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               今日の誕生花――ニゲラ。  とても美しい花だ。ニゲラにはさまざまな色があるが、特に有名な花びらの色は群青色か。先がツンと尖った花びらをもつ花で、その花びらが重なりできている花の部分は、上から見れば、まるで太陽のモチーフのような形である。…またその花の下にある葉の部分はディルというハーブのような、極細い枝分かれした糸のような形状をしている。    ニゲラは可憐というより美しい花である。  その花びらの形や重なりはまるで妖精の美しい羽根のようにも見え、あるいは、天使の清らかな羽根というようにも見える。    しかし、ニゲラは種子をつけようという際、徐々に悪魔のような一面を見せはじめる。…美しい花のその中央から、にょきにょきと薄気味悪い触手のような緑を生やしはじめ、みるみるうちにニゲラは「悪魔」へと変貌してゆき――すべて花びらを落としたあとは、ぽってりと丸みを帯びた実をつけ――そしてそのぽってりとした実には、まるで悪魔の角のようなものが生えている。    だからDevil in a bush――茂みの中の悪魔、とも呼ばれているわけだ。  こもごもとした草むらの中、実をつけているニゲラが「茂みの中にいる悪魔」に見えたため、との説があるそうだ。……だがニゲラは、それも含めて美しい花である。      悪魔であろうが、天使であろうが――そのような両極の本能をもって生まれたのだから、俺と同じだ。      そして、貴方と同じだ。      美しい花――今日の誕生花、ニゲラ。      あと数ミリで口付けとなる――その距離、ユンファさんの唇の極近くで俺は、   「ニゲラの花言葉は、“戸惑い”…、…“密かな喜び”…、…“あなたが欲しくない”…しかし、“不屈の精神”…、…“深い愛”…、…“愛の絆”……」    と、ニゲラの花言葉をじっくりと囁くように、連ねてゆく――。   「……“本当の、自分”……」   「……、…、…」    きちんと俺の話は聞いているようだが、俺が話しているのにかこつけて、ユンファさんの片手が戸惑っている。  まだ触れていないが、おずおずと上がるその白い片手は、俺の胸板に触れようとしている。――この至近距離、彼の胸板と俺の胸板の間で小さく震えているその片手は、俺の胸板の前で、その五本の指の第一関節を小さく曲げ伸ばししている。彼のその白い片手は縋るよう、俺の胸元の布を掴みたいのである。  ……俺の唇が、自分の唇に触れてほしいからだ。むしろ自分から唇を押し付けてしまおうか……キス、してしまおうか……そうユンファさんが、迷っているからだ。    可愛い…――キス…しちゃおうかな……?  俺はユンファさんの後ろ頭からうなじまで、もう片手で包み込むようやさしく撫で下ろし――彼の長めのえり足の下にその手をそっと忍び込ませ、彼のぬくもりが濃い生え際に人差し指の側面をすべて添えるような形で、この手のひらをそのうなじに添える。  すると、――首に巻かれた固く厚い首輪の上、えり足の生え際、すなわちオメガ属としてこと敏感なうなじに触れられた――ユンファさんは、ビクンッ! と腰から上を大きく跳ねさせ、ぞくぞくと震えた。   「…ふっ…可愛い……」    俺はユンファさんの唇にそっとそう熱い艶を与え、すり…すりと、ユンファさんのえり足の生え際を指でこする。   「……ッ♡ …ん、♡ ……」    するとピク、びく、と反応はしているユンファさんだが、彼は拒否をするでもなく――むしろ、ひそかに俺のキスを期待しているユンファさんの顎が、きゅっとほんの少しだけ上がる。…そして、ゴキュと喉を鳴らした彼はいよいよきゅうっと、俺の胸元の布をやわく掴んできた。   「…んふ……それから、“夢の中の恋”…――…“貴方に、夢で逢えたら”…――“夢で…お逢いしましょう”……」    ユンファさんがやや顎を上げたので、こう囁くような俺の唇は、キスというまでのこともなく、しかし確実に、ユンファさんの唇にかすかに触れている。――擽ったい、かゆいくらいであろう――却ってこれでは余計にもどかしいだろうな…可愛い。   「……夢……」    とユンファさんは、まるで今まさにその夢の中にいるかのように、さながら寝言のように、そうぼんやりとした声で呟いた。  すると彼の甘い吐息が俺の唇に、じんわりとあたたかく触れる。…一口飲もうと唇に寄せた、熱い紅茶の入っているティーカップから立ちのぼる甘い湯気が、この半開きの唇に触れたかのように――しかしいま香ったのはもちろん、紅茶の香りなどではない――俺の鼻先に香ったその芳醇な桃の香りが、俺の唇の表面とともに、俺の乾いた遠い「初恋の日の記憶」を、表面ばかりほんの少しだけ潤す。    ――俺たちの「あの日」は少しだけ乾いている。  こと、あらゆる防腐処理が成されて保存をされている俺のその過去からは、どこかにいつも湿気た没薬(ミルラ)が香っているのだ。  ……約十一年前…遠い過去の「あの日」のことなど、「あの日」に出逢った十三歳のソンジュ少年のことなど、きっと貴方はもう、とうに忘れてしまったことだろう。    それこそ俺にとっての「あの日」は、間違いなく「最高の日」だった。俺という存在が生まれた日、俺が生まれ直した日、やっとこの心臓が動き始めた、記念すべきその誕生の日――過去の記憶をそう簡単には忘れられない俺であっても、殊に「あの日の記憶」だけは何度も何度も思い出し、特別に建てた「綺麗な神殿」に保管をしているほどだ。    あれから「あの日」と同じ日付けが、十回ほど俺の元に訪れたのだ。俺は恋人の顔をしたその日が俺の心臓の扉をノックするたび、ドアを開けてその日を歓迎しながら、人知れず「お誕生日おめでとう」とその日をひそかに祝っていた。――厳密にいえば、()()()()()()なのかもしれない。    だけれどその一方で、貴方にとっての「あの日」はどうだろうか――?    もう十年以上も前のこと……過ぎし日の忘却、それすなわち過去の二人の「死」である。――しかし俺は未だなお、あまりにも鮮明に十一年前のその過去の日、「あの日」のことを、こんなにもよく覚えている。  かすかな布ずれの音でさえ…貴方の火照った肌の真珠のような瑞々しい艶めきと、絶妙で複雑な、繊細な、まるでクロード・モネの描いた絵画の人の肌のような、美しい貴方の白い肌の透明感、じゅわりと滲む艶やかな赤らみとうっそりとした憂鬱な青みの、その見事な色合いの肌のディテールでさえ…貴方の頬に張り付いた黒髪の一本一本でさえ…貴方の甘い声、熱っぽいその吐息でさえ…貴方の汗の味、貴方の肌の味、貴方の唇の感触、貴方の桃のタルト(フェロモン)の匂い、貴方の瑞々しい感触、貴方という人の官能のその全てを……だけれど……貴方がもう「あの日」のことを覚えていないというのならば、「あの日」はもう死んだのだ。    なぜなら――「嘘」になってしまうからだ。  どちらかだけではいけない。二人の中で生きていない真実には、「嘘」という名の、死の烙印を押されてしまうものだからだ。    本当なら俺は…()()()()()()()()()()()()()()()。  いや、これでも俺は、貴方を殺したつもりだった。  それだというのに、なんの意味もないことに――俺の中には今もなお「あの日の記憶」が、防腐処理を成された輝かしい不朽体(ふきゅうたい)として、随分長いこと大切に、大切に保管をされている。    保存状態はこれ以上ないほど完璧、最高だ。  眠っている貴方の肌は今もなお恐ろしいほどに白く艶めいて、新鮮な白桃の肌のように瑞々しい。――美化による甘ったるいほどの腐った桃の臭いなどせず、今もなお、爽やかで瑞々しい新鮮な桃の香りと、芳醇な高級バターの匂いばかりが漂っている。……それなのに、その甘く芳醇な美しい桃のタルトの香りの中にごくわずかだけ、湿っぽい没薬(ミルラ)が香り始めるようになってしまった。    俺たちが出逢った「あの日」はきっと、貴方にとってはもうもはや「真実」ではなくなってしまった。  貴方の中で朽ち果ててしまった過去(真実)とはもう、貴方にとっての「嘘」に成り下がってしまうものなのかもしれないし、あるいは、今の貴方にとっては「夢」でさえあるのかもしれない。   「……そう…、夢……」    貴方の不朽体が安置されている場所には神殿がある。  そうだ……俺の唯一神である貴方を祀った神殿だ。  その霊験あらたかな神殿は、「あの日」に帰依をした()()に建てられてから約十一年間、今もなお、貴方を崇拝する()()()()()()によってしっかりと手入れが成され、掃除も補修も隅々に至るまで行き届いて、埃一つ無い……今も綺麗で荘厳で、尊く腐らず美しいままだ。    ……そうして俺は今、「あの日」貴方にお与えいただいた「俺の生命(いのち)」に、ゆくりなく想いを馳せることとなった。この生きた瑞々しい桃の吐息には、俺たちの乾いた過去でさえ今に息を吹き返しそうだ――俺はこれまで「あの日」に眠っていた貴方に、謹んで、何度も何度も何度もキスをしてきた。――それはあたかも祈るように。    俺は何度も何度も何度も――貴方に一目惚れをし、初恋を経験して……過去の貴方の唇と、何度もファーストキスを交わしてきた。    いや…何度も俺は、「あの日」を造り替えてきた。  貴方は俺の夢の中でこう微笑んでくれた。   『お誕生日おめでとう、ソンジュ』    そのあと貴方は決まって、俺に桃の味のするキスをしてくれた。そして貴方は「誕生日プレゼント」として、俺にその美しい体を許してくれた。  俺はそうして何度も貴方を――自分の都合のよい存在に、造り替えてきた。――それはあたかも神のように。    そればかりがこれまでの俺の、――「あの日」から約十一年間にも渡る期間、――自分の夢の中にいる貴方だけが、これまでの俺の人生に見る、密かな喜びであった。  ……貴方にとっての「あの日」とは、もう思い出すこともままならないほど朽ち果てた過去なのかもしれない。  ともすれば「そんな事実はなかった」と、今の貴方は全否定さえするような、「あの日」はそうした「過去の真実」なのかもしれない。  しかしのみならず「あの日」には、きっと貴方が露ほども知らない「真実」がある。   「…貴方は…どんな夢を、見ているの…? 俺と同じ夢……?」    貴方の唇を擽る俺のこの質問は――まさしく今の貴方に、問い掛けているのだ。   「……ぇ…? いえ…夢、なんて……」   「…そう…。夢なんて見ていない…? それとも…もう、夢なんて見られなくなってしまった……?」   「……、…」    黙り込んだユンファさんの、そのゆるく閉ざされた唇の側で、俺はひそかにニヤリと笑う。   「大丈夫……俺がまた貴方に、素敵な夢を見せてあげる……」    俺と、同じ夢を――。  実はね――俺は「あの日」……眠っている貴方にこっそりキスをしたのです、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)さん。   「…“ニゲラ”の花言葉…、そして最後に…――“愛の、束縛”……。ふ、ふふふふ……」    ……ねえ…――?  貴方が欲しい。俺は貴方が欲しい。  貴方が欲しい。僕は貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。        ――俺は絶対に、貴方を手に入れる。      貴方の唇を、唇で擽る――擽る、だけ。     『ねえユンファさん……ちゃんと、浮気…しなかった……? …ふふ、大丈夫…それは恋じゃないから…――そう…あのドブネズミとの恋は、“本当の恋”じゃないから……僕、ゆるしてあげるね……?』      ユンファさんの唇にかけた含み笑いを最後に――厳密にいえば、この声のない「ゆるし」を最後に――俺はおもむろに、ユンファさんの唇から離れてゆく。         

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