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「……、…は…、……っ」
「…………」
ユンファさんは悲痛げに、今もなお涙ながらに神へと祈りを捧げている。――彼は組んだ両手に持つ十字架を額におしあて、うなだれるようにして、いまだ泣きながら何事かを祈っている。ユンファさんの唇は小さく動いているが、先ほどと変わらず、今もなおその祈りに声はない。
「……、……、……」
「……、…」
しかしユンファさんの涙に濡れた横顔が今、まるでこのステンドグラスの聖母マリアのような安らかな微笑をたたえた。――あまりにも美しい。俺はあまりにも清廉なるその美しい微笑に胸が痛くなる。
そして俺はふと畏れを持って思う。
元より最低だとは思っていたが、この神聖な横顔を犯すことのできたケグリ、あの男らが俺にはいよいよとても信じられない。――あまりにも神々しく清らかで、この人を犯すはもちろんちょっとでも侮辱すれば、もはやそれだけで罰 が当たりそうだと思えるほどである。これはまさしく畏怖の感情だ。
彼のこの無垢な白い頬に触れただけで、その指先が神の怒りによって呪われ、いよいよ俺は不幸のカインと同じ末路を辿りそうとすら思えるのだ。
まあしかし、いかに呪われた食指で神聖な存在に触れようと、その存在が穢れてしまうようなことはないのだろう。それこそが神聖たる所以 、彼が神に護られているためである。すると却 って穢れた己の呪いが何倍にもなって跳ね返ってくるのではないか。――だから……あのケグリや男らに犯されてもなお、だからユンファさんは、こうしてずっと身も心も綺麗なままでいられるのだろう。
し……あいつらは多分もう呪われている。
――というか呪われろ。
「……、……、…」
「………、…――。」
決して人の信教を軽んじてはならない、な。
それにしても、この神々しい横顔を見ていると、俺には痛いほどそうも思われてきて仕方がないのである。
それは神の呪いだなんだという以前の問題だ。
俺とてそんなあるかもないかもわからないファンタジーなことを言いたいのではない。
まず、どだい誰かを不幸にする宗教などあってはならない。誰も幸せにならないそれはもはや宗教ですらない、ただのあくどい人間が経営する悪 徳 商 社 である。
信仰者本人を含めたあらゆる人々が不幸になる宗教とは、本来人を幸福に導くためにある宗教というものの本懐から逸れているためだ。――現にブッダは不幸な人々を見て心を痛めると、王子に生まれ恵まれていた自分の立場を捨てて出家し、悟りを開いてからは人々に教えを説く旅に出た。イエス・キリストもそうだろう。彼もまた人々を幸せに導くために旅の中で、「愛し合いなさい」と伝え歩いたのである。民族宗教においてもほとんどの神は豊穣をもたらす存在であったり、端的にいえば人の願いを叶えてくれるような存在であることが多い。
そうして宗教とは、あくまでも人を幸せにするためにあるものだ。ブッダにしろイエス・キリストにしろ、彼らからの派生だろうとも有害なカルト宗教には迷惑しているんじゃないのか。――それこそカルト宗教なんてものは、あのケグリとやっていることがまるで同じである。…そしてそうである以上、本当にユンファさんがカルト宗教の信者であった場合なら、(まああの度しがたいケグリに期待するべきことではないが、)あのケグリの「忠告してやっている」というのはまあ、ある意味であのケグリにも人の心が残っていたのだなと……そう、彼がカルト宗教の信者だったら、ね。
しかしまさかそうであるはずもなく、だ。
まさかユンファさんが世の中にのさばっている有害なカルト宗教の信者であるわけでもなし、まさか彼が信教を誰それに押し付けて迷惑をかけているわけでもなし、ただ単に毎夜神に敬虔な祈りを捧げているだけの彼が、世の中じゃむしろ正統な宗教の一つの神が、ただ宗教というだけで「カルト」扱いとは――。
やはりケグリは頭が悪いね。だから貴方、ドブガワにしか住めないのではない?
それこそ無信仰の者だってあのケグリにはさすがに天 罰 当 た れ あ の ゲ ス ガ エ ル と思うに違いない。
だいたい宗教の全てを「カルト」などとして、それこそ信教の無い者こそが「正常」だとするのなら、この世界の人口約八割は全員異常者となってしまうではないか。少なくともお前よりは誰もが「正常」だよバカガエルめが――よっぽどユンファさんを不幸にしているのはお前だしね。お前のようなカエルが、ドブガエルの分際でお前、神にでもなったおつもり? ただのドブガエルの癖に傲慢なのだよ。
ケグリのような馬鹿には到底見えやしない大切なこと……実際、目に見えない神仏を信じることで幸せになっている人々がいるのだ。そう、もちろんここにも…俺の隣にも、ね――すなわち人の信教を軽んじるということは、その人にとっての「幸福」を軽んじるということをも意味するのである。
だから軽んじてはならない。宗教というものが日常の一部になっている人々にとって、それは正統なら全くその人にとっての幸福の一部なのだ。――信仰者にとっての宗教とは人生を豊かに生きるための一つの重要な要素であり、指針であり、自信であり、願いであり、平和であり、救いであり、夢であり、希望なのだ。
人の神や仏を軽んじるということは、結果人からそれらを奪ってしまうようなことにもなりかねない。
もっとも別に己の信教、もっといえば、己の主義である無信仰や無神論や各々のスピリチュアリティという境界線を越えてまで人の信教を尊重する必要はないがね。――おかしな神仏を信じている人をおかしな人だと見ることは正しいが、神仏を信じているだけでおかしな人というわけではない、ということだ。
ユンファさんの涙に濡れた神聖な横顔が、その熱心に声のない祈りを紡ぐ唇が、俺にそのような博愛の考えを抱かせたのである。
――何ならむしろユンファさんは、本当に神に護られている存在なのかもしれないとも思うね。彼のように弱っている人ほどカルト宗教に付け入られると聞くからだ。
いや、マインド・コントロールなんてして私腹を肥やしている、ほ と ん ど カ ル ト 宗 教 の ケ グ リ には付け入られているけれど…――。
ああムカつくムカつく、いつか絶対俺たちに土下座しろ土下座させてやるからな土下座したお前をグチャッと踏み潰してやるお前は所詮ただのドブガエルなのだよ身の程知らずはお前だこのクソガエルがユンファ様の靴を舐めさせてやろうだが拒んだらお前の小せえケツの穴にストロー突っ込んでお望みどおりその私腹肥やしてやるこのゲスガワ・ドブガエ、……
「……、……、……」
「…………」
ところで……実を言うと俺には、ユンファさんのその祈りの内容が聞き取れるのだ。
それはアルファ属の俺の耳が他属性より鋭敏な聴覚を持っているためである。
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