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五枚のステンドグラスの中央に位置する、この「イエス・キリスト」のステンドグラスは――ひと際高さも幅もある、一番大きく立派なものである。
なおイエス・キリストのステンドグラスの前にだけ、その人を引き立てるようにして左右に、背の高い真鍮 風の、あえて錆加工をされたような燭台がそれぞれ左右に一台ずつ、計二台立てられている。…装飾の細かいアンティーク系統の造りではあるが、それこそ大聖堂に置かれているような、贅沢というより荘厳なものである。
その一台だけを見ても立派なこの燭台はどっしりとしており、一本の脚の中腹よりやや上から生えている蝋燭 立ての枝の部分は、一本の枝から更に幾重にも枝分かれをしている。――そしてその枝分かれをした先の全てに、白く細長いキャンドルを模したランプが灯っているため、まるで木に成っているバナナのように、この燭台のキャンドル部分だけを平面的に見れば、そのたくさんの細長い蝋燭が集まって三角形となっているような(山の形になっているような)、とにかくひと際ボリュームのある、ゴージャスながら威厳のある燭台である。
その二台の燭台が、このイエス・キリストのステンドグラスの前にだけ、左右に置かれている――左(聖母マリア)と右(大天使ミカエル)のステンドグラスと、イエス・キリストのステンドグラスとの間に置かれている――のだ。
また五枚のステンドグラス、そして「五つの子アーチ」たちの全体を抱え込んでいる、横長にふとったオギー・アーチであるが――その下にある、イエス・キリストのステンドグラスを囲っているアーチもまた、(他の四人とは違い)オギー・アーチである。
ちょうど全体を囲う「親オギー・アーチ」の、そのツンとしたてっぺんの尖りの下に、イエス・キリストのステンドグラスを囲う、「親」よりかは小さなオギー・アーチのてっぺんの尖りがある(ツンとした尖りが二重になっている)ような感じだ。
なお彼のステンドグラスの左右の辺を挟む、二本の白亜の柱だけは、他よりも殊に太い造りとなっている(もちろんその左右どちらにも金のランタンが取り付けられている)。
そして、イエス・キリストのステンドグラスの一番上には、そうしてステンドグラスの周りを囲む、白亜のオギー・アーチ――オーソドックスなアーチの上部が「たまねぎ型」になっているアーチ――のてっぺんの尖りの形に沿うて、まずは「小さな正三角形」のステンドグラスがある。
その三角形は「プロビデンスの目」といわれるものである。「目」とあるように、金の正三角形の中に白で片目が描かれている。…ちなみにこの「プロビデンスの目」は、キリスト教における「三位一体」と「全てを見通す神の全能の目」を組み合わせたもので、魔除け等の意味合いもあるそうだが、……ま こ と し や か な 陰 謀 論 とは無関係であろう。少なくとも此処においてはね。
そしてその「プロビデンスの目」の下には、その正三角形の底辺――直線――を上部に受け継いだ円形がある。
半円形というよりかは、正三角形の下にその円形であるため、その二つを組み合わせてみれば、ティアドロップ型(涙型およびしずく型)というような形である。
この円形には「プロビデンスの目」から降り注ぐ光が表され、下に向けて放たれる放射線状の光を黒い斜線で表現しながらも、あたたかく神聖な印象の黄色基調のモザイクガラスによって、「神の栄光」を表しているようだ(また「ティアドロップ型(涙型)」であるのももしかすると、「恵みの雨」や「神の涙」と、「神の慈悲深さや神の慈愛」をもそれで表しているのかもしれない)。
また、オギー・アーチの上部は上部として切り取られている形で(玉ねぎ型の上部が横の直線で、下の長方形と区切られている形で)、アーチ上部の外側の濃紺や紫から、内側へゆくにつれて(上部中央にある黄色基調の「ティアドロップ型」へ向けて)、金色となってゆくモザイクガラス――すなわち下部が横直線の「たまねぎ型」、その外側から始まる濃紺や紫が、内側(中央)の金色へ向かってグラデーションし、闇色から光色へと徐々に色を変えてゆく、見事な配色のモザイクガラス――が設けられている。…あたかも「空」といったようなその部分には、金や白、ピンクや赤などで描かれる小さな星々が散っている中、左右には太陽と月も描かれている。
そして(「プロビデンスの目」を表す正三角形の下にある)「神の栄光」を表す円形のまるい最下部と、下に居るイエス・キリストを描いたステンドグラスとの繋ぎ目には、白鳩――下へくちばしを向け、白い翼をおおきく広げて飛んでいる白鳩――が描かれている。
その白い鳩は、下にいるイエス・キリストへと向けて飛んでいるのである。
そうして「父(創造主)」とその「父」に遣わされた「聖霊」の下、ひと際幅も高さもある、大きな縦長長方形の中に描かれたイエス・キリスト――彼もまた、大変な美男子として描かれている。
このイエス・キリストは見る者へ向け、慈しみに満ちた彫りの深い、キラキラと光り輝く優しい眼差しを向けながら、対する人へ極めて優しく微笑みかけており、またその柔和な笑みを浮かべている口元には、豊かな黒茶の口髭が生えている。なお、髭と同色の長い髪は肩甲骨を覆うほどは長そうで、触れば非常に柔らかそうな、猫っ毛というような、ふんわりとゆるいウェーブをもっている。
彼の服装は、ドレープの美しい白い着物――ゆるいU字の襟元と袖口には豪華な金の装飾がされている――に、赤く立派なマントを左肩にかけて、見る者を大歓迎しているかのように、その両腕を大きく広げている。
また、その白い着物を着ている彼の胸の中央には、「聖心」といわれるハートマーク――赤く燃え上がるハートに棘のある茨 が巻き付けられ、そのハートの上に金の十字架が立っている、イエス・キリストの「(自己犠牲的な)尊い人類愛」を表現したハートマーク――がある。
そして、彼の後ろ頭から全身にかけては、ひと際大きな光輪――黄金の後光――が描かれており、立っている彼の周りを広範囲明るく照らしながら、このイエス・キリストは、その長く豊かな黒に近い茶髪をやさしく光にたなびかせている。
もはや全身から光り輝くようにして、イエス・キリストの全身から放射線状に放たれているこのまばゆい光は、あたかも彼の存在自体が、この場所を昼間にしている太陽のようなものなのだと捉えられる。――なお、俺のその解釈はもちろん当たっているのだろう。…というのも、彼の描かれているステンドグラスの色調は他と比べてこと非常に明るい、このイエス・キリストの背後の背景もまた、そういった光の満ち満ちた昼間を描いているためである。
画面いっぱいに満ち満ちた黄金の光、彼の足元には魚が飛び跳ねている蓮池――桃色の蓮の花と蓮の葉が浮かぶ池――があり、またその池の奥の大地には、紫色のアイリスが咲き誇っている。
ただ彼の足下をもっと厳密にいえば、彼の茶色い革のサンダルを履いた片足はアイリスの咲き誇る大地に、同じく革のサンダルを履いたもう片足は、透き通った蓮池の中に浸かっている。
そしてその紫色のアイリスの近辺から、この光り輝くイエス・キリストの周りを囲うように、数多の青い蝶が美しく羽ばたいている(蝶は彼の復活の象徴だろうか?)。
ちなみに……アイリスはギリシャ神話の虹の女神の象徴でもあるが、その「虹」はキリスト教における「神との約束(契約)」を表している――その「契約」をざっくりと説明すれば、悪に満ちた世界に失望をした神が、信仰心の篤 いノアとその一家、そして全動物のつがいのほかは全て自然災害によって滅ぼしたが、最後に神は「もう自然災害によって人間に天罰を与えることは二度としない」とノアに誓う(かの有名な「ノアの方舟」という逸話である)。そして、その人間と神との「約束(契約)」の「しるし」こそが「虹」なのである――が、そのうえアイリスは、一説にはキリスト教を示すシンボルであるともされている。
何にしてもアイリスという花は、キリスト教に縁が深い花なのである。
さて、ただこのイエス・キリスト……とても美しい男性として描かれてはいるのだが、どうも単に俗っぽく美男子というだけでは、クリスチャンではない俺でさえ、何かいささかの憚りを覚えるような――それほどこのイエス・キリストの慈愛の微笑みには、もっと神聖で崇高なる美しさがあるように思えるのである。
怒り、苦悩や苦痛、悲しみ、嫉妬、罪、――彼と対する人の、そういった濁りを見通してもなお、それらを悔いる者にはみなに等しく微笑みかけるのだろうとさえ思える、その慈愛の輝いた優しげな眼差し……またこのイエス・キリストは、その受容の精神の通り大きく両腕を広げており、彼は今にもこちらへとゆっくり歩み寄ってきて、見る者をそっと優しく抱き締めてくださりそうですらある。
また、その柔らかな微笑みをたたえている口元には豊かな髭があってもなお、彼のそのキラキラと目を輝かせた微笑には、もっとも男性的なワイルドさや精悍さよりもどこか、むしろ女性的な優美さの印象ばかりを受けるのだ。
そうして慈悲深く優しげな、その彫りの深い目元の澄んだ輝きで、見る者のことを優しく見留めているイエス・キリストは、白い着物に赤いマントを羽織り、その両腕を大きく広げ……無数の青い蝶たちに取り囲まれながら、更に、アイリス咲き誇る大地に茶色い革のサンダルを履いた片足を乗せ、もう片足は魚(イエス・キリストの象徴)が跳ねている蓮池――蓮の花と葉が浮かんでいる――に浸けている。
そう。聖母マリアのステンドグラスもそうではあったが、イエス・キリストのステンドグラスにも蓮の葉と、桃色の蓮の花が描かれているのである。
いやもっといえば、その二人ばかりは「地上」に立っているのである。
それこそ、大天使三人の背景はモザイクガラスとなっていたが、イエス・キリストと聖母マリアにおいては、このようにして「地上の風景」が背景として描かれているということである。――まあ、聖書においてももちろん大天使とて地上に降り立つ存在ではあるのだが、極めてイエス・キリストという存在が、この世(地上)を救うために「受肉」をして降り立った「神の子」である、ということを、それによって強調したいのかもしれない(また聖母マリアに関しても、この地上に彼を産み落とした、神に選ばれた聖女であると、そのことを強調したいのかもしれない)。
また何より、そうしてイエス・キリストと、聖母マリアの足下に描かれている蓮池――ステンドグラスの中の蓮の花や蓮の葉、その池の水から――まんべんなく水の流れている石段へと続き、その石段の上には蓮の花と、小さなキャンドルランプが点々と飾られている上で、更にそのおだやかな水は、室内の蓮池へと続く……。
ここであえて引きで見てみよう。
岩壁になかばが埋め込まれている、横にふとった白亜のオギー・アーチの下には「五つの子アーチ」――金のアンティークランタンがかけられている白い柱に、五枚それぞれが区切られて、朝の太陽光に透けたような荘厳なる光を自ら放ち、光り輝いているステンドグラス――七枚の花びらをもつ花型の下――左から大天使「ガブリエル」とその隣に「聖母マリア」――そしてオギー・アーチの下に、ひと際大きな「イエス・キリスト」――その隣にはまた花型の下に大天使「ミカエル」、その隣には大天使「ラファエル」と――横並びに五枚が続く。
更にその荘厳なるステンドグラスの前にある、三段の浅く黒に近い灰色の石段には、ステンドグラスの底辺からまんべんなく水が流されており――その石段の上には点々と、蓮の花とキャンドルが飾られている。
なお、イエス・キリストの左右にのみ一台ずつ真鍮製の、ゴージャスながら威厳ある背の高い燭台が置かれている。――そして、その三段の石段の上を流れている水の行き着く先は、金魚が優雅に泳いている横長の蓮池――。
何が美しいかといわれれば、何もかもが美しい――。
しかし俺が今、何よりも見惚れているのは――こうした五枚の、豪華絢爛ながら荘厳なるステンドグラスは内側から、朝の柔らかい陽光に近い照明で照らされ、その色とりどりのガラスが光に透けている。
そのため――キャンドルライトの光もそうなのだが、水がまんべんなく流れている黒に近い石段には、そのステンドグラスの色とりどりの絵が反射してゆらめきながら映り、また横長の有田焼の蓮池の水面、そして紺と褪せたオレンジのダイヤ模様の床にも、その透明なる色とりどりの神聖な光が落とされている。
美しい――。
素晴らしい――クリスチャンではない俺ですら何か厳かな、身の引き締まるような思いである。
……ちなみに――この「イエス・キリスト」は、もはや言わずと知れた「神の子」、キリスト教を世に広めた創始者である(ただ、イエス・キリストご本人も世に神の教えを広めようと宣教の旅をしてはいたが、実のところ、主にキリスト教をより広く世に広めたのは彼の弟子たちである)。
なおキリスト教的な観点から平易に説明をすると、このイエス・キリストという人物は「神の子」とされており、「創造主(唯一神)」と呼ばれる「神」が罪深い人間たちのため、彼に「受肉」をさせて――人間の肉体を与えて――世に送り出した、「(人類の)救い主 」とされている。
またキリスト教には「三位一体」の考え――まず「父なる神(創造主)」、そして次に「神の子イエス」、その次に「聖霊(人間の心の中に住まう神)」が一体となって生きることを是とする考え――があるため、彼もまた、キリスト教における崇拝対象である。
ちなみに、俺は一つのベストセラー小説として聖書を読んだことがあるのだが、聖書の中ではあたかも聖人君子として描かれているイエス・キリストでも、かの有名な磔刑前にしていた「ゲツセマネの祈り」では、何というか――クリスチャンには怒られてしまうかもしれないけれど――、非常に彼もまた「人間的」なのである。
その当時もっとも残酷で侮辱的な死刑であった磔刑、その磔 の運命が定められていた彼は酷く悲しみながら、『叶うならどうかこの杯(磔にされる運命)を取り除いてください、それでも、あなた(神)のお望みのままに』と、自分の父である創造主に何時間も何時間も、必死になって祈った。
しかし残酷にもイエス・キリストはそう、結局は磔刑に処されてしまうのである。――その苦悩を踏まえた上であの磔刑のシーンを読むと、クリスチャンではない俺でさえ、何か酷く胸が痛むよ。
そもそも聖書を読んでゆくと、イエス・キリストという人自体はかなり心優しい、お人好しというほど良い人なのである。――まあときに男尊女卑的なことを口にしてはいたり、何かしら今の感覚では疑問に思うような言動を取っていたりもするのだ。ただそれも時代が時代であるのと、聖書を書いた者たちの脚色や、あるいは後世の人々の加筆修正が無いとも言い切れないだろう。
が――その辺りを擁護するつもりはないが、ただ少なからず彼の基本理念としては、ひたすらに人を愛し、ひたすらに人の幸せを願い、ひたすら利己的にはならず利他的に、ひたすら人に奉仕を捧げていこう、というものなのである。
イエス・キリストは最後の晩餐の最中にいきなり立ち上がり、弟子たち全員の足をたらいの水で洗ってやったそうだ。その当時、サンダル履きが主流であった人々の足は酷く汚れていたので、そうして足を洗う習慣があった。ただしそのように人の足下に跪き、たらいの中で人の足を洗うという行為は、奴隷が主人にする一つの仕事であったそうだ。
なぜ自分より目上の彼がそんなことをするのかと訝っていた弟子に、イエスはこう言った。
『あなたがたは私のことを“主”と呼びますね。その通りです。そして、“主”である私があなたがたの足を洗ってあげたのですから、あなたがたもお互いの足を洗い合いなさい。奴隷が主人にまさることも、遣わした者より使者がまさるということも、ないのですから。』
今の時代に――この考えをもっている「上に立つ者」は、一体どれほどいることだろうか?
もちろん解釈はさまざまあろうが、俺はこう解釈した。
自分より目下の存在に対して奉仕をしようとも、またまるで奴隷のようにへりくだろうとも、決して自分の地位が揺らぐということもなければ、自分がリーダーシップを取れなくなるということもない(だから安心しなさい)。
上に立つ者はだからこそ妙な虚勢を張るのではなく、また高慢になるのでもなく、部下のことは「仲間」として愛し、奉仕をして、大切に扱いなさい。――そしていがみ合うのではなく、お互いに愛し合いなさい。
そうした「愛の人」がその翌日、あまりにも理不尽な理由で「重い罪 」をいみじくも背負わされ(その十字架の重さは百キロを越えたとも言われている)、処刑場まで歩かされ――磔にされた。……その究極の自己犠牲、究極の人類愛、かの人はその尊い命を引き換えに、人類の罪を贖った……。
そうしてイエス・キリストといえば、ひいてはキリスト教といえば「十字架」――となったわけだ。
人間とは残酷なものである。
ただ、クリスチャンでもなんでもない俺が個人的に思うのは(またしてもクリスチャンには怒られてしまいそうだが)、確かにキリスト教において、その「究極の人類愛(アガペー)」はとても重要で、とても大切な教えなのかもしれない。――確かに尊い死だったろう。クリスチャンの「戒め」であり「救い」となるのはまあ、当然ではあるとも思う。
だが彼の十字架は、イコンとしてあまりにも広まり過ぎている。もちろんクリスチャンが大切にする十字架の意味ではなく、普遍的に広まり過ぎているということである。
まあ戦争の悲惨さ、残酷さを伝えることで、後世の者たちが「もう二度と戦争なんて起こさないようにしよう」と考えられる、といったような、そういった意味合いでは良いことなのかもしれないが――キリスト教的には――しかしあれほど辛く悲しみ、民衆に嘲弄をさえされながら、『あなたは私をお見捨てになられたのですか』と、何よりも愛する神へ叫ぶほど苦しめられた己の受難、屈辱的かつ悲痛な死を、あたかも「自分の全て」であるかのように扱われては、彼が少し可哀想な気もするのである。
もちろんクリスチャンならば言われるまでもないことだろうが、イエス・キリストという人は、何も「贖罪(十字架)」だけの人ではない。きっと彼は今でも、自分がその尊い死を遂げるまでの過程に成し遂げてきたもの――必死になって修行をし、必死になって旅をし、そうして世の人に説いてきた「神の愛」こそ――世に広め、人類みな平等に幸せになってほしい。
彼はその人生においてひたすら人を愛したのである。
――それこそその「衝撃的なクライマックス」だけではなく、その死を遂げる前にも、彼はあまりにも多くの人に奉仕し、神らしく人々を愛してきた。
すなわち安直な考えかもしれないが、このステンドグラスのイエス・キリストのように――人々が思い起こす彼の顔は、優しげな愛の微笑みをたたえているほうが、きっとかの人も報われるのではないか、なんて。
……まあクリスチャンでもない俺が言っても、かな……ましてや、クリスチャンではない人々にとっては別に、そんなことはどうでもよいかもしれないが。
もちろんこれは俺が、クリスチャンではないからこその発想なのであろう。――それこそもっと単純にいうと、遺影が苦しみ抜いた死に顔であるより、生前の元気であった笑顔のほうが、故人も報われるのではないか……というような、まあそういった感覚である。
とはいえ…クリスチャンではない俺の目から見ても、イエス・キリストは間違いなく「愛の人」である。
きっと教会にある悲しい磔刑像の側で彼は、祈りを捧げる信者に微笑みかけていることだろう。――彼は人を幸せにしたかったのだ。ただ人を愛するだけの、それだけの人であった。だから苦しみ、悲しみ、辛いときを迎えている人にこそ、彼は、その人に優しい愛の微笑みを向けているように思うのである。
そう……今もなお――。
「……、…、…」
「……ふ…、……」
なんてね……知ったかぶりはもういい加減にしないと、いよいよクリスチャンに怒られちゃうな。
まあ俺はもちろんクリスチャンではないし、これから入信をする気もさらさらないのだけれど――「彼」に学ぶことは、とても多いように思う。
それこそ俺は、「彼」のように――愛するユンファさんになら、どれだけ奴隷のようにへりくだっても幸せだ。
貴方が俺の唯一無二の神であるように、俺もまた、貴方だけの神になりたい。――だから嫉妬しちゃう。
「……、…、…」
「…………」
貴方は今、貴方が愛する「神」――キリストに優しく慈しまれて、愛され、微笑みかけられている。
だが、悲しそうな真っ白い横顔で罪を告白している貴方の目には、「自分の罪」という「十字架」――貴方の「受難」ばかりしか映っていない。
その人が十字架にかけられている、その痛ましい姿に――ご自分を重ね、ご自分をご自分で十字架にかけて、貴方は酷く悲しんでいる。
俺は言うこともできる。
貴方は今キリストに微笑みかけられているんじゃないかな、貴方はきっと「彼」に愛されていて、今ももしかしたら貴方は、「彼」に抱き締められているかもしれないよ、と。
だけれど――やきもちが妬けるから、そうは言ってあげない。
「……ねえユエさん…――目を瞑って」
「……、…、…――。……? え…?」
このイエス・キリストのステンドグラスの前で、ポソポソと唇だけを動かし、こっそりと「彼」に祈っていたユンファさんは、はたと涙目で俺に振り向いた。
……俺は彼に体を向けては目を伏せ――この顔に着けている仮面を、外す。
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