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              「……ごめん…乱暴なことをしてしまって……」    俺はソファに座ったまま組んでいた脚を組みかえた。きまり悪い思いに落ち着かなかったのである。うつむいている俺が目線を下げた先、俺が穿()いている黒いスウェットパンツに、俺の膝頭の骨の形が小山のように浮かびあがっている。   「……ら…乱暴…? いえ、そんな…」    ユンファさんは引き続きうろたえている。   「あれくらいのことで乱暴だなんて…いえあの、何も謝られるようなことではありません、僕は別にさっき、痛くも(かゆ)くも……」   「…本当にごめん……自分が、恥ずかしい……」    ――今にも死んでしまいたい。  酷い羞恥心が赤い炎となって俺の耳を熱している。   「…それに…こんな部屋ではまるで、俺が金持ちであることを貴方に誇示しているようだったでしょう…」   「…え…?」    俺の隣で茫然(ぼうぜん)としているユンファさんが、かすかな声で聞きかえす。   「…いいえ…そんな、…僕は別に、そんな(ふう)には少しも…」   「正直…今にもこのスイートルームから出て行きたいくらいなんだ。恥ずかしくて、…今にも死んでしまいたい…、……」        俺はローテーブルの上の焚き火を呆然と眺める。        ――すると幻が見えだした。        俺は、まず目の先にある焚き火が揺らめきながら燃えさかる紅蓮(ぐれん)の炎となる幻を見、次にその炎の中にもくもくと立ちこめる黒煙の幻を見る。これはまるで火事場のミニチュアである――。    そして次第に――赤い炎の中に閉じこめられて(うず)を巻いているその黒い煙が、みるみるとこの華美なスイートルームの室内、この二人掛けのソファの形となる。  黒い(もや)の煙でかたどられたソファに座る二人の男、そのうちの一人の黒い人影が早急に立ち上がり、なりふり構わずバルコニーへと駆けてゆく――黒い人型の靄が強欲な偽の宝石の輝きに身を投じた。    多色のギラギラとした鮮烈な光をはなつ宝石の海を頭から真っ逆さまに落ちてゆく、落ちてゆく…落ちてゆく…――そこで宝石の隙間に沈殿していた(おぞ)ましい黒闇(こくあん)が、真っ逆さまに落ちてゆく人影へと無数の黒い腕を伸ばす。  その黒闇の腕は無数の黒い蛇のようにその人影に絡みついてまとわりついて、暴れる人影はやがてその宝石下の黒闇に引き込まれ、(うず)もれ――宝石とその下の黒闇に()み込まれた。そして次の瞬間には、単なる赤い炎のゆらめく先端からもくもくと立ちのぼる黒煙が残るのみである。  黒闇に呑み込まれた者へ与えられるせめてもの手向(たむ)けは、つかの間チラつくガーネットの閃光だけだ。しかしそれさえ宝石の一部でしかない。    朝になればいつも通り――よくあることだ。    いや、これはあまりにも煙たい卑屈さだった。  多少気の晴れた俺はすぐさまそう反省した。   「……、…、…」    ユンファさんは俺の隣で困惑している。  俺はそれにまたもくもくとした苛立ちを覚える。  俺の中で(くすぶ)っている黒煙の火種はいまだ水を得ていない。俺が呼吸をしている限りそれは殺されない。いつもそう…俺は正直にいうと、今癇癪(かんしゃく)を起こす一歩手前にいる。  そして、少しの弱い風であっても再び燃えさかるその火種を(よみがえ)らせたのは、隣にいる彼が、俺にかけるべき優しい言葉を自分の中に探しているような、その困惑のわずかな漂うようなそよ風であった。  本当ならば感謝こそしても苛立つべきではないその優しさが、俺は今はどうしても(しゃく)だった。――俺はなおも清らかな彼に噛み付きたくなった。俺は目を伏せたまま投げやりにこう言った。   「まだビジネスホテル、…いや、ラブホテルのほうがずっとマシだったかもしれないね。」    俺のこれはまるで唾液まみれの臭い牙である。  ――俺はこれによって、少しでもユンファさんの傷付いた顔が見たかった。だから隣に振り返った。   「……いいえ…いいえ、そんなことはありません…」    ユンファさんは今にも泣き出しそうな顔をしていた。――しかし彼はこれで彼自身が傷ついたわけではなく、自分が俺を傷つけてしまったのだろうことに心を痛めていた。そして彼の小刻みにゆれている瞳には『どうしてそんなことを…』――貴方のせいだ。  俺は唸る直前の狼のようにじっと、その清らかな同情の顔に目を凝らす。ともすれば彼を睨んでいるようかもしれなかった。それで構わなかった。    これは俺の自分勝手な八つ当たりだった。   「……、…、…」    凄むような俺の目を見ていたユンファさんは、今にも泣きそうな顔をしたまま、ちかちかと眩しいものを見た人のように素早く小さいまばたきをした。彼の唇が、顎が、まぶたが、肩が、…彼はカタカタと震えている。…は、…は、…と引き攣った極短い呼吸を口でしているユンファさんは、――怯えているのだ。    俺はハッとした。  ――ユンファさんは今「他者の怒り」を人一倍恐れているのである。  俺は「ごめん」とまず目を下へ逸らしたが、   「…あ、あの…!」    と精一杯声を張ったユンファさんに、俺ははたとまた彼の顔を見る。――もはやガタガタと上半身から震えているユンファさんは顔面蒼白、こみ上げてくる尋常ではない恐怖から、今にも顔をしかめる一歩手間というような緊迫した顔をしている。   「あの…僕…う、嬉しかった、です……み、見られて…、は、初めて…その……、見たかっ……ほんとうに、…見たくて、ずっと…だ、だから……」   「……、…」    ユンファさんは恐ろしいだろうに、俺の目から目をそらさなかった。あまりの恐怖に辿々しいその言葉は、それでも俺に「嬉しかった」と伝えたい彼の精一杯だった。  彼は「かねてより見たかったステンドグラス(イエス・キリスト)を、初めて俺に見せてもらえて本当に嬉しかった」と言いたいのである。  しかし「他者の怒り」と虐待そのものの「お仕置き」が彼の中で結びついているばかりに、彼は今強い恐怖からそれもままならないのだ。    いや――。   「…こ、この…此処、ラブホテルじゃ…ぁ、あの…此処に…こ、此処が…此処じゃなきゃ、僕、…み、見られませんでした、から……し、幸せで、で、…幸せでした、だ、だから……」    そうして「他者の怒り」と惨たらしい「お仕置き」が結びついているというのに、ユンファさんはその尋常ではない恐怖を克己(こっき)してまで俺にこのことを精一杯伝えてくれているのである。  ユンファさんはキッと強い目をして俺を見た。   「そっ…そんなこと、ぁ、ありません…!」   「……、ごめん…」    ――俺が悪い。  俺は自分が情けなくてたまらなくなった。  俺はさっと血の気が引くほど冷静になったのである。好きな人のこのような精一杯の勇気を、このような怯えきった姿を見て、さすがの俺でも癇癪など起きようがなかった。   「…ごめん…――本当にごめん、俺が悪いんだ…。ごめん、本当にごめんね……」    俺はうつむいた。  もはやこれは許しを乞うための謝罪ですらなかった。そうとしか言えない。謝る他に言うことがない。   「……え…い、いえ…ぁ、あの……」   「…貴方を怖がらせるつもりは……いや…それは、正直嘘……」    俺は――今度は胸を鋭く刺してくるような罪悪感から、また死にたいような気持ちになっている。  俺はあまりにも幼稚だった。俺は目を伏せ、そのまま目をつむった。落ち着かなければならない。   「…ごめん…」    俺が全部悪い。  要するに俺は()ねただけだ。  その理由とは全く子供のように、望みどおりの反応を好きな人にしてもらえなかったからというものだった。――ただそれだけのことで、俺は我儘(わがまま)な子供のように拗ねただけだった。   「…俺が全部悪いんだ…本当に、ごめ……」    そのとき俺の片方の頬を撫でる――ひんやりとしたその大きな手は、その指先は、カタカタと俺の頬にぶつかる蝶の(はね)の羽ばたきのように震えている。その蝶は俺の頬を包み込んで俺の顔を上げようとしていた。俺は導かれるまま、ふと顔と目を上げた。   「…わ、…悪く…ありません…きっと、貴方は…何も」   「……、…」    ユンファさんはいまだ顔面蒼白だった。脂汗をかいてさえいる。ただ、彼は涙目で俺にそう微笑みかけたのだ。彼の笑みを浮かべているふくよかな唇はまだ震えている。   「……、……は…?」    俺は、…そうとしか――頭がまっしろになった。  俺は…………。  強張った顔にぎこちない笑みを浮かべ、ユンファさんは俺の目を見ながら「僕です」と言う。   「…貴方を…傷付けてしまったのは、きっと、僕です……ごめんなさい、な、…何を…」   「……違う…違うんだ、俺は貴方に傷付けられたわけではないよ……」    俺はユンファさんに傷付けられたわけではない。  俺が勝手に拗ねただけである。――実際ユンファさんが俺に何をしたというのだろう? もちろん彼は何もしていない。   「でも…ぼ、僕…僕は、何を…して、しまったのか…ご、ごめんなさ…」   「貴方は何も悪くない。俺が全部悪いんだ。――あれは勝手な八つ当たりでした、俺の方こそごめんなさい。…俺……」    俺は――俺は、   「……、俺、…ごめんなさい…仕事でイライラしていて……」    また……嘘を、吐くのか――?  これほど勇気を、俺のために勇気を出してくれているユンファさんの前で――俺は、    俺はゆっくりと顔を前へ戻した。   「……、…、…」    すると俺の視界に入ってきたのは、今もなお燃えて揺らめく、ローテーブル上の焚き火の炎だった。ゆらゆらと俺の焼身自殺を誘うように踊る悪魔のような炎の揺らめきだった。  俺の真実に触れたユンファさんの目の中に、何かしら拒絶が見えてしまったら…――そう思うと、彼からの特段の好意など望み薄の今、この真実の気持ちを言うことは自殺行為に等しい。      だが、俺はもうこの火の中へ飛び込む他にはない。  今なら死ねる。今なら俺は快く死ねる。愛おしい貴方のためなら、俺は自殺したっていい。俺は貴方にならば殺されたって幸せだ――金は熱せば溶けるのだと、そう衝動的に急き立てる何かが俺の目の中にある。         「貴方が好きだ」        俺は呟くようにユンファさんに告げた。     「今、もっと…好きになった。…貴方が愛おしくて(たま)らない、…今にも泣きそうだ、それくらい俺は、…っ貴方を愛してる、……」   「……え…?」   「っ貴方を愛しているんだ、だから…つまり――俺は貴方だから、…」    火の色に煽られてカッとなった俺はバッとユンファさんへ振り向き、驚いた顔をしている彼に、こう怒鳴るようにまくし立てた。   「俺は貴方に本気の恋をしているのです、安くて質素なビジネスホテルも、下品で馬鹿みたいな見掛け倒しのラブホテルも、あるいは中途半端なスイートだって貴方にはまるで相応しくない、そんな粗末な場所で貴方を抱くわけにはいかない、っそうでしょう、好きな人をそんな場所で抱く男がありますか、…」   「……、…」    ユンファさんはただ目を(みは)って俺を見ている。彼の青味がかった薄紫色の瞳が小さく揺れ、そのたびに小さな光がチラチラと光る。   「――俺は貴方を愛してる、本当に貴方を愛してるんだ、…だから、だからこんな部屋を取ったんだよ俺は、…」    まさに投身自殺すべしと駆り立てられ、ひたすら火の元へ向かってゆく駆け足の俺の烈火のような早口は、   「…貴方だから…貴方だからだ……貴方だからこそだったんだよ、貴方に喜んでほしかった……少しでも…貴方に俺の特別な想いが伝わればいいと思った、だから……」    ……次第にとろとろと火を弱めていった。俺はうなだれて腰を丸め、ゆるく首を横に振る。   「……俺は…俺は貴方に恋をしてほしかったのです、設定だとか風俗遊びだとかではなく、俺は貴方に“本当の恋”をしてほしかった…もちろん…俺にね…。貴方を愛しているという言葉に嘘はありません、だから俺はこの最上級のスイートルームを用意した……今日が特別な日である理由は、――俺にとって、貴方という人が誰よりも“特別な人”であるから……」    ぽた、――俺の目から涙が落ち、それは俺の黒いスウェットパンツの小山に落ちた。   「……、ほ…本当に……?」    ユンファさんは愕然とするあまり力なく俺にそう確かめた。   「ええ、本当です…――しかし…だとしても、これは言うまでもなく、最悪な俺の下心には違いありません…。俺は本当にどうしようもない…だから…だから恥ずかしかったのです…。金を誇示して貴方の気持ちを買おうとした自分が…貴方の気持ちは…いや…、貴方の体も、そして心も…貴方は金なんかでは到底買えない人だ…」    これは俺の本心であった。  間違ってもユンファさんを持ち上げようと、それによって彼に好かれようとして言っていることではない。   「…な…何、言って…――あの、でも僕…そ、その…いやらしい話が……」   「自分は…金で、買える…? いいえ買えません。今しがた俺は、身をもってそのことを痛感したばかりなのですから。――じゃあ…俺が金を積めば、貴方は明日の朝が来ても、俺の本当の恋人でいてくださいますか」    またぽとりと俺の黒い膝頭に涙が落ちた。   「……、…、…」    ユンファさんが俺の隣でただ唖然としている気配がする。俺は無力感にさいなまれて目を閉ざした。       「…はは…嘘です…ただの例え話…どうか本気にしないで…。貴方にしてみればきっと、こんなのは馬鹿らしいことでしょうね。…だけれど……」      そうか――「だけれど」     「俺は貴方が好きなんだ…本当に、…だから俺は、貴方にこのスイートルームを用意した…貴方の喜ぶ顔が見たかったのです…ただ貴方を喜ばせたくて、…愛しているから――俺は本当に、“本当の恋”を貴方にしているんです……貴方を愛してる、…愛しています、……、……」      俺は「ユンファさん」とここで彼の名を呼んでしまおうかと思ったが、仮面の下でそう唇を動かしただけに留めた。――十一年前の「あの日」からずっと、貴方のことだけを愛し続けていました。  その「十一年分の愛」をユンファさんに説明できるだけの希望は、もう俺には残されていなかったのである。        

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