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            「…………」   「…………」    ステンドグラスのほうで穏やかに流れている、ちゃらちゃらとした小さいはずの水の音が、まるで俺の耳の奥でその川が流れているかのようにはっきりと聞こえてくる。今においては却って耳障りである。だが、耳を塞げど意味はない――俺はその音を聞きながら、ただじっとユンファさんのうつむいた横顔を眺めていた。ユンファさんの悲しい考えを外から眺めていた。    しかし、再び俺たちの間に憚る沈黙の体積がこれ以上ひろがることを恐れたユンファさんは、はたとその美しい顔を上げてゆっくりと左右に動かし、改めてこの広い豪華な室内を見まわす。 「…はは、こんなに素敵なお部屋…本当に緊張してしまうな……」    そうユンファさんは困ったように笑った。笑いながらも彼の眉根はわずかばかり寄っている。   「…………」    俺はそれに何も言えない。  この部屋をゆっくりと見まわしているユンファさんのその横顔には、先ほどステンドグラスや金魚たちに向けられていたような喜びは見えなかった。  それこそ彼はイエス・キリストたちの描かれたステンドグラスや金魚たちには心から感動し、心から「綺麗」だと喜んでくれていた。ところが今はどうだろう。今その横顔にはむしろ自己卑下的な恐縮がほのめいている。  いや――そもそもユンファさんがこのスイートルームで喜んでくれた場所とは、(はな)からその二ヶ所のみのことであった。  俺とこの部屋の中を見て回っていたとき、ユンファさんは隅々まで豪勢なこの部屋の造りに感動するどころか、むしろ『にわかには信じられない』と冷ややかなまでに思っていたのだ。   「…此処に来るときもドキドキしました…」とユンファさんは顎を下げると、ふと隣の俺に顔を向ける。   「まさかこの部屋専用のエレベーターがあるとは思わなかったもので、…エレベーターに乗り込むときも、正直本当に合っているのかどうか不安でしたし……」   「…………」    俺は「そう」と相づちを打つこともできないで、ただ何も言わずにうつむいた。  育ちの良いユンファさんは元より上品な気質の人である。そうして明言はしないが、いま彼は要するに『このスイートルーム、この一晩で一体いくらくらいしたのだろうか』などと恐ろしく思ってすらいるのである。  脚を組んでソファに座っている俺は、伏せた目線の先にある、上の片脚の膝頭にかさねた自分の両手を見下ろしている。俺の象牙色の長く太い二本の親指が交差して手前にある。俺はその自分の親指を意味もなく眺める。   「俺のことを…馬鹿な金満家だと思われますか」    俺は不安から彼に卑屈な質問をしてしまった。  しかしユンファさんは慌ててこう否定する。   「…そんなとんでもない、そんなこと少しも思っていません。…ただ、僕のような庶民からするとちょっと…正直驚いてしまったんです、…その…来てみたら凄く、普段なら想像も出来ないほど此処が豪華なお部屋だったものですから…――すみません、そんなつもりではなかったんですが、もしご気分を悪くされたなら……」   「…いや…別に気分を悪くしたというわけでもないのだけれど…、……――。」    平易な言い方をするならば、俺は今モヤモヤしているのである。  ――俺がユンファさんにこの部屋の中を案内して見せたとき、それこそこの部屋のガラス戸から見えるロマンチックな夜景、プラネタリウムと天蓋付きの立派なひろいベッド、今も目の前にあるこのローテーブル上の非日常的な焚き火、…どこにしても何を目にしても、彼は終始(きり)がかったような薄笑いに近いような顔をしていた。  つまり、あのときのユンファさんはほとんど困惑してばかりだったのだ。    そのときの彼の困惑の内訳とはこうである。  ――『また随分豪華な部屋だな…。確かに注文書には“自分の本当の恋人として一晩を過ごしてほしい”とはあったが……』  そう…ちなみに『DONKEY』は公式サイトからの指名予約の際、希望するプレイ内容(例えばイメプレ的な設定やキャストにしてほしいことなど)を記入する欄があったので、俺はその記入欄に『当日は私のことをユエさんの“本当の恋人”にしてください。もちろんユエさんもその一晩は私だけのもの、つまり私の“本当の恋人”になってください。当日は“本当の恋人同士”として、ユエさんには私と共に甘い一晩を過ごしていただけたら。』と注文をしていたのだった。なおこれは原文そのままである。    さて、続きだ――『確かに注文書には“自分の本当の恋人として一晩を過ごしてほしい”とはあったが……だからといっても普通、たかだか()()()()()()()のためだけに、ここまで豪華なスイートルームを取るものだろうか…?    恐らくだが、いやらしい話、この部屋――たとえ一晩でも、下手すると三桁もその百の位が1かどうかさえわからないような、それくらいの目が飛び出るような値段で何もおかしくはない部屋だろう。    正直にわかには信じられない……それこそ僕が、これからもずっと彼と関係が続いてゆく本当の意味での彼の恋人であるならばまだしも、彼に指名されたからこそこの部屋に来た風俗店のキャストである僕は、彼にとってもまた、あくまでも一晩の設定としての「本当の恋人」でしかないはずだ。  つまり()()()()()()()()()でしかない僕なんかのことを、彼はなぜこんな高級5つ星ホテルの最上級スイートルームに招いたのだろうか…?   別にラブホテルでも十分それっぽい部屋なんかいくらでもあるはずだろう。それなのにたかが一晩遊ぶだけのことで、わざわざこんなに豪華な部屋を取るだなんて…彼、一体何者なんだ…?    僕なんかを喜ばせて何になるというんだ?  正直ここまでしても、それで風俗店のキャストを喜ばせたところで、刹那的なメリットしか生まれないはずじゃないか。少し怖くなってきたくらいだ…まあ別に悪い人ではなさそうなんだが……。  いや、彼はいわゆる()()()()()()()()なのかもしれない。設定に物凄いこだわりがあるだとか……でもだったら、ふつう注文書のほうももっと事細かに書くはずじゃないか? 注文書にあったのはそれこそ、「本当の恋人同士として」ということだけだった。これは他のお客様に比べればずっと漠然としている設定内容だ。あるいは恋人関係というのにさほど詳しい設定なんか要らないと思ったのかもしれないが(僕としては少し困るけど…)。  ……まあ…あくまでもこの一晩の内は、僕は彼の「本当の恋人」ということになっているから…か。遊びにも本気な人、というか、僕には想像もできないような物凄いお金持ちの豪勢な遊び…単にそれだけのことなのかもしれないか……』    つまりユンファさんはたかだか性欲発散、それに兼ねても自分の性的嗜好を満たす目的で指名をしたのだろう風俗店のキャスト(ユンファさん)を、俺がわざわざこのような高級5つ星ホテルの、それも最上級スイートルームに招いたことに酷く困惑していたのである。    そして今しがたもユンファさんは、また改めてこう思っていた。  ――『やっぱり、つくづく不思議でしょうがない……。  どうして彼、こんなに豪華で素敵なスイートルームに、僕なんかをお招きくださったんだろう…?  僕はもしかしたら、今…何か、妙な夢でも見ているだけなんじゃないだろうか…。さっきからずっと、僕はまるで夢を見ているような気分だ……。    だが――僕なんかが、本当に此処に居てもいいんだろうか…?    こんなに素敵な場所に――僕なんかが、こんなお城みたいな豪華で素敵な部屋に居る……信じられない。本当に信じられない……ついさっきまで僕は、確かに性奴隷だった。いや、僕は今も確かに性奴隷だ。    それなのに――僕は何故か…何故か僕なんかが、こんなお城のような豪華なスイートルームに居る。    嘘みたいだ……――夢、みたいだ。  僕の隣にいる彼も…まるで夢みたいな人だ。  どうして彼は僕なんかに、こんなに優しくしてくださるのだろう。「DONKEY」にだって他の風俗店にだって、わざわざ僕なんかを選ぶ必要などないくらい、綺麗で素晴らしいキャストはいくらでもいるはずだ。  それなのに……たまたま、だろうか。たまたま僕が目についたから、だろうが。もちろん適当に選ばれただけだろうが。    でも、こんなに優しくて美しい男性が、何故か僕なんかの隣にいる……信じられない……馬鹿げた表現だが、僕はこのお城のような部屋に感化されたのだろうか、本当に馬鹿馬鹿しいが…彼はまるで、童話の中に出てくる王子様のような人だ。  彼は立ち振る舞いも言葉遣いも優雅で、優しくて、…そして、何もかも現実的じゃない人だ。    とても僕なんかでは、此処に居るというだけでさえ烏滸(おこ)がましい。それこそこのことがご主人様にバレたら、僕は分不相応だとお仕置きを受けてしまうことだろう。…だが、それは言ってしまえば当然のことだ。  僕なんかには何もかもがとても贅沢すぎる。僕なんかには本当に勿体無い…僕なんかにはとても相応しくない。とても……これはきっと、夢なんだ……』      貴方だからだよ…ユンファさん。  そしてこの部屋こそ貴方に相応しいからだ。  ――つまり…俺は十一年間想いつづけてきた初恋の彼が今自分の隣に居ること、いや、むしろ俺が月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という美男子の隣に居ることをにわかには信じられない奇跡だとさえ思い、十一年経てどなお美しく愛おしい完璧な彼のその存在を理想的な俺の夢のようだとさえ思い、そして、今という喜ばしいこの瞬間を『まるで夢のようだ』と思っている。    ところが一方のユンファさんは、自分には分不相応なこの部屋、高級5つ星ホテルの最上級スイートルームに居る自分が――この世のどのような存在にも劣る薄汚い性奴隷の自分が――、このような贅沢の限りを尽くした綺麗な部屋に招かれたということが信じられない、また自分のような性奴隷にとことんまで優しく接し、自分を尊重してくれる美しく若い男の俺がまるで夢の中の存在のようだと、つい先ほどまでは下等な存在として虐げられていた自分の世界が、この部屋に来た途端に180度変わったような今が恐れ多いと、『まるで夢のようだ』と儚く思っている。    言葉にすれば俺たちは全く同じ気持ちを抱いている。しかし事実は違う。同じではない。『まるで夢のようだ』という俺の気持ちは喜びによく()れて今にも浮かれた甘い香りを放ちそうだが、一方のユンファさんの『まるで夢のようだ』という気持ちは青褪めて硬く、彼の自己卑下というその重圧によって地面へ落ちればそのまま割れてしまいそうだ。    知らなければ――見えなければ、幸せだった。  俺にとってそう思うことは何も珍しいことではない。しかし、今さら目を塞いでももう遅い。  耳の奥で流れている川の音と同じである。耳を塞いでもどうしようもない。むしろ耳を塞いだほうがその音はより大きくなる。ふとした瞬間に目が合ってしまったものは、既に見てしまったものはもはや無視などできない。まして俺は期待までしてしまっていた。だから見てしまった。あるいは彼の心の奥に、本当の意味で俺と同じ気持ちが隠れていやしないか。そんなもの無かった。  そしてもう一つわかってしまったことがある。  今のユンファさんの現実というものは、あのケグリが創り出した地獄に準じている。そして彼の真実というものも、あのケグリが彼に日毎吹き込んでいる傲岸不遜な嘘の言葉やその不当な乱暴な扱いに準じている。ユンファさんは自分が今置かれている境遇やその不当な扱い、ケグリどもに刷り込まれた最低な自己価値など、そのすべてを何ら不当だとも思っていないどころか、むしろそれこそが自分の真価であり、すべて正当なものだとさえ思っている。    今のユンファさんにとっては俺が嘘で、ケグリが真実なのだ。  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。  俺はユンファさんにとって(きり)にも幻にも煙にも似たような不確かな存在であり、一方彼の中に在る確固たる絶対的な存在、彼の現実としてその人の胸の中に憚っているのはよほどあのケグリなのだ。    良いほうを信じるか、悪いほうを信じるかという二択を突き付けられたとき――今のユンファさんはなお悪いほうを信じてしまう。今彼は()()()()()()地獄で暮らしているからである。  俺は胸の中の腹のほうまで沈みゆく息苦しさに、自然と大きく息を吸い込んでいた。――俺は我ながら何と面倒臭い男だろう。――しかし隣にいるユンファさんを大そうなため息で責めることのないように、俺は努めて鼻からそれを音もなく逃してゆく。   「……、まぁ要するに…貴方にとってはむしろ、こういうスイートルームはプレッシャーになっているのかなとも思えてきてね……、……」    俺は自分の落ち込んでいるような小さい掠れ声にハッとする。俺は普段ならば声色をさえ最適なボリュームと調子に整えて出すような嘘つきだった。ところが俺は今、自分の胸の中に沈みこむ失望に自分の声帯を支配されている。これは俺にとって驚くべきことだった。――俺はきまり悪い思いに、自分の喉仏をつまんで咳払いをした。   「…………」   「いいえ、プレッシャーだなんて全然。」    と先ほどまで『自分なんかにはこのような最上級スイートルームは相応しくない』と卑屈に考えていたユンファさんが、途端に朗らかな声を出した。   「むしろ、こんなに素敵なお部屋に呼んでいただけるなんて物凄く光栄というか、…僕なんかじゃなかなか経験出来ることでもないので、楽しんだ方が得かなとも思えてきました、はは…」    俺はさっとユンファさんに振り向いた。  笑っている彼のその瞳には、その人の「勘違い」が何の恥じらいもなく堂々と居座っている。   「勘違い、しないで」    今ユンファさんは悪気のない勘違いをしている。  ――彼が今に見たその偽物の明るい陽光、彼が今しているその()()()のおかげで、どうやら彼の疑念という薄曇りは途端に晴れ間が差したらしいのだ。        

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