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中腰の姿勢から腰を伸ばした俺は、俺の右斜め後ろにいるユンファさんへ振りかえりざまなかばそちらへ体を返し、いまだ泣いたあとの可憐な紅潮と潤みが愛らしい彼の微笑へやさしく小首をかしげた。
「気が済むまでお祈りできましたか」
「…ええ…ありがとうございました、本当に、…本当に何と言ったらいいか…」
とユンファさんは深い感謝のあまりむしろその眉を寄せた。「何と言ったらいいか、ですって?」俺は彼の目尻をかくす横髪を指先でつまんで横へよけた。あらわれたツリ目がちの目尻にばかりは拭き残しの濡れた艶があってなお可憐だった。
「…これ以上何を言う必要があるのですか。俺はそう大したことをしたわけでもないのだから、そこまでの恩義を感じられる謂 れもないけれど。ふふ…、……」
ユンファさんのつった目尻に見惚れていた俺の目に、にわかにチラと光が瞬いた。たまたま彼の左側の髪をよけ、そしてその左目の目尻を見ていた俺の視界に、すでに彼の左耳につけ直されていた銀の十字架が映ったのである。
「…約束は守りますよ…」
「……え…?」
「…はは…いいえ、こちらの話。――貴方は随分礼儀正しい人なのだね。…だけれど…もう少し人の優しさというものを軽く捉えてはどう。安い個包装のチョコレートをたった一つあげたくらいのことで、貴方のような綺麗な人に恭 しく頭を下げられては、…ふふ…誰しもが調子に乗ってしまう。…俺だってそう…、期待しちゃおうかな……」
俺はユンファさんの目を見て「いいの」と彼をからかった。彼は目を丸くした。
「…いや、そんなことは……調子に乗る、とは…? 期待…?」
「……、……」
なるほど、これはどうしたものか…――。
ユンファさんは俺の冗談(というか恥を忍んで言えば実は口説き文句)をまともに受け止めると、「なぜ調子に乗るのか、どう調子に乗るのか、仮に調子に乗ったところで何が起きるのか?」と、そして「なぜ期待するのか、何に期待するのか、何の期待なのか」と、俺のそれを斜め上方向に不思議がっている――むしろその「疑問」が晴れないことには、自分は良いとも悪いとも何とも答えられないというのである――。
俺の口説き文句、…だ っ た も の をそれとも知らずに彼は不思議がっているのだ。あれほどわかりやすい口説き文句をまさか口説き文句とも思わない人が……まあ、…まあいいか……。
ちなみに彼、俺の「貴方のような綺麗な人」は内心においても完全スルーである(彼にとってはそれよりもよっぽど気に掛かる「疑問」があったためだ)。いやむしろそれさえスルーしなければユンファさんとて真 実 にはたどり着け、……今回はもう諦め、…るしかないね、悔しいけれど……。
――しかし俺は黙ってユンファさんのその無垢な薄紫色の瞳を見つめた。これはなかば抗議であり、なかばは再チャレンジのつもりであった。
見つめ合うことで何かしら立ち上りやしないだろうか?
ユンファさんの中で何かしらこう、艶っぽい炎か何かが――あるいは先ほどの俺の「口説き文句(だったもの)」の真意が、俺のこの熱い視線によって彼にひらめいたりやしないか――といったような俺の思惑は、
「…………」
「…………」
じ…と見つめ合う――その時間は、
……そう長くは続かず……俺は「抱き締めていいですか」と聞きながらにわかにユンファさんを抱き締めた。彼はむしろ子供のような澄んだ瞳で俺の目を見つめ返してきたのだ。…しかして俺の思惑は叶わなかったが、胸が苦しくなるほど愛おしい――俺に否応なく抱きしめられたなり「ぁ、…」と小さく驚いた彼は、俺の両腕に力強く上体を抱きすくめられて困惑している。
「……、…はは、あの、もう…抱き締めて……」
しかし、ややあってからユンファさんは可笑 しそうに屈託なく笑った。それから俺の肩の上で浮いていた顎を改めて俺の肩にのせた彼は、俺の背中にそっと両腕をまわし、裏から俺の両肩をやさしく掴んでくる。
すると必然的にユンファさんは、俺のみぞおちあたりに自分の胸板を押し当ててくるようなのだ。……あぁ堪らない、あぁ愛おしい、あぁずっとこうしていたい……。
「…正直、…はは…正直びっくりしました、…聞かれている最中に抱き締められたから、…ふふ…」
「……ふふ、そうだね…つい…、……」
ユンファさんの指摘のその通り、許可をうかがいながらに実行していた俺は馬鹿だ。
と、俺はユンファさんを抱き締めながら考える。
――実をいうと俺は、今ほとんど無意味にユンファさんを抱き締めていたのである。
人はしばしば俺のことを勘違いして見てくる。
俺という男の人格が冷酷なほど理性的で、理知的で、合理的なものであると勘違いをするのだ。――まあ俺にその側面がないということではないので、人が俺に抱くその印象が必ずしも間違っているとは言えない。
しかし、実際のところ素顔の俺はそれというよりもっと衝動的で、直情的で、情熱的なのである。思い立ったら動いている。動かずにはいられないと思う間もなく動き、気が付けば思い立った時点がもはや思い出せないほど遠くにある。
特にユンファさんの前にいる俺はなおそうである。
これは今夜に知ったことであるが、そもそも彼の前で俺は取り澄ました態度を取りたくともなかなか取れないでいる。とはいえ、喉から手が出るほど欲しい人を目の前にして衝動的となるのはあくまでも当然、もはやそれは自然の摂理的な本能とさえいえるだろうが、…それこそ取 り 澄 ま し た といえば、実は俺はここまでに一応演 技 をしている側面があったのだ。しかしそれもほとんど完遂できず今に至っている。
――その演 技 とは何か?
俺はこれまでユンファさんの前では努めて「タメ口」をきいていたのだ。そう、あれでもね…――その理由の一つには、俺が身分を借りたあのカナイが俺より六歳ほど年上、すなわち俺が今夜演じるべき人格が「三十歳の男」であるからというのがある。
つまり俺はあれでも一応は三十歳の演技、ユンファさんよりもいくつか年上の男を演じようとしてはいた(まあ、もともと俺は実年齢の二十四歳に見られることのほうが少ないのだが)。
ただそれの他にも俺が口調を偽っている理由、いやあえて現状に則していえば、本来ならばなるべく偽るべき(だった)理由がもう一つある。むしろそちらのほうが理由としては大きいかもしれない。
というのは、俺の素の口調は何か人よりも気取った風にきこえやすいそうである。ひいては少々個性的というか、世間的にみれば少々独特な口調だということだ。
それは九条ヲク家のルーツが京都にあるせいかもしれない。つまり俺が幼少期から周りの大人に教えられてきた標準語というのが、東京的な自然な標準語というよりかは何か格式ばった、いやに丁寧すぎる標準語だからなのかもしれなかった。
それも俺に標準語を教えたのは京都も気取った名家(九条ヲク家)生まれの古い人間たちである。もちろん京都とはいえ、その地方出身の者すべてが自然な標準語を使えないということではない。むしろその自然な標準語を知っていて下品だと嫌っている京都の人間が俺の周りにいる人間なのだ。
そしてそういう気取った人間に標準語を叩き込まれた結果、俺の身に染み付いている標準語というのもまた、その通り気取った感じの少々独特なものとなってしまった。――しかし三つ子の魂百までというやつか、俺は素ともなるとその気 取 っ た 標 準 語 を使ってしまう。
そして今夜においても、俺は俺以外の別人を演じようとして結局はしばしばその素の口調が出てしまっているのだが、しかし俺は今夜においてはユンファさん相手にも素性を隠しておかなければならない。
要するに俺は、今夜はなるべく九条 ・玉 ・松樹 としての個性というものを消さなければならない。――本来はな ら な か っ た ……が、そうこ の 通 り である。
まあ演技も他の者の前でなら我ながら上手くもゆくのだが、相手が初恋の絶美の青年ユンファさんだとそうもいかない。というか此処に来るまではいつも通り上手くゆくに違いないと俺は踏んでいたが、現実はそうそう上手くはゆかないものらしいね。
それこそユンファさんのその絶世の美貌たるや、数々の名演をやり遂げてきた名俳優をもってたちまち大根役者に落とすほどのものだということだ。婚 約 者 が美しすぎると損をすることもあるね。――ましてや、俺が心の底から敬愛するユンファさんに対しては基本的に敬語を使いたいという思いも俺にはあるので、その気持ちのほうが理性よりまさっても俺は結局素の口調が出てしまっていたのだ。
神の前では嘘がつけないのは俺も同じだ。
もはや今更かもしれない…――正直にいうとそうは思うのだが、一応は続行してみようかどうか、…まあやるだけやってみようとは思っているけれどね。
「……はぁ…――。」
と、いま幸福そうなため息を吐いたのは俺ではない。俺が抱きしめているユンファさんである。
彼は俺の背中に腕を回し、裏から俺の肩をやわく掴んでいるままだ。しかし彼は元は俺の肩に顎をのせていたのだが、今に「はぁ…」とうっとりとした吐息を静かにこぼしながら、俺の肩にすり、と片頬を軽くこすりつけてきた。――それもユンファさんの顔は俺の首元のほうを向いた。俺の敏感なそこにかかる、す…す…とあわいあたたかい彼の呼吸が、
「……、…、…」
愛おしすぎる――が、
だからこそ――ゆるせない。
俺には到底許すことも赦すこともできない。
「……ごめん…――酷いね…ごめんね……」
ユンファさんが眩しかった。俺は目を瞑った。
「ごめん、…ごめん…」と何度も謝罪を念じながら、俺の両腕はユンファさんの背中を擁 し、この強い両腕で彼の体を包み込んだ――いや、ほとんど彼とは体格差のない俺である。
つまりそれは単なる俺のイメージだった。
俺は今すぐにでも自分の体を大きく広げて、ユンファさんの全てを自分が包み込んであげたかったのだ。
――俺が一番よくわかっている。
俺が謝ったとて何の気休めにも代わりにもならない。しかしあの動画のみならずのことではあるが、あれはあまりにも惨 たらしい仕打ちと思えて辛抱できなかったのである。
もちろん俺はユンファさんにゆるしてほしいわけでもなく、ユンファさんにあいつらをゆるしてやってくれとも元より毛ほども思っていない。――何より、たとえ彼があいつらをゆるしたとしても、俺こそがあの男らをゆるせないのだ。
仮にあの男らがユンファさんへ土下座し謝罪をしたとしても、どれほどあいつらが無様に彼へゆるしを乞うたとしても、それによって彼があの男らをゆるしたとしても、――俺はその程度のことではとてもあいつらをゆるせない。あいつらは何かしらの罰を受けるべきだ。あいつらがあの世に逝 く日を俺は待てない。あるかもないかもわからないあの世の地獄を期待するより、もっとも確実な方法でケグリを含めたあの男らを地獄に堕としてやりたい。
あの男らは神の力、神の怒りの炎をもって裁かれるべきだ。…そうだろう……?
だが――どうしても俺は今、どうしても俺が、俺こそがユンファさんに謝りたくなった。先刻もどうしても彼のことを抱き締めたくなった。俺は彼を抱きしめずにはいられなかった。
愛らしかった。愛おしかった。眩しかった――だからこそゆるせなかった。だから俺は衝動的にユンファさんを抱き締めたが、どういったことか、俺は俺の腕の中であまく穏やかな幸福の匂いを漂わせた彼に、いよいよ耐えきれない罪悪感を覚えた。
ユンファさんがあまりにも愛おしかったからかもしれない。だからこそあの惨たらしさが対比し俺の胸を刺してきたのかもしれない。
あるいは今ユンファさんが幸福そうだったからかもしれない。だからこそあの動画の中にいた悲惨な彼が、あの地獄に置いていけぼりにされているような苦しさがあったのかもしれない。
俺はユンファさんを救いたかったのかもしれない。何もせず画面の前で指を咥えて見ていた俺のような奴が、今更に烏滸 がましくもそのような欲が出てきたのかもしれない。
「……? 何がですか…?」と俺の耳元で優しいユンファさんの唇が俺に問うた。
「…ふふ…ごめんって…何が…?」
ユンファさんは俺の腕の中で幸福げに笑った。
その人の優しい唇が俺の片耳のほど近くに寄り、彼は更にこう無邪気にそっと尋ねてくる。
「…酷いって…?」
「……ううん…――ううん、何でもないよ、…」
俺は感極まって泣きそうだった。だがしかと目を開け、少しだけ身を離した。それに合わせて彼もややその身を引くが、伏せ気味になるその顔は――伏し目に頬を紅潮させ、ぽーっと微笑している。
「…………」
「……、…」
俺は彼のその顔を見てドキッとした。
ユンファさんは今何も考えていない。彼の顔の半分があわい朝の陽光に照らされていて神々しい。しかし、その伏せられた瞳には何も思考が映っていない。強いてその瞳に湛 えられているものが何なのかといえば、それは奥に赤味のつよい紫を潜めたサファイアのような神秘的な蒼 、その色、…言葉、思考、そういったものではない。
色っぽい――。
恍惚とした夢見がちな顔をしている彼は今、俺に抱き締められている最中に自然とぽーっとしてきたらしい。つまり今ユンファさんは俺の抱擁 に余計な思考がかき消され、そして今もなおそのままなのだ。
俺は今、ユンファさんのその恍惚とした表情に彷彿とした作品がある。――グスタフ・クリムト作『生命の樹』…これは横長の画面全体が豪華な金色基調である(実際に金箔 入りのタイルも使われている)。
画面中央にある生命の樹は写実的というよりモチーフ的で、その樹の無数の枝はそれぞれまるい渦 を巻いて横長の画面いっぱいに模様的にひろがっている。なおその生命の樹の幹 を中心に、枝のところどころにはホルスの目が組み込まれている。またその樹の左(向かって画面左側)には「期待」を象徴する女が一人たたずんでいる。
そして生命の樹を挟んだ向かって右側、そこには「成就」を象徴する抱擁しあうカップルが描かれている。――男は画面に背を向けている。彼の着ている肩から足下までをすっかり覆い隠すマントのような衣服にもまた「神の目」が描かれている。そして、その男に抱き締められている女はうっとりと幸せそうに目をつむり、男の背中にまわした手で彼の肩を愛おしげに掴んでいる。
なおこのカップルは作品『生命の樹』にも描かれているものの、別個に『抱擁』というタイトルで切り抜かれて作品化されてもいる。
俺はこの場所で一つの結実、成就を見たような気がしたのだ。――ユンファさんのそのうっとりとした表情に、クリムトの『抱擁』のあの女の顔が重なったのである。
「貴方は綺麗だね…」
「……、…え……?」
つと蕩 けた薄紫色の瞳が俺を見る。ユンファさんは今俺に何を言われたか聞き取れなかった。
「……、貴方の髪に、触れてもいい…?」
こう聞いた俺の手は、今度は先んじない。
「……ええ…、…どうぞ…?」
ユンファさんは柔らかい声でそれを許可してくれたが、彼のその声には少しだけ不思議がった響きがあった。
わざわざ髪に触れてもよいかどうかなんて聞く人がいるとは、と、俺のそれが今のユンファさんにとっては不思議なくらいの質問であったためだ。
普通なら恋人でもなんでもない男にいきなり髪に触れられて誰もいい気はしないことだろう(とはいえ俺は過去すでにそ の 罪 を何度も犯してしまっている)が、今のユンファさんにとっては髪どころか体のどこであろうと他人に勝手に触れられ、暴かれ、果てにはそのまま何をされてもそれこそが「普通」となってしまっているせいである。
まあともあれ、俺は晴れてその艶美な鴉 の濡れ羽色の髪に触れる許可を得たわけだ。
「おいで」
俺はユンファさんに気だるい角度で両腕を広げた。
彼は頷くことも「はい」や「うん」と返事をすることもなくそっと目を閉ざした。目を伏せようとしてリラックスのあまりそのまま目を閉じてしまったのだ。
「……、…」
そしてユンファさんはまるで寝ぼけた人の体が揺らいで前に倒れるかのようなゆるやかな、しかし少し危うい動きで、対面する俺の体にそっとその身をあずけるよう俺の腕の中に入ってきた。また彼の手が裏から俺の両肩を緩くつかむ。――それと同時、俺は息を合わせたようにユンファさんのその体をそっと優しく抱き留めた。
なお今度ははじめから俺の肩に片頬をあずけているユンファさんのその鼻先は、また俺の首のほうに向いている。愛おしい――俺は彼の後ろ髪を押さえるようにそっと撫でる。
むしろ俺はもっと自分にユンファさんのその頭をあずけさせるよう、上から下へとわずかな後ろ髪の浮きを抑えるように、何度かそのように撫でる。
「……、…」
すると俺の背中から俺の両肩をつかむユンファさんの、その片方の手の指の先が優しく俺の肩をひっかく。髪を撫でられている心地よさに力が抜け、俺の肩のうえで彼の指がおだやかに丸まったのだろう。
「……気持ちいい…?」
「……、……」
俺が聞くとユンファさんは俺の肩に頬をこすりつけ、小さくコクと頷いた。
愛おしい、愛おしい、愛おしい…――俺はユンファさんの横髪の毛先のまとまりを、四本指の第一関節の背に乗せ、ゆっくりとその人の耳のほうへ撫でた。おもむろに三度そう撫で、四度目に俺は彼のその髪をその人の耳にかけた。…彼はぞくんとしてわずかに震え、俺の肩に唇を押し付けるようにして顔をそむけた。
ユンファさんの頬を掠めた毛先の、俺の爪先の、頭皮につたわるわずかな髪の動きの、髪を耳にかけた俺のその指の、その擽ったいほどやさしい感触に、やがて彼は恐れを感じた。――すっと俺の胸から離れたユンファさんは、やや斜 に顎を引きながら目を伏せる。
「俺は貴方になら…何でもしてあげたい」
俺は深い声でそのように彼に言った。
ユンファさんの伏せられた切れ長のまぶたの、その際 に生え揃う黒いまつ毛の下、透き通った紺色の中に小さくチリ…と燃えた赤紫がある。――小さな輝きのそれは火種であった。
「……何、でも…?」
「…そう…何でも――。」
「……、…、…」
ユンファさんは伏せた目をしばたたかせた。
そして彼はまぶたのその動きで赤紫色の小さな火種を消した。ユンファさんは慌てて「ぼ、僕も…何でもしますが…」と一応自 分 の 仕 事 を思い出したが、彼は自分のざわざわと違和感のある胸に気を取られているせいで、普段よりかおよそ巧 みな返しはできていないように思われる。
それこそ風俗店のキャストもNo.1とまで登りつめた経験豊富な、またそもそもが機知に富むユンファさんほど賢い人であれば、「えー、何でもしてくださるんですか? じゃあ…」とそれらしいおねだりをもって甘い雰囲気にもっていくだけのポテンシャルはあるだろう。が、少なからず動揺している今の彼にそういった機転の効いたセリフは思い付かなかったらしい。
かなり良い感じ――だが。
にわかに覚えた恐怖に恍惚状態が開けたユンファさんは、先ほど俺に抱き締められたことで自分が恍惚とした理由を、その原理をともいえるが、その訳 を理解してはいなかった。彼はせいぜいが泣いたあとの一種のカタルシスが故だったとしか思っていない。――しかし、俺もあえてその「訳」を自分の中で言葉にはしないでおく。
「……す、すみません…ぼーっとしてしまって……」
「……、いいえ…? 別に…可愛らしかったけれど」
ユンファさんの慌てているその目は気まずそうに伏せられたまま俺を見ない。また俺の「(ぽーっとしているユンファさん)可愛らしかったけれど」というのも彼、脳内会議に忙しくしていて聞こえていない。
――『おいおい何やってるんだよ僕、仕事中にぼーっとしちゃった…いっくら泣き疲れてたとはいえ、全く、我ながら呆れる……』
つまり彼は先ほどのぽ ー っ と した自分の恍惚状態は、単に泣き疲れてぼ ー っ と していただけだ、と結論づけたようだ。なおそれによってあの「火種」を誤魔化している、という自覚は彼にない。――先のあの赤紫とはあくまでも「火種」であった。要するにあれはユンファさん自身が、少なくとも彼の表層意識が自覚できるほど明らかな火ともなっていない、極小さなもの、いみじくも「種」であったのだ。
例えば少しの風でもつーと煙をあげて消える火種であり、例えば地中に埋め込まれて芽が出ているかもいないかもわからない種である。そのまま燃える火となるか消えるかもわからない火種であり、そのまま芽を出すか地中で死ぬかもわからない種である。――まあもちろん俺は必ずその火種を煽り与えて赤紫色の情熱的な、艶やかな炎にしてみせよう。もちろんその種は必ず大切にして芽吹かせ育み、今に麗しき月下美人の花を満開に咲かせてみせよう。
俺の熱意の鋭い視線にも気が付かず――失態の先ほどから取り返そうと焦っているユンファさんは目を伏せたまま、「あ、そ、そういえば」と誤魔化しに切り出した。彼は目を伏せた先にあったステンドグラス前の鉢が目に入ったらしく、それの前に立つと膝をつかんで中腰となり、「金魚…」とつぶやく。
「…金魚を…見ていたんですか」
「…そう。綺麗だなと思ってね」
「………、本当ですね、綺麗……」
改めて見るとその金魚の華麗さに気がついたユンファさんは、うっとりとした伏し目で金魚を見下ろし、その唇にやわらかい微笑みをたたえた。
俺は中腰になってやや平たい彼の背中を撫で、彼の肩をさりげなくするりと抱く。すると彼はふと俺のほうへ顔を向けたが、その顔は肩に顎を寄せた程度のうつむき加減であり、そのまぶたも可憐に伏せられたままだ。――今のユンファさんにとって、俺は少し眩 し過ぎるようである。
「…可愛いね」
「……え…、ぁ…――」
ユンファさんはつと俺を上目遣いに見たが、そのまますぐに屈託なく笑ってうんと頷いた。そして彼はまた金魚たちへ顔をうつむかせる。
「そうですね、凄く可愛い。…特にこの尾びれ。ひらひらしていて、ほんとに可愛い金魚だな…」
「……ふふ…、……」
困ったな。俺が今「可愛い」と言ったのは――「可愛らしかったけれど」のリベンジもならず――まあ、今はその真実を言わないでおこうか。
ユンファさんは「え」と言ったときでさえ、俺の「可愛い」というのが自分に向けられたものだとは少しも考えなかった。むしろ彼は『何に可愛いと言ったのだろう』と一瞬考えたのだ。それから「ぁ」と気が付いた。――このシチュエーションで「可愛い」と言ったら、疑うまでもない、金魚たちの他にはないだろうと。
しかし俺にしてみれば疑うまでもない、俺はユンファさんのはにかんだ顔を眺めながら「可愛い」と言ったのだから、……などという俺の真実をいま言えばややこしくなる。ユンファさんは混乱することだろう。
受け取る姿勢を取らない人に与えられないとは、まさしくこういったことなのである。
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