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               ちなみにあのあとケグリは、パニックになってしまったユンファさんが酔いつぶれたことにして、へらへらしながら少し休ませてきますね、と彼を店の裏方へ連れて行った。確かにうなだれてぐったりとした様子の彼は酔いつぶれた人のように見えなくもなかったが、まずそれはただの口実である。    そういったことはさしてイレギュラーなことでもなかったからだ。――なおそういったことというのは、ユンファさんがパニックになってしまうことである。    俺が探偵から受け取った映像の数々のうちにも、あの店の営業中に彼がパニックに陥ってしまうことはしばしばあった。そして彼がパニックになってしまうと、ケグリは毎度何かしらの理由を付けて彼を店の裏方へ連れ込むのだ。――だがそれもしばらくすると、二人はまた必ず店へと戻ってくる。    何事もなかったかのような態度で戻るケグリはもちろんだが、そうして店に連れ戻されたユンファさんもまた、一見は確かに落ち着きを取り戻してはいた。とはいえその表情はいつも暗かったが、少なくとも「ごめんなさい、ごめんなさい」とそれしか言えないパニック状態ではなくなっていたのである。    裏で何があったのか…――何が行われていたのか。  ユンファさんは裏でケグリに何を言われ、何をされていたのか。    さすがにそこまではわからない。探偵のカメラもそこまでは潜入できない。  ただそういった場合に店へ戻ってきたユンファさんは、しばしば「僕は大丈夫です…僕は大丈夫、大丈夫…」とぶつぶつ震えながら呟いていることがあった。また彼の黒髪はいつも濡れてその頬に張り付いており、いつもその瞳には怯えた翳りがあった。    少なくとも裏でユンファさんがケグリに何かしらを強いられ、必死になって自ら平静を取り戻そうと努めていたことは確かである。――これは俺の憶測に過ぎないが、例えばこういったことかもしれない。    ケグリに、浴槽か何かに張られた水に頭を沈められたユンファさんは、溺れながら命の危険を覚えた。  そして彼はその究極の緊張感から目が冴えて我に返り――命の危険を覚えていては我に返りざるをえず――、必死に「僕はもう大丈夫、もう落ち着きました、もう大丈夫ですから(だからもう溺れさせないで)」とケグリに懇願し、かつその通り正気を保たねばと自分にも必死にそう言い聞かせていた――正気を保たねば殺される、また溺れさせられる、と必死に「僕は大丈夫」と自分で自分に言い聞かせていた――のかもしれない。    とまれかくまれ……残念なことに、神はあのノアの方舟の一件以来、人間の罪悪に対しておよそ寛容になってしまわれたらしいのである。  あの動画の中で、――いや、あの動画の中でも、ユンファさんは信じる神さえ陵辱され、クリスチャンであることまでをもケグリや他の客どもに陵辱された。    それは侮辱や嘲笑にさえ留まらない惨たらしいものだった。あの男らはクリスチャンである彼自身を、彼が信じている神を、彼のささやかな「救い」となっている祈りを、信教を、薄汚い情欲で穢し、犯したのである。  いくら俺とは信教の違いがあるとはいえ、さすがにあのような酷薄な形でユンファさんの信じている神を冒涜し、ただ神を信じているだけの彼を意味もなく侮辱したケグリ共には俺も、かなり胸糞悪い思いがあった。    いや、むしろ俺にしてみれば()()()()()()を冒涜されたのだから、俺がこの件でもあの男らに憤りを感じたことはあくまで当然である。      ――俺には何故なのかわからない。        何故なのでしょうか、神よ――?      と、俺は見ているイエス・キリストに心のうちで問い掛けた。      何故あなたは、あなたを愛してやまない、あまりにも清らかなこの無辜(むこ)の人を救われないのですか?    まさかあなたは、彼をお見捨てになられたのですか?    何故あなたは――あの罪深き男どもに、天罰を下されないのですか。    いえ、あなたはきっと――この俺に、その神にも相当する権利をお与え下さったのでしょうね。  あなたはもうこの世に肉体をもたない。いつしも肉体を持つ者を裁くのは、たとえあなたのご意向であったにしても、同じく肉体を持つ者なのでしょう。    イエス・キリストの描かれたステンドグラスの前、俺とユンファさんは向かい合う。俺は振り向いていたそのステンドグラスから、改めて目の前にいるユンファさんへ顔を向けた。――俺が爪の腹で撫でた彼の左耳の十字架は、ゆらと揺れながら銀に瞬く。   「綺麗な十字架だね」   「……ぁ…ありがとうございます。…」    ユンファさんは自分が大切にしている十字架を俺に褒められると、一瞬その薄紫色の瞳を嬉しげに明るませた。そしてふと目を下げる彼は「貰い物なんです」と言って、自分の左の耳たぶから下がるその十字架に中指の先で触れる。  ……貰い物……そういえばあの動画の中でケグリもそんなことを言っていたか。――ケグリが買い物に行かせたユンファさんの帰りがいつもより遅くなった日、彼はこの十字架のピアスと聖書をノダガワの家に持ち帰ってきた。それは曰く、町中にいた老女が、彼に無償でその十字架と聖書をあげたのだという。   「…貰い物?」    としかし、俺はそのことが今初耳のように彼へ尋ねたのである。――俺が嘘をついた理由はもちろん、まさかひそかに探偵を雇ってユンファさんのことをリサーチしていたなどとは、少なくとも今はまだ言えないからだ。  ともすれば彼に「ストーカー」だなんて変態扱いをされかねない。――俺はまちがってもユンファさんのストーカーではないのだ。それこそ彼のことを執拗に付け回すようなストーキングなど、()()していない。俺は正当な、法的に許された方法で()()()()()()調()()をしているだけだし、個人的にも大小かまわず好きな人の情報収集をしているだけ。    しかし、少なくとも俺の()()()()()()()()()()()を今はまだ知らないユンファさんに、そういった真実は迂闊に言うべきではないのである。  ……オールドヴィンテージワインとて、購入してからコルクを開けるまでには最低一週間ほどの安置が必要だ――繊細なオールドヴィンテージワインは持ち運びの振動だけでも味が劣化する。そのため一週間以上の安置期間を設けて落ち着かせねば、そのワイン本来の美味しさを味わうことはできない――が、すなわちそれと同じこと。()()()()()()()()()()()()()()。極上の美味しい思いがしたいなら、コルクは最高のタイミングを見はからって開けるべきだ。    そうして嘘吐(うそつ)きの俺が、彼の十字架が誰かの貰い物であることを訝る(ふりをする)と、ユンファさんは「はい」と伏し目がちに微笑む。   「…町中にいた優しいおばあさんが、聖書と一緒に下さったものなんです…」   「それは…どういう…?」   「…あぁ…彼女は本当は占い師なんだそうで、路上で占いをやりながら、聖書や、こういった十字架のアクセサリーなんかを売っている、らしいんですが……僕が買い物を終えて家に帰ろうとしたら、その占い師のおばあさんに呼び止められました。“暗い顔をしているけど大丈夫?”、と……」   「……なるほど…、……それで…?」    俺はいかにも関心のあるらしい返しをする。  いや実際に関心はあるが、いま俺の頭のどこかには「彼の前では聞き上手になりたい」という意識が、基盤(きばん)に取り付けられたレアメタル()のようにわずかでも確かに存在していて無視などできない。そうした俺の小さな意識はおだやかに俺の外面を操作している。つまり俺はユンファさんに好かれたいのである。   「…何か…それこそもしかしたら、その出逢いもまた、神様のお導きだったのかもしれません…――僕はそのとき身の上話をしたわけではありませんでしたが、彼女は僕の顔をじっくり見て、それから僕の手のひらを取って、僕の手のひらの皺を…手相を? 指でなぞって……――それだけで僕の境遇を粗方言い当てると、“神のご加護がありますように”、と……」   「…へえ…」   「…はは…それで聖書と、これを…」と照れ臭そうに笑ったユンファさんは、左耳についた銀の十字架を裏から指先で軽く押し上げ、俺に示しながら、無垢な瞳で俺の目を見る。   「…この十字架のピアスを、ご厚意で僕に下さったんです。…それから彼女は、少しだけ神様の話もしてくださって…――どんなに罪深い人であっても、どんなにちっぽけな存在であっても…神様は、神様を信じる人を愛して、救ってくださる、と…、……」    ふとユンファさんは首を逸らし、イエス・キリストの描かれたステンドグラスのほうへ顔を向けた。その光が白い顔をやさしく照らしたなり微笑した彼は、親愛のあたたかい眼差しでその人を見ている。    しかし、やがて曇った遠い目をしたユンファさんは、自分を否定するような笑みを含ませてこう言った。   「でも、僕は本物のクリスチャンとは言えません」   「……それはまた…何故そう思われるのですか」   「…何も知らないからです」    ふと俺に向き直ったユンファさんの微笑は、なかば自分に呆れたような笑みに変わっている。   「…僕は聖書の中に出てくる神様のことを、信じています…――ただ、そのときにおばあさんから聞いた神様のこと、それから簡単なお祈りのやり方…聖書の内容、それと、歴史の授業で習ったこと…それ以上のことは何も、僕はキリスト教のことを何も知らないんです」    ユンファさんはゆるく首を横に振りながらそう言った。「だから」とユンファさんは、また光――イエス・キリストのほうへ顔を向ける。  遠くにいる憧れの存在を眺めるその眼差しは、切ない。   「…僕は間違ったお祈りをしているかもしれないし…僕は間違った方法で、神様を信じてしまっているかもしれません。…もちろん洗礼を受けられたわけでもない……そんな僕が、神様に特別愛されているなんてことはないかと…、ましてや僕は……」    ふと伏せられた彼の黒いまつ毛の先に、哀艶が宿っている。――『僕は本当に、神様に愛されるはずもない淫魔なのかもしれない』   「……、でも、何にしても…――」とユンファさんは目を上げ、切ないほど感動した目で「彼」を見る。   「…僕、初めて…」   「…………」    ユンファさんは「彼」を眺めるその目に、じわじわと涙を滲ませてゆく。   「…初めて来たんです…こんなに、――こんなに素敵な場所…来てみたかった…。こんなに素敵なステンドグラスを見られて、…ずっと見てみたかったから…、こんなに素敵なステンドグラスを見られたのは、今日が初めてで…――全て貴方のおかげです…貴方のおかげで僕は、こんなに素敵な場所に来られました…」    ふと俺に振り向いたユンファさんは、涙ながらに、にこっと笑った。   「…きっと僕、此処に来られたことは一生忘れらないだろうな…。はは、なんて…感動しちゃって、変なこと言ってすみません…――ありがとう、…」    声を詰め、泣きそうになるユンファさんは目を伏せると、うなだれるようにして俺に頭を下げながら「ありがとうございます」と震えた声で感謝した。――ポタポタと下へ、輝く清らかな涙がいくつも落ちていった。   「……、…」    ユンファさんの切ない告白にこらえきれず、俺の手はおもむろにユンファさんの左耳へ伸びた。  彼の耳の裏を上から下へゆっくりと撫でた俺の指先は――勝手にその耳たぶから、十字架のピアスをカチリと外した。    

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