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                 ユンファさんの祈りは今、その人の唇と舌をもって祈りの言葉を形作っている。それこそひとたび声という音波をのせれば、たちまち誰しもの耳に言葉として聞こえるようになる、という感じにね。  ……それだから聞こうと思えば、神の耳のみならずして、俺のすこぶる良い耳にも彼の祈りの声は届く。  本当はこれまでもユンファさんの祈りは全て俺に聞こえていたのだ。      貴方は自分の罪を懺悔していた。  自分は淫乱であるというのだ。自分は体を売って金銭を得ている穢れた罪深き存在だという。どうかお許しください、どうかお赦しください。     「……本当に…?」――その祈りを聞いたとき俺の唇は、声もなく彼にそう問い掛けた。言うまでもなく彼からの返答はなかった。      そして貴方は、自分は救いようのない淫蕩(いんとう)な悪魔だというのだ。  自分の体は間違った性行為にも快感を得てしまう。自分はその性行為のさなか、時に信仰心を絶するほどの淫らな快楽に呑み込まれ、ともすれば何度も何度も罪深い絶頂を迎えてしまうのだと。――自分はまさしく淫魔なのかもしれない。明日には清らかに正しく生きられますように、僕に自分を是正するための機会を、罰をどうぞお与えください。     「……何故これ以上……」      それから貴方の祈りは感謝に移った。  貴方はまず俺との出逢いに感謝する。彼はなんて心優しい人だろう、きっとこの方は神様が遣わしてくださった方に違いない。そして貴方は、自分が仕事をさせてもらえることにも感謝していた。たとえ無報酬の仕事であっても、仕事をさせてもらえるだけで「有り難いお恵み」なのだと。それでも、罪深き仕事であろうとも精一杯励ませていただきます、父なる神の御心(みこころ)のままに、全てをそのように行えますように。     「……まさか……」      次に貴方はこう願った。  俺の、俺の周囲の人間の、自分の家族の、自分を虐げた者たちの――自分以外の誰かの幸せを、貴方は泣きながら必死に願っていた。貴方はケグリたちの幸せさえ願い、ケグリたちが犯した罪でさえも赦し、そしてその罪を「赦してあげてほしい」とさえ言うのだ。     「……赦す必要なんて、ないはずだ……」      貴方は今もなお祈っている――。     「……主たるイエスよ――このような僕にもとても優しくしてくださり、あなたにお祈りを捧げることを許してくださったカナイさんに、より多くの幸福とお恵みをお与えください…――僕は今とても幸せです…。こんなにゆっくりとあなたにお祈りができたのは、一体いつぶりでしょうか……」    俺の幸福の在り処は――。   「……、…」    俺は隣に振り向いた。  ユンファさんは額に十字架を押し当て、そっとおだやかにまぶたを閉ざしたままに微笑していた。閉ざされたまぶたの際に生え揃う黒いまつ毛がチラチラと細かな光を宿している。そのまつ毛の下からまた、つぅーと彼の頬へ涙が伝い落ち――ぽた、と、その人の顎から滴り落ちる。    ――神は何を望んでいる?  神はユンファさんに、本当にこれ以上の自己犠牲を望んでいるのだろうか?  神は本当にユンファさんのことを、これほどボロボロになってまでもその身を売るしか手立てのない彼のことを、本当に「淫乱」だと責め立てているのか?    ひたすらに親孝行をして身を切っているユンファさんを、それでも「罪深い」と言うのか?  もし仮にそうであったとしたなら、神とてあのケグリと同じではないか――。   「…それに…こんなに素敵な場所に来られるだなんて…こんなに素敵な場所で、あなたにお会いできるだなんて――ありがとうございます、主よ…。…ですが、このような幸せなときにも絶えず、今悲しみを抱え苦しんでいる人々のことを忘れず、謙虚に過ごすことができますように…――あなたのお恵みと優しさの一つ一つを大切にし、いつもあなたに感謝をすることができますように……」   「……、…」    ユンファさんは本当に幸福そうな横顔でそう微笑している。――この人のどこに罪を見い出せばよいやら、俺にはまるでわからない。神ならばわかるのか?  しかし俺が見ているうちに、彼の微笑の横顔にも、その端整な黒い眉のあたりにだけ悲しげな諦観の翳りが落ちる。   「…僕は…――僕は、…救いようのない僕はこのままでも構いません…。むしろ僕のような人は、この現状こそがもっとも相応しいのかもしれませんから……この現状があなたのお望みならば、僕は全てを受け入れます……」   「…そんなわけないだろう…。そんなわけがないよ、ユンファさん……」と、俺は彼の横顔に声もなくそう話しかけた。   「……、…」    そうだ、そう…――そんなはずはない。  神があのケグリと同じであるはずがない。   「…………」    俺はステンドグラスのイエス・キリストを見上げた。……俺の目に感情移入の色眼鏡でもかかっているのだろうか?  微笑んでいるはずの「彼」の目が、どうも悲しげに深く見える。――どれほど助けてあげたくとも、助けを受け入れてくれなければ、助けることができない。      本当は今にも――神はユンファさんのことを、救い出したいのかもしれない。     「…ですがどうか、どうか僕の両親だけはお救いください…。彼らは何も罪を犯していません…とても心優しい人たちです、きっとあなたもご存知でしょうが、彼らは救われるべき存在です…――ですからどうか、どうか彼らのことだけはお助けください、どうか……何の罪も犯していない彼らだけはどうか、どうか……僕のことはお見捨てになられて構いません…僕はこうなって当然の罪深い穢れた存在です、僕はもう助けてくださいとは言いませんから、…だから、どうか……」     「……、……」    そうか、貴方は…――。    ねえユンファさん…?  貴方はそうして神に祈るが――俺にしてみれば、あなたこそが「神様」なのだよ。    だけれど…有能な神様であるあなたでも、神様のあなたが救えない貴方が今、此処に居るのなら    ()()()()()()()()()()()()。        なるほど――よくわかった。          貴方は助けを求めていない。            貴方は誰か人にのみならず、神にさえ助けを求めていないではないか。――誰が助けられるだろう?      助けを求めていない人、だから助けようとしてもその手を跳ね除けてしまう人、だから助けようとしても、差し出したその手にまるで気が付いてくれない人を――どうやって助けられるというのだろう。      貴方は気が付いていない。  だから俺は、気が付いた。      だから俺は――あなたに会いに来たのかな。      なるほどね…――。  貴方がいま抱えている全ての問題は、俺ならその全てを最高の形で解決することができる。  それこそ貴方にとっては「奇跡」とも思えるような形でね――だけれどそれは奇跡であり、厳密にいうと奇跡ではない。    十一年前――美しい貴方が誰よりも誠実で正しく、心優しい人だったからこそ起こる奇跡なのだ。  そして今もなお身も心も美しく正しい貴方だからこそ、起こる奇跡なのだよ。――やはり「神の目」は全てを見ていたのだ。      俺は貴方のどんな過ちも罪もゆるそう。  俺はどんなときでも貴方の傍にいよう。  俺はどんなことからも貴方を護ろう。  俺はいつでも貴方を何事からも救おう。  俺は貴方を貶めた罪深い者たちを裁こう。  俺は永遠に貴方だけを愛し続けよう。  俺は貴方に、何もかもを差し出し、与えよう――。      俺はこれより貴方の神様となろう。  貴方を救う神様は――やはり俺だよ。  いや、もちろん…()()()()()()()()――。      俺はイエス・キリストの美しい両目を見つめ返し、心の内とこの唇で「彼」に交渉を持ちかける。     「…いいでしょう……んふふ…元よりそのつもりではありましたけれど、あなたの愛する彼のことは、この俺が救ってみせましょう。…この命に懸けてもね…ええ、もちろん神の御心のままに…――だけれど…それなりの報酬は頂きますよ。…俺はあなたほど出来た存在ではない。無償の自己犠牲などそう払えません」      もちろん――ユンファさんに対してだけは別。     「この度の件で俺があなたから報酬として頂きたいもの――それは、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)の愛です。…どうです、構いませんか」    俺が持ちかけた交渉は、イエス・キリストのウィンクに応えられた…というのは完全に俺の気のせいだけれど、まあどうやら…――()()()()()()()だろう。    俺は次に横目でいまだ祈りを捧げているユンファさんを見た。彼は十字架を額に押し当て、真剣な横顔で目を瞑っている。彼はいまだご自分の家族の平穏無事を切実に祈っているのだ。  俺はその横顔に声を出さないまま誓う。     「……大丈夫…貴方のご家族はもちろん、貴方のことは絶対に俺が助けてあげるからね、ユンファさん…――だけれど…その前に貴方は、言わなければならないことがあります」        どうやら貴方は知らなければならない。       「……“助けて”……」        貴方は貴方のために、知らなければならない。       「貴方はまず俺に言わなければならないのです。――“助けて”…と、ね……?」        貴方は知らなければならない。  ――助けを求めること。自分の限界を、知ること。  助けを求めるということは決して「負ける」ということではなく、より確固たる「勝利」を得るための援軍要請であるということを。    いや、例え「助けて」と言うことが貴方にとっては「敗北」を意味していたとしても、それでも貴方は俺に「助けて」と言う他にない。――ならばその瞬間のみ貴方は負けるしかないのだよ。      孤軍奮闘の末に殺されてしまっては虻蜂取らずの――永遠の敗北となってしまうから、ね。      これは貴方がおとぎ話のお姫様ではなく、おとぎ話に出てくる登場人物にしても、強く(たくま)しい騎士であるが故に(はま)ったドツボだ。――そのような貴方の目に俺は、さながら美しい王子様に一目惚れをしたが故、美しい貴方に向こう見ずな求婚をする馬鹿な王子様というようにしか見えないことだろうが――仕方がないね。半分は合っているから。    だけれど俺は――実戦経験のないひ弱で馬鹿な王子様、というわけでもないのですよ、我が愛しの王子様。    (したた)かな俺にも、弱いところがあるからこそわかるのです。  いくら神の加護を一身に受けて戦う騎士の貴方であったとしても、いくらその手に握られた(つるぎ)が聖剣であったとしても、疲弊しきった貴方がお一人でこれ以上戦い続けたところで、残念ながら勝てる見込みはありません。ですから俺が、どうやら神に「援軍要請」をされたらしいのですよ。  聖戦と呼びたいのであればどうぞそのように。次には共に確固たる勝利を掴むため、どうぞこの俺へ「助けて」と一言言って下さいませ、我が愛おしの気高き騎士殿――我が愛おしの、世にも美しい王子殿下。    では…勝機の頃合いを見て、必ずやこの俺が改めてお迎えに上がります――(ただ)しその際には、否が応でも貴方のその頑固な唇に「助けて」と言わせますよ。  もっとも貴方はそれを言うだけです。貴方は神の御心のままに「助けて」と俺に言うだけでよいのです……例えそれが貴方とって、どれほど悔しい「敗北」であろうとも、ね。         

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