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ユンファさんはイエス・キリストの描かれたおよそ三メートル、見上げるほどに高い光り輝くステンドグラスに向き合う形で、その場の床に正座した。
ただし厳密にいえば彼のそれは正座ではなく、その座り方にちかい跪座 ――つま先立ちのように踵 を上げてつま先で床を踏み、その両の踵の上にお尻をのせる座り方――である。
つまり、彼のその細身にしてはふくよかな黒スラックスをまとうお尻は、彼の黒い靴下をまとう踵の上にのり、そして彼がそのつま先立ちにちかい両足に履くホテルの茶色いスリッパの裏ばかりは、床の紺とオレンジのダイヤ模様にベッタリとすべて着いているような感じだ。……いやしかし、俺がその大きめでセクシーな黒スラックスの男の尻、…いや、ユンファさんのお尻ばかりを見ていてはいよいよセ ク ハ ラ 認 定 待 っ た な し かな……。
そうしてユンファさんは、イエス・キリストのその温柔 な慈愛の眼差しを見上げながら顎の下あたりで両手を組み、重ね合わせた両の親指の下に銀の十字架をはめ込んで、先ほどから熱心に「彼」――イエス・キリストへと祈りを捧げていた。
「……、…、……」
「…………」
ただしユンファさんの祈りに声はない。
その横顔の唇は小さく熱心に動いているが、彼がその祈りに声を出さないのは、やはりどうしても隣にいる俺の存在が気に掛かるせいかもしれなかった。――なおその通りその人の隣にいる俺は今、床にあぐらをかいて座っている。彼が床に膝を着いている中で、俺だけそこに突っ立っているのも何か気まずいように思われたのである。
そうして先ほどから声もなく祈っているユンファさんはときどき頭 を垂れて目をつむったり、再び顔をイエス・キリストの顔のほうへ上げてその人のやさしげな微笑みを嬉しそうに眺めたり、すると時に彼自身も微笑したりしていた。――が、今顔をうつむかせている彼は悲痛げに眉を寄せている。
「……、…、…」
ユンファさんはこの祈りのさなかに、感極まったか静かに泣きはじめたのだ。ずず、と鼻をすする水っぽい音が時折きこえる。はぁ、と苦しくなった呼吸をやり過ごそうという吐息が時折きこえる。
その美しい横顔もまた明らかに涙で濡れていた。
生白かった高い鼻先は今あわい薄桃色に染まり、彼のふっくらと愛らしい下まぶたもまた同様に薄桃色となって、涙に濡れてつやつやと艶めいている。――いま伏し目の彼の上まぶたにもまたほんのりと薄桃がにじみ、その黒いまつ毛にはちいさな涙の雫がいくつも宿っている。ユンファさんの平たい紅潮した頬にとおった涙の道筋が、イエス・キリストの光に反射して清らかなる光の道となっている。
ぱちり、その切れ長の伏し目が小さいまばたきをするなり、またその片目から溢れた涙が下まぶたのふくらみをはらりと越えて頬へ流れ、つー…とゆっくりその人のなめらかな頬を通ってゆき、細々と動くふくよかな桃色の唇の端のそばを通り、そしてその涙はその人の顎の先からぽと、と煌 めきながら下へしたたり落ちていった。
美しい。そうして「彼」に祈りを捧げるユンファさんの横顔はいかにも神聖な感じのする、儚げながらとても美しい横顔だった。
それこそいつまででも眺めていられると思うほどに、心が洗われるような愛おしさが胸に迫ってくるような、あまりにも清らかな神聖な横顔だった。――しかし、その切ない美貌に見惚れる俺の熱い視線がいつまでも鬱陶 しくその横顔に張り付いていれば、やがてはユンファさんの祈りの邪魔をしてしまうかもしれない。
俺は間違っても彼の祈りの邪魔をしたいわけではない。むしろ邪魔したくない。先ほどの俺の言葉に嘘はなく、ユンファさんには気が済むまで「彼」に祈りを捧げてもらいたいのだ。
それだから俺はまた、イエス・キリストの慈愛に満ちた微笑へと顔を上げた。――
「……、……、……」
「……、…――。」
――俺はもちろんこのスイートルームのどの場所をもユンファさんに見せたかったし、そのいずれにおいても彼に喜んでほしかった。
しかし、とりわけこのステンドグラス――イエス・キリストとその「彼」にまつわる聖なる四人…いや、このイエス・キリストをこそ、俺はユンファさんには一番に見せたかった。
なお、それは観 るという鑑賞の意味合いではない。
確かにこの部屋の目玉であるこのステンドグラスは誰がみても単純に美しく、それこそ信仰心のあるなしを問わずして誰もが「鑑賞」を楽しめることだろう。
しかし、俺は間違ってもユンファさんにはこのステンドグラスを見 せ た か っ た のだ。――それこそ教会に訪れた観光客の目ではなく、教会に訪れたクリスチャンの目でこのステンドグラスを、イエス・キリストを、俺は彼に見てほしかったのだ。
イエス・キリストは聖書の中で『私を見ることによって、どうぞ父なる神を見てください』と言った。
俺はユンファさんに「神」を見せてあげたかった、見せたかった、見てほしかったのである。
俺はユンファさんに「神」を見せたかった。
もっと厳密に言おう。――俺はユンファさんに「神の目」を見てほしかったのである。
その「見せたかった」の意味合いの中にはもちろん、あのように「彼」を信じることを馬鹿にされているユンファさんに、こうしてイコンたるイエス・キリストのステンドグラスを見せてあげたかった――それによってユンファさんに喜んでほしかった――というのも含まれている。
だが何より、このイエス・キリストの温柔な眼差しの中にたっぷりと光り輝く慈愛は、その優しい両目を見つめる者の全てを受容するような肯定 を伝えてくる。『それでよいのです、それでよいのです、待っていましたよ、安心おしなさい、私はあなたを愛していますよ。』
イエス・キリストという人は、とことんまで「与える人」である。
どうしてもむごく悲痛な十字架のイメージが強いが、イエス・キリストが人々に説いてきた基本的な教義たるは、「奪い合うのではなく人に与え、人をゆるし、人に優しく接しなさい」ということである。「彼」はそれを人々がお互いにすることによって「愛し合うように」と熱心に説いてきた人なのである。――『あなたをゆるします』とそうやさしく語る「彼」の目は、今ユンファさんの心を縛り付けている「罪の鎖」をもっともやさしく平和的な方法でほどいてゆくことだろう。
今のユンファさんは「肯定 」を得なければならないのである。――だからこそ彼には「彼の目」を見てほしかった。今のユンファさんは、彼自身が誰よりも彼自身のことをゆるせないでいる。
だから「誰か」が必要なのだ。しかしユンファさんに初対面と思われているような俺では駄目だ。難しいことに、「与える」ということには必ず「受け取る」ということが同時に成されなければ成立しない。
ましてや今のユンファさんは「受け取る」ということに恐れを感じている。自身に誰かから何かを与えられるだけの価値などないとケグリに思い込まされているせいである。――しかし、そうして人よりも受け取り下手となってしまっている今のユンファさんであろうと、敬愛する神イエス・キリストの愛を拒みきることまではできまい。
たとえ人…俺からの愛を受け取ることをユンファさんが躊躇、ともすれば拒否をしてしまったとしても、信じる神であるその人の眼差しが与える「愛」や「ゆるし」といったものがひと度その目に見えたら、たちまち彼はその人の目に吸い込まれるよう見入ることだろう(現にそうだったろう)。そして彼は否が応でもそれらを「彼の目」から受け取れることだろう。
今のユンファさんには「ゆるし」が必要なのだ。
自分のありのままを心から慕っているイエス・キリストに認められ、例え此処にいる間だけであろうとも、自由を、罪からの解放を、寛恕 を、自信を、安息を、憩いを、愛を、優しさを、――「ゆるし」を、ユンファさんは「彼」から与えられなければならない。
なぜユンファさんに「ゆるし」が必要か。
ユンファさんには此処ではなるべく「ありのまま」でいてほしいからだ。――それこそありのままの自分でいられる場面というのは、そのありのままの自分が人に、あるいは自分に許されている場面に限られる。
心を許している大人の前でのみはしゃぐ子供がいる。心を許している友人の前でのみ多弁となる人がいる。心を許している夫の前でのみメイクを落とす妻がいる。――だから「ゆるし」が必要なのだ。
そうして神は此処で、ユンファさんのありのままの全てを見留めて肯定し、彼に「ゆるし」を与えられることだろう。が――その「ゆるし」をユンファさんが得るためには、彼はまず「彼」に祈らねばならない。
それはなぜか?
たとえば何か悪いことをしてしまった人が、その「悪いこと」を人に打ち明けないまま許されることはない。…そして打ち明けないままでいる自分の罪は、日毎 自責として内面で肥大化してゆくものである。――またその「罪の鎖」に縛り付けられている隠々 とした心は、とてもその人をありのままではいさせない。たとえ実生活ではそうでなくとも、心においては全く隠遁 生活を強いられているような状態となる。
しかしひとたび勇気をだして打ち明けてしまえば、案外「なんだそんなことか、別にいいよ」とあっさり許されてしまうこともある。――何よりこれまで自分が抱え込んできた罪をすべて打ち明けることによって、自分で自分を許せる、スッキリするということもあるだろう。
だから懺悔とやらがあるのかもね。
まあとはいえ、もちろんユンファさんが何をしたわけでもないのだが。彼はケグリの咎 を背負っているが、それはあの男に無理やり背負わされているだけ、押し付けられているだけで、実際に罪を犯しているのはユンファさんではなく、あくまでもあのケグリでしかない。――だが、彼の目にはケグリの罪さえも「自分の罪」として映っているのである。
なお今例えた例はあくまで「懺悔」ではあったが、打ち明け話はなんにしても、それを打ち明けることで自身が何より解放されるという側面を持つ。それが愛の告白であれ何かしらの募り募った思いであれ、なんだってそうだろう。――なんにしろ打ち明け話をしたあとはみな概してスッキリするものであるし、また打ち明けた相手の前で一つ、自分らしく振る舞える契機を得られることにも繋がるのである。
まあ平易にいえば、ユンファさんがイエス・キリストのステンドグラスを「見ること」――そして「祈り」――そして「ゆるし」――が必要だった、…俺にとって必要だった訳とは、ユンファさんに、ユンファさんがユンファさんとして、性奴隷のユンファや月 という風俗店のキャストというペルソナの中にも、多かれ少なかれ月下 ・夜伽 ・曇華 という人の本音本心がある状態で、俺とコミュニケーションを取ってもらうためである。
さて……至極当たり前の話だが、人は「お人形さん」と「本当の恋」をすることはできない。
俺が「貴方を愛しています」と言う。美しいお人形さんはいかにも美しく微笑して、「僕も貴方を愛しています」と頷く。――しかし彼の心はその唇にない。その端整な顔にない。勤めの身たる自 ら の つ と め としてそう甘い声で返してくる彼の胸の中にも、さても彼の心はない。
しかるに俺がそのお人形さんの肌に触れる。「構わないの」と俺は彼に聞く。「ええ、どうぞ」と美しいラブドールは微笑んで言う。清潔なシリコンの体は冷たい。熱をもたないラブドールの体は、俺の体温が移ってあたかも熱をもったようにあたたまる。
そのシリコンの体は奥から濡れない。いみじくも愛撫されることを知らないラブドールは、自分を使う人間のために仕込んだローションをあたかも愛液のように見せかける。
俺はいずれにしてもかの美しいラブドールを豪華なベッドに組み敷き、その体を揺さぶることだろう。揺さぶればその体は揺さぶられる。――抜き差し厳しく、こすれる気味、勤めの身にも、得ならぬ心地……(春本『魂胆枕』)――その様子を傍 から見ればあたかもセックスの最中である。まして、天蓋のうすいレースカーテンを一枚隔て、外からそのカーテン越し、最中の律動する二人の影だけを見ればいよいよそうとしか見えまい。
しかしそのカーテンの中で、一人で必死になってそのお人形さんを揺さぶっている俺にだけはわかる。
彼の体は俺の動きによってのみそれらしく揺さぶられているだけで、本当はちっとも動いてなどいない。彼の体は冷えている。彼の体は濡れていない。
……本当はちっとも動いてなどいないのだ。本当はちっとも揺さぶられてなどいないのだ。本当はちっとも熱などもっていないのだ。本当はちっとも濡れてなどいないのだ。
――ユンファさんの、心は。
それの一体何が「本当の恋」だろうか。
捧げようとも届かぬ愛の、何が愛だろうか。
彼の心は一体今どこにあるのだろうか――。
そんな虚しい「奇跡の夜」がどこにあろうか?
……レースカーテンの外、人の外面にアクセスすることはいかにも簡単だ。ただその人に会えばよいだけである。――だが人の内面、カーテンの中……人の心にアクセスするということは言うまでもなく、外面にアクセスするよりかよっぽど難儀することである。
確かにそのカーテンの外から見れば、内面にある心という影がどのような形でどのように動いているのか、それをなんとなく確認することはできる。しかしそのカーテンは特殊なものであり、カーテンの持ち主以外はそれを開けることができない。人の内面を覆い隠している外面というカーテンは、そのカーテンの持ち主によって厳密に管理されているものだからだ。
そしてそのカーテンの中、内面にアクセスするために、あるいはそのカーテンを開けてもらうために取る方法とは、正当法であれば、まず外側から声をかけるほかにはない。「開けてください」だとか、「貴方のことを愛しています」だとかね。――だが今のユンファさんにはおよそそのカーテンを自ら開け、外側から愛の言葉をかけてくる誰か、その自分を愛する誰かは元より、そのうわべだけにしか聞こえぬ愛の言葉を受け入れる気さえ毛頭ない。
いや、もはや彼自身にその気があるないですらなく、今の彼にはそれを開ける術がないとさえいえる。自分を守ることに必死で、今の彼はおそらくもうその方法を忘れてしまっているのだ。
つまり今の彼の心にアクセスするということは、その実かなりの高難易度設定――これを簡単にいうと、このままでは俺が今夜何を言おうと何をしようとユンファさんはあの動画同様に、「はい、その通りです」「はい、仰せのままに」「はい、僕もそう思います」というような従順、しかしちっとも俺の言葉や俺という人格を受け入れてはいない、もはや俺など眼中にない、というような、(彼にとっての)無難なリアクションをしかしてくれない状態のまま――要するに、俺は「お人形さん」のままの彼と今夜を過ごす羽目になってしまったはずだ。
まずそもそもユンファさんの心へのアクセス回路が断絶されてしまっているからである。
それこそ正当法的なコミュニケーションではまず糠 に釘、暖簾 に腕押し、なんの反響をも得られはすまい。
しかし俺が思うに、ユンファさんの心へのアクセス回路を繋げなおすなら、彼の場合はこ れ が一番手っ取り早い方法であると思われる。
かねてより憧れていた神イエス・キリストとの対面、その人の何もかもをゆるすかのような優しい慈愛の眼差し――まずユンファさんの「心」を感動で揺さぶること、そして今や人形のように無感動的となってしまっている彼に、自分の「心」の存在を思い出してもらうこと、彼という人を少なからず「彼」に肯定してもらうこと。
そしてお祈り――ユンファさんに自分の「心」を使ってもらい、その心に浮かぶ思いを具現化してもらうこと、その心に募りに募っていたものを好きなだけ、気の済むまで「彼」に打ち明けてもらい、少しでも心の咎――彼の心を縛り付けていた「罪の鎖」を、「彼」にほどいてもらうこと。
すると少なくとも蘇っているはずである、ユンファさんの死に徹していた心が、ね。これで多少は触れるに容易く、アクセスするに容易くなっているはずである。
つまりこれによって、ユンファさんの心へのアクセス回路を繫ぎ直したのである。これで少しはカーテンの外でのたまう俺の言葉が彼の心にも届くはずだ。
また上手くすれば、そうしてひと度「ありのまま」を開放した彼は、神にそうしていたように――神相手ほどではないにしても――俺相手にも、ある程度はひらかれた態度をとってくれるかもしれない。
だから必要だったのだよ――「祈り」が。
今の彼には必要なのだ――「ゆるし」が。
だから見てほしかったのだ――「神の目」を。
何をされても動かない陶器の微笑――付け加え、ユンファさんの風俗店のキャストであればこその「月の仮面」を割らないことには、まず俺たちは「本当の恋」などできないだろう?
ひいては、それらはすべて俺たちが今夜「本当の恋」をするために、俺がユンファさんの「本当の心」にアクセスしやすくするために必要だったのである。
また更にいうと、ユンファさんはこの場所において嘘はつけない。
彼は此処においては自分が取り繕う外面、いわば「月の仮面」の下の中の中まですべてを見透かされ、その内面という心をつまびらかに丸裸にされてしまうことをよくわかっている。――それもそれは、ユンファさんが一番よくわかっていることだ。
なぜならこの場所が――神の御前 であるからである。
いつしも人の真実とはカーテンを開けた先にこそあるが、外側から真実らしき影を眺めているだけの者には、それが真実か否かはほとんど不確かなものだ。
しかし、そのカーテンの内も外も全てを上から俯瞰 し、見透かす目がある。――それすなわち「神の目」である。
そう…「神の目」は――人の心をも見透かす。
どれほど人が外面を取り繕い何を偽ろうとも、「神の目」にはいつも内面の真実までもがしかと映る。
――全てを見透す「神の目」の前では素直でいるしかない。ありのままでいるしかない。誰もがいちじくの葉をはぎ取られ、誰もが皮の着物をはぎ取られる。
まるでエデンの園に暮らしていたときのアダムとエバのように、ね――丸裸。
すると、クリスチャンの彼は光り輝く神のいらっしゃる此処にいる限り、そのような咎めの意識を常にどこかしら念頭に置いて過ごすはずである。――つまり、彼が徐々にでも「月の仮面」に何かしらの罪悪感を覚えれば……?
そう上手くいくはずがない?
たとえ祈りの最中には明け透けな告白をしていたとしても、ひと度初対面と思われている俺と向き合ったなりユンファさんは、それはそれ、これはこれと、また完璧に俺には心をとざしてしまうんじゃないか?
しかし…例えば人見知りの人が気後れしてしまうようなパーティーに出席した際、隣に気の置けない人が一人いるだけで心が開放され、比較的誰しもとオープンなコミュニケーションが可能となるように――そしてその信頼の置ける人の側でいつも誠実であったなら、そこに齟齬 の生まれないよう、その場面においても誠実であろうと努めるように……。
少なくとも全く効果が認められない、なんてことはまず有り得ない。――だからこの部屋は今宵において全く完璧なのである。
そう…貴方は「神の目」がある此処ではありのまま笑うしかない。泣くしかない。怒るしかない。喜ぶしかない。――此処でなら、貴方の意思は此処にある。
貴方の銀の光を放つ魂は此処にある。
貴方という人の全ての感情も、思考も、五感の全て、貴方は――月下 ・夜伽 ・曇華 という貴方の存在を今に全て思い出せることでしょう。
そして此処、イエス・キリストの描かれたステンドグラスの前――この場所にはある意味で「生命の樹」と「知恵の樹」が生えている。
此処は神の住まうエデンの園だ。
貴方は――貴方ご自身が「神」であることを此処で思い出さなければならない。
その二つの神聖な樹木から取れる実を二つとも食べればたちまち、貴方は「神」へと戻れる。
創世記、アダムとエバが神に禁じられていた「善悪の実」を口にしたあと、神はこう言った。
『 人間はあの“知恵の樹”から“善悪の実”を食べてしまったことによって、我々神の一人のように、善悪という知恵を付けてしまった。…このままでは“生命の樹”のほうの実をも欲しがり、今に人間は永遠の生命 を得て、神となってしまうことだろう――。 』
貴方はこの場所で善悪を知ることでしょう。
――本当の善悪を、ね……貴方は此処で、神に愛されるべき存在、神に寵愛されている存在が本 当 は 誰 な の か を知ることになるのです。
貴方はこの場所で俺とキスをすることでしょう。
――俺と貴方……“運命のつがい”が永遠の愛を神の御前で、神に誓うこととなるのです。
ハレルヤ!
そうして貴方は「神」へと戻ることでしょう。
貴方は、俺の神である月下 ・夜伽 ・曇華 という月の男神に戻れることでしょう。
もう目を覚まして…――さあその目を開けて。
貴方は、俺の神であるあなたを、此処で取り戻さなければならないのです。
貴方は神の前で嘘をつけない。
貴方は此処で目を覚まさなければならない。
貴方はご自分でご自分の目を塞いでいる。
だが貴方はその目を、此処では開かねばならないのです。
――貴方はこの場所で神を見なければならない。
今こそ貴方は、「神の目」を見つめ返さなければならないのです。
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