、自分の顔など割とどうでもいい、これが自分の顔だ、という程度の認識しかなかった。
とはいえ一時期は、鏡を見るたびに目を塞ぎたくなるくらい自分の顔が大嫌いだったが。――それは不細工だからというのではなく、親子じゃ致し方ないのだが、髪と目の色が同じである分か、俺の顔は父親にどことなく似ていたからだ(ちなみに思春期こそ父親に顔が似ていると思っていた俺だが、成長するにつれて俺は両親似ではなく、まさかの父方の叔母によく似ていることが判明した。遺伝子とはかくも面白いものである)。
ちなみに今の俺はというと、我ながら自分のことはなかなかのイケメンだと思っている。
人は自惚れだと思うだろうか?
しかし、さんざんこの顔を見た多くの者の恋心を透視してきた俺が、そのように思わないほうがおかしいだろう。
これで「俺は不細工だから……」などといえば、謙遜のつもりでも卑屈なようですらある。俺は美しいのだ。
特に体つきとタレ目に関しては結構気に入っている。体付きは男らしく、このタレ目もなかなか愛らしいではないか?
まあそれはさておき、あのカナエの性格に関していえば、あのユンファさんが惚れそうな男、というのを念頭に置いて、大げさなくらいに男らしくロマンチックな面を誇張して書いたのだ。が、そりゃあ俺のことを赤ん坊のときから知っているモグスさんが、あのカナエと俺の共通点に聡くならないわけもない。
「…ってぇ…こ、と、は…? お前、惚れたな。」
「…だ、誰に」
この期に及んで白を切ろうとした俺に、モグスさんは「ほーん、まぁだ言わねえってんだな」といよいよ臨戦態勢を楽しげに取った。
「…俺はお見通しですぞ坊ちゃん。あ の 日 だ ろ あ の 日 」
「どの日だよ…」
「ほれ、ダイツくんの友達が通ってた高校の文化祭の日だよ。」
ちなみにダイツくんとは、ナカミネ・ダイツといって、あの日一緒に文化祭に行った友人の一人である。つまり俺たちをあの文化祭に誘った少年だ。
「思えばあのときから怪しかったよなぁお前? らしくもなくナナミちゃんたちみーんな置いて、一人でふらふら車に帰ってきてよぉ…――なぁんか心ここに在らずって感じ? ブツブツ言いながらまたよ く わ か ら ん ミ ミ ズ をい〜っぱい書いて、家に帰ったあともず〜っとぽぉ〜〜っとしててよぉ……」
「…………」
どだいこの人に隠し事などできようもないのだが、かといって今の今、このタイミングでそれを暴かれるというのはそれこそ、今以外で暴かれるよりかもっと傷が痛むようであった。――しかしモグスさんにしてみれば、今 だ か ら こ そ この話をしてきたのだろう。
つまり彼なりに、執筆に行き詰まっている俺を助けようとしたのである。その恋をした当時のことを思い出せば、あるいはまた新鮮なアイディアも降って湧いて出てくるんじゃないか、といったところだろう。もっとわかりやすく言えば、ここは一旦初心に立ち返れということだ。
が――俺はむしろ、その初 心 を忘れようと努めているのだった――逆に執筆する気分ではなくなった俺は、ノートPCをぱたんと閉ざした。
そして、モグスさんに八つ当たりすることさえできないほど意気消沈し、ノートPCの銀色の背を眺めながら、ただ黙りこくっていた。
「で、そのあとしばらくずーっとぼ〜っとしながら、何か悪いもんにでも取り憑かれたように小説、小説、小説って……んで、書いてたもんはあの、お前そっくりな男の子が出てくる“夢見の恋人”だろ? うーん、怪しいぜこりゃ……」
おどけて名探偵気取りのモグスさんは、わざわざそれらしく白手袋の片手で顎を押さえ、そしてもう片手で握る車のハンドルを巧みに動かしながら、
「てえこ、と、は…? あのキレーな美少年ユメミくんにも、モデルが……」
「…そうだけど」
俺はものぐさな言い方で、もう引導を渡した。モグスさんにではない。
――己の淡い恋心に対してである。
俺はため息を堪えて、車窓の外の景色に目を転じた。しかし何が見えるということもなかった。
ただ言えるのは、流れて焦点を合わせるともない、特筆するべきところのないいつも通りの景色、夏ともあって緑生い茂る街路樹、火に近い明るさの夕方の都会、車の走る鉄板のような陽炎 立ちのぼる道路、車内の低さから見えたその、俺にとっては通りすがりの景色というだけだ。――それは例えば袖振り合うも多生の縁、という程度の景色である。
さて、言うまで言い募られるのだ。
それがよくわかっていた俺は、さっさとモグスさんの好奇心を納得させようと、明確な答えをあげた。
「…そう…あ の 日 に出逢ったんだ。一目惚れだったけど、それだけだよ」
「…一目惚れか、なるほどな。そりゃ…」
「でもどうせ叶わない恋だよ。だって初恋ってそういうもんなんでしょう…――だから、せめて作品にしたってだけ」
「…………」
俺のこれは決して本意ではない。若いからこそ五里霧中でこういうしかなく、しかし若いからこその意地を張った言葉だった。
モグスさんはそこで突然重苦しく黙り込んだ。俺は傷付きたくて彼にこう聞いてみた。
「…ユリメさんとは初恋?」
「いいや」
「…ほらね」
高校生の俺は、この想えば想うほどに募る恋心に、これで決別を言い渡すつもりだった。俺は感傷的になって車窓という額縁の中、ゴッホの『星月夜』のタッチで流れてゆく夏の火の灯る明るい都会へ、「さよなら」なんて呟いた。
俺はわかっていたのだ。
こうして俺のほうばかりは今も尚、想いが募るあの人――しかし彼もまた、俺が年を重ねるごとに、俺と同じ時を重ねている。…つまり彼もまたどんどん大人になってゆく、ということだ。
どうしたって年齢差というものだけは、埋められないものなのである。――追い付こうと必死になろうとも、その人もまた同じだけ進んでいってしまう。この世に存在するものなら物質も霊質もなにもかも、あまねくものに諸行無常の理が適用されている。何においても変わらないことを許されないのが、この現し世なのである。
今の俺ならば振り向いてもらえるだろうか。小説家になれた今の俺ならば彼に一目置いてもらえるか。背の伸びた今の俺ならば、彼の恋愛対象にもなれるのだろうか。今の俺なら、あの美しいタンザナイトの瞳に映ることが叶うのだろうか。
いや、きっとそんなことはない。
俺が高校生ということは、当時高校生であった彼もまた大学生か社会人か、するとその大学や社会――その開けた世間にはいくらでも、俺なんかよりよっぽど魅力的な人がいる。俺なんかより大人で色気のある人は、まだ俺の踏み込めない世界にごまんといるのだ。
あれほど美しく賢い人に、恋人ができないなんてことはそれこそあり得ない。…下手すればあの当時にも、彼には恋人がいたのかもしれない。そもそも彼が男を好きになれるタチかどうかなど、一般的に考えればまずそうではないと考えたほうが自然だ。
あの美しいタンザナイトの瞳に映って嬉しそうに笑う女がいる。あの目で見つめてもらえる女がいる。あの美貌に幸せそうに微笑みかけられる女がいる。あの妖艶な唇に許可もなくキスをして許される女がいる。あの人と身を寄せ合って腰を取られ、ダンスをする女がいる。あの人と結婚して、セックスができる女が、
「…………」
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