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「……、…っはぁぁ…――。」
俺はユンファさんをステンドグラス前に置いて先に一人、すぐそこの二人掛けのソファにドカッとはげしく腰かけた。今俺はほとんど自暴自棄である。
なおこのソファは俺とユンファさんという大の男が二人ならび腰かけてもそれなりの余裕がある。いうなればこれは2シートソファというだけのことで、それこそ俺たちと同程度の体格の男がもう一人並んで腰かけても、その三人の誰しもが大した窮屈さは感じないことであろう。
その広々とした艶のある茶色い革張りのソファに……俺は恥も外聞もクソもない甚 だ大股開きでそれに座り、さらには片方の肘かけに肘をついて、立てたその肘の手指の爪の腹に仮面の片頬をあずける。つまり俺の頭や上半身はソファの肘掛けのほうへ傾いている。なお、俺のもう片手は貧乏ゆすりに揺れる片腿の上にある。
「……チッ…なかなか上手くいかないものだね……」
どうしてこう…――と俺は伏し目がちに考え始めた。――あのモウラのせいか?
ユンファさんは何かしら過去の出来事、――それは恋愛にまつわる過去の出来事、――手ひどく傷付けられたその凄惨な過去の恋愛のせいで、今や恋愛というそれそのものに失望している。それはもう二度と恋愛などしない、もう一度あれほどまでに傷つけられるくらいならば、もう二度と恋愛などしたくないと決め込んでしまうほどの絶望であった。
また、もはや自分なんかでは幸せな恋愛をすることなど到底見込めないというほど、彼は恋愛においての自尊心をまで完璧に失ってしまっている。それだからユンファさんは先ほど警戒し、その瞳を翳 らせ、途端に心の扉を隙間なく閉めきってしまったのである。
それほどまでに俺 の ユ ン フ ァ を傷つけた相手は……いや、それは大方あのクソドブネズミと思って間違いないだろう。――なぜならユンファさんはかねてよりモッテモテの、チッヤホヤされまくり王子様系イケメンではあったが、…いや、これは俺の熱い恋情が悪さをした誇張表現ではない。事実彼はモテていた。
しかもユンファさんがモテていたというその程度は全く尋常ではない。――甘い芳香を我知らず放つ白皙 の月下美人、美貌の彼が歩いていればそれだけで誰もが振り返る、男も女も誰もが憧れるようなやさしく賢い優雅な王子様、しかし誰もがあの人は自分なんかでは到底手の届かぬ高雅な高嶺 の華と思い、遠くから近くからあまたの羨望の、あるいは嫉妬の、欲望の眼差しがその美貌の長身を舐めなぞるようにしてやがて諳 んじる……。
まあそれこそそのスマートなフィギュア体型の長身にあの小さな甘いマスクがついて、その美貌こそ利口そうな切れ長の目に細面 と狼のような鋭さはあるが、その気の強そうな顔立ちに反して彼の性格のほうは気取らない、謙虚で誠実で常識的で真面目、誰にでも分けへだてなく優しい、面倒見もよい、凛として上品で落ち着きはあり賢いが朗 らかで明るいと、全く人好きのする好青年の性格それそのものだった。
それでいてふとした拍子に垣間見えるあの儚げな雰囲気――俺が十一年前の「あの日」にも見た、彼の自覚しないその月下美人の危険なほど妖艶な芳香――、そのミステリアスな色っぽい翳 りのある儚い雰囲気、意志の強い凛とした美しい華に垣間見える隙、押せば手折 れそうなそのか弱そうな可憐な隙、完璧な強さに垣間見える完璧な弱さ、人を惹き付けてやまないその月下美人の刹那的な芳香……。
そして、何よりその多色性の神秘的な“タンザナイトの瞳”で見つめられてしまえば、人はたちまち彼のその透き通るような美しい瞳に魅せられて虜 となる――。
……とまあユンファさんは、生来却 ってこれでモテないほうがよっぽどおかしいというような男である。
そう…月下 ・夜伽 ・曇華 という青年は、全く間然 するところのない美男子だ――が、
その一方月下 ・夜伽 ・曇華 という美男子は――恋愛にまつわる事柄に関してだけは絶望的なまでに疎 かったのである。
「……、…」
これもまた俺がかねてよりユンファさんの身辺調査を依頼していた探偵からうけとった情報である。――ユンファさんはエスカレーター式の男子校であった中学から高校、はては共学となった大学時代に至るまで、なんと実に七十人以上にものぼる男女から愛の告白をされてきたらしかった(なおこれに暗数は含まれていないため、実数はおよそそれ以上と思われる)。
その男女の比率はほぼ半々といったところか。
ちなみにユンファさんに愛の告白をしたその約半数の男、どう見ても男であるユンファさんに愛の告白をしてきた男たちはみなゲイなのか、そうそうゲイがいるはずもないだろうと思われそうなところだが、彼ほど男らしい容貌をもってしてもオメガ属、もっといえばオメガ属男性とは、世の中いわば独 立 し た 性 別 として捉 えられがちなのである。
当然彼らオメガ属も男性・女性という肉体の二極性を各々が有してはいるが、オメガ属男性は陰茎とともに膣や子宮ももっているだろう。するとベータ属やアルファ属の男性に比べて、彼らの肉体には「陰茎を正式に挿入できる場所」があるということになる。
要するにオメガ属は男女問わず「陰茎をもつ者とのセックスで生殖が可能」だ、ということである。
しかし、どうしても社会のシステムや常識というものは、圧倒的多数派のベータ属に準じている。
要するに世の基準はベータ属の男性と女性という単純な二極性におかれていることも多く、膣と陰茎の両方をもつオメガ属男性およびアルファ属女性が存在しているにもかかわらず、膣と子宮をもつ人は「女性」、陰茎と睾丸をもつ人は「男性」という、きわめて単純化した二極性のカテゴリ分けが世の中の判断基準ともなってしまっているわけだ。
すると、俺は先ほどアルファ属女性のことを鑑みて「陰茎(をもつ者)」と表現はしたが、世の中でいうところのソレとは「男性器」なのである。そしてその陰茎を持つ者というのは、今の世の中では概して「男性」なのである。
これを言い換えるのならば――オメガ属男性もまたその「男性器」をもっている一方で「女性器」をもまたもっているため、彼らと「男性」とのセックスはまっとうな生殖行為に該当するということにもなる。
もっといえば今の社会のシステムは、――近年このヤマトでも問題提起されつつあるが、――男性優位、男性を基準に構築されている。
たとえばそれはベータ属女性であってもこのシステムの社会ではキャリアが築きにくい、社会のシステム上まだ男性と女性の性差が考慮されていない部分も多いために、彼女たちもまた「女は子供を産むだけじゃない(性的魅力だけが女ではない)」と声をあげはじめているところだろう。
確かに女性というだけで出産や育児と家事に専念させては勿体ない人材も多いのだから、むしろ男や女というのを抜きして才能や能力のある人が活躍したほうが国益ともなろう時代である。――むしろ女といって舐めてかかり、性別不平等を当然のシステムとしている社会では、今の時代よっぽど国が、社会が損をする。
だがその価値観の刷新 が提起されつつある現代以前、過去は世界的にみてむしろ男性優位の社会システムこそ当然の常識であったろう。いわゆる「家父長制」というやつである。
それによって女性たちはいわば「優秀な男(次世代)を産み育てるための道具」、要するに国、政治、社会、会社、家庭、どの側面においても男性が女性や子供を支配するようなシステムが主流であったわけだ。
当然そのようなシステム下におかれてきたベータ属女性たちは、並々ならぬ苦悩と苦痛に耐えしのびながらも生きてきたに違いない。――ところがそのような男性の支配下に置かれてきた存在はベータ属女性のみならず、オメガ属女性はもとより、オメガ属男性においてもまた同様であった。
過去ベータ属およびアルファ属の男性たちは、膣をもちながらも陰茎をもち、戦争の場にも立てるほど身体能力の高いアルファ属女性をなかば男性と見なしていた一方で、陰茎をもちながら膣をもつオメガ属男性を同じ男性とは認めなかった。
それはオメガ属男性が一般に体格が華奢になりやすく、筋力や体格といった身体能力的にみれば――ユンファさんのようにアルファ属の血が濃いオメガ以外――全属性の男性中一番に劣っているということ。
また月に一度おとずれるオメガ排卵期によって、一時的に本来個々がもちうるポテンシャルが発揮しきれない状態となることや、のみならず、その一週間程度の排卵期中にセックスをすれば、ほぼ百パーセントの確率で妊娠が可能であるということ。
――ひいては、かねてよりオメガ属は生殖能力に非常に長けているとされてきたが、これを悪く捉えれば、オメガ属男女は「生殖能力しか他属性より優 る点がない」とされてきたこと。
――そういった理由づけをもって、彼らオメガ属男性は男性、ひいては高度成長期の国の働き手として換算するより、女性と見なして子供を産ませたほうが合理的な国益になるとされてきた。
要するに彼らオメガ属男性は過去、世界的に「女性」として扱われてきたのである。
なおその誤謬 した認識は、このヤマトにおいてもまた根強いものだ。
それこそ過去ヤマトにまだ王室が存在していた頃においても、王室に献上されるオメガ属たちは男女を問わずして「嫁入り」するや「嫁 ぐ」などと言われてきた――また王室入り適齢期を迎えたオメガ属たちが禊 を遂げる儀式においても、男女問わず「嫁入りの儀」と呼ばれていた――。
そして、そうした過去から続いている現代においてもその価値観は根強くのこり、オメガ属男性と男性のカップルはゲイカップルというよりかむしろ「男女 カップル」――差別的な言い方をすればノーマルな、ストレートな、正常なカップル――として世の人に捉えられることも少なくはない。
つまり、男性が(膣のある)オメガ属男性を愛することはマイノリティロマンスではなく――それは男性が男性を愛するという同性愛の図式とはならず――、むしろ男女 カップル相当の「当たり前」のことである、という認識が世の中にはまだあるのだ。
実際欧米のほうで盛んなオメガ属の人権向上運動の主張の中にも「オメガ属男性は男性だ」というのが含まれているが、そういった主張が提起されつつある現代においても、それによってオメガ属男性が完全に男性として認識されたかといえばそうではない。
世の中の人々は表面上こそ「彼らは男性だ」と認知してはいても、俗な差別的な言い方をしてしまえば、いまだオメガ属男性は「デフォルメされた女性」に近しい認識を持たれている現状がある。
それどころか現状において、それこそベータやアルファにかかわらず男の中には「オメガ専」と俗に呼ばれる性的嗜好をもつ者もいるくらいである。
これをもっと簡単にいえば、「オメガ属であったらそれだけでイケる」男が世の中に一定数いるということである――まあそれもあってオメガ専門風俗店が繁盛してもいるのだが――。
つまりもはや彼らはゲイだバイだヘテロだというセクシャリティ以前に、俗にいうところ一種の「性癖」として見られてもいるということだ。
それはオメガ属たちが、月に一度オメガ排卵期によってフェロモンという甘く良いにおいをあたりに漂わせ、それによって自ら誘うように男の性欲を刺激してしまう体質をもっていることや、また彼らが排卵期中のセックスでほぼ確実に妊娠すること、そして他属性の女性の膣に比べてオメガ属の膣は独特な形状、すなわち陰茎挿入時に並々ならぬ快感をもたらす形状の膣をもっているなどの理由から、彼らオメガ属が特に男から「性的な対象」として見られやすい傾向にあるためだ。
――なおその「オメガ専」をもっと細分化すれば、特にオメガ属男性を好むような男もいる。それというのはその男に同性愛傾向があるというよりか、オメガ属女性の膣内の構造にくわえて彼らの膣内にはドーナツ型の「前立腺」があるため、その前立腺のコリコリとした感触が癖になるのだというのだ。
要するにオメガ属はそれというだけで、男女かかわらず――ベータ属を基準とした――男性の生殖本能をそそる女性に相当した属性であるとされている。しかし、ともすればそれは他属女性より著しいかもしれない。それはオメガ属の体が生殖能力にのみ特化していると思われているためである。
よって、世の男たちはむしろオメガ属というだけで彼らの生物学的分類の女性・男性にはかかわらず、オメガ属の肉体を愛することは「男として当然の本能」に準じていると――そう認識している者のほうが多いということだ。
さて説明が長くなってしまったが、そういったわけで、オメガ属と証明する「夜伽 姓」をもつユンファさんに愛の告白をしてきた男たちのほとんどは、むしろ彼を愛したことを同性愛とも思っていなかったか――ユンファさんを男性というより(女性に近い)独立したオメガ属男性として見ていたか(むしろ何ら変哲のない愛だと思っていたか)――、あるいは「オメガ専」の者もいたかもしれないが、とにかく世の中オメガ属男性に他属性の男性が恋をする、ということは、比較的まだマイノリティロマンスには換算されにくいのである。
……とはいえ…彼を愛した男たちの中にはもちろん、彼のその美男子的な容姿から「自分はゲイなのかもしれない…が、ユンファなら…」という葛藤ありきで彼に愛の告白をした者もいたことだろう。
というのも、それこそオメガ属は男女ともに男性のパートナーを持つことが多いのだが、それは彼らのセクシャリティ以前に、まず他属性のヘテロ女性――男性を愛する異性愛者の女性――が彼らオメガ属男性をあまり求めないという事情もかかわっている。
もちろん世にオメガ属男性と女性という組み合わせのカップルがいないことはないが、その組み合わせは極少数派である。それは先ほど述べたような世の中の価値観に付け加えて、オメガ属男性に膣があるないという以前に、華奢で少年的な(中性的な)容貌の者が多いオメガ属男性には、おそらく女性たちの目から見て男性的な魅力が感じられにくいのであろう。
ところが――ユンファさんに愛の告白をしてきた者たちのおよそ過半数は女性である。
つまり彼に惚れてきた人々は、むしろ女性のほうが男性よりすこし多いくらいであったということだ。
もちろんそれは当然といえるだろう。彼は一般的なオメガ属の特徴よりか、よっぽどアルファ属男性の特徴を兼ねそなえた男らしい容貌をもって生まれている。
そのスラリとした長身に冴えた鋭さのある細面の美貌、低くも甘い爽やかな青年の声、付け加えて人たらしともいえるような愛らしいその性格――まさに彼は誰の目にも王子様として映るといって差し支えないような美男だ。
そのため、ユンファさんに愛の告白をしてきた男たちの中にはもしかすれば自分のセクシュアリティが同性愛傾向なのかもしれない、そう葛藤した者もいたのではないかと、俺はそう思ったのである。実際俺も十一年前の十三歳の頃から自分はゲイだと自覚していたが、その上で美男子たるユンファさんに恋をしている。
しかしそうして男女の垣根なくあまたの人に惚れられてきたユンファさんに、(ある意味では奇跡的に)あのモウラ以外に恋人がいたという記録はなかった。
それこそまさに選り取りみどり、人と交際するチャンスは並の男が本気で妬むほどいくらでもあった彼だが、そもそも学生時代の彼は全く恋愛に対する興味関心が無かったらしい。――が…これはもはやそ れ 以 前 の 問 題 、というところもある。
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