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                  「……は…――ッ!」    ユンファさんはハッと驚いた。  俺がいまだ目を瞑っていないユンファさんの目をさえ(はばか)らず、己の顔を隠している仮面を外そうとしたせいである。  むしろ俺のそれによって、俺の「目を瞑って」というセリフの意味を察した彼は、大慌てで両方のまぶたをぎゅっと固く閉ざし、同時にその顔もまたさっと伏せた――なお、ユンファさんの体はいまだステンドグラスのほうを向いているままなので、彼がその方向に俯くと、俺の目には必然的に、その伏せがちな綺麗な横顔が映るような格好となる――。  ……しかし、一方の俺は従容(しょうよう)と止まることもなく仮面を外し、その仮面を持つ片手を(もも)側面の隣へと下げた。   「…あぁ、すっきりした……」    もう二度と仮面など被りたくないと思うほどだよ。  ――少なくとも、ユンファさんの前ではね。  実を言うと、俺は先ほど目を瞑るようユンファさんに声をかけはしたが、しかしもはや俺は、彼になら自分の素顔を見られても――九条(クジョウ)(ヲク)松樹(ソンジュ)という男の素顔を見られても――別に構わないと、本気でそのようにさえ思えてきていた。  ……むしろその覚悟も無しならこれはあたかも愚行そのものである。それこそ俺にそうした覚悟がなければ、アイマスクという物理的な目隠しも何もしていないユンファさんの前で、わざわざ仮面を外すというような思い切った行動に出るはずがあるまい――それこそ今なら彼は、その目を開けるだけでいかにも(やす)く俺の顔が見られる状況だ――。    しかし――。   「……、…、…」    一方のユンファさんは固く目を瞑ったまま、その横顔に浮かべている表情をやや気まずそうに緊張させて、遠慮がちにその両肩をわずか(せば)めてすらいる。  要するにユンファさんは今、自分は断じて俺の顔を見てはならないと、そのように厳しく自分を律しているのである。  もちろんそれというのは、客としての俺がした注文――事前に店を通して俺が彼に伝えていた、『仮面で顔を、ひいては自分の素性を隠した上で、彼との甘い一夜を過ごしたい』という注文――が頭にあればこそ、ユンファさんは今、殊勝にも客の俺の注文を遵守しようと努めているのである。  ……たとえその「注文」から逸れるような危ういことをしたのが、まさにその「注文」をした張本人である、客の俺であったとしても――ね。   「んふ…驚かれましたか」    俺は軽薄なまでにあっけらかんとした明るい声で、困惑からやや険しい表情を浮かべているユンファさんへ、そのように問うた。――すると彼は『なんだ、ただのちょっとした悪戯だったのか』と安堵混じりに捉えたらしく、目を瞑ったままながらも、浅くコクコクと頷きながら唇の端を上げる。   「…正直、ちょっと……はは、もう、からかっているんでしょう。そういう悪戯をされると僕、うっかりカナエ君の素顔を見ちゃうかもしれないですよ? ふふ、なんて…」   「どうぞ」    カランッ…――俺は片手に持っていた仮面を、ステンドグラスとは真反対の床へかるく放り出した。   「…えぇ? ふ、もう…からかわな…っぁ、?」    俺は、俺を上手く執り成そうというユンファさんの二の腕をガシッと掴み、強く引いて、――ほとんど強引に、彼の体ごと俺に向かい合わせる。   「決してからかっているわけではないのだよ…――俺は貴方になら本当に、自分の素顔を見られても構わない。…さあ、どうぞその目を開けて……」   「……、…、…」    そうは言えども…俺と向かい合うユンファさんの、その伏せがちな顔はある種の緊張感に険しく、いまだ彼は固く目を瞑ったままである。  なんなら俺が「目を開けて」と言ったことにより、余計その両方の切れ長のまぶたには力が込められてしまったのだが、しかしその薄く白いまぶたにうっすらと浮かんで見える、青く極細い静脈がまたなんとも色っぽい。   「どうか…どうか俺のことを、貴方のその美しい瞳に、映してくださいませんか」   「…ぇ…? いや、ま、まさかそういうわけには…」   「貴方を愛しています」    ――『僕なんかが彼の顔を見てはならない。』  ユンファさんは『(いくら張本人である俺に許可されようとも)たかだか風俗店の一キャストである自分が、見てはならないとされている客の俺の素顔を見るわけにはいかない』というのだ。  つまり彼にとっては――といっても、むしろユンファさんの感覚のほうが「正常」に違いないのだろうが――あくまでも自分は、此処へ仕事をしに来ている風俗店の一キャストである。そしてどれほど俺に対して親しげに接していようが、自分のそれはある意味で、この仕事における普通の接客態度以上のものではなく、あくまでも俺は、金を払って店を利用している自分のお客様である。  ユンファさんは、俺が払った金額に相当するサービスを対価として俺に施さなければならない立場であり、俺は自分が払った金額分の対価として、彼から施されるサービスを受けられる立場である。――()()()()()()()()()()はともかくとしても、つまり俺たちは恋人どころか、友人関係ですらない。    その線引きをもとに、ユンファさんは「越えてはならない一線」を弁えている。――そうした風俗店の一キャストという自分の立場を踏まえて、あくまでも自分は、客である俺のプライバシーに踏み込むようなことはできないし、してはならない。  顔を、ひいては己の素性を自分に隠して風俗店を利用した客の俺には、隠微な程度にしか素性を現せないそれ相応の「事情」があるからこそ、その選択を取ったに違いない。――例えば爽やかな芸風を売りにしている俳優が、こうした風俗店を利用していると()()()かれたら?  例えば愛妻家として広く世に知られている国の政治家が、こうした風俗店を利用していると素っ破抜かれたら――そのようにして、さまざまな事情を抱えながらも、こうした風俗店を息抜きに利用している客は多くいる。    もちろん自分にお客様を売るような真似をするつもりはないが、とはいえ、俺にもそういった「事情」があるからこそ、俺があの仮面を被っていたことは明白だ。  すると「自分(の顔)を見て」という俺のセリフは、ともすれば、俺のひと時の()()()()のせいかもしれない。のちのちになって何かしらのトラブルになっても困るし、見ないに越したことはない。……貴方はそうしてまた、俺の「気の迷いのせいだ」というのだ。    しかし、俺のこれらの言葉は――決して「客として」のものではない。    約十一年前の「あの日」から俺は、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という美しい人の、その美しい“タンザナイトの瞳”に、俺のことを映してほしかった――俺は今自分の素顔を見てくれと言ったようでいて、そればかりの意味には留まらない「意味」をも()って、「俺のことをその瞳に映してくれ」と言ったのである。    そして俺は、彼に「愛している」とも言った。    それは――それこそは俺の真実だ。  俺の真実を覆い隠す「嘘の仮面」が外された、それこそが()()()()()()()なのだ。被りざるを得なかった煩わしい仮面が外された今、初恋の人の前で素顔を晒している今の俺は、間違いなく九条(クジョウ)(ヲク)松樹(ソンジュ)という一人の男なのである。    約十一年前の「あの日」に――十六歳の、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という美少年に一目惚れをした、十三歳の少年――今十一年の時を経て再会した、その初恋の美男子の前に立っている二十四歳の俺は、その人に初恋をした十三歳のソンジュ少年と全くの同一人物――俺は今まさに、九条(クジョウ)(ヲク)松樹(ソンジュ)という一人の男なのである。    そして今俺の目の前にいるこの美男子もまた、今は(ユエ)という人ではない。――十一年前の、あのある秋の日から俺が一途に愛し続けてきた初恋の美少年、その美少年の十一年後、俺の愛する月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という美男子、まさしくその人なのである。  ……少なくとも、()()()()()()ね。   「…これまで俺は…貴方を、ただ貴方という人だけをずっと、密かに愛し続けてきました…――そして俺は“あの日”からずっと、貴方のその美しい瞳に恋い焦がれてきた…。…叶うのならば俺は…貴方のその美しい瞳に、俺のことを…俺のことだけを、映してほしい……」    要するに――この言葉は、()()()()()()ユンファさんに告げている、真実の愛の言葉である。   「……、…」    俺が眺めているユンファさんの両まぶた、完全に伏せられた扇のような黒いまつ毛の、その艶美な艶がチラリと動く。ユンファさんのまぶたが閉じたままながらひくついたためだ。――なるほど、どうやら駄目である。…ユンファさんは毛頭その両まぶたを開けるつもりがない。    では、なぜ今彼のまぶたがひくついたか?    疑念と当惑――そして、警戒が故である。 「貴方は綺麗だ」――それから俺の唇は、音もなく彼の名を呼んだ――『ユンファさん』   「例え貴方が、俺のことを見てはくれなくとも…」――『俺は貴方だけをずっと見つめてきたんだよ、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)さん…』――しかし、およそ今そう本当に彼の名を呼べば、俺はきっと、もっとユンファさんの心に拒まれてしまうことだろう。俺たちの間にはいまだ、薄い皮膚の隔たりがあるのだ。  こんなにも近くに居るというのに――俺は貴方の目の前に居るというのに――俺の手は貴方の奥に触れられない、俺の声は貴方の魂に届かない、俺の想いは貴方に疑われて、嘘の甘言だとでも思われている――貴方の薄皮に塞がれて、届かない。    俺の「真実」が――「真実」の形を成したまま――貴方の心に、届かない。   「…貴方を、愛しています――心から」    俺は言いざまユンファさんの顎のあたりから頬骨へ向け、この四本の爪の腹で掠めるよう、ゆっくりと撫で上げていった。…ひくん、その擽ったさに顔を小さく揺らしたユンファさんは、もう少し顎を引いた。  そうしたユンファさんは目を瞑ったままのその表情に、青白い戸惑いを漂わせている。特にユンファさんの端正な黒眉のあたりに、苦痛にも似た戸惑いの翳りが濃い。    そして彼は今、ヒリヒリとした緊張感を覚えている。  いよいよユンファさんは、怯えたよう眉を顰めるほど目元を力ませて、より強固にそのまぶたのキワのまつ毛の根を、ふくよかな下まぶたにやや沈みこませるほど密着させた。地面に食い込む堅固な盾の底面、その盾の裏にすっかり隠れた美しい騎士よ。    こうしたユンファさんの警戒の所以(ゆえん)とは何か?  目を瞑っているからこそ鋭敏になっているその人の耳がいま、俺の声の機微を聞き取ったせいである。――俺が盲者のふりをして外を出歩くとき、主にこの聴力を頼りにして世界の情報を得ているのとほとんど同様、視覚情報が絶たれている人というのは、そのぶん本能的に他の感覚を鋭敏にすることで、損なわれている情報を補おうとする。    そして俺の「貴方を愛している」という言葉は、あまりにも俺のこの胸の、肉体の、精神の、魂の奥底から這い出てきた、()()()()()()()()であった。    そう告げた俺の声はその通り低く震えて、深かった。  危うい印象ばかりを与えたろう。その言葉の足下には底がなかったのだ。「貴方を愛しています、心から」――その言葉自体が深淵(しんえん)から這い出てきたかのような底無しの深み、俺の渇望はいま目の見えないユンファさんの両足を今にも絡め取り、己の貪婪(どんらん)な深淵たる深海の奥深くへと彼のことを引きずり込もうというほど低く、俺の「愛しています」という言葉そのものが震えながらその人の全身にしがみつき、絡みつき、彼を強く抱き込み、もう二度と逃さない、離さない、愛している…愛している…愛している…愛している、愛している、愛している、愛している! 愛している! 愛している! ――俺の放った真実の言葉は、そういった重々しく、危うく、妖しい気配を帯びていた。    正体不明の、ユンファさんの足下に潜んでいる化け物のような渇愛の真実――ここで目を開けてしまえば、ここで俺の愛を受け入れてしまえば、きっと自分はたちまち絡め取られて深海へと引きずり込まれる――ユンファさんにとっては、そのような「愛している」だったせいである。    もちろん俺は自覚はしている。  俺のこの愛は、俺のこの「真実の愛」とは、決しておとぎ話の王子様がお姫様に抱くような、そんな生やさしい愛ではないのだと――俺のこの「真実の愛」とはきっと、ユンファさんにとっては警戒をして(しか)るべき、恐るるべき愛なのだと。    だけれど…――これこそが俺の「真実」、これこそが俺の「真実の愛」なのだから、仕方がない。    現実に存在する「真実の愛」には――おとぎ話なんかより、もっと「重み」がなければならない。…絵に描いた餅は非常に軽く、本物の餅ならずっしりと重たい。絵に描いた餅などよそ風に舞って彼方(かなた)へ消えゆく程度のものだが、本物の餅なら強風にさえ揺らがない。  ……しかしこれだけは断言するけれど、(かえ)ってユンファさんは、おとぎ話のお姫様なんかよりもうんと幸せ者だ。         

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