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「…え、勘違いですか?」
僕が何を勘違いしただろうと、ユンファさんは俺を見て目を瞠る。
「………、……」
俺は何も言えずやおらまた目を伏せた。
ユンファさんは先ほどから疑問に思っていた事柄に対し、今しがたもっともらしい一つの答えを快活に見出した。――しかし、それは全く彼の「勘違い」である。
――『そうか…思えばラブホテルじゃ、彼 が 駄 目 だ っ た んだ。これほど高そうで豪華な部屋を遊びの一夜に取れるだけのお金持ち、そして、彼は仮面で顔を隠してもいる。つまり彼は単なるお金持ちというだけじゃない。彼は風俗店の利用には素性を隠さなければならないくらい、社会的地位が高い人でもあるらしいということだ。…』
――『すると、つまり安いラブホテルなんかじゃ彼、セキュリティ面がまず不安だったんだろう。
たとえば彼が風俗で遊んだことが万が一世間にバレてしまったら、言うなればそれだけのことであっても(パートナーがいる場合はともかく、風俗店の利用自体に不法性はない)、彼はたちまち世の人に吊るし上げられてしまうような凄い人なのかもしれない。
いや、それはそうだろう。アルファ属、お金持ち、素性を隠すその仮面……思えば簡単なことだったじゃないか。…つまり僕がこの部屋に相応しくない性奴隷だろうと、また一晩遊ぶだけの風俗店のキャストだろうと、まず僕がどうこうではなく、要するに、彼こそがこれくらいの最高ランクのホテルと部屋が必要だったのだ。
優しくてロマンチックな人である彼は「僕のためだけに」なんて言ってくれていたが、むしろ彼はほとんど彼 の た め に この最上級スイートルームを取ったんだろう。…僕のためにというのは、(ステンドグラスのこともあるし)まあそれが本当だったとしても…せいぜい次点、といったところじゃないか』
「…全く、察しがいいね……」
と俺は目を伏せたまま呟いた。
それが一理ないとは言わない、…俺はむしろ彼のその推測を「一理も無い、無い、無い」と断言とともに笑い飛ばしてやりたいところだが、俺にとってそれは願えど叶わぬ夢、やったところで真っ赤な嘘である。
……俺は確かに、事実人よりセキュリティ面を重視しなければならない身分――九条ヲク家の子息――であるからだ。そして、だからこそ俺は今夜この仮面を着けている。そうだからこそ、俺は「カナイ」と身分を偽って今ユンファさんの隣にいる。
外にいればなお一瞬一瞬絶え間ない警戒と守備とを強いられ、そして素性を隠していようがなんだろうが、俺はどこにいても何をしていても常に完璧な立ち振る舞いを意識していなければならない。それは万が一他者に俺が九条 ・玉 ・松樹 だと悟られる場合に備えてのことである。――たとえ「カナイ」扮している今夜であろうとも、俺は九条 ・玉 ・松樹 という名前の鎖からは逃れきれない。
俺がこの部屋に来てまず一番に何をしたか?
――『DONKEY』へかけた確認の電話ではない。
俺はその前に、まずこの部屋の中に自分以外の誰かがいないかどうかを確認した。それからベッドの下や蛇口、電話機、コンセントなど、部屋のあらゆる場所に隠しカメラや盗聴器がないかどうかをつぶさに調べた。なお幸いそれらは無かった。
これはもはや俺の習慣的な行動である。
モグスさんがいるときは彼がそれをやってくれる。それは比較的安い料金のラブホテルやビジネスホテルか否かにかかわらず、どれほどの高級ホテルであろうが、九条ヲク家に生まれた俺は、こうした潔癖なチェック無しには安心して宿泊施設を利用することができないのである。
とはいえもちろんホテルのランク、もっといえばホテルの利用料金とセキュリティ面の充実度は確かに相対的な関係にある。まさか眠れればよいビジネスホテルや、遊べればよいラブホテルとこの5つ星ホテルのセキュリティ面は、もはや比べようもないことだ。
そして事実俺は、この高級ホテルを選んだ理由の一つに「セキュリティ面の充実」というのがあった。
――要するにユンファさんのその推測は、悔しいが間違ってはいない。
間違ってはいないが――間違っている。
一理はある。だが、それだけのことならば別段この最上級スイートルームを取るまでのこともない。それだけのことならば、この高級5つ星ホテルでもそれなりの部屋で十分事足りるのである。例えばスイートにしても、この部屋のような「最上級」を取る必要はない。
俺はあくまでもユンファさんのために、この高級5つ星ホテルの、この最上級スイートルームを取ったのだ。
三桁の百の位が1かどうかさえわからない?
……さすがの俺でも、セキュリティ面の心配だけでそれだけの金を一晩にポンと出すような馬鹿な金満家というわけではない。日頃から締めるところはきっちりと締め、金を出すべきところには出し惜しみをしない。それが俺の主義である。
――いま金を出さないでいつ出すというのか?
初恋の人であるユンファさんと約十一年ぶりにも再会できるという記念すべき今宵において、ラブホテルやビジネスホテルは元より、どうして中途半端なスイートなど取れるというのか。
ユンファさんは「勘違い」している。
……俺だってこのランクのスイートルームを自分の支払いで個人的に利用したのは、これが人生で初めてのことだ。国内外の社交パーティーに出席するときなどに親の金でならば何度かあるが、しかしそれというのも九条ヲク家であればこそ、そうでなければならないが故のことだった。
しかし俺は今夜のために、自らこの高級5つ星ホテルの最上級スイートルームというもっともランクの高い部屋を選んだのである。
ユンファさんの、ために…――。
ところで――俺は先ほどつい言ってしまった。
俺の特殊な目が見たユンファさんの内に存在する「勘違い」を、俺はつい指摘してしまったのである。幸い何が彼の勘違いかということまでは言っていないが。…とにかくうまいこと言わねばならない。
俺は沈黙していたが、目を伏せたままに何とか笑う。
「…はは、そう…勘違いだよ…。貴方はご自分のことを庶民だと言ったけれど、俺だってこれほどのランクの部屋は、流石 に特別な日にしか利用しない。…何なら最上級スイートルームだなんて、俺も今夜人生で初めて利用したんだ。俺だって…これでも浮かれているんだよ」
「そうなんですね。…特別な日、か…」
「……、…」
俺はふとまた隣へ振り返った。
ユンファさんはその微笑を俺のほうに向けていた。彼のその微笑は、まるであのステンドグラスに描かれている聖母マリアのそれである。
ミリ単位で計算し尽くされた硝子 の微笑みはひくりとも動かない。ユンファさんのその申し分ない美しい微笑みは、あくまでも自分の立場の義務通りに、俺が今から口にするだろう言葉をすべて呑み込み、受け入れ、ゆるし、そしてすべらかく「ありがとう」という心積もりの済んだ微笑である。
「…何故俺が…このような部屋を取ったと思う…?」
ユンファさんは俺のこの質問を待っていたのである。俺は反抗できなかった。それでも俺は彼に期待していた。
「…僕のことを喜ばせようと…? 特別な日…そうですよね、僕と貴方が初めて出逢った今日は、本当に特別な日ですから。…ありがとうございます、こんなに素敵なお部屋を…、…っ」
俺の手が素早く彼の顎を掴んだ。グッと無理に顎を上げられた彼はハッと怯えた顔をする。
「…ハッ…貴方の頬は、何と白くて清潔なのだろうね…?」
俺の声は喉仏のあたりにこもっていて低い。
実をいえば、俺は今すこし泣きそうなのである。
「……、…、…」
ユンファさんはうすく開いた唇をふるふる震わせながら、怯えた藤色の瞳でたじたじと俺の目を見ている。俺は彼の顎を掴んだまま、彼の顎のほうから四本指の爪の腹で、彼の頬をゆっくりとなぞりあげてゆく。
「…貴方の頬はまるで…よく磨き立てられた大理石のようだ。白く澄み渡っていてとても綺麗だよ…、とても清潔で気高く、信じられないほど美しいが…――」
俺はたどり着いたユンファさんの頬骨に人差し指の爪を立て、つーー…とかすめ下がってゆく。
「とても硬く、とても冷たい。」
こう言った俺の声は冷ややかで低かった。
この頬に媚びた血肉の色さえあれば、あるいは俺はまだ報われたのかもしれない。この頬に爪を立てて赤い彼の血を見れば、俺は…――。
「……貴方もご存知なのでしょう…。俺が驚くべき大金持ちで…そして仮面を着けて顔を隠している俺が、驚くべき社会的地位を持っているということを…」
「……、…、…」
ユンファさんは怯えた目をしながら浅くコクコクと頷く。俺は途端に弱々しい声で彼にこう聞いた。
「…目の前にそんな人がいることに対して、貴方はどう思われます…?」
「……え…? ……」
彼は一瞬その瞳をくらっと揺らしてうろたえると、おもむろに目を伏せる。
――『どう……って…、そりゃ、凄い…凄いと思う…それと、僕と彼とでは住む世界が180度違うんだなとしか……』
「……、ふっ…――貴方って…本当に綺麗。…今の質問は忘れていただいて結構です…。……」
俺はユンファさんの顎と頬から手を離し、そして目を伏せながらうつむいた。
「……はぁ……――。」
ユンファさんのその高潔さが妬ましい。
もっと別の勘違いをすればよいものを、もっと下品になればよいものを、もっと浅ましく卑しくなればよいものを――何故そう貴方は綺麗なままなのだ。
何故、何故、何故、何故――。
俺は例え貴方がさもしい人であったとしても、貴方ならばむしろ喜んで、貴方のその欲望を全て十二分というほど満たしてあげようと思っていたのに。
およそ一千万もの借金を背負う貴方が……。
身も心もすり減らし、ろくに眠ることさえ許されない過酷な環境で朝から晩まで犯され、日々身を粉にして懸命に働いたところで――その一日に返済されたと見なされる金額、たったの一万円ぽっち。
それもその借金の額は日毎 増してゆく、永遠に完済の見込みなどない一日ごとかさ増しされゆく借金、それが意味することとはすなわち――貴方は永遠に、あのケグリの性奴隷でいなければならないということだ。
人としての最低限の尊厳をさえ奪われ、例えその美しい体で何千万と稼ごうがその全てを搾取され、毎日なじられ、罵られ、好き勝手乱暴に犯され、隷属を強いられる日々――そのような地獄の日々がこのままでは死ぬまで続いてゆくということを、貴方もその硝子の瞳の奥に宿した絶望をもって知っているはずだ。
当然抱 かれるべき絶望、当然そう認知されるべき地獄、……それなのに、何故……?
貴方は何故それでも俺に――勘違い、
…いや…期待をしてくださらないのですか。
金の光は阿弥陀 ほど――。
困窮という地獄に堕ちた人にとって、金とは仏の救いに相当するものである。ともすればいるかもいないかも不確かな仏の掌 より、確実に存在し世の中を幸福にも不幸にもしている金というもののほうが、よほど地獄にいる人を救 い上げられるものなのかもしれない。
この世における蜘蛛の糸とは、その人の目の前に置かれる金である。そしていつの世でも、それになりふり構わず縋り付くのが人間というもの……。
地獄の血の池に沈められて、絶え間なく針山に責められている人間に、善だ悪だなどという気取った思考ができるはずもない。――目の前に蜘蛛の糸を垂らせば、きっと彼はその糸に縋ることだろう。
そのまま誰にも邪魔させず、俺のもとへと救い上げて……そうではないことを、そう上手くゆくはずもないことを知りながら、俺は我知らずそう企んでいたらしい。
しかし人間は、金は、本物の仏にはなれない。
――銭あれば木仏 も面 を返す?
とんでもない……ユンファさんは俺が大金持ちのおよそ権力者とわかっていてなお俺には振り返らない。
彼は今もだからといって俺に媚びようだとか、俺に取り入ろう、おもねよう、俺を利用しようというような不純な考えを一切もたなかった。彼は自分の立場から一寸 も動かない。彼はただ自分に課せられた義務を完遂しようとしている。それだけだった。――まるで蓮池に浮かぶ玉のような好 い匂 の白い花……ユンファさんの魂は今もなお極楽の蓮池に浮かんでいるままだ。彼は知らない。一見すればその蓮池に映った地獄の血の池に浮かぶ白い花であろうとも、本当は自分が、地獄の血の池に浮かんでいる白い花ではないということを。
それだからか、ユンファさんはその「大金持ちの権力者」にここまでのことをされて――高級5つ星ホテルの最上級スイートルームに「貴方に喜んでほしくて」と招かれていて――なお俺がしてほしい「勘違い」をしない。いや、彼の場合なら正しくは「期待」というべきだ。
――これまで人は俺の権威と金とこの美貌に恋をしてきた。
アルファ属、九条ヲク家の権威があり、有り余るほどの金があり、この年にして大成しているほどの才能がある、若く美しい将来有望な男。――しかしこの場合の「将来有望」とはあくまでも俺の未来のことではなく、俺に寄り添おうとする者の未来が有望である、安泰であるという皮肉な意味であった。
だが俺はそれでもよかった。ユンファさんならばそれでもよかった。
たとえ理由は何であろうとユンファさんが俺の側に居てくれるのならば、彼がその選択を自分の未来のために企んでくれるというのならば、俺はそれでもよかった。
あるいは自分にここまでの贅沢な部屋を用意してくれたということは、自分にこれだけのことをしてくれたということは、きっと俺には自分に並々ならぬ好意があるのだ、と…俺はそうユンファさんに期待をしてほしかった。
俺は、これまで俺に接してきた人々のようにそうした「勘違い」を――俺はユンファさんにこそ、その「期待」をしてほしかった。
ところが彼はこの眩しいほどの金 の煌びやかさにはむしろ当惑し、むしろ警戒し、むしろその瞳を曇らせ、むしろ彼は、この権 威 的 な スイートルームの所々 から目を背けることさえあった。俺に悪いと思って所々にそれらしいリアクションをしてくれてはいたが、それは角が立たないようにという以上の何ものでもなかったのである。
ユンファさんは此処に来てから今にいたるまで、自分が俺に「特別扱い」されているとは露ほども考えてくれない。――しかしそれは、それこそが俺の真実の想いだった。
もちろん俺だってはじめから、まさかユンファさんがこのスイートルームに欣喜雀躍 とまで大喜びしてくれること、そこまでのことなど求めてはいなかったし、望んでもいなかったつもりだ。構わないと思っていた。ユンファさんの困惑も何もまあ当然だろうと、
……だけれど……。
……駄目だ、わからなくなってしまった。
もうわからない。――自分のその「だけれど」に続く何かが、俺にはもうわからない。
まあ少なくとも、今の俺にでもわかったことがある。俺は気が付いてしまった。
俺は自覚なく金で面 を張ろうとしていたのだ。
――要するに俺は、有り余るほどもっている金を誇示してユンファさんの心を買おうとしていた。
現に俺には、このスイートルームに「イニシャルコスト」などという下品な思いがあった。
だから俺は、この高級5つ星ホテルの最上級スイートルームを選んだところもあったのだ、と――卑しいのは、浅ましいのは、下品であったのは、よっぽど俺のほうだった。
ただ、もちろん嘘ではない。
俺は本当にユンファさんに喜んでほしかった。
そして俺は、月下 ・夜伽 ・曇華 という人の本来の品位にもっともふさわしい部屋を選んだ。それこそが此処、この5つ星ホテルの最上級スイートルームであった。
それは嘘ではない。本当だ。それも俺の真実だ。
だが俺は、まさか自分が金持ちであることを誇示するためにこのスイートルームを取ったわけではない。
――そう……それは、嘘、だったのかも。
俺のどこかしかには金満家であることをユンファさんに示したいという思惑があった。
もちろんそれは彼に金を見せつけてくだらない自慢をしたかった、というわけではないが。
――この贅沢の限りが尽くされたスイートルームをユンファさんに見せ付けることで、あるいは彼が俺の気持ちに気が付いてくれるのではないか、彼が俺に気持ちを寄せてくれるのではないか。
そうでなくとも、金の面で今困っている彼が下心でも俺の恋人になろうとしてくれるのではないか、彼が俺に頼ってくれるのではないかと、俺にはそのような下心があったらしい。
それこそ今のユンファさんは、喉から手が出るほどに金というものを求めているはずだった。そして俺は我知らず彼のその困窮に漬け込んで、彼の心を得ようとしていたらしいのである。
ところがユンファさんは、相変わらず憎らしいほど高雅な人であった――。
これは度しがたい下世話な話だった。
結局これでは、貪戻 な成金がその有りあまる金を誇示するために、手の指すべてにくだらない大粒の宝石を着けて見せびらかしているのとそう大差ないことだ。――いや、むしろこれは、足の指のすべてにまでその宝石の指輪を嵌めて見せびらかしているような滑稽さである。
イニシャルコストとは嘆かわしい下品さだ。
高級5つ星ホテルの最上級スイートルーム――イニシャルコスト、費やした額が大きければ大きいほどに愛もまた大きいのだと、あるいはそのことに気がついたユンファさんが俺に恋をしてくれるのではないかと、金額という数字で示そうとした愛の重さ、天秤がひっくり返りそうなほど深く傾く、片方の皿の裏が地に着いた下劣な様、それほど積んだこの金貨こそが、これこそが貴方への俺の愛の証です。
俺はそのようにしてユンファさんへ、愛のつもりのくだらない金貨を見せびらかしていただけだったのである。
確かにね――。
ラブホテルでも十分だったのかもしれない。
むしろそのほうがよかったのかも。
――俺はやっと気がついた。
自分のその卑しい下心にやっと気がついたのだ。
俺は金で、権威で、月下 ・夜伽 ・曇華 という美男子を得ようとしていた。
我ながら滑稽なことだった。
月下 ・夜伽 ・曇華 という人は、まず肩書きや権威や金になどなびかない。…彼がはじめからそう簡単な人ではないことを、俺はよくわかっていたはずだった。
――彼は「あの日」にも、アルファである俺に対してなんら臆するところのなかった人だった。
そして俺は、月下 ・夜伽 ・曇華 のその気高い魂に惚れ込んだのだ。
しかし皮肉なことに、俺とユンファさんとの関係が発展するにおいて壁となっているのもまた金なのである。
設定などではなく、単なる一晩限りのロールプレイングではなく、俺がユンファさんの「本当の恋人」であったならいざ知らず、……そう…――『正直にわかには信じられない……それこそ僕が、これからもずっと彼と関係が続いてゆく本 当 の 意 味 で の 彼 の 恋 人 で あ る な ら ば ま だ し も 、彼に指名されたからこそこの部屋に来た風俗店のキャストである僕は、彼にとってもまた、あくまでも一 晩 の 設 定 と し て の 「本当の恋人」でしかないはずだ。』
ただの一人の客にどれほど贅沢の限りを尽くされたスイートルームへ招かれたところで、結局ユンファさんは何を思うわけでもない。――それだからといって何か特別なケミストリー が起きようもない。
ユンファさんにとって自分はあくまでも風俗店の一キャストであり、あくまでも俺は「キャスト月 」を性欲処理の目的で指名した一人の客である。そうでしかない。俺は金を払ったからユンファさんを抱く権利をあたかも正当に得た立場である。そしてユンファさんは俺が払った金の対価としてその肉体を俺に与え、そのサービスの一環として俺の「本当の恋人」を演じるべき立場である。
彼にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。
要するに俺たちを繋ぐものは愛だ恋だはもとより、友情や親愛などといった何かしらの感情ではない。
金である。
あくまでも今の俺とユンファさんとの関係性には「無償の」なんて綺麗な修飾語はつかない。あくまでも俺たちはWin-WinだとかGive&Takeだとか、そういった冷ややかな責務からは免れられない。
今夜はあくまでも「お遊びの一夜」なのだ。いわばおままごと、恋人ごっこの一夜なのだ。
たとえ簡素なビジネスホテルだろうが下品なラブホテルだろうが、はたまたこの最上級スイートルームだろうが――所詮俺たちがや る こ と など一つ、ユンファさんにとっては大した意味もない。
知ったことではないのだ。
俺がどれほどこのスイートルームを吟味して選んでいようが、たとえこのスイートルームにどれほどの金を払っていようが、それは客の俺が勝手にそうした場所に彼を招いたというだけのこと。
ユンファさんにとっては、全部どうでもいいこと。
いや――誰よりも浅ましいのは俺だった。
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