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※児童虐待描写注意 ※2025/03/02 一部加筆修正              ふと思い立った俺は、いまだお祈りを続けているユンファさんの隣でしずかに立ち上がり、そのまま前へ何歩か進んだ。――俺が今目を下げて見ているもの、それはステンドグラス前の石段の下にもうけられた、金魚たちのおよぐ横長の有田焼の(はち)である。    この広い部屋のほとんど一辺ほどもあろうかという横に長大な鉢の深さはおよそ二十センチ、奥行きは金魚すくいの水槽くらいであろうか。有田焼の艶のある白磁(はくじ)でできているこの鉢は、外側の端から端まで藍色で鶴や蓮の花や葡萄(ぶどう)椰子(やし)などの絵が有田焼らしい精密ながら和風な絵柄で描かれている。    なおこの鉢の上にもステンドグラスから差す、色のついた光が落ちている。その色はいずれもあわい黄色、赤、白、青、…模造の朝の陽光に透かされたステンドグラスから落ちるそのあわい色の光は、鉢の白磁のなめらかな丸みをおびた(ふち)に、鉢の中に満たされた澄明な水面(みなも)に、その水面に点々と浮かべられて濡れた緑の蓮の葉と桃色の蓮の花に、神々しい艶を与えていた。  またその水面に浮かんだ光のかけらと蓮の葉と花は、ステンドグラス下の石段から鉢へちょろちょろとながれ落ちてくる、穏やかな水の水流に小さくゆらゆらと揺らされている。ちなみにこの鉢に浮いている蓮ばかりは造花ではなく、いずれも生花のようである。    俺はその艶気のある鉢の前、両方の膝頭をつかんで中腰の姿勢をとり、その中をのぞき込む。    まるい深緑の蓮の葉やその桃色の花びらを見事にひらかせた蓮の花の下、心の洗われるような澄明な水の中で自由にのんびりと泳いでいるこの赤や黒やまだら模様の金魚たちは、この鉢の底面に灯されている青いネオンライトの、その幻想的にゆっくりと明滅する(あか)りによってよりいっそう美しく引き立てられている。  黄色や赤やと色のついた光がつやつやとゆれる水面の下、青い透きとおった水の中で、小さなまるい魚体や長いたっぷりとした尾びれを華麗にはためかせて自由に泳ぐ金魚たち――これは()()()()という種類の金魚だ。  なお見たところ、この鉢の中で泳いでいるのはこのチョウビという種の金魚だけである。チョウビは他の種の金魚と比べておっとりとした性格のため、あまり種の雑多な環境は好まないためであろう。    さてこのチョウビ、和金(金魚すくいなどでもよく見るポピュラーな金魚)よりやや大きなぽってりとまるい魚体に、そのぷくっととび出た両目は一見出目金のようではあるが、漢字を当てれば蝶尾(チョウビ)というその名の通り、上から見るそのなびくような尾びれは蝶の(はね)の形によく似ている。  その華麗な尾びれをのんびりとはためかせて優雅に泳いでいるチョウビたちは、黒や赤やまだら模様やとさまざまな模様の個体がいる。――綺麗。    ……色鮮やかなステンドグラスを通して神聖な朝の陽光が降りそそぐ中、清冽(せいれつ)に澄みわたる水の透明感をよりひきたてる青いネオンライトの幻想的ななごやかな明滅、濡れたみずみずしい蓮の葉の緑と(あで)やかな蓮の花の桃色、そして優雅に舞い踊る愛らしい金魚たち――さあ心を静め、耳を澄ませて…このおだやかに流れる水の冷涼なちゃらちゃらとした音に――これぞまさしくchill outというものである。   「……素晴らしいね……」    俺はこのような自然を感じられる眺めが大好きだ。  それこそ俺は自宅の浴室にも自然を模造した一角をもうけているのだが、こうした風情のものは、模造品であろうがなかろうがいつまでもぼんやりと眺めていられる。  そうした過ぎる時間をさえ忘れられるような癒やしの時間……もっといえば、俺はその一見無為にも思えるような時間を愛しているのである。    ――目標へ向けてがむしゃらに全力で駆けてゆくだけが人生の意義ではない。  俺が思うに、俺たちが生涯追いかけ続けるべきものとは、あくまでも「自分の幸福」である。    そのための全力疾走は間違いなく必要不可欠だ。  しかしそう結果や目標や夢や自己研鑽ばかりを常に追いかけ続けていては、自分はやるべきことをしっかりやっているという安心感こそ保たれる一方で、次第にその状態そのものが不幸にも感じられてくる。  ……だからたまには自分を甘やかさねばならない、と、頭ではそうわかっていても、しかし真面目な人ほど他人を甘やかすより、自分で自分を甘やかすことのほうがよっぽど難しいものだ。それこそ今のユンファさんのようにね――とはいえまあ正直に言うと、実は俺もそちら側なのである。    実は――自分で自分を愛するということを、俺こそがしばしば忘れてしまうのだ。  俺は今の自宅の浴室に癒やしをもとめて自然を模造した一角を設けているが、それは俺が()()()()()()()()()()()()()()の一つの工夫でもあった。    子供のころの俺が「お仕置き」を受ける場所が、実家の浴室が多かったためだ。――ただそこは俺を含めた九条ヲクの者が通常入浴につかう広い浴場のほうではなく、使用人たちが泊まり込みの仕事の際、間に合わせに使う狭い浴室だった。    シャワールームといったほうが正しいかもわからないが、その浴室は一般的なサイズの浴槽と、あとは一畳ほどの洗い場があるだけの狭い一室だった。またその浴室は電気をつけても青褪めたように薄暗かった。それこそ小さい子供ならば何があるわけでもないのに直観的にこわがるような不気味な雰囲気の浴室だ。    そして俺に罰を与えるのは大概は使用人であった。その使用人は男のときも女のときもあった。  言うまでもなく俺を罰するよう使用人に命じたのは俺の両親だったが、あの男と女は滅多なことでは自らの手を汚さなかったのである。    そうして使用人に連れ込まれた薄暗いシャワールームの浴槽の中で正座を強いられた俺は、服を着たまま頭から冷水のシャワーを浴びせられた。そのあとは、浴槽の中でしばらく正座していろと命じられて電気を消されることもあれば、教科書とノートと筆記具を投げつけられて朝まで勉強していろと命じられることもあった。  俺は我ながらその罰に対して馬鹿に従順だったが、とはいえ寒さに耐えかねた際にはさすがにそれらを放棄し、体を小さくまとめるよう膝を抱えて座って、とにかく肌と肌の接着面を少しでも増やすことで何とか寒さをしのいでいたこともあった。…真冬のヒーターもない浴室ではさすがにね。  しかし使用人とて一人の良心ある人たちだ。  彼らとてまさか鬼ではなかった。主人である俺の両親の命令には否が応でも従うしかない立場の彼らは、泣く泣く心を鬼にして俺に体罰を与えていたのだ。    ――ある日、俺の正座した膝の先に落とされたカッターナイフは、俺をその場所に無理やり引き込んで浴槽に投げいれ、俺を硬く冷たい浴槽の中で正座するよう押しつけたあと、その状態の俺の頭から冷水のシャワーを浴びせた使用人の男が()()()()落としたものだった。  そしてあくる日の朝、ある女の使用人は俺の左手首を手当しながら冷笑した。「ソンジュ様、()()()()()()()()()()()()()()()()()()んですか」   『それで手首切って死ねよ』   『そのまま死ねばよかったのに』    さて…これはこの世にはびこるいじめの構造ともよく似ている。  悪の力学とでもいうべきか、ひとたび加害行為を有権者に許された者は、その傘下にありながらも次点の有権者となる。しかし有権者というのは相応しくない。加害の悦楽を知った者はそれの(とりこ)となり、やがて理性なき嗜虐心の醜い奴隷となるのだ。    あの日以来、俺は常にカッターナイフをポケットに忍ばせるようになった。それはいつか自分を虐げた憎い誰かを殺そうというような目的ではなく、完全に自分に罰を与えるためだった。…浴室でカッターナイフを見たその日はいよいよ死のうと思って手首を切ったのだ。――しかし、いつかしら俺はその目の覚めるような痛みと赤い血を()って己の鬱憤を、己の罪を、自死念慮を、怒りを、劣等感を、その()()()()()()()()()晴らすようになっていた。あれから自傷行為が癖になってしまったのだ。    あるいはそのカッターナイフで、今日こそあの浴室で死んでやろうと思ってもいた。  俺は何度浴室という湿っぽい狭苦しい牢獄で死を望んだことかわからない。あの薄暗く陰湿な場所には毒ガスのような腐った死の悪臭が充満していた。  俺はただ九条ヲク家に生まれ、そして「神の目」をもって生まれたというだけで死を望まれた。――誰かに、そして自分に。    よく傷付いた人は人に優しくすることができるようになるというだろう。可哀想な思いをした人は、その経験をしていない人よりかその人の痛みがわかるから、可哀想な思いをしている人に寄りそい優しくできる、と。    しかし、一体それの何が得だというのか?  全く気休め、凄く陳腐(ちんぷ)、ただの綺麗事に過ぎない。傷つけられていない者でも心優しい人はごまんといる。それは結局人の痛みを想えるだけの想像力があるかないかじゃん、むしろ自分が傷付けられなければ人の痛みがわからない奴とかただの馬鹿じゃん。それに傷つける者は優しくなくとも十分幸せそうではないか、傷つけること自体がまず楽しいのだからね。    優しくなどなりたくない。なぜ優しくならなければいけないの? ()われるだけのお人好しになどなりたくはない。  優しくなどなりたくはない。むしろ僕はお前らを殺したくて殺したくてたまらないのに? まるでお前らを「(ゆる)せ」と言われているみたいだ。  優しくなどなりたくない。なぜ()()()()()()()優しい人間にならなければいけないというの? これ以上僕はお前らに操られたくはない。僕が優しくなったところで、お前らはどうせまた僕のその優しさにつけ込むのだから。    僕は優しさなんて要らない。誰かを無惨なまでに傷付けられるだけの強さが欲しい。  加害者も何かしら心の中に傷があるから誰かを傷つけてしまう? 加害者にも情状酌量の余地が……。    ああそう。  情状酌量で赦されるんだ。  じゃあ僕があなたを殺しても赦されるのだね。  やられたことをやりかえしても赦されるのだね。  俺が欲しいものは「優しさ」などではない。お前らをバラバラにしてなお楽しめる「残虐さ」だ。    俺がなりたいのは間違っても「優しい人」などではない――お前らを思いつく限りの残酷な方法で懲らしめて爪の先から切り刻みぶっ殺してお前らの阿鼻叫喚を見下ろしながら心から大笑いしても()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ!  俺はお前たちにいじめられたんだもの。ぼくかわいそうだもの。でもぼく(ひつぎ)しかないお前たちのお葬式で泣いてあげるね。かわいそー、かわいそー、あぁバラバラにされちゃってほんとかわいそー……。    ああ、ああ僕って、――ほんとう可哀想!    俺は笑いながら自分の太ももをカッターナイフで刺した。さらに悪いことに、俺はその時“狼化”した。  やがて俺の発狂した笑い声を聞き付け、それでもなおいい気で浴室へ訪れた使用人の男に、血まみれの俺は獣の鋭利な爪と牙で襲いかかった。――    いよいよまずかった。もちろん殺人など犯してはいないが、それもギリギリだった。実はほとんどその時の記憶もない――やがて耐えかねた俺は親元から離れて暮らすようになった。    しかし、俺はもはや浴室という場所そのものに苦痛を覚えるようになってしまっていた。  そのせいでどうしても風呂に入れない時期さえあった。髪は洗面台で洗い、体は濡らしたタオルで血が出るほど執拗に拭いた。――ただその時期にも例外的に風呂に入れるときはあった。  まるで薄暗い風呂場をこわがる幼い子供のようだろうが、それはモグスさんが一緒に風呂に入ってくれたときである。ちなみに俺は沐浴(もくよく)からつづいて七歳頃まで世話役のモグスさんと一緒に風呂に入っていたので、青年となってもさほど彼との風呂には抵抗がなかった。それこそ物心ついた少年が久々に父親と風呂に入る程度の抵抗感、といったところだろう。    しかしいつまでその方法を取るわけにもいかない。これは明らかに克服すべき課題だった。  それで自宅の浴室には俺の好きな眺めを取り入れたのだ。…まあ効果はあったように思う。    少なくともさっとシャワーを浴びるぶんには克服できたといってよいだろう――しかし残念なことに、俺はいまだに浴室という場所をどこかで「牢獄」だと思っている。つまりおよそ克服しきれてなどいないのだ。  自宅の浴室にはそれでも常に小さなナイフが置いてある。却って俺はそれが浴室にないと不安で不安で堪らなくなってしまうのである。    ()()()()()()()()()()()()がいなくなってしまった。  だから俺は――自分で自分に罰を与えなければならない。  いまだに罰のない安穏には不安になってしまうのだ。――もうあの浴室からは逃げられたはずだったのだが、自分で自分をあの浴室に縛り付けていることもよくわかってはいるのだが、しかし、いまだどこかで俺はあの浴室に閉じ込められているままらしいのだ。    俺は浴室に閉じ込められるといつも考えていた。  それは体罰によって実際に閉じ込められていたときも、親元から離れたあとの安全な浴室で、自分の作り出した牢獄というイメージに閉じ込められているときもそうだった。    自分はいま何のために耐え、何のために走りつづけているのか…――。  却ってそれすらもわからなくなるほど、自分が自分の夢や目標や仕事や金、自己研鑽に追い立てられていては何の意味もない。そうだろう…それは間違っても自分のために、自分が幸福を得るために追い掛けるものである。  わかってはいるのだ。もしそれらに追い掛けられて逃げ場もなしに切羽詰まっているのなら、人は、…俺は改めて自分の人生の幸福の主導権を握りなおさねばならない。    息切れを起こしていて幸せな人などいるだろうか?  まあ息切れも、何かしら肺や体や精神を鍛えるある種の経験としては必要だろう。しかし今そう捉えることさえ難しいほど生き()苦しいのなら、それこそが限界を迎えている証拠である。  自分を愛する有意義なセルフケアといって、スキンケアにストレスを感じていては何の意味もない、といった感じかな――セルフケアさえ苦痛に感じられる?    なんてことだ、それはいよいよ重症だね。  だけれどきっと君はそれを認めない。と、俺は自分に話しかける。――自分が限界だということを認めたくないのでしょう。  認めてしまったら乗り遅れるかもしれない、何か大切なことが滞るかもしれない、あともう少しだけ手を伸ばせば届くかもしれない、あともう少し頑張ればいよいよ褒めてもらえるかもしれない、認めてもらえるかもしれない、幸せになれるかもしれない、あるいは誰かが困るかもしれない、怒られるかもしれない、文句を言われるかもしれない、不幸になるかもしれない、自分は幸せになれないかもしれない、だからあともう少しだけ、あともう少しだけ走らせて、あともう少しだけ、あともう少しだけ手を伸ばすことを許して、あともう少しだけ頑張らせて――。    だからまだ走り続けられると、走り続けなければならない、自分のために、誰かのために、自分が、自分は走り続けなければ幸せにはなれないと、無力な自分は必死に努力をしなければ幸せにはなれないのだ、このままでは不幸になる、もっと頑張らなければ、立ち止まればたちまち不幸になる、立ち止まったら不幸の坂を転落してゆく、だから自分は何があろうと走り続けなければならない、何があろうと耐えなければならない、自分が悪いんだ、自分が無力だから、愚図(ぐず)だから、馬鹿だから、性格が悪いから、低能だから、自分が悪いんだ、だからもっと頑張らなきゃいけない、自分は降りかかる苦痛も不幸も不和も何もかもを受け入れなければならない――いずれにしても、だ。    認められたかった。これ以上不幸にはなりたくなかった。――すなわち俺はいつも自分の幸福のために走り続けてきた。  たとえ駆けている最中にその自分の幸福という人生の目的を見失っていてもなお、この身に降りかかる不幸を諦念を以って受け入れていてもなお、俺が不幸である原因は全て自分にあるのだと考えていてもなお、結局走り続けてきた俺の目的地は一つ――俺は自分の幸福のため、その幸福を目指して走り続けてきたのだ。    だがそう自分をいじめすぎるのも善し悪しだよ。  ものすごく偉いけれど、自分をいじめすぎてもパフォーマンスは下がるだけだ。    俺が目指すべき目的地は間違っても自分自身の幸福なのだから――さあ(いさぎよ)く立ち止まろうか。  さあやわらかいソファにでも座り、その心地よさに全身をあずけてしまおうね。…ひと時の停滞を不安に思うかもしれないけれど、一見無為な時間を過ごしてしまっているように思えるかもしれないけれど、決してそうじゃないから、大丈夫……俺が許してあげる。    俺が全部ゆるしてあげるから――だから、今日はもうおやすみ。    自分にそう言ってやるのだ。自分をゆるしてやる。  思うに「ゆるし」とは人生の幸福に欠かせない要素の一つである。それはなぜか。場合によっては自分の他に自分をゆるす者がないということもあるだろう。  しかし、何よりまず自分が自分をゆるさないことには、誰かから差し出される「ゆるし」もまた受け取れないためである。  俺の場合でいえば、モグスさんやユリメさんが「もうお前休め、疲れてるんだ、もう限界だよ」と疲労困憊の俺を心配して言ってくれても、俺はそのときは自分で自分をゆるせなかった――自分を休ませるという選択が甘えに思えてゆるせなかった――ので、「そんなことはない、俺はまだやれる。ここで立ち止まるわけにはいかないんだ」と彼らの優しさを突っぱねてしまった。  しかし自分の身を案じてくれる人のいる幸福を、自分に注がれるその無償の優しさ、その胸で甘えることを自分に許してくれる人たちのいる幸福を、そう軽んじていては何が幸せやらわからない。    ――だから、だ。    だからまずは自分を自分でゆるしてやるのだ。  ゆるしてあげる。全部ゆるしてあげる。君はもう十分頑張ってきたから、俺が全部ゆるしてあげる。  何も罪じゃない。君は怠惰じゃない。どうかお願いだ、もうこれ以上は自分を責めないで。お願いだ、お願いだ、もうこれ以上自分を自分で傷付けないで。頑張ってきた君が悪いわけがない。誰かが悪いということも絶対にある。君の不幸は君のせいではなく、誰かのせいかもしれない。  ボロボロじゃないか…もういいよ、もう十分だ、もう大丈夫。いつもベストを尽くしてきた君は素晴らしいよ。ベストを尽くそう尽くそうと頑張りすぎて疲れてしまったね……少しだけでいい、どうか俺に甘えて。    ミスをした? 頑張りすぎたのだよ。  疲れていたからミスをしたのだ。いいんだよ、君は何も間違っていないから……むしろ今の君には休むことが必要だ。君は休むべき、なんだよ……――好きなものを好きなだけ味わう時間をゆるしてあげるから。  君が好きなものをなんだって、君が欲しいだけ欲しいままにあげるから。バニラアイス、いちごミルク、あの甘くておいしいチョコレート?    なんだってあげるよ…――俺だけは君のことを愛してあげるから。  ただただぼんやりと好みのものを眺めるだけの時間をゆるしてあげるから。そうしてリラックスしたまま自然とうたた寝する時間をゆるしてあげるから。目覚まし時計も窓も無い世界で好きなだけ眠ることをゆるしてあげるから…――俺が、ゆるしてあげるから。    そう…その時間が自分にとって幸福な時間である限り、それもまた一つ人生においての有為な時間なのだ。    たとえ今日何をしていなくともそれでよい、いや、それがよいのだ。全く俺の人生は順調だ――たとえTodoリストの進捗(しんちょく)(かんば)しくなくとも、幸せだから順調だ。明日全部巻き返せばよい。むしろ逆境に燃えずしていつ燃えるというのか、できるよ、これまでも何とかなった、だから今生きている、そうできる、経験豊富な俺だからね。    刺激的な朝がきてもカーテンを開けない、その限りつづく明けない優しい夜があろうとも、むしろそれがよい。怠惰の悪魔に取り憑かれた夜にしか得られない優しい幸福がある。それがよいのだ。  朝から晩までベッドから起き上がらなくとも、それがよい。誰にでもそういう日はあるでしょう――大丈夫…明日、俺が全部何とかしておいてあげる。    今は何も気にしないで――何も気にする必要はない。…身も心もボロボロになるまで頑張ってきた君をずっと見ていたよ。ねえ、君は十二分によくやってきたじゃないか。君こそ褒められるべきじゃないか。君こそ少しくらい甘えるべきじゃないか。  だからこそ大丈夫なのだよ。君が堪え忍び努力をしてきた過去は、たった一日で消えてしまうようなことは絶対にないからね。やるべきことをやらなければ幸せになれないなんて、たまには君も他の人のように、棚から牡丹餅(ぼたもち)を期待してもよいのだよ――俺は君の全てをゆるし、受け入れます。  そして君に、君が欲しいものを欲しいだけたっぷりと与えます。真夜中の贅沢を、光り輝く安穏を、心地良い享楽をさあどうぞ…たんと味わいましょう。    あなたがもとめる幸せを、さあどうぞ。  誰にでも自分に全てをゆるすべき日がある。    人生の勝者とは実に、金満家とも権力者とも有名人とも限らない。    すなわち幸福を得ている者こそ勝者なのだ。幸福を得るためならば逃げても負けてもだらけてもよい。たまにはね――俺は過去の自分にこう言ってやりたい。  今自分が置かれている苦境の先に幸福の見込みがないのなら、耐えるのではなく逃げなさい。ただしその見込まれる幸福が、自分を傷つける人に対する期待ならば諦めなさい。逃げた先では心を開いて助けを求めなさい、そこにいる人は過去の場所の人らとは違う。少しは自分に甘くなりなさい、自分を責めるだけではそれこそいつまでも幸せにはなれず、自分で自分を不幸たらしめるばかりで人生が終わってしまう。    そして俺は休むときこう考えられるようになったのだ。  だらしなくとも確かな幸福を感じられる時間を過ごしているのなら、何を放棄しても自分は人生においてやるべきことをしっかりとやっている。  なぜなら俺はそれによって、人生において追いかけるべきもの、すなわち幸福、きちんと人生の目的である幸福を成し遂げているからである。――      ――と、ここで俺の肩を後ろからとんとんと叩く指先があった。間違いなくユンファさんである。   「……あの…ありがとうございました」   「……ん…? ふふ…いいえ、とんでもない」    俺が腰を伸ばして背後に振り返ると、ユンファさんは今むしろ胸がいっぱいになっているからこそ、何かぼんやりとした微笑を浮かべている。――たとえば気が済むまで泣いたあとの微笑、たとえば疲れるほど運動をしたあとの微笑、そういった晴れ晴れとする清々しさの中にもやや頭をぼやけさせるような疲れと、その疲れによるリラックス状態をあらわした微笑だった。    俺の計画は十分上手くいっているといえる。  ユンファさんは今気を張るのではなく、ありのままリラックスしているからだ。  ただユンファさんは俺の知らぬ間に濡れた頬や目元を何かしらで拭ったらしい。もう彼の微笑は涙に濡れてはいなかった。…しかしその切れ長の目はやはり普段よりも濡れて光を宿しており、彼の白目もほんのりと赤らんでいる。また涙こそ拭っていても、まだ彼の高い鼻の先や目元にはあわい薄桃の色が名残り、泣いたあとと誰もがわかるような様相ではあるが、その儚げな薄桃がその白い肌と相まってとても可憐である。      いずれは貴方にも言ってあげるね。  どうかこれからはもう、俺に貴方の涙の全てを拭わせて。大丈夫…もう大丈夫だよ、俺が全部何とかしてあげるから――全て俺のせいにして構わないから、今はどうぞゆっくりとお休みください――俺は貴方が欲しいものを欲しいだけ、たっぷりとその全てを与えます。    ――俺は貴方を幸せにしたいのです。  だから俺は貴方の全てをゆるし、そして貴方の全てを受け入れます。    傷付いた人は人に優しくできるようになる。  あれは単なる綺麗事、気休めだとそう俺は思っていたが、しかしまあ優しいというよりか愛情深くなれることは確かなのかもしれないね。  優しくなれるというよりかその経験によって善悪に開眼し、神のように愛情深く、賢くなれる。――真に罪深き、裁くべき者を見極め、真に庇護すべき、愛すべき者をも見極められるようになる。    そう…――善悪を知り神へと近付く、すなわち豊富な経験によって賢くなれる。優しくなれるのではなく、賢くなれる……と、そう言ったほうが幾分か正しかろう。  傷とは要するに「善悪の実」であった。だから神は愛し子にそれを食うな、ともすれば死ぬぞと忠告したのである。    しかしまあ、愚か者たちは今このときもなおその「善悪の実」をそれとは知らず好き勝手ばら撒いていることだろうね。――アダムとエバが「善悪の実」を食って以来、ケルビムと炎の剣をエデンの園に置き、これ以上のそれの拡散を防ごうとしている神がそれに怒らぬはずも、赦さぬはずもないけれど。  

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