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俺の心臓を揺さぶってくれないか。
――「あの日」のように。
俺の目を覚まさせてくれないか。
――「あの日」のように。
今度こそもう絶対に忘れないでね。
――「あの日」のように。
もう一度やり直すチャンスをあげる。
――「あの日」の、ように。
生まれ直し――出逢い直し――初恋の、やり直し。
俺は貴方にさっさと一番早く会える空き枠に予約を入れた。これは運命だった。ずらりと並んだあのバツ印、その運命が今日という日に俺たちをもう一度巡りあわせた。「あの日」のように偶然は必然となり、あるいは偶然を必然とした今日もやがては「あの日」となる。
俺たちの運命の再会、あるいは二度目の出逢いは何もかもが完璧に整えられていなければならなかった。完璧に整えられた日付、場所、シチュエーション、…俺たちの今日という日もすべからく「あの日」になるべきだった。今日だった。「あの日」になり得る一番早い日は、そう…――だから…今 日 だ っ た のです。
俺はキスをしないまま、間近にあるユンファさんの唇からゆっくりと引いて、離れつつ――ユンファさんの片手を下からさらう――この内側からこみ上げてくる、震えてしまうようなしっとりとした快さに、自然とこの唇を微笑ませる。
「…ふふ…今日の誕生花である、その“ニゲラ”…――今はその花のことを貴方に知っておいてさえいただければ、一先 ず俺は、それだけで構いません…。……」
知らなかったでしょう――あれから十一年の時を経て、俺は今や、貴方の人生の責任をさえ背負えるほどの、立派な大人の男となったのです。…だから今は、貴方にキスをしない――厳密にいえば、この白く美しい手の甲にしか、ね。
深いお辞儀をするようにして、ちゅ、と、すくい上げたユンファさんの手の甲にキスをした俺は、するりとその手のひらを撫でながら後ろに二、三歩と引き――彼から離れ――床に落ちている仮面を拾うため、腰を屈めた。
――手を伸ばして仮面を拾い上げる。
俺は先ほど、仮面をそう遠くに投げ捨てたわけでもなかった。その仮面は、ユンファさんの片足近くに置かれている黒い革のバッグからも、まあおよそ三十センチといったところにあったのである。…であるから、こうして腰を屈めて仮面に手を伸ばし、それを拾い上げる程度のことで済んだのだ。
そうして俺は拾い上げた仮面を片手に背を正し、自然と伏し目がちになりながらも、それのゴムを後ろ頭に回して、あらためて仮面を被り直した。
再び己の全顔を覆い隠す、このベネチアンマスク――金の蔦 模様に彩られた白地の冷淡な人形 顔に、水彩のような透ける質感の青でメイクアップされたまぶた、鼻梁 、閉ざされたまま微笑む硬い唇、そして両頬の涙の雫……これこそが今の、「俺の仮面」――を、俺は被り直したのである。
しかし俺は仮面を被り直したあと、数歩の距離をもって再びユンファさんと向かい合ったあとも、なおもしばらく何も言わないまま、伏せていた目を――ゆっくりと…この両まぶたを、上げてゆく……そして俺は、目の前にいる美しい男の寝 顔 を眺める。――今はユンファさんもまた無言である。
「…………」
「…………」
やや上向きの顔のまま微動だにしない彼は今、俺に断片的に教えられた「ニゲラ」という花のことを、その花が意味するところの不可解さを訝っているようだ。…当然であろうが、要するに『意味がわからない』のである。
さながら今ユンファさんは、五里霧中というようであろうか――俺に「ニゲラのことだけは知っておいて」とやけに重要なことらしく言われ、その花の花言葉を教えられたところで、そうした断片的な情報ばかりでは何も見えてこない、どう反応をしたものかもわからない、正解がわからず反応に困っているまま、なかなか口付けもない今にどうしたらよいのかもわからないまま、よんどころない沈黙の霧の中で、彼は今も迷っている最中なのであろう。
まあユンファさんの瞳が見えない今は、さすがの俺でも、彼の内側が鮮明に見えているわけでもないのだけれどね…――これは、そのわずかに訝しげな表情と、俺の経験則からの推察である。
「……、……?」
「…………」
ステンドグラスから放たれている、透ける朝の陽光のような光の放射は霧のようにやわらかい――そのやさしく清らかな光に顔の半分を照らされているユンファさんは、今もまだ天真な面持ちで俺の口付けを待ち侘び、そっと目を瞑ったままである。…上弦の月だろうか。
一方、彼の美貌のもう半分が纏っているのは、儚げな青味のあわい影――訝しそうなその表情の翳りでさえ、何か色っぽい薄ぼんやりとした虚ろな憂いを醸し、とても美しい。…あるいは、下弦の月なのだろうか。
ただし、ユンファさんのすっきりと痩せたその両頬は今、じゅわりと内側から滲んだ水っぽい薄い赤で染められている。
……いかにも色の白い、その人の紅潮した頬の色――薄桃というよりもっと艶やかな赤、しかし血液そのもののような鮮烈な赤ではなく、さながらたっぷりの水に溶かされ薄められた水彩絵の具の、白い下地 が薄く透けているかのような透明感のある赤、儚げながら何とも可憐な、朧げな赤――がまた、今にも俺は、
「…………」
「貴方は綺麗だね…、……」
まるで「あの日」の貴方の頬の色だ――人形のように無機的な今の貴方の頬に滲んだ、「あの日」と変わらない瑞々しい有機的な赤、その頬のいきいきとしたかすかな赤らみに誘われて、今にも俺は、…今にも俺はまた、貴方にキスがしたくなる。
俺は今にも――貴方の手を取って、無邪気に踊り出したくなる。
願えど叶わなかった夢――この手の届かなかった夢――この十一年間、俺が見続けてきた一つの――夢にまで見た、夢。
俺たちの間には霧のように、夢幻 と現実が漂っている。
あるいはその夢幻と現実が、俺たちの間を隔てているものなのかもしれない。…過去と今、貴方はリアリスト、一方の俺はロマンチシスト。――有り得ない、起こり得ない、奇跡なんて無い、魔法なんて今更信じられない。――俺は貴方のそういうところ、貴方のそこだけは、少し嫌い。
どちらともつかない夢と現 が交われど、もう「あの日」が現実になることはない。――過去とはそういうものだ。…俺はいつも誰かに置き去りにされる。
……録 画 機 能 付 き の、この良過ぎる頭のせいでね。
今も俺は、貴方に置き去りにされている――。
人はいつしも可能性というものに奇跡を願う。
人が強く惹き付けられるのはいつしも未来――あるいは、今だ。…過去じゃない。時折過去に囚われる者はいるが、過去には可能性など無い。過去とはもう既に済んだことであり、取り返すことも変えることもできない。
過去に新たな奇跡は起こらない。
俺だって「あの日」という過去を忘れられたなら、そのほうがまだよかったのかもしれないね。――俺が過ぎし「あの日」を忘れてしまえたなら、俺はこうやって、命懸けで「夢」を追い掛けることなどしなかっただろう。
だがもう遅い。
もう何もかも遅いんだ。俺はもうその「夢」に手を伸ばし、走り出してしまっている。――もう後には引けない、もう戻れない、貴方を諦めてしまえば、俺はもう何処にも行けない。
俺たちはみないつだって「今」を生きているのだ。
なら――ただひたすら「今」に向き合うしかない。
――「未来」を追い掛けている。…俺は今もなお。
だけれど願わくば――貴方の今日、今夜、今というこの時が過去となっても、貴方に忘れられませんように。
今夜の俺がユンファさんにとって、忘れられない過去の一部となれますように。――どうしたらそうなれるのかな…まあ、それは俺にはわからないけれど。
今宵ばかりは、貴方にとっても忘れられない一夜となりますように――貴方に忘れられませんように――どうか、覚えていてください。
「“ニゲラ”という花を、どうか覚えていてください」
――「ニゲラ」という花は、俺にとっての、いわば「あの日の象徴」なのである。
いずれ貴方にも外連 のない真実を言えたらいいね。
……今の貴方にその真実を告げたところで、どうせ嘘だとでも思われてしまうのだろうけれど――いずれ俺は、貴方にその真実を全てお伝えできる日がくることを願っている。
ね…ユンファさん。
どうぞ俺を馬鹿にして――これは伏線だ。
回収できるかも不確かな、極小さな、伏線。
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