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                   どうやら俺の「真実の愛」は、ユンファさんには――少なくとも、()()ユンファさんには――少々沈殿した濁りを感じられるものであったようだ。    俺が真っ正面から向き合えど、我が月はいまだ満月の様相ではない。むしろ彼自ら顔を背けてしまっているせいで、(まど)かなはずの輪郭を欠けさせてしまっているばかりか、辺りに暗雲のように立ち込めている(きり)に阻まれているせいで、さながら今は朧月――ユンファさんには、俺の真実もその欠片(かけら)しか見えていない。    しかし、それであってもユンファさんは今ほんの少しだけ、「俺の真実の愛」がまさか「本物(真実)」なんじゃないかと、彼は今ほんのわずかだけそう疑っている。まあ、ほとんどは今夜の「本当の恋人としてのプレイ」の、その演出の一つとでも思われてはいるようだが。  とはいえ、それをあえて良く言い換えるとすれば、今ユンファさんはほんの少しだけ、ほんのわずかだけでも、俺の「真実の愛」を「信じて」くれているということである――。   「…真実とは…時に、現実的な思考に則して考えてしまうと、とても信じ難いことである場合も多い…。しかし俺は、その真実が(まさ)しく真実であると証明する努力こそ惜しみませんが……当たり障りのない、()()()()()()()()()()()()()()する努力など、できなくはないが…したくもない。したくないので、それはしません…。ふふ…」    言いながら俺は、彼の片方の肩にかけられている革のバッグ、それの黒い持ち手を、そうっと彼の肩から外してゆく。  何も言わないながらユンファさんは、それになんら一切の抵抗をしない。むしろ軽く脇を開いて、そのバッグを取ろうという俺に協力さえしている。  ……まんまと手にしたユンファさんのバッグを、俺は彼の片足の近くの床にそっと置いた。そして改めてユンファさんと向かい合う俺は、   「だけれど…何故貴方に、俺のこの気持ちが真実ではないと、そうわかるの…?」    俺は、ずっと貴方にそう言ってやりたかった――十一年前の「あの日」から、あの日貴方に「君のそれは“本当の恋”じゃない」と言われたときから、ずっと――この十一年間、俺はずっと貴方に、こう言ってやりたかった。   「俺のこの愛は本物だ――俺が貴方にしているこの恋は、間違いなく“本当の恋”だよ……」   「……え…?」    ユンファさんは目を瞑ったまま、今はもはや疑念というよりか、ほとんど困惑している。――しかしまたしても俺の邪魔をするものがあった。  今宵に俺がキャストとしての彼に注文してしまった、「本当の恋人としてのプレイ」である。  ……ユンファさんはすぐに()()を思い出すと口角を上げ、何かを言おうとその笑んだ唇を開いた。   「……――。」   「真実というものはまず、信じることから始まるものです。…疑われている真実が、真実とはされないように…――まあとはいえ、今の貴方には少し…“信じる”ということ自体、荷が重いのかもしれませんけれど…ね」  俺は遮った。今は誤魔化しや綺麗な嘘なんて聞きたくはない。仮面はもう被りたくないのだ、いや、俺はまだ被りたくはないのだ、仮面を。  俺は下向きとなったユンファさんの顎の下に、人差し指の側面を引っかけ――軽くすくい上げるようにして、その美しい顔を上げさせた。   「無理に信じる必要はありません。――そもそも信じる信じないではなく、貴方にはいずれ、()()()()()()()()つもりですから。…ですからそのためのワンステップとして、今はまず、()()()()()()()()()()()()()()()()…。十分ですよ、今はそれだけでもね……」   「…()……ぇ…な、何を、ですか…?」    俺は目を下げた。見るユンファさんのふくよかな唇の立体に、自分の唇の立体が上手く組み合わさるような角度へ、ゆっくりと首を傾げるよう顔を傾けてゆく。   「()()()()()()」   「……、…は…?」   「…是非(ぜひ)知っておいていただきたいのです――()()()()()()をね……」  俺は言いながら更に伏し目となりつつ、薄く開いたこの唇を、そのふっくらと厚い桃色の唇の近くへ寄せてゆく――仮に俺の貴方へのこの気持ちが「本当の恋(真実)」ではないとするのなら、俺はきっとこの十一年もの間に、貴方のことを綺麗さっぱり忘れられたことでしょう――まだ唇同士は触れない。  だが、このあまりにも間近な距離ではもはや俺かユンファさんか、その二人のどちらかが、あとほんの数ミリばかり唇を突き出せば――俺たちの唇はぴったりと組み合わさり、一つとなることであろう。   「……今宵を…貴方に忘れられない夜にしたい……」    貴方の忘れられない夜、ではない。  二人の忘れられない夜、でもない。  俺は忘れない、忘れるわけがない。  十一年前のあの日を忘れてしまったユンファさんに、今宵こそは、忘れられないように――今宵を…貴方に、忘れられない夜にしたい。   「…だから――()()()()()、のですよ…、ふふふ……」   「……ん、…ッ」    ユンファさんは自分の唇にかかった、俺の生暖かい獣の吐息にピクンッと驚いた。――いや…彼は俺の吐息にぞくぞくと()()()のである。  俺の吐息を避けようとユンファさんの顎がやや横に逸れる。俺は彼の顎を親指の腹と人差し指の側面でつかみ、もとに戻して逃さない。   「ふふ…()()()()()()が何か、ご存知ですか」   「……っ、…?」    ふる、と小さく横に揺れたユンファさんの顔、俺の言葉の意味がわからない彼のその端正な黒眉が、茂みのなかに隠れている俺の真実を探って少し寄る。――だけれど…貴方の目にはまだ、俺の真実など見えない。    今の貴方の目に俺が見えるはずなどないのだよ。  貴方は今、()()()()()()()()()()()()()()()のだから――。   「…では、Love in a mist(霧の中の恋)…あるいは…Devil in a bush(茂みの中の悪魔)……“ニゲラ”というお花は……?」   「…へ…? ぃ、いえ…すみません……」    ユンファさんはその花(ニゲラ)を知らないと、極小さく首を横に振った。またそう言う彼の唇の動きも、極めて必要最低限の小さい動きであった。  今、彼の全ての動きが極わずかな範囲に抑えられているのは、いまに普通ほどでもその唇や顔を動かせばそれだけで、間違いなく俺の唇と自分の唇が触れてしまうため――なかば無意識ながらもユンファさんが、そうして俺との不意によるキスを避けているためである。   「…そう…。ふふふ……」    ――貴方は本当に可愛らしい人。  それこそ俺にキスをされることに関しては、およそ異論も文句も何も申し立てやしないのだろう――むしろ、なかば俺のキスを受け入れるつもりであるからこそ、彼はいよいよキスまであと数ミリの距離で大人しくしているのだ――が、しかしそれと同時にユンファさんは、はにかみから不意に、二人の唇が触れてしまうことを避けてもいる。    ふるふると俺の唇の近くで小さく震えている、その可憐な桃色の唇――鼻でしている呼吸でさえ、俺の顔に息がかからないようにと、そっと抑えてしまうそのはにかみ――コク、と小さく喉を鳴らしたユンファさんの、その胸の鼓動はトクトクトクと速くなっている。    まるで腹を空かせた狼に睨まれている獲物のようだね。  …まあ遠からずだけれど…俺はユンファさんの唇へもっと、霧のように彼を惑わせる吐息を、こう触れさせる。       「…実はその“ニゲラ”こそが、()()()()()()なのですよ」           

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