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ここまでにも俺はユンファさんに「貴方を愛している」という真剣な想いを伝えてきた。
しかし今回のこの感極まった感情的な愛の告白は、我ながら格好のつかない、俺の理想とはとても程遠い、ユンファさんに『この人、格好悪いな』と思われても仕方がない、――要するに彼からの「YES」など到底見込めない、いうなれば全く俺らしくないみっともない愛の告白であった。
俺は今に至るまでこのように考えていた。
――どうせ俺は実際にユンファさんと会ってしまえば、俺が十一年間人知れず自分の背後で積み上げつづけてきた彼への愛の堆積 を隠しとおすことはできない。
それこそ「あの日」の十三歳159センチの俺の背後で芽を出した彼への愛は、俺の背が伸びてゆくのと共にみるみる成長してゆき、今や186センチの俺の背を越えるほどの立派な愛の大木ともなっている。
それでも俺は彼以外の人相手なら何とかそれを隠すこともできていたが(ただしやけに勘の良いモグスさんは別である)、まさかそのひたむきに育ててきた愛を向けている本人の前ではその大木の更なる急成長が見込まれる上、何より、もはや自分の背丈より大きい大木などどうやったって隠しきれるものではない。
なお、ちょっとやそっとのことではもはや揺らがないほど育った俺の愛の大木は、ある意味で俺の背に彫られた『影向 の松』よりもよっぽど俺にとっての御神木 といえる。
それは春には美しい花を咲かせ、夏には美味しい実をたくさんつける桃の木に違いない。――桃の花の花言葉…――俺は思慮深い上に堪らない甘い色香をはなつ美貌の、いわば天下無敵の貴方の虜だ……所詮烏合 の衆でしかない犬や雉 や猿なんかよりこの俺を、…金銀、珊瑚 、綾錦 …俺が持っているものは何でも差しあげます、ですからどうかこの俺をこそ一生貴方の捕虜にして。
まあそれはともかく……しかしそれこそ俺が、俺の耳元で囁く御神木の甘い声に反抗して偽りの愛を演出するも、彼の偽りの恋人を演じるも、むしろこの愛を偽ることこそが俺にとっては全く「嘘偽り」である。…俺はこの愛に嘘はつけない。
いずれユンファさんには俺の想いは露呈するに違いなかった。それもいともたやすく。
ではなぜ俺が月 としてのユンファさんに『今宵は俺の“本当の恋人”でいて』というような注文をしたかといえば、もちろん俺は初恋の人である彼に「本当の恋人」として扱われたい――もっといえばユンファさんの「本当の恋人」になりたい――、そして初恋の人との初めてのセックスを経験するわけであるから、せっかくなら恋人同士のロマンチックな雰囲気で彼を抱きたいと思ってのことだった。
とはいえ俺はそ れ っ ぽ く 演 じ て とは一言も注文書に書いていなければ、またあくまでも『(その一晩は)俺の“本当の恋人”になってください』としか書いていない。要するに俺はユンファさんにはじめから「恋人プレイ」など求めてはいなかったのである。
だがそうはいっても、その俺の本気の想いをどれほどユンファさんにすげなく躱 されようとそれは致し方がない。今のマインド・コントロールをされてしまっている彼なら、風俗店のキャスト月 の立場でこのスイートルームに訪れている彼なら、それはそれとして致し方がない。
今夜俺がどれほど切にユンファさんへの愛を表に出したところで、彼にとって俺は初対面の男であり、彼を指名したお客様である。
そして彼自身の内面にも『(下等な性奴隷がお似合いの)僕が誰かに本気で愛されるようなことは有り得ない』というケグリに植え付けられた固定観念が蹲 っており、また彼にとって「風俗店のキャスト」という立場はすべからく遵守せねばならないものであろう以上、彼はこの夜に俺の想いを目の当たりにしたところで、それのほとんどを「恋人プレイ (の一環)」として処理して応対してしまうことだろう。
つまりユンファさんが俺の「本当の恋人」の演技をすることも、また彼が客の俺に「恋人プレイ」を求められているのだと勘違いをすることも、もちろん俺の想定の内に入っていることだった。
そして俺はその想定内にあるユンファさんの反応に、自分の感情が乱されるようなことはないと考えていた。――むしろどれほどこの積もりに積もった俺の愛が真実だとは彼には伝わらずとも、俺ならばどうにか巧みな方法をもって彼に俺の「真実の愛」をまさしく「真実」として伝えられるはずだ。
立ちはだかる壁があろうともそうならばそれ相応に、俺ならばいくらでもスマートに、クレバーに、臨機応変に、俺の十一年分のユンファさんへの「真実の愛」を真実であると彼に伝える術策はあろうと、俺はそうたかを括 っていたのである。
……ところが…――俺はうなだれて腰を丸めるほど前かがみに、この仮面で覆 われている顔を更に両手で覆い隠した。
感情的になって泣きながら「貴方を愛してる、貴方を愛してる」と捻 りも何もないセリフを馬鹿に繰り返してしまった自分が恥ずかしいのである。
「…俺は馬鹿だ…――どうしようもない馬鹿ですね…。本当に救いようのない…俺は大馬鹿者です…、ごめんなさい、突然泣いてしまって……」
いよいよユンファさんには情けない男だと思われたことだろう……ましてや俺は今三十歳の男ということになっている。俺の実年齢の二十四歳でもメソメソ泣きながら愛の告白をする男などどうかとは思うが、それが三十の男となるともっと悪い。
しかもよりにもよって彼に、一番どう思われるか気がかりな月下 ・夜伽 ・曇華 に、俺はいよいよ小胆 の不甲斐ない男と思われたに違いないのである…――。
――今夜の俺は何かおかしい。
これでも俺は自覚している……俺、面倒くさ。
今夜の俺、自分で引くほど面倒くさい男である。結構わりとマジで今の俺は面倒くさい男である。ほんと俺…ど、どうしてしまったの…。
よりにもよって今夜、ユンファさんの前であると、俺は何故かどんどんどんどん自分の理想像からかけ離れてゆく。というよりか、もはやいつもの自分であれば難なく乗りこなせていた局面が、何故かしら感情や出来事の波にのまれて難なくどころかまさしく「難」と感じられている。
なんなら自信をもっていた自分のあらゆる部分を、よりにもよって今夜は自分で『実は俺もそう大したことのない男なのかもしれない…』と疑いはじめてさえいる始末である。
「……、…」
「……、…」
とはいえ俺たちの間に曖昧にただよう沈黙の霧は薄い。どちらも口を開こうとしているが、どちらも相手が口を開こうとしていることを知っている。――俺は今にも「ごめん、今のは忘れて」と先ほどの失態を無かったことにしようとしているが、一方のユンファさんはきっと「馬鹿だなんてそんなことありません」と卑屈になっている俺のことをまた励ましたいのであろう。
しかし――その薄い霧の奥から聞こえてきたのは、ユンファさんの動揺した心音である。
「……、…、…」
ユンファさんのその鼓動は速い。
と、と、と、と、と、…バクバクバクと大きく速いのではなく、小さく速いといった心音である。
俺は自分の顔からゆっくりと両手を下ろした。そしてやおら隣のユンファさんへ振り返る。
「……ぁ、あの…、ぼ、僕……」
俺と目が合うなりそうか細い声で何か言おうとしているユンファさんは、いまだ驚きと困惑と漠然とした不安に、一見俺のことを心配しているかのような表情を浮かべている。しかし――彼のその薄紫色の瞳は色っぽく潤んでいる。彼の頬は薄桃よりもっと赤味が強い桃色に紅潮している。
「と、…とに…かく、ば…馬鹿なんて、貴方は馬鹿ではぁ、ありませんよ…。ぁ、貴方は…、……」
やがてユンファさんは堪えきれず目を伏せた。
彼が今堪えきれなかったもの、それは――俺の水色の瞳である。ユンファさんは一種のはにかみから、とてもではないが、俺と見つめあってはいられなかったのである。
「…貴方は…優しいし…凄く、気遣いの出来る人です…。それに、その……ぼ、僕…――な、何と…言ったらいいか、…」
「……、…――。」
そして今夜は、そもそも今夜自体が何かおかしい。
俺が追い求める自分の理想像、それが崩れた瞬間にばかり、俺はなぜか求めている結果を得られている。
今回でいえば、俺は今しがた泣きながら憧れのユンファさんに愛の告白をしてしまった自分に失望していた。
ところが却って、そうして取りつくろうこともできず、ロマンチックな雰囲気づくりをさえ放棄せざるをえず、ただ真っ正面から体当たり的に泣きながらユンファさんにぶつけた感情、愛、彼の気持ちをかえりみず一方的に押し付けた俺の恋心……が、なんと奏功したらしいのである。
今ユンファさんにぶつけた俺の愛の告白は、今夜俺たちが演じるべき「本当の恋人同士」という偽りにに基づいた告白ではなく、まさに「俺の本心からの愛の告白」――俺の本心、俺の「本当の恋」からいでた本当の恋心なのだと、ユンファさんに伝わったらしい。
つまり俺がこの本気の恋心を真っ正面からユンファさんに感情的にぶつけたことにより、却って彼に俺の「真実の愛」は本当に「真実」なのだ、と伝えられたようなのである。
「……す、すみません……ちょっと、考える時間をいただいてもよろしいでしょうか……」
とユンファさんはまず状況整理から取りかかろうと、目を伏せたままうつむいた。
「……、どうぞ…、……」
いや思えばそうか――。
今夜二人が演じるべき役柄とはあくまでも「本当の恋人」である。今夜に俺が月 としてのユンファさんに注文した(とされる)こととは要するに、「恋人らしい甘い雰囲気の一夜」とも言いかえられる。
するとそれを受注した立場の彼はもとより、俺もまた自分の希望通り、今夜に二人が演出するべきは「恋人らしい甘い雰囲気」であった。
しかしそれを打ち壊しにした俺の、それまでは冷静沈着であった俺の、怒鳴るように彼にまくし立てた愛の告白、そして涙をこぼすほど本気で泣きながら「愛しているんだ」と感情を露わにした愛の告白――そうした俺の感情の噴出は、いわば今夜の本懐から逸れたものであった。つまり矛盾している。
「…………」
「……、…」
またユンファさんの横顔は今こうも考えている。
怒鳴るようにまくし立て、かと思えば突然涙までボロボロこぼし、切実に「貴方が好きだ、貴方を愛している」と繰り返す――それらを演技としてできるような人は、それこそ俳優でもない限りそうそういるものではない。そして俺は(事前に自分が知らされた情報の限りでは)俳優ではない。
つまり俺が先ほど露わにした内に秘めていた感情は、恐らくは今夜の余興の演出、演技なんて生易しいものではない。――と、ユンファさんはまず先ほどの俺の感情が「真実」であると見当をつけた。
次にユンファさんは『と、いうことは…』と考える。――『もしかすると…彼のあの言葉たちもまた、まさか…演技では、ない…?』
「……、…、…」
ユンファさんは不安げに震える片手をもちあげると、自分の胸板の中央をそっとその手で押さえる。胸が高鳴っているその鼓動の感覚をなだめようというのである。彼の色っぽい伏し目は困惑に蒼く翳っているが、彼はみるみるこう真実に近づいてゆく。
――『彼はまさか…本当に、僕を……いや、そんな、こと…有り得るだろうか……。どうも演技には見えなかった…。だが、かといって……僕なんかを、彼が本当に愛しているということも正直、有り得ないんじゃ……いや、でも、もし……彼のあの告白が、今夜の“恋人プレイ”に基づいた演技ではなく、…そう…思えてしまう…。違うはず、そんなことはないはずだ、わかってはいるのだが……本気にも、思える……』
これは――俺たちの間に憚る金が、俺の情熱的な愛の告白によって、確かに溶けはじめている。
「……、…っ」
俺はハッとステンドグラスのほうへ振り返った。
何か視線を感じたのである。見えたイエス・キリストの柔和な微笑は相変わらず、俺と目があった(ような気がする)その両目もまた変わらず慈愛に満ちてやさしい。…が、何かし た り としているようにも…。
……神、というのは……もしかすると人間の作為的な想定、あるいは予想の範疇に留まらないあらゆる方法で、願いを叶えてくれるというような…わからないが、もしかするとそういう存在なのかもしれない。
思えば奇跡とは驚くべき喜び事である。驚くべき、ということは、予想だにしない方向から喜び事が突然自分のもとに飛びこんでくるということでもあるわけだ。
所詮人間の俺は自分の脳内で考えつくことにばかり囚われていたらしい。それこそ今夜に俺が自分の計画通りに事を進めていただけでは――自分の理想像だけをユンファさんの前に輝かしい彫像のように置いて見せていただけでは――俺は、このようにユンファさんと俺との間に凝り固まっていた金を溶かすようなことはできなかったろう。
とはいえもちろん、だからといっても今に十一年来の念願が叶ったというわけではない。
そうして俺が(神の作為的に…?)ユンファさんにぶっつけた愛の告白の成否はいまだ明らかではないにせよ、これは少なくとも夢を叶えるに一歩前進したといってよいだろう。――なぜならとりあえずのところ、俺の恋心が演技でも何でもなく「真実」だとユンファさんにわかってはもらえたからである。
が…何かもうだんだん俺は怖いものなしというような、なかばヤケクソの気力がみるみる湧いてきた。
なんと神を味方につけ、畏 れ多くも神からの援護射撃を得ているような気はする俺だが、それを頼もしい有り難いと思わなくもない反面、どうも神の掌の上で踊らされた結果があの感情の爆発、みっともないメソメソ懇願であった俺の自恃の念は、相変わらず羞恥に赤らんで痛いほど腫れている。
なるようにしかならない。あとは野となれ山となれ。とにかくやればいいのでしょう、やるしかないのでしょう、あなたの掌の上で汗をかくほどワルツでも踊れというのでしょう、この俺に。裸踊りじゃないだけまだマシかもしれないが、俺は我ながらプライドの高い男なのである。――これば例えば、ヤケになってゴミをゴミ箱の中へ思いっきり叩きつけるようなエネルギーといったところだろう。…言いつけは守る、それが正しいこともよくわかっている、だが何か悔しい、反抗してみたい自我もある。
「…………」
俺はいまだ物思いに耽 っているユンファさんの、その両腿の境い目に置かれた白い片手を下からすくいあげる。
「……、…?」
するとユンファさんは、はたと俺に振り返る。
やや丸目がちになったその切れ長の目は、なんだろうと単純な疑問をもって俺の目を見ている。
俺はその青い静脈のうかんだ、生白い筋っぽい手の甲へと頭を沈め――仮面の唇をそこへ押し付ける。
俺は今や何も怖くない。
もはや今の俺は怖いものなしだ。
正直神がどうこうじゃなくて――先ほど一回死んだからである。断固。そうである。
「…貴方を心から愛しています、ユンファさん…。ですからどうか、俺と結婚してください…――。」
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