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「僕も少しだけ見ていいですか」とユンファさんが金魚たちを眺めたいと言うので、俺は「もちろんどうぞ、お好きなだけ」とそれを快諾した。
そして彼は先ほどの俺と同じような姿勢をとり――両膝に手を着いて腰を屈め、横に広い白磁の鉢の中でひらひらと尾びれを優雅になびかせて泳ぐ、赤や黒やまだら模様やという華麗なチョウビ――金魚――たちを眺めている。
「…わ…ほんと綺麗……、ふふふ……」
ユンファさんのその横顔にたたえられた笑顔には今、無邪気な少年のような明るい幼気 が包みかくさず現れている。
彼が眺めている鉢の底面で灯るおだやかな明滅の青いネオンライトのおぼろげな光に、その青白いほどの横顔はより清艶に美しく照らされているが――まるでお祭りの金魚すくいにはしゃいでいる少年のようなその表情には、どうも「可愛い」というのしか思い当たらないな。
「……可愛いな、あなt…」
「ほんと。はは、ほんと可愛い…こんなにお洒落 な金魚もいるんだな……」
「……、…」
あぁ…また金魚に向けてだと思われてしまったね…(あまりにも俺が金魚に向けて「可愛い」と言っていることを疑わないせいで彼、俺に「可愛いな、貴方は」と無意識に最後まで言わせずむしろ同調した気になってさえいる……)。
まあいいか…――今ユンファさんは容姿に関してももちろんそうだが、あらゆる全ての要素において自分に自信が無くなっているばかりに、俺の「可愛い」というのは絶対に自分に向けられたものではない、と、そのように真っ向から捉えてしまうのだろう。
それこそ今のユンファさんはあのケグリに、「お前は不細工だ、お前はオメガの中でも特に可愛げのない奴だ」などと罵られることがもはや日常となってしまっている。そして今の彼はそれこそが「自分の真の価値」なのだと、そのようにマインド・コントロールされて思い込まされているのである。――まあもちろんそれはとんでもないことだけれどね。それこそそんなのはユンファさんの美貌に何より誰よりも惚れ込んでいるあのケグリの嘘で相違ない。
「実は僕、昔金魚を飼っていたんです」とユンファさんは、金魚たちを見下ろしたまましみじみして言う。
「あぁ…じゃあ金魚、もともとお好きなのだね…?」
ユンファさんの実家の庭には金魚たちのお墓があるのだ。名前は「ピッピー」と「ミーミー」――貴方のために選んだこのお部屋に、貴方が喜んでくださってよかった……。
「…ふふ……」
「はい。…ただ…お祭りの金魚すくいで捕まえた子たちだったので、…その、すぐに……」
その横顔を切なげに翳らせたユンファさんは、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。彼は両膝の上に腕を重ねて置くと、うなだれるようにして鉢の中の金魚たちを眺めながら、悲しげにかすれた声でこう言う。
「…まだ覚えている…悲しかったな…――両親と一緒に、家の庭にその子たちのお墓を作ってあげたんです。“ピッピー”と、“ミーミー”……でも…そのお墓を見るたびに、…はは、…まだ小学生だったもので、…泣きそうになるほど悲しくなってしまって……」
「……そう…それは悲しかったでしょう…、……」
可愛いなぁ…――金魚のお墓を見るたびその目に涙を浮かべてしまう美少年・ユンファ……俺が慰めてあげたい。
「……でも、そうやって僕が悲しんでいたら…」とユンファさんは少し声の調子を明るくし、愛おしい記憶を懐かしむことでその追憶を愛するように、やわらかい声でこう続ける。
「ある日、母が子犬を家に連れてきてくれて…――可愛い子でした。リリィといったんです…リリ、…リリと呼んでいました」
「……そう、リリィ…お名前からして可愛らしいね。さぞ可愛かったことでしょう…、……」
確かに可愛い子だったね。もう亡くなっているけれど、リリィちゃんは……――。
正式名称は「Lily 」という白いポメラニアンの女の子、名付け親はユンファさんの母(養母)であるツキシタ・ジスさん。なおリリィちゃんはペットショップを経由してツキシタ家の家族となったわけではなく、彼の父(養父)ツキシタ・ユウジロウさんの友人の愛犬が産んだ子犬のうちの一匹である。
ちなみに白ポメラニアンの女の子、リリィちゃんの名前の由来は、彼女の兄であるユンファさんに合わせたものだ。――月下美人から取られた名である「曇華 」に合わせ、その白い体が白百合の色に似ていたことから、百合という意味の「Lily 」と名付けられたそうである。
そう…「あの日」に保健室で眠っていたユンファさんが、寝言で「んん…リリ…」と呼んでいたのはまさしくその愛犬リリィちゃんだった、というわけである。――のちのちになって俺は知ったのだった。
「…………」
「……、…」
ユンファさんはそのリリィちゃんをよほど可愛がっていたのだろう。そこで黙り込んだ彼は、金魚たちの泳ぐ鉢へうなだれるようにして肩を落としている。
俺はユンファさんを励まそうとその場にしゃがみ込み、その人の肩をポンと持とうとした。
――そのときだった。
「……、……」
そのとき、…しゃがんでいるユンファさんの腰のあたり、隣の俺に面しているほうとは逆の、彼の腰あたりの影にチラと黒 い つ ぶ ら な 片 目 ――愛らしい白いふわふわポメラニアンの、じっとりと俺を見るつぶらな黒い瞳が片目だけチラと見えた。それは一瞬のことであった。二度見すればもうそこに白い彼女の姿はない。……俺はユンファさんの肩に触れようとした手をきゅっと握り、ともかく彼に触れることは一旦やめた。
「…どうやらそのリリィちゃん…貴方の側にいるようですね…――貴方のことを心配しているのかもしれません……」
例えば……『こんなストーカー男に、本当にあたしのユンファをあげちゃっていいの、大丈夫なの』……ですとか…――まあそれは気のせいでしょうけれど。
「……え?」
と訝しげな顔でユンファさんが俺に振り返る。
「たまに彼女の気配を側に感じられたりしません…?」
「……ぇ、ええ…。…もしかして、見え…たりするんですか、その…そ う い う の 、というか……」
「いや……別に。…」
俺は訝しげなユンファさんの目からつーと横に目を逸らした。――嘘である。
実をいうと俺はたまにこうした、目に見えないはずのものが見えるときがあるのだった。
ちなみにこれも俺 の 目 が 見 え 過 ぎ る というのに起因したことらしい。――俺の友人の占い師いわく、俺はそもそも霊感体質なのかもしれない、と。
俺はまず直感が鋭すぎる。その友人いわくでは「第三の目」とやらが神がかり的に開いているそうで、俺はまさしく「神の目」をもっているのだというのだ。
そしてもともとの性質上、俺の肉体的な両目もまたそれはそれでつぶさに情報を集めてしまうような丹念な観察眼をもっており、加えてその「第三の目」とやら、直感的な透視の性質をも持っている俺の両目は、それこそ人よりも多くのものを見、多くのものを感じ取ってしまう。――つまり肉体的な目においても魂的な目においても、俺の目には人が見えるものから人の目には見えないものや普通ならば見落としてしまうようなもの、情報過多というほどそうしたさまざまな情報が見えてしまう、というわけらしい。
ちなみに俺は“狼化”したとき、気晴らしに犬のふりをしてモグスさんと散歩やドックランなどに行くことがあるのだが、その際にできた友人 たちとのコミュニケーションにおいても主にこの目を使っている。――簡単にいうとこの目には動物たちの感情も見えるのだ(とはいえ、動物を家族にしている人々の中には何となくでもその家族の感情がわかる、というような人も少なくはないことだろう)が、基本的に友人 たちはアイコンタクトでコミュニケーションを取っているようだ。狼もそうだが、すなわち彼らははじめからその目に相手の感情や意思を読み取る能力を備えており、お互いの目を見交わすことで語り合うのである。
だから今も俺に、リリィちゃんがユンファさんを心配していたことがわかったのだ。…その心 配 の 内 容 に 関 し て は 見 間 違 い だけれど。
とにかく友人の占い師の言うことを真に受ける限りでは、そうしたことで俺の目は見え過ぎるらしい。
まあ俺は見 え 過 ぎ る としばしば言ってしまうが、――もちろんその通り折々「俺の目は見え過ぎる」とこの目にはうんざりさせられはしているものの、――かといって便利な能力として使っている側面も大いにあるのでね、俺とて必ずしもこの目を嫌っているというわけでもない。
しかし、そうであっても俺は「別に(見えない)」とユンファさんに嘘をついた。――正直にいうと俺はまだこの目のことを彼に打ち明けるのが怖いのだ。
どうせいずれはユンファさんにも話さねばならないことであり、いずれ俺はユンファさんにもこの目のことを打ち明けるのだろうが――結婚するのだから――いくら比較的寛容な性格をしているほうのユンファさんであっても、自分の隠しておきたい感情をさえ他人に見透かされているというのは、さすがの彼でもいい気はしないことだろう。……し…不気味だとか頭がおかしいのではと思われても嫌なのだよ。
自分の目に見えないものが相手には見えている、というか「見えている」と相手が主張してくる……何もないところに「あそこに居るんだ」と主張してくる、とは――オカルト電波扱い待った無し。
言うにしてももう少しシチュエーションや方法を選ばなければね……。
しかし「でも…」とユンファさんは俺がリリィちゃんが見たのだろうと、まだ疑っている目で隣の俺を見てくる。
「……僕…リリが女の子だって言いました…? 確か言っていなかったと思うんですが、なのに今…彼 女 、と……」
「…あぁそれは……」
しまった。それはそもそもリリィちゃんが見えた見えなかった以前に、俺が事前に集めていたユンファさんの情報によるところの失言だ。――しゃがみ込んでいた俺は立ち上がり、腰の骨をつかんで顔を仰向かせた。
「……怖いなぁ…いや俺、今自然と彼女と言っていました…。どうやら人よりも直感が鋭いらしくて…実はたまに、そういうことも起こるのですよ」
「……、へえ……凄いですね……」
ユンファさんはあっさり俺の嘘を信じるなり、むしろ感心したようですらある。――というか言ってから思ったけれど、何となく「リリィ」という名は女の子っぽいので、女の子かなと思ったんだ…と言ったほうが自然だったかもしれないね。
まあとにかく――俺はユンファさんの隣、先ほどリリィちゃんが見えたあたりに目線をやる。なお今は何が見えるわけでもない。…が、
仲良くしましょうね、リリィちゃん――?
俺 た ち は こ れ か ら 家 族 に な る のですから――。
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