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イエス・キリストの描かれたステンドグラスの前、「彼」の慈愛の微笑みという祝福の光を浴びながら、結ばれるべき二人が真っ直ぐに向き合い、キスをする――。
ぜひ実現を急ぎたいロマンチックなワンシーンである。…とはいえ――。
現状ユンファさんは、どこまでも俺のことを「お客様」としてしか見ていないのだ。――そしてだからこそ、今夜の内に俺たちがセックスをすること、それ自体はなんとあまりにも容易なことなのである。…まあ、却ってそれだから余計に難しいところでもあるのだが。
この場所でユンファさんと俺が「誓いのキス」をするということは――現状から鑑みてしまうと、正直、かなり実現が難しいこととも思われて仕方がない。
セックスは容易――想い合うことは難しい。
これはある種、人間が文化的に進化していった中で生まれた、一つのイシューでもあろうか。
端的にいえば、人間は誰とでもセックスができるのだ。
――例えその最中を想像したくもない相手とであったとしても、可能か不可能かでいえば、全く可能なのである。
肉体の本能的な享楽の衝動が、あるいはその衝動さえ無い懈怠的なセックスにおいても、愛という感情の有無に可否を決められてしまうというようなことはない。
愛の無いセックスを嫌う者がいることは当然であるが、人が思うより愛の無いセックスがこの世で多く行われていることもまた、残念ながら事実なのである。――愛が無ければできない行為と位置付けたいロマンチシズムと対峙する、傍若無人な色情、無意味な肉体の焦燥、死ぬまで止まらぬメトロノームの無味乾燥な欲情が急かす、享楽の本能、ペンデュラム・ウェーブのグロテスクな衝動、神に操られたメリー・ゴーランドの滑稽な動き、肉の饐 えた生々しいにおい、地に上げられてもがく魚、対峙するシュルレアリスム、美と醜、生と死、振り子の法則――ぴたり。
皺一つなく整えられたホワイトのシーツは、なぜだか一晩の内に皺だらけ、黄ばみ、シミだらけ。――人は、朝の清潔な光の元明るみにされたその汚れたシーツを慌てて取り払い、黙ってまた、シミ一つないホワイトのシーツをベッドへと皺一つないよう張るのである。
清い人は不潔だと顔を顰めるかもしれないが、人は誰とでもセックスができる。
そしてユンファさんもまた今夜、俺に対する愛があろうがなかろうが、俺とセックスをしてはくれることであろう。
それが今のユンファさんの「仕事」だからである。
むしろ今の彼はなお、セックスという行為に愛の有無など問わない、問えないことだろう。それこそ愛が恋がというものは、今の彼の基準にすら無いはずである。
だから簡単なのだ――それこそ今すぐにでも、俺が誘えばユンファさんは、あまりにも容易くその体を俺に許してくれることであろう。…あたかも安売りするようにね。
だが、そうしてセックスという肉体のみのやり取りこそ容易であろうとも、むしろそれこそがユンファさんの「仕事」であるからこそ、俺がユンファさんの心に惚れてもらうということは――甘く可愛い桃の香りが漂う彼の恋心に口付けて、その白い桃の肉体に優しいこの歯を立てることは――それこそ、こと今夜中などと限定的にすればなお、「奇跡」でも起こらない限りはまず難しい。
もっといえば、今夜中に、俺たちがこのステンドグラスの前で「誓いのキス」をしたとするなら――俺の夢が今夜中に一つ叶ったとするなら――それこそはまさしく、「奇跡」といえることだろう。
しかし――絶 対 に こ う な る は ず だ 。
人はいつしもそういった固定概念や、狭まっているのにその自覚がない己の狭窄的な視野に、何かしらいつも支配をされている。
だが未来というものは、いつだってどうなるのかは誰にもわからない。――たとえば今や人々の生活に根付きつつあるAI、生体認証、全自動化、ワイヤレス、あらゆるものの電気製品化(タバコや車など)、…そういった新しく便利なものが次々と世に送り出されては「当たり前」になってゆくこの現代だが、果たしてたった十一年前にも、自分たちの生活にそれらが根付き、いわば「当たり前」になることを察していた人はいるだろうか?
きっと十一年前当時の人々が、それらのことを聞いたならこう言うことだろう――『そんなことが本当に起こったら、それこそ奇跡だろう』と。
いつだって人は、「今」から地続きの未来ばかりを予測してしまうものである。
――そういえば聖書の中で、『神にできないことなど何一つとして無いのです』と大天使ガブリエルが言う。…それはかの有名な「受胎告知」の場面でのことである。
婚約者(のちの夫となる聖ヨセフである)こそいても、性交渉(婚前交渉)の経験がない処女マリアの元に突然訪れたガブリエルは、唐突にマリアへこう告げる。
そう、『おめでとう恵まれた方、あなたはこれから神の子を身篭ります』という「聖告」を彼女にするのである。
しかし、当然だが「全く身に覚えのない」マリアは目を見開き、『どうしてそんなことが起こり得ましょうか、わ た く し は 男 性 を 知 り ま せ ん のに』と非常に驚くのだ。
マリアのそれはいかにももっともであるが、そこで大天使ガブリエルが、『神にできないことなど何一つとして無いのです』と言うのである。
セックスの経験がない処女がなぜか妊娠をした、それも「神の子」を、ね…――科学的にはどうやっても説明の付かないことではあるが、それこそ神にできないことは何一つとして無い――ということなのであろう。
そして、神の御業によって起こされた現実的ではないことを、人は「奇跡」か、あるいは「魔法」という。
この部屋には「神聖な魔法」がかかっている。
――それは何より、どんな奇跡さえも起こり得る可能性を孕んだ、「神の御加護」、なのかもしれない。
この部屋には、神がかり的な「神聖なる魔法」が満ちている――神のかける魔法、すなわち「奇跡」の予感さえある――このスイートルームは、俺がユンファさんのためにやっとの思いで探し出した、ロマンチックな「魔法の部屋」なのである。
またこの部屋ならば、ユンファさんと俺は、あたかも恋人らしいデートができることだろう。
プラネタリウムや夜景が見られる最上級スイートルーム、こうしたステンドグラスなど部屋の中にも鑑賞スポットが、更には、5つ星ホテルのレストラン及びバーにて作られた料理などを、24時間いつでもこの部屋まで届けてくれるルームサービスのメニューも充実……ユンファさんが乗り気ならスパを利用してもいいし、岩盤浴やサウナ、プールなどもある。
まあ、たとえこの部屋の外にユンファさんを連れ出すことこそ叶わずとも、それこそこのような部屋ならば、この部屋の外に出ずとも十分に、俺はユンファさんと甘いひと時を過ごすことができる――つまり俺はこの部屋で、ユンファさんと念願の「デート」ができる…ということ――。
そう、もちろんそれもあるが――ユンファさんの気持ち、すなわち恋心、彼の愛をデートによって獲得したいという目的もあるが――なぜ俺がこの部屋を選んだのか、その理由とはその実、上げてゆけばキリがないほどいくつもあるのだ。
なお当為そのほとんどは、ただユンファさんに喜んでもらいたいという、俺のその純粋無垢な恋心に起因した理由である。つまりユンファさんに喜んでもらいたいと、この部屋を選んだ理由としては、それこそが何より一番の理由であるということだ。
ただ……俺はともすると、ほ ん の 少 し だ け 気 の 早 い 男 、なのかもしれなくてね……。
そのヒントは「ハネムーン」と「初夜」である。
そして「誓いのキス」――こ れ 以 上 何 を 言 う 必 要 が あ る だ ろ う か ?
絶対にこうなるはずだ。起こり得ない、そんなことは起こるはずがない――しかし、いつしも未来というものは、そうとも、限らないもの。
あるいは神が起こし得る「奇跡」とやらに懸けてみようかと、俺はそう思っているのである。
神を味方につけて損をすることなどないだろう?
神頼みも、しないよりはしておいたほうがよい。やれること、できることは、全てやり尽くしておくべきだ。
人事を尽くして天命を待つ……ましてやユンファさんが信じている神ならば尚の事だよ。
ということで…どうぞご協力ください、神よ。
もし俺のこの「愛」が正しいものであるのなら、どうか彼の「愛」を、――月下 ・夜伽 ・曇華 という男の全てを、俺に下さい。
さあ、俺はこの場所にユンファさんを導くことで、彼に言ってあげたいことがあった。もちろん、我が月の男神からの愛の獲得のためにである。
俺たちはステンドグラスの前で隣り合って並び立ち、しばしお互いに何も言わないまま、ただぼんやりと目の前で荘厳と燦々 朝の陽光を放つ、イエス・キリストのステンドグラスを眺めていた。
「――ねえユエさん…ところで俺、先ほどからずっと思っていたのだけれど……」
俺はステンドグラスに描かれてるイエス・キリストの、その慈愛の微笑みをぼんやりと眺めながら、そう隣のユンファさんへ切り出した。
彼もまた目の前のステンドグラスに見惚れていたようだが、はたと俺のほうへ顔で振り返ったらしい気配がする。
俺はさり気ない小さな声でこう言った。
「…折角だから、祈られてはどう…?」
「……え…?」
俺も顔で隣のユンファさんへと振り返った。彼は少し驚いた顔をして俺を見ている。
「…まあ、俺はクリスチャンでも何でもないのだけれどね……でも、きっとこういった場所には、来たくともなかなか来られるものでもないのでしょう。――だから折角ですし、もっと堂々と…貴方のされたいように、お好きなだけ祈られたらどうかなと、俺はそう思ったんだ。…」
もちろん先ほどユンファさんは、このステンドグラスのイエス・キリストを始めとした、聖母マリアや大天使たちへと密かに祈りを捧げていた。
ただ、このイエス・キリストのステンドグラスの前に辿り着くなり、彼は、はぁ…と静かに息を飲んだ。彼の感動は、それこそ他の四人の前に立ったときよりも顕著であった。
そしてそのあと俺は、感動とも畏怖ともつかない震えを、隣り合い触れていたユンファさんの肩や二の腕から感じた。――ふと振り向けば……彼は「神前」では言葉をも失い、その切れ長の美しい目を切なく赤らめて、その薄紫色の瞳に涙を浮かべてさえいたのである。
そしてユンファさんは声もなく、また唇を動かすにしても、わずかばかり上下の唇を開閉させる程度で、密かに「彼」へと祈っていた――。
しかしその祈りの捧げ方は、まるで過去このヤマトで信仰を禁じられていた、信仰が露見すれば殺されると怯えていた隠れキリシタンたちのような、そうした秘めやかな祈り方であった。
ただ――群衆の行き交う街中ならばまだしも、どうしてわざわざこれほどまでに明るいこのイコンの前で、そう祈りを憚る必要があろうか?
「…俺の信じている神は違う…、だけれど俺は、貴方の祈りを…――貴方を…、そして“彼”のことを、俺は決して、馬鹿にしません。」
それはそう…――これまでユンファさんは、さんざん祈りを、自分を、そして「彼」を、人に馬鹿にされてきたからである。
俺に顔を振り向かせたまま呆然としているユンファさんの、その片耳へと俺は顔を寄せ――彼の左耳に寄せた唇で――そっとこう囁く。
「…貴方が祈られたいのなら……貴方はもっと堂々と、“彼”にお祈りを捧げてもよいのです……」
するとユンファさんは涙を堪えているような声で、「でも」と遠慮をした。――俺は彼の左耳からおもむろに顔を引いてゆきながら…さらりとその耳を撫で、彼の左耳についている銀の十字架を撫でて、揺らした。
俺の両目はその銀の十字架を見つめ――おそらくは毎夜この十字架を握りしめて祈りを捧げているのだろうに、この十字架はよく磨き立てられている。つまり指紋などの汚れはなく、どれほどユンファさんがこの十字架を、祈りの時間を、「彼」のことを大事にしているか、彼のその想いの強さがよくわかるほど、この小さな十字架にはキラリとそうした光、真摯な冴えが見える――その清らかな銀色の光が眩しく、俺は緩やかに目を細める。
「…はは、貴方の宣材写真に、この綺麗な十字架が映っていたから…――もしかしたら貴方は、こういったものに喜んでくださるんじゃないかと、俺はそう思ってね……」
俺は真心から微笑みながら、神の前でまた嘘 を つ い た 。
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