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               俺はユンファさんの十字架のピアスを外した。  このピアスは耳たぶに装着する部分がキャッチと一体型のリングピアスであったため、片手の指で輪を裂くように広げるといともたやすくカチリと外れた。    ユンファさんは「ぁ、…」と少し驚いて顔を上げた。しかし、何かしら彼は俺のことを「優しい人」と思っている節があるようで、その大切な十字架を俺に奪われたというような認識もなく、慌てることもなかった。    もちろんその通りだ。  俺はユンファさんから、彼が大切にしている十字架を奪い取ったわけではない。…なかば茫然として俺を見ているユンファさんへ――俺は手にした銀の十字架を、すぐさまこれの持ち主である彼へ差し出した。   「貴方は間違いなく神様に愛されている人だ。――それも、特別にね。疑う余地もなく、寵愛(ちょうあい)というほどに……」    俺の声は憤怒に震えて低かった。  俺は貴方のためなら悪魔にだってなろう。  悪魔が嫌なら破壊の神であってもよい。そうした天使であってもよい。――狡猾で残酷な人間であってもよい。    俺は絶対にあいつらを赦さない。俺が、赦さない。  あの惨たらしい映像の吐き気をもよおす醜さが、あまりにも美しく清らかなユンファさんの涙をより透明に見せ、改めて俺に激しい怒りを覚えさせた。   「……、…」    俺に十字架を差し出されたユンファさんはそれへ目を下げ、その表情を曇らせた。これは自分の十字架だというのに、彼は俺が差し出しているそれを受け取ろうとはしない。   「初めて見たいものが見られたのでしょう。密かに願ってきた夢が叶ったのでしょう。――ならば貴方はやはり、“彼”にお祈りをされるべきです」    俺も手にしている十字架に目を下げた。  この冴えた銀色に宿る宿命、そして試練、そして愛。――あの薄汚い地獄にあってなお清廉なる輝きを強く放っていたこの十字架は、彼という月の明かりを反射して、より冴え冴えと強い銀の光を放っていたのであろう。   「…後悔してしまいますよ」   「……、…」    しかしユンファさんは動かない。目を上げて見れば、彼はただ銀の十字架を暗い瞳で見下ろしている。  ユンファさんのその伏し目は恐れている。…そうは言えども、結局は俺がケグリたちのように「彼」を嘲り、侮辱をするのではないかと恐れているのである。  ……彼は神に祈りを捧げている最中にまで、ケグリに馬鹿にされながら犯されることもよくあるらしい。もはや人前での祈りにトラウマを得てしまっているのかもしれない。   「……、人の視力というものは…しばしば、本当に大切なものを見失わせてしまうときがあります」   「……え…?」    不安げな群青色の瞳だけが上がり、俺を見る。   「人は不確実性に不安を覚えるものです。確実なものだけが真実であると、そう考えてしまうのです。…だからこそ人は時々、自分の目に見えるものだけを信じるようになってしまうのですよ。――そして…自分の目に見えていないものを、人は“存在しないもの”だと決め付けてしまいます。…その方が安全だからです」    人は我知らずにも「物理演算」をしてしまうものである。――そして、それによって「だから絶対こうに決まっている」と決め付けてしまう。  例えば二枚のカードの内、一枚はジョーカー、一枚は白紙だったとしよう。自分はジョーカーを引き当てなければならない。その際に人はシャッフルを目で追いながら物理演算をする。その二枚が何回シャッフルされて何回こうなったから、ジョーカーは絶対に左側にある――などとね。    本当に?  ――マジシャンはその物理演算を裏切ることで人を喜ばせるものだよ。    もっと身近な例で言おうか。  昨日買ってすぐ冷蔵庫に入れた一本の牛乳は、今日の今本当に冷蔵庫の中に新品の状態であるのかどうか。…誰も絶対にそうであると言い切ってはならないのに、人は「昨日買った牛乳は絶対に冷蔵庫の中、新品のままであるはずだ」と決め付けてしまう。  ……いつの間にか冷蔵庫の中で倒れ、中身が全部こぼれているかもしれない。家族の誰かが飲み干して空のパックを捨て、こつ然と消えているかもしれない。あるいは家族が知らずに買い足し、牛乳は二本に増えているかもしれない。    あらゆる物事の側面には、()()()()()()()()()()()というものがある。  ――しかし己の「思い込み」という視力だけを信じる人は、しばしばその「可能性の余地」が見えなくなってしまうものだ。    そしてそれは、神や仏においても同じことがいえる。  そういった目に見えない存在は「存在する」と言い切れるほどの確信は誰にもないが、それと同時に、「存在しない」と言い切れるだけの確証も誰もが持たない。――しかし俺個人の話でいえば、何も信仰しているわけではないものの、むしろ神や仏という目に見えない存在は実在するのではないかと思う。    多くの人は目に見えない「運」というものを信じているだろう。  例えば遅刻しそうだと慌てて駆け込んだ駅に、丁度よく乗りたい電車が目の前に現れる。ラッキーだ。  例えばかねてより欲しいと思っていたものが、たまたま寄った店でセールをしていて、定価よりうんと安くそれが手に入る。ラッキーだ。  それこそ俺でいうなら、ネットの口コミからまたたく間に広まり売れていった『夢見の恋人』は、もはやツキが回ってきていたとしかいいようのないことであった。――しかしそういった幸運が運んでくるものとは、人間の力ではどうしようとも得られないものである。    そうして、どうやったって人間には操作できない「何か」が日常の中にもあるではないか。それこそ幸運にしろ不運にしろ、その運という目に見えないものの存在を認めていて、目に見えない神仏の存在を認めないというのは、いささか筋の通らないことである。  ……よって俺は神仏の存在を否定することができないどころか、むしろ存在はするのではないかと考えている。…あと…俺の見え過ぎる目はたまにその……まあ、()()()()()()()()のでね。   「確かに、俺には貴方の信じる神様とのご縁はありませんでした。信じている神も違いますしね…、……」    そう、ただし――俺には縁がなかったのだ。  いるからいないからということで神を信じる、信じないを決めているわけではない。俺にはこの世に多くの信者を抱え込むどのような宗教、どのような神仏とも縁がなかった。  そして俺は、ユンファさんが信じている神だからと改宗するつもりも毛頭ないし、神を信じる人も信じない人もどちらもいてよいと思っている。無信仰の者、無神論者には幸運が訪れず確実に不幸になるなんてことはないように、人の幸福を決めるのは宗教ばかりのことではない。  とにかく宗教、神や仏という存在においても結局のところ縁があるかないかである。――縁がないならそのままでよく、縁があるなら親兄弟の信じている存在以外を信じてもよく、たとえ親兄弟に縁のある神仏であっても、自分に縁がないなら信じなくてよい。    必要ないのなら必要のないままでよい。宗教が必要のない人はそのままでよいのだ。――それとてもしかすると、全知全能という神がそのように意図してその人を作ったのかもしれない。全てに意味があるとするのなら、どちらが間違っているも何もないだろう。  ただし、明らかに有害な宗教を信じている人の、その人の幸福を想って忠告をする人はむしろ必要、それこそこの穢れ世に必要な「仏心」であろう。    俺もまた「目に見えない神や仏」には縁のなかった人だ。俺に縁があった神は月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という月の男神である。俺は彼を崇拝している。俺の幸福のために俺は彼を崇拝したい。    だから――彼とは信じている神が違う。  だが、今のユンファさんにもせめて許されているささやかなほんの僅かな「自由」、もっといえば、今苦境に置かれている彼にとっての「よすが」であるその祈り、信心、神という存在が今の彼のささやかな幸福であり「救い」であるのならば――彼の信徒である俺もまた、それらを尊重しないわけにはいかない。 「だけれど、貴方には明確に“彼”とのご縁があった。そうでしょう」   「……それは…」    そうだと、しかしユンファさんはなかば否定しかかった迷いのある言い方をする。彼は十字架に目を下げたまま、『それは単なる偶然だったかもしれない』と、先ほど自分が言った「神のお導き」というのさえ否定しようとしたのだ。  俺は最後までそれを言わせない。   「…貴方が町で出逢ったおばあさんは、神様のお使いだったのかもしれませんね。…ふふ…それこそ、大天使ガブリエルの化身であったとか…――それとも貴方は、貴方を馬鹿にする悪魔のような人間の言うことのほうを信じられるのですか。…」    俺はユンファさんの顔から目を下げた。  ユンファさんは下腹部の前、片手の手首をもう片手で掴んでいた。俺はその片手の手首をそっと取る。俺は簡単に取れたその蒼白い男らしい手を見下ろしながら、更にこう続ける。   「神様は貴方のことを試しているのかもね…。でも、間違っても貴方の目と彼らの目は違うのです。――目が違えば見えるものも違いますから…。貴方もまた彼らがそうしているように、貴方のその目に見えているものを信じればよいのでは…?」    俺はユンファさんのその脱力した片手をゆっくりと持ち上げながら、チラと瞳だけを上げてユンファさんの顔を見た。彼は俺の目もとあたりをただ眺め、俺の言葉に聞き入っている。俺は仮面の下、その無垢な透明感のある薄紫色の瞳を見て微笑んだ。   「…例え貴方の目に見えているものが、他の人々の目には見えていなかったとしても……そして、それによって誰に馬鹿にされようとも、貴方は――貴方はもっと自信を持っていい。…貴方の目には、貴方にとって大切なものがきちんと見えているのだからね。…貴方はその確かな瞳と清らかな心に自信を持って、そして愛を()って…貴方は堂々と、貴方が愛する神を信じていてよいのです」    と俺は、ユンファさんの胸の前に上げた彼の手に、そっと彼の十字架を握らせた。そしてその手を両手でやさしく包み込む。   「人より見え過ぎるということは時に損をするものですよね、わかります。――だけれど…貴方のその美しい瞳に罪は無い。神を信じるその清らかな信心に、一体何の罪が有ることでしょう」   「……、…」    ユンファさんは目を下げて憂いた。彼はそれでも無言の中で自分の罪を一つ一つ数えようとするのだ。   「きっと神は外にもいらっしゃるが、貴方の中にもいらっしゃるのだ。神を通して祈り、祈りを通して神と繋がる…――神のいらっしゃる貴方の心から湧き出てきた祈りに、許されざる罪など何もありません。許されざる祈りが無いということは、神を信じる人に許されざる人もいない…ということです」   「……、本当に…そう思われますか…?」    言いながら彼は目を上げて俺を見た。  どうも俺を教会に居る聖職者か何かと勘違いしているような、不安の中にも俺を頼りにしている瞳である。――まあ好きな人に頼られて悪い気はしないけれどね…構わないよ。  なかば趣味で聖書を読んだだけの俺が神父とは全くおかしなことだが、ユンファさんが望まれるのなら、俺は神父にでも何にでもなろう。   「ええ。…だから声の無い祈りも、きちんと神の元には届くのです」    俺はふっと顔を振りむかせ、ステンドグラスの中で微笑むイエス・キリストのその胸――聖心と呼ばれるハート――を見留めた。   「“彼”のハートと、貴方の胸の中にあるハートは同じものだ。神とはハートで、愛で繋がっているのです」   「……神は…愛…」      とユンファさんはぼんやり呟いた。     「そう…その通り――。」     『 我々は、我々を愛する神の愛を知り、そしてその神の愛を信じています。()()()なのです。全てを愛の内に収める人は、神の愛の中にもまた収められ、神はその人の愛の中に収まってくださいます。 』――ヨハネの手紙1.4:16(意訳)    曰くこれである。またキリスト教の基本理念は、まず父なる神(創造主)があり、その次に神の子であるイエス・キリストがあり、更にその次には聖霊がある、という三位一体である。…そして神を信じる者の心にはその聖霊が宿り、その胸の中の聖霊を通じてイエス・キリストに、そして神に繋がれるもの、…らしい…と、悪い小説家の俺は、あたかもそれらしいことを言っただけなのだが。――そういうのは大得意なのだよ――ふふふ、と俺の鼻が悪魔のような含み笑いをもらす。   「俺は信じる神こそ違うが…、神に捧げる祈りというものは…時に助けを求めるということであり、時に理想の実現を望むということであり、そして夢を見るということでもあります…――また感謝を数えること、今日の幸福を数えることでもありますよね…?」    ユンファさんは「ええ」とそれを清い声で肯定した。   「ですが結局のところ、目に見えない相手に話し掛けること…神とお話しをされるということを、“お祈り”と言うのではないでしょうか。――しかもそのお相手である神は、いつも貴方の心の中にもいらっしゃる」   「……、…」    ゴクンと喉を鳴らした彼へ俺はおもむろにまた向き直る。ユンファさんはとても真剣な顔をして俺の言葉の続きを待っている。   「ならば貴方はいつ何時(なんどき)、たとえ何処(どこ)に居たとしても、また貴方を取り巻く状況がどのようなものであったとしても…貴方はいつ、どのような形で祈ってもよいのです。…神の目は全てを見通している。神は全てをご存知なのだから…、すなわち――貴方はいつ神を愛してもよいのです。…例えどのような罪を貴方が犯そうと、神がいつでも貴方を愛しているようにね……それとも、今はまだ()()()()()()()のように思えますか?」   「……、…」    彼の真摯な瞳が『そうだ』と切ないほど切実に言う。   「それは今の貴方に、確証という自信が無いせいでしょう。――神はまだ貴方のことを救っていないかもしれない。…だけれど…その内貴方が想定していない形で、神は貴方を救ってくださるかもしれません」  例えば――俺が突然()()()()に現れ、ユンファさんが抱える借金やら何やらその問題の何もかもを一蹴――快刀乱麻(かいとうらんま)()つ。そしてもっとも彼に相応しい居場所である俺の元へと引き上げる……だとかね。   「…きっと、神様ももどかしいことでしょうね…。…愛する貴方の目に自分は見えず、貴方のその耳には自分の声も聞こえない…――。」    画面の中にいる貴方の目に俺の姿は映らず、画面の中にいる貴方の耳に俺の声は聞こえなかった。…もどかしかったよ…凄く切なかったな……。   「…神は人に試練を課すが、それは愛おしい子の成長のため……虎の子ほど千尋の谷に突き落とされるものなのですよ……そう、“彼”のようにね」    チラと横目に見た「彼」――イエス・キリストよ。  貴方もまた彼のことを愛しているのでしょうね。  でも、彼が愛するあなたであっても、絶対に俺の邪魔はさせないから――俺は伏し目にゆっくりと瞳を、ユンファさんのほうへ向けてゆく。   「ですが…いつか神様は貴方を救い、貴方を喜ばせることでしょう。――終日(ひねもす)あたたかい春の陽光より、寒い冬の陽光にこそ(とろ)けそうなぬくもりを感じられるように……疑うまでもなく明るい真っ昼間の太陽より、暗闇の中にある月光こそ目映(まばゆ)く美しいように……」    貴方は俺を愛するために一度地獄へ堕ちたのだ。  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだよ。  だから、もちろん貴方の試練は絶対に報われる――俺が貴方を救ってあげるから…ね。    俺はゆっくりと瞳を向けた――その先には余所見(よそみ)、ステンドグラスのイエス・キリストに顔を向けているユンファさんの横顔があった。彼の頬は恋をしたように紅潮し、憧れの人を遠くから眺めるような輝く瞳で「彼」を見ている。 「貴方は今もなお辛い試練をご経験されている最中なのでしょう……しかし…だからこそ、その光に満ち溢れた救いという幸福を人よりも深く、強く味わえるのです…――ですからどうぞ…まずは心ゆくまで、この夜を喜んで…?」    切なかった…もどかしかった――だけれど俺は、こうして今夜に貴方とまた逢えた。こんなに嬉しいことはない。俺はただ貴方を喜ばせてあげたいのだ。   「……、…」    俺はステンドグラスの「彼」のほうを向いているユンファさんの頬を片手で包み、俺のほうを向かせた。    でも……()()()しちゃ、駄目――。   「気後れなどされる必要は全くありません…。神は愛する貴方に愛される準備はもう出来ているようですよ…。ですからまずは今夜、貴方が予想もしていなかった形で、こうして“彼”に逢えたこの奇跡を…どうぞ喜んでください。ね…?」   「……は…――。」    無垢にその薄紫色の瞳を明るませたユンファさんは「はい」と明朗に答えようとしたが、さなか俺は彼の左耳に口を寄せた。   「…ふふふ…神も、貴方が喜ばれることを望んでいますよ…――。」   「……ッ♡」    ピクッと肩を揺らしたユンファさんは、ふいっと俺の口から逃げるよう顔を逸らした。――どうやらユンファさんは俺の低い声に何かしら官能的なものを覚える感性を持っているらしい。「ふふ…可愛い」と囁いた俺は、とりあえず今はこれ以上のことをしない。  ……とにかく俺は俺のために、ユンファさんには「彼」へお祈りをしてもらわねばならないのである。   「神は“私にどうぞ祈りなさい”とは言っても、“お前のような者が私に祈るな”などとは決して言いませんでしょう。…ですから、さあ…どうぞ…?」    俺はユンファさんの胸の前で彼に持たれた十字架に、更に彼のもう片手を添えさせる。   「今は俺も居ないものとして構いません…――きっと積もり積もったお話もあることでしょう…どうぞお好きなだけ、貴方の気が済むまで“彼”とお話しをされてください。ね…」   「……、…はい…――へへ…」    なかば泣きそうになりながらも幸福そうに笑ったユンファさんは、胸の前でその十字架を大切そうに両手で握り締めると、「ありがとうございます」と俯きながら俺に頭を下げた。     「……ふふふ…――。」          

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