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                 俺は諦めてしまったのだ。  この初恋もまた所詮、()()()()()()だった。  そう決め込んだ俺が腐心しながら何とか書き上げた『夢見の恋人』の続編は、俺のそうした内面が反映されたせいか、悲恋のままに終わりを迎えた。――あれの脱稿の折に覚えた感覚は、今思えばほとんど断崖から飛び降りる自殺者の念に近いものであった。  やっと苦しみから解放されるというような、それでいて、拭えない絶望の淵にあるからこそ此処に立っている、いや、夢も希望もないからこそ今に思い切りよく飛び降りたのだ、というような。    泥濘(でいねい)にはまったようにした執筆において参考にしたのは、自分の書いた『夢見の恋人』と、そして、また世間一般のオメガたちのことである。またあの作品の節々には、俺の遂げられなかった恋心、ユンファさんへの願望と俺の(つたな)い想いとが綯い交ぜになっている。  しかも、あれはまるでセンスも捻りも何もない『夢見の恋人― 2 ―』なんてタイトルで、悪い意味で看板に偽りなし、内容にしても無理やり付け焼き刃的に展開させた物語であった。…にも関わらず、俺のファンたちはそれでもまた喜んでくれたのである。    しかし俺はその結果に、穴があったら入りたいというほどの深い恥じらいを覚えた。賛辞を目にするたび耳は熱くなり、自らのファンに申し訳なくて堪らなくなった。折りにふれ俺は彼らの賛辞から目を背け、目を瞑って密かに自ら呵責(かしゃく)した。――もうやめよう。  自分のファンに自分の納得のいかない作品を読ませてしまった。しかもあまつさえそうとは知らぬ彼らは喜んでくださって、俺は本当に彼らが気の毒になった。  俺自身があれではまるで納得できないのである。…何なら俺は、あの『夢見の恋人― 2 ―』は無かったことにしたいほど、蛇足であったと後悔しているくらいだ。    俺はもうあの『夢見の恋人』は書けない。そしてもう書かないと決めた。  自分の作家としての矜持にかけて、もう自らのファンを気の毒に思いたくはなかった。どれほどあの物語の続きを求められようとも、自分の納得のいかない作品を読ませるよりか、自分の興がのらない結末をおためごかしに提供するよりか、愛する彼ら(ファン)に結末を委ねたほうがまだマシである。    そう痛感したのである。  他の作品ならばいくらでも書けた。それらならほとんどスランプに陥らないで書けたのだ。しかし『夢見の恋人』に関しては、もう俺に書けるはずがなかった。    ユンファさんが、もう見えなかったからである――。  あの人と自身の理想を描いた恋物語で、俺自身の恋が悲恋に終わった今、どうしてあれのその先が書けようか?  それでいて俺は、あの物語を決して悲恋で終わらせたくはない。本当はあの『― 2 ―』の時点でも、どうしてもハッピーエンドにしたいとの願望はあった。だというに自分が失恋していては、とても傷が痛んで痛んで、そのようなマゾヒスト的執筆活動などできるはずもない。    俺はあの『夢見の恋人』を二編書いてしばらく経ったのち、『もう“夢見の恋人”の続編は世に出すつもりはありません。ですがもし読者の皆さまが、二人の行く末を気に掛けてくださるのならば、どうか、あなたのお好きな二人の行方を探ってください』そう世間へと向けて宣言した。――どうせもう『夢見の恋人』は俺だけのものじゃない。俺の中から生まれた彼らは今や乖離し、世の中で生きるようになった。    一人歩き、ともいえるかもわからない。  彼らの行く末を決めるのは俺ではなく、彼らを愛した世界だ。  これは子離れのできない親が、やっとそう悟ったようなものであろうか。    しかし、この虚無感はどうしたものか。  一つの夢を叶えた代わりに、俺は一つ夢を失った。  これが夢を叶えるということの代償なのかもしれない。  何かを一つ大きく得た代わりに、本当に大切なものを一つ見失う――。    『夢見の恋人』は、もう俺だけの夢ではなくなった。  俺の夢は輝きを失い、褪せてゆきながら徐々に死んでいった。(うつつ)に俺の夢は殺された。カナエはもちろんのこと、俺のユメミももう死んだのだ。――俺はもうあの『夢見の恋人』を思い返すことさえ辛くなっていた。俺はもう、あの夢を遡行することはできない。    だが――俺の中にはいまだ、あの二人がいるらしい。  だから『もう世には出さない』と言いざるを得なかったのだ。世間には嘘をつけばよかったじゃないかと思うかもしれないが、俺はあの二人への罪悪感から、そうした嘘はつけなかった。    カナエとユメミは――諦めていなかった。  二人で添い遂げることを諦めてはいなかったのだ。  あの続編を書き上げたあとから、いまも時折夢を見る。  続編を書いているときにはめっきり見たくとも見られなかった二人の夢を、俺は今更というタイミングで見るようになったのだ。    カナエはユメミを助けようとしている。  ユメミは辛く厳しい現実の中でも、ただひたすら耐えている。だが、彼はもう必ずしもカナエのことを夢見ているとはいえない。    自分の大切な家族――カナエとの子供――のために、監禁されて夫の性奴隷となってもなお、いじらしく耐えているのだ。  なんとしてでも生き延びよう、なんとしてでもこの子だけは守ろう。そしてやがてはカナエとこの子と……ユメミは一縷の希望を胸に、日頃からあえて夫におもねるような()()()()の態度を取り、夜は男娼のように夫に媚態を晒した。「愛しています旦那様。今度こそ僕に貴方の赤ちゃんを産ませてください」毎夜彼は夫をそうして誘った。夫の言いなりであるユメミは、その男の要求には何でも応えた。    しかしそのあと夫に触れられると、ユメミは泣きそうになる。後ろからの体勢のときは実際に枕に顔をうずめ、さめざめと泣いた。――『カナエくん…カナエくん…ごめんなさい、カナエくん……』  すると、ユメミは自分がもう取り返しがつかないほど穢れてしまったと、惨めにそう思えて仕方がなかったのである。    しかしそんな中でもユメミは、時折カナエとの幸せなセックスを思い浮かべては自分を慰め、それでやっと日々を凌いでいる。   『…本当に綺麗だよ…』    カナエの言葉を思い起こしたユメミは、穢れ尽くした自分の体を『もう薄汚くて、とても綺麗じゃ、ないんだけれど……』などと濁った思考の中で自己卑下してはいたが、今はその言葉が滲みるように嬉しくて、泣いてしまいそうになるほどだった。   『…美しいよ、ユメミ…本当に、俺にとっては世界で一番、ユメミが美しいんだ』   『……、ふふ……』――追憶にユメミは思考停止するほど嬉しくなり、それから涙目で微笑むのだ。    だが彼は、またこう思っていた。『美しくなんかない、本当は不細工なんだ。だけど、…凄く嬉しい。』――ユメミは夫に犯されながら、「お前は本当に不細工だな。調子に乗るなよ、醜いお前は世間じゃ誰にも相手されないんだぞ。役立たずのお前なんかを、私がお情けで飼ってやっていることに感謝しろ。」などとありもしないことで罵られていたのだ。  そうしてユメミの自信を削いでゆけば、この家から出たいなどとはもうゆめゆめ思えぬだろうというのである。    ――また夫はユメミに自ら腰を振らせながら、くり返しこう言わせた。「僕には貴方だけです。僕なんかを飼ってくださるのは貴方だけです。どうか僕を捨てないでください。」  夫の暴言と暴行に気を呑まれたユメミは、もはや何が自分にとっての真実で、何が生きるための媚態なのかも自分で判別が付かなくなっていた。「捨てずに僕を飼ってくださりありがとうございます。お情けをありがとうございます。」    それでもユメミは、カナエのことを時折夢に見て微笑んだ。『もうこんなに酷く汚れた僕なんかじゃ、彼に愛されるわけがない。でも……夢に見ることだけは、どうか許してね、カナエくん』    そして――一方のカナエは、ユメミをどうにかしてまた(さら)えないかと必死に画策している。   『いつだって絶対に、必ず、ユメミを助ける。    俺はそう誓ったじゃないか。  これはきっと前世からの約束だ。  もはや背に腹は替えられない、どんな手を使おうとも、俺は絶対にユメミを助ける。  たとえ俺の手がどれほど汚れたって構わない。  ユメミとあの子を手に入れられるのなら、俺はもうなんだって構わない――。』    そうしてカナエはユメミにばかり愛執、いや、いっそ執着している。  それが、俺の夢の中でのカナエという青年なのだ。      二人は信じている――。  自分たちの愛を、彼らはまだ諦めていない。         

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