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「……さて、どうぞ…? もう目を開けて構わないよ。…俺はもう仮面を着けているからね」
「……、…、…――。……え…?」
ユンファさんはいまだ目を瞑ったまま、訝しそうにその眉を少し寄せた。
あたかも「キス待ち顔」というような顔のユンファさんは、いまだ先ほどと同じ姿勢――かつ彼の顔は、俺に顔を上げさせられたやや上向きの角度のまま――で固まり、目を瞑ったままに「…え…?」と霧のような儚い声で、今この現状――俺が彼にキスをしないままに「仮面を着けたよ」、ひいてはそれによって「今は貴方にキスをしないよ」と暗に、彼に告げたこと――を訝っているのである。
「……ぁ…あの…、き、…キ…ス、…するんじゃ……」
ほとんど声にもなっていない、かなりか細く小さなユンファさんの声が、キスのなかった今しがたの過去を驚き、その予想外の展開に戸惑っている。
「……ふふ、キス…してほしかった…?」
俺はまた何歩かユンファさんに歩み寄り、彼の真隣で、今度はステンドグラスのほうへ真っ直ぐ体を向ける。
そして顔だけを隣のユンファさんへ振り向かせ、恐る恐る薄目を開けた彼の、その美しい伏し目を眺め――チラと俺を見た、ニゲラによく似た群青色の瞳は、俺が顔に被せているベネチアンマスクを見て、たちまち呆気に取られる。
「……ぁ…、ぁ、ぁいえ、ぁ…あの…な、なんだか…――ごめんなさい、か、勘違いを…してしまって……」
そして俺と目が合うなり目をしばたたかせ、ユンファさんはかあっと羞恥にその白い顔全体を薄桃に染めると、慌てて目を伏せる。…また恥ずかしそうな素早さで、俺と同じ向き――ステンドグラスのほう――へ向き直ったその人は、「ぁ、…」その際足にぶつかった床にある自分のバッグが倒れると、忙しない様子でさっとしゃがみ込み、やけに丁寧な手付きでそれを立て直す。…彼は几帳面なところがある人のようで、きちんとバッグの口(内側のマグネット)を閉じていたため、倒れた拍子にそれの中身が溢れ出てくるようなことはなかった。
そうして羞恥心から落ち着きのない様子のユンファさんを眺めながら、俺は、少しだけ申し訳なさそうな柔らかい声を出す。
「…いいえ…実はそれ、貴方の勘違いではないのだよ…。…正直に言うと、俺も途中までは貴方にキスをしようと思っていたんだ…――だけれど、“この場所”でキスなんてしてしまったら……それこそ後々 になって、貴方が困るんじゃないかと思ってね…?」
なんてね……俺は「この場所」と、イエス・キリストの描かれた華美なステンドグラスへ目を向ける。…俺 は は じ め か ら こ う す る つ も り だ っ た 。
「……え…困るって……?」
バッグを拾い上げながら立ち上がったユンファさんは、俺の横顔に疑問の孕まれた視線をじっと留めているようだ。――俺はあえてこうして引き付けたのだ、まんまと彼の関心を。
「…“この場所”で俺が貴方にキスをしてしまったら…――それこそ…貴 方 は 俺 に 、“永 遠 の 愛 ”を 誓 う ことになってしまうでしょう…?」
――俺は「このセリフ」を言いたかったがために、先ほどはちょっとだけユンファさんに意地悪をしたのである。
……つまり俺は、端から此処でユンファさんにキスをするつもりなどなかったのだ。まあ、途中あまりにも彼が可愛らしいので、その決意が揺らいだことこそ事実ではあるのだが。
とはいえ――もちろん今夜中に俺は、きっとこの「神の御前 」で、ユンファさんと「誓いのキス」をすることだろう。人は過去など時が経てば、やがて忘れてしまうものだけれどね……さすがに「記念日」までは忘れないと、俺はそうユンファさんを信じたいところである。
なお、それが俺のやきもちの、「彼」へのちょっとした報復でもあるのだ。
「…ふふ…それとも、それでも構わない…? もし貴方がそれでも構わないのなら…もちろん俺は今すぐにでも、謹んで貴方の唇にキスをするけれど……」
「……、…、…」
また振り返って見れば、ステンドグラスのほうに俯いて目を伏せているユンファさんは表情を曇らせ、それにはさすがに「はい、構いません」とは明朗に言えない様子である――俺が客である手前、「嫌です」ともはっきりとは言えないながら、この部屋の他の場所でのことならばまだしも、ユンファさんは、少なくともこのステンドグラスの前でだけはそう素直には頷けない――。
よほど俺より彼のほうが、その「誓いのキス」に重みのある意味を感じているのだろう。――ただし俺は、だからこそこのステンドグラスの前で、今夜中にユンファさんとキスがしたいのである。
叶えたい夢、初志貫徹――。
「……ふっ…なんてね…――。」
職 業 病 かもしれないが、つまりこれも一つの伏線だよ。
まあとはいえ、本当にこの場所の前でキスができるかどうかは――神のみぞ知る、といったところでしょうけれど。
あるいは神が、俺たちのその「誓いのキス」をお許しになられるのなら、きっと未来はそ う な る ことでしょう。
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