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                 こんこんと空から降る白雪をただ綺麗だなぁと見上げるばかりで、足下に積もってゆく雪をそのままに放置していては、いずれ弊害が出ることなど自明だ。  人は人生を歩むにおいて、いつかは雪かきをして道を整えなければならない。春の雪解けを待てど暮らせど、それは初恋には訪れない季節なのだ。現に、こうして夏になっても俺の胸の中の雪は未だなお溶けていない、と高校生の俺は考えた。そして真綿で首を絞めるかのような積雪の弊害は、この頃から少しずつ俺の人生にも影を落としつつあったのである。      諦めるのは時期尚早?      俺は高校生の時点で、ユンファさんの写真を手に入れていた。早生まれの俺が高一の頃、彼はまだ高三であった。  とはいえどもその写真は、何も後ろめたい方法で手に入れたものではない。彼の男子校の公式サイトに掲載されていた、行事の記念写真のいくつかである。    運動会のワンシーンだろうか。体育館の赤茶を背景に同級生と肩を組み、赤いハチマキをしたユンファさんが、斜に構えたぎこちない笑みを浮かべてピースしている写真(彼はあまり写真というものに慣れていないのだろう)。――濃紺のジャージの立て襟から覗いているユンファさんの眩い白い首筋には、当然(そそ)られるものがあった。    他にもいくつかあり、俺は有象無象の中から()の目鷹の目ユンファさんが映っているものはすべて探し出し、そのすべてを大切に保存した(ちなみにまだ持っているどころか、どんどん()()()()()())。しかし特筆すべきはやはり、文化祭の写真であろう。――ユンファさんはその写真の中、仏頂面の仁王立ちで、……黒いチャイナ服を着ていた。    男子校にありがちなノリの、冗談っぽい女装である。  広く一般に女物のチャイナ服といわれて想像に容易いような形のもので、つるつるした素材はシルクに寄せたポリエステルの、そこら辺の激安量販店に安く売られているようなチープなチャイナ服である。    もちろん女の膨らみなどその真っ平らな胸元にはないが、しかしこれは人の官能を刺激するためのデザインではないのかと、俺は己の眉間の翳りを感じた。  半袖のもので胸元は開いていないが、ユンファさんの黒髪の頭頂部には、ファーでできた黒い猫耳のカチューシャが着けられていた。…また彼がしなをつけるでもなく男らしい仁王立ちしているせいで、その深いスリットから覗いた細い太ももの下部には黒いファーから目の荒い黒の網タイツ、それを纏った真っ白な骨らしい膝、まっすぐな(すね)、大きく開かれた彼のそのかもしかのような美脚は、官能的だ。  そして、足に履いているのは黒い低いピンヒールのパンプスであり、すると彼の脚はより細長く見えた。また両手首にも黒いファーが巻き付けられている。  しかしそのチャイナ服は不本意ながらも着せられたものなのだろう、ユンファさんは仁王立ちのうえ胸の前で腕を組み、この写真を見る者を睨み付けていた。    しかしこの黒猫チャイナ服――俺はとてもじゃないが、男の冗談とは捉えられなかった。むしろありありと誰かしら男の下心を感じた。なぜならいやにユンファさんに似合っている。なぜならいやに彼の白肌に映える黒である。なぜならいやに体のラインを目でなぞるよう誘う、扇情的なチャイナ服である。    しかも、別の写真ではもっと俺の気が立った。  それはユンファさんが、教室内でのカフェの、机の上の後片付けをしているらしい後ろ姿だった。が、実は彼が着ていた黒いチャイナ服……彼の一点の曇りもない、真っ白い男らしい背中が丸見えになるデザインであったのだ。    前かがみとなりややお尻を突き出すような姿勢で、あわや腰に至りそうなほどばっくり開いた黒いチャイナ服、前から見ればさほどの露出が無いように見せかけて、これはとんだエロ……いや。  俺がゴクリと喉を鳴らしたほど綺麗な真っ白な背中、どこかまだあどけない青い剃り跡がやや覗いたうなじ、肩甲骨の対になった小山、官能的な背筋、逆三角形、引き締まった肉のない、あまりにも細い腰は黒い布で隠れているが、そこには妖艶なワインレッドの蝶結びが、豊かながら引き締まった小さなお尻には、ファーの黒い長い猫の尻尾まで垂れ下がり、……俺は負けた。    俺は、彼の前では直情的になれるのだ。  なんていやらしい…なんていやらしい格好、なんていやらしい格好をさせられたんだ、誰にこんな……これでヌいた。何度もヌいた。何度も何度もヌいた。  俺は後ろから、この格好をしたユンファさんのお尻に激しく腰を打ち付けた。さなかにも、どれだけの男が彼のこの姿を俺と同じように穢したことだろう? そうふと考えてしまうと憤りはさらにグツグツと煮詰まり、俺はもっと酷い動きになった。彼は夢の中で泣きながら、何度も俺に許しを乞うた。    ――しかし、俺が無理を強いて彼のナカに醜い欲を受け入れさせたあとには当然夢は醒め、俺は決まって虚しくなった。八つ当たりに手の汚れをその人の背中に塗り込めた。ユンファさんの真っ白な背中が汚れると、しかし俺は慌てて謝りながらそれを舐めとった。    どの写真を見ても虚しかった。楽しげに笑うユンファさん、ぎこちない笑みを浮かべたユンファさん、仏頂面のユンファさん、緊張に青ざめて真顔となったユンファさん、…どのようなユンファさんも穢した。あるいは彼の顔にかけたこともある。だが、どれにしてもさあっと虚しく夢は醒めてゆく。    虚しかった。  相変わらずというべきか、楽しげに学生生活を送るユンファさんの目と、俺の目は合わなかったからである。  俺が自室で何をしてもどれだけ汚してもどれほど思い詰めようとも、…どうせ現実のユンファさんにとっては蚊帳の外のことで、俺は彼の瞳には映らない。俺が優しいキスをしようが、俺が顔を汚そうが、ユンファさんの表情には何も変化がなかった。  彼は画面の中にしかいなかった。そもそも俺のことを見ているのではない。彼はこの写真を撮った者を、いや、ただ無機質なカメラのレンズ()を見つめているだけだ。――俺に彼は見えているが、彼に俺は見えていない。  もちろん俺は、ここにはいなかった。俺はユンファさんの暮らす世界にはいなかったのである。恋人どころか俺は彼の友人ですらない。――どんどん遠くなってゆく。これで彼が高校を卒業すれば、俺にはもういよいよ彼の行方など知ることさえできなくなる。    手を伸ばせども阻まれる。  物質に、現実に、PC画面に。    夢など所詮こんなものだ。夢とはどうせこの程度の力しかないものなのだ。大人になったら迎えに行く?  そうして俺が少なく見積もっても結婚できる年齢となった頃、彼は二十一歳だ。すると彼にとっては、俺はまだ十八歳の少年である。――やはりまだその目で対等に見てもらえるはずがない。  ()()というか――俺はどう頑張っても年下なのである。    俺が二十歳のころに彼は二十三歳、順当に進んでいれば大学三年生と就職か進学かをすでに果たしているだろう人、例えば三十歳と三十三歳ならばまだしも、しかし三十三歳ともなった彼はそれこそもう結婚しているか、そうでなくとも、すでに確立された自分の世界に将来を見据えた相手を引き込んでいることだろうと思われた。  虚しいものである。年下の俺はどうしたって、彼が歩む人生の段階には遅れを取ってしまうのだ。    そもそもどうやって俺が彼の世界に行ける?  タイミングとしては若いほうがまだチャンスはある。だが、若いうちでは彼にとって俺はどうしても年下の域を出ない。――突然会いに行って「俺のこと覚えてますか? 初恋でした。付き合ってください」なんて言ってみろ。共に過ごした時間が長いのならまだしも、あの一度きりの短時間の機会を彼が覚えているほうが不自然なほどであり、あれっきりのことを未だに追い掛けて果たそうとしているとは、それこそ噴飯物の話である。  下手すれば()()()よりも輪にかけて酷い結末が見えている。ゲイだヘテロだという以前に、ほとんど初対面の年下からの愛の告白を、大人となった彼がまともに取り合ってくれるはずがない――。    ――だから諦めてしまったのだ。  あの『夢見の恋人― 2 ―』のエンディングでカナエは、ユメミとユメミが産んだ自分の子供の存在を知りながらも、目の前に映った夢を眺めながら諦める。  目の前にあるのなら手を伸ばせば届く? そのように見せかけて、届かぬからこそカナエは諦めてただ咽び泣き、彼が自死を願って話は終わるのだ。――手を伸ばせども、自分の手はその夢の中には入ってゆけない。PC画面に阻まれて、彼はカツンとただ指を突き指したのみである。      なお、これは俺が処刑されたも同然のことだった。  夢を殺されたようだった。しかし憎むことなどできなかった。俺は彼の知らぬところで、ユンファさんに引導を渡されたような気になっていたのだ。       

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