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「……大丈夫ですか…?」
とユンファさんは俺を心配して立ち上がろうとしたが、俺はそれを拒否する意図で彼の肩に手を置きながらまたその場にしゃがみこんだ。
そうしてなかば俺に抑え込められたユンファさんはしゃがみなおし、俺もまた彼の隣で共にしゃがみこむと、室内池の中の金魚たちを見下ろす。
「…可愛いね」
「……、ええ、本当に」
俺はまだもう少しだけユンファさんにはしゃいでいてほしかった。それが俺の見た夢であれ、なんであれ。――彼は俺がもう少し金魚を見ていたいのだと思ったのだろう、彼もまた蓮の花や葉の下で好きに泳ぎ回る金魚たちを見下ろした。
「…やっぱり金魚も可愛いな…」
「……ふふ…、……」
俺はふと横目にユンファさんを見た。
そうして、くつろいだまぶたの隙間からユンファさんの横顔を眺める。彼の横顔は今またあどけないほど無垢な笑みを浮かべている。
金魚の泳ぐ鉢の底からライトアップされた青いネオンの光が、水面を越えてユンファさんの横顔をやわらかく照らしている。彼のその白い顔に、目の中に、頬に、鼻に、唇に、ゆらゆらと水面の青い水影が揺らぎながら映っている。
端整な横顔だ。
横から見るとなおその鼻は高く端整な形をしており、ことその鼻先の尖りは全く美男子らしい。そのやや青味がかった桃色の唇は口角を上げ、その唇もまた横から見るとなおぷっくりと見えて愛らしい。
ユンファさんの切れ長の目は今おだやかにゆるみ、優美に狭められている。ほとんど伏し目がちな切れ長の上まぶたの下に、横から見ると半球型の透き通った瞳がやさしく輝き、その瞳の下でぷっくりと下まぶたが膨らんでいる。その下まぶたには彼が先ほど泣いたせいか、あるいは近頃の過労のせいか、クマとも血色とも取れる赤らみが滲んでいる。それが切なくなるほど儚げに見えて愛おしい。
まさしく微笑みの三日月という形の細められた上下のまぶたの間で、下からの青いライトアップに、その瞳の薄紫色もより明るい白っぽい菫 色となっている。その瞳の中で水のようにゆらめく水色の光と水影が、よりその端整な横顔の神々しい印象を強めていた。
「…ぁ…泳ぎ上手いね、君? 今ターンした?」
「……、……」
俺の瞳の色が、俺の瞳の海、水面が、ユンファさんの瞳に映っている。――浮かれてしまうような、何でもない意地悪をしたくなるような、あるいは子供じみた悪戯をしたくなるような、この気持ちは全くくすぐったい。
その笑みを浮かべた頬に俺がキスをしたら――。
俺が貴方の頬にちゅっとキスをしたら、貴方は驚いて俺に振り返ってくれるだろうか?
「……、…」
俺が今この胸に抱いているこの気持ちは…――俺は自分が今着ている黒いパーカの胸元の布を、片手の五本の指でかき集めるように握りしめた。
「…折角だから、君たちにご飯をあげられたらいいのにな。はは、なんて…」
「……ふふ…、……」
俺は先ほどからずっと、自然と微笑していた。
なんの意図も思惑も意識もなく、俺はユンファさんの横顔を見ているだけで微笑んでいたのだ。
そうして俺を操るように微笑させたのは、間違いなく今俺の胸の中に立ち込めては逃げ場もなく溜まってゆく、このあたたかい水蒸気のような感情だ。それはもくもくとたちまち白い雲の形を成してゆく。
しかしそれはあたかも雲である。
雲とは元より不確かなものである。雲とは元より掴もうにも掴めないものである。――この気持ちは一体、なんと表現したらよいものか?
「…カナエ君も金魚好きなんですか?」とユンファさんは金魚たちを見下ろしたまま俺に聞いてくる。
「…うん」
「…じゃあ一緒だ。可愛いですよね、金魚」
「…うん、可愛い」
貴方は気が付いていない。
俺の顔はややうつむき加減に水面へと向けられているようだが、俺の瞳は先ほどからずっと、横目に貴方の横顔を見ているということを。
「…いつまでも眺めてしまうなぁ……」
「…そうだね…、……」
これはそう、切望だ。
俺の胸の中に立ち込めてふくらむこの白い雲は、およそ切望である。――あたたかく甘い中にも切なさが混じっている。
切なくなるほどに望んでいる。
願わくばこの横顔をいつまでも眺めていたいと。
貴方のこの無邪気な横顔が、片時も離れず俺の傍らにあったなら、俺は一体どれほど幸せだろう?
例えば貴方の横顔がまた凍り付いてしまっても、俺はこの横顔が見られるのならば何だってする、何だってできる。
俺はそのためならば何にだってなろう。道化にだってなってもよい。貴方の親にだってなってもよい。貴方の愛犬にだってなってもよい。
これはあたたかい――切望だった。
白い雲が俺の胸の中をあまさず可愛く擽りながら、みるみるとユンファさんの可憐な横顔に形を成していった。
「……そうか…そうか、わかった……」
わかった…――俺は今、幸せなんだ。
切望、そして――これは幸福だった。
「え、何がですか? 何がわかった?」
ユンファさんがきょとんと目を丸くして俺に振り返る。だが彼は今もその唇に笑みを浮かべている。
「……ん…? ふふ……秘密。……」
俺はこの世のあらゆる幸福を知ったつもりでいた。
それは実際に俺がその人並み以上のあらゆる幸福を経験してきた、というのもあるにはあるが、俺のこの目には誰かの幸福もまたさまざま映ってきた。――つまり俺自身が経験してきた幸福の他にも、俺は誰が何に幸福を感じているのかを人よりも多く知ってきた。
そういった意味で、俺はこの世のあらゆる幸福を知った気になっていたのである。
しかし俺はやはり無知であった。
どうやら俺は知らなかったのである。
想像と現実との間にはしばしば幻覚が起こる。
事実は小説より奇なりとはいうが、小説によって得た知識や擬似的な経験や覚えた感情というものは、現実より誇張されていることもあれば、逆に小説に書かれていたそれらより、実際にそれを経験したときに得たそれらのほうがもっと大きいものであったり、あるいは実際に体験してみるとそれとは違うものを得たりもするものだ。――それと同様であった。
想像には際限がない。しかし神の与えるものにも際限がない。目に見えない神と目に見えない想像は、あるいは同じものかもしれない。神の与えるもの、それとはいつも事実は小説より奇なり――である。
人間の生み出したどんな恋愛小説やそういったコンテンツの中に描かれている心理描写より、俺は今もっと意義深い幸福を感じられている。――だがこの感情を言葉で表そうとすれば、いかにもそれらに描かれているありふれた「心理描写」となってしまう。ともすれば俺が小説家であるせいもあるのかもしれない。
好きな人がこうして俺の隣で無邪気に微笑んでくれていた。それも決してその無邪気を演じているというわけでもなく、単純に好きな金魚を眺めて可愛いな、綺麗だな、泳いでいる金魚を見ているとなんだかワクワクしてくるな、と、その横顔にある無邪気さは率直なものであった。――そして、その愛らしい綺麗な横顔を見ていただけで計らずも俺は、自然と仮面の下で微笑していた。
それこそが、俺が今夜に見たいユンファさんの顔だったからだ。この十一年という月日の中で俺はずっと、ユンファさんのこの少し幼気すぎるほどの少年の横顔がずっと、ずっと見たかった。いや、これまで実際には俺はそう思ったことがない。
しかしそのように考えるほど、俺はあまりにも今の彼が愛おしくてたまらないのである。そのように考えるほど、俺は今あまりにも幸せなのである。
それこそ今の時間の「終わり」というものを恐れ、それが来たなりきっと口惜しいと胸が締め付けられるだろうと思われるほどに――願わくばこの幸せが絶えず俺たちの終生に寄り添ってくれることを、俺は切望しているのである。
「……? ふふ……もう」
とユンファさんは俺を睨み付けるふりをした。彼の唇は笑っている。――彼は膝の上に重ねている両腕の上に片耳を押し付けると、俺のほうに顔を向けた突っ伏すようなその格好で、おねだりをするような甘い笑顔を浮かべて俺を見る。
「その秘密、僕にも教えてください」
ユンファさんは俺の大したことのない「秘密」を、実際にその程度だろうと察しているのだ。
「いいよ」
俺はユンファさんの片耳を、彼の横髪の上からそっと撫でる。
「幸せなんだ。――俺は今のこの時間が終わってほしくないと切なく願うほどに、今がとても幸せなんだ」
「……、…」
ユンファさんの表情から笑みが消えた。はっとした彼は俺の目を見ながら静かに驚いている。
「気が付いていた…? 俺は金魚たちももちろん好きだけれど、先ほどからずっと貴方の横顔に見惚れていたんだ。…喜んでくれてありがとう。大好きな貴方が嬉しそうな顔をして俺の側に居てくれる今が、…俺にとってはね…今が絶対に終わってほしくないと切なくなるほど願ってしまう、幸せなんだよ――今のこの幸せが永遠に続いたらいいのに…。それが…俺の“秘密”……」
「……、…」
ユンファさんは俺の言葉にその瞳をかげらせた。
そしてぎこちない笑みを浮かべると、「僕もそう思っています」と応えた。
「…はは…嬉しいよ…。さて…そろそろソファに座ろうか…、……」
俺はおもむろに立ち上がった。
俺の胸の中の雲が燻 されて黒ずみ、やがて目に染みるその黒煙に泣き始める。暗雲が降らせる黒雨が、俺の仮面の下にひと粒だけ――。
俺の計画は順調だった。
いや、一見順調であるように思われた。
現にユンファさんは今わりかし素直な横顔で、純粋に金魚たちの可愛らしさを喜んでいた。
しかし、それはあくまでも俺がユンファさんのことを愛していないことを前提としてさらけ出されていた、境界線が保たれていればこその彼の素顔だった。
恋愛は別だったのだ。
ユンファさんは何かしら性奴隷という以前に、風俗店のキャストという以前に、何かしら恋愛に関して酷く傷つけられた経験をしている。そしてそれは、まるで惨殺されたようなほど惨たらしい出来事であったようだ。
俺はにわかに、この胸の中へひんやりと差し込んでくる冷たさを覚えた。それはまるで蒸し暑い夏祭りの最中、突然の豪雨がもたらす冷え込みだった。
鋭い雨にこれ以上打たれまいと人がみな頭を隠しながら走って避難する中、俺はこの白雨にも一人打たれながら祭り会場に取り残されている。
なぜ屋内に入らないのか?
――俺は此処でずっと待っているからだ。
約束をした好きな人をずっと待っているからだ。
「……夕立は、馬の背を分ける……」
それでも俺は、貴方を諦めない。
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