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「…貴方を心から愛しています、ユンファさん…。ですからどうか、俺と結婚してください…――。」
「……え?」
ところが――ユンファさんは俺のこもった真摯な低い声が聞き取れなかったらしい。思えば俺はユンファさんの手の甲に仮面越しに口づけたままプロポーズをしてしまった。たとえば骨ばっているとはいえまだ人の肌(ユンファさんの手の甲)と柔らかい俺の唇だけならばまだしも、その間に挟まっている仮面の硬い唇は、よけいに俺の声をこもらせてしまった。つまりそのせいか、俺の一世一代のプロポーズが、彼にはそれと聞き取れなかったようである。
……俺は頭を下げたまま彼の手の甲から唇を浮かせた。
「ですから俺とけっ……」
「……け…?」
「……、…」
いけない、そうか。
「…いえ。俺の恋人になってください」
そうそう…以前(十一年前)俺は一回これで失敗しているのであった。――俺は「あの日」も、勢いのままユンファさんに恋人関係を申し込む前に「結婚してください」とプロポーズをしてしまった。そしてその結果はあえなくあの「結婚はまだできない」だ。
とはいえ…ユンファさんはあのとき「僕たちはま だ 結婚できない」とおっしゃったわけだ。そして俺はこの通りもう大人になった。彼、もうそろそろ俺と結婚してくださってもいいと思うのだけれど……まあこれは最後の切り札 として大切に取っておこう。
一応俺はこれでもわかっている。むしろ大人になったからこそ順序という邪魔くさいものを踏む必要があるのだ。ましてや、もしかすると今ユンファさんが俺の「結婚してください」を聞き取れなかったことにも意味があり、それこそ神が「焦るな焦るな、まだそれは早いぞソンジュ」とアドバイスされているのかも。
まあいいでしょう……俺はあせらず大人として、踏むべき順次とやらを踏んでやりましょうか。
「……え…? こ、こいび…」
「貴方が好きなのです。俺と付き合ってください」
言いながら俺はゆっくりと頭をもたげた。
やや上目遣いに見やったユンファさんは俺に顔を向けていた。彼はやはり涙目のまま静かに驚いた顔をしており、その頬と目元にはいまだじゅわりと可憐な桃色をにじませている。
「……す、すき…つ、付き合……?」
ユンファさんはどうやら混乱している。
頭の中がにわかには信じられない真実への疑問でいっぱいなのだ。『まさかとは思うが、本気で…?』とユンファさんは考えると、『いや、まさか。さすがに有り得ない』とすぐさま否定する。
しかしまたふと『いや有り得ない…よな、…でも、さっきのあの様子だとどうも、どう考えても…』と考えると、彼はまた『いや、いや有り得ないだろ、何故彼のような何もかも持っている完璧な人が、僕なんかに本気で惚れるというんだ…?』と否定する。
ユンファさんは本当は俺の気持ちが「真実の愛」であることをわかっている。しかしどうしても彼の頭、思考のほうがそれを否定したくて堪らないのである。
俺は取っていたユンファさんの片手を自分の胸の前で包み込み、彼の疑念に忙しそうな揺れる瞳を見つめる。
「…結婚を前提に…俺と付き合ってください」
「……、は……――は……っ?」
彼は露骨に『な、何言ってるんだこの人…っ!?』と俺を疑うような目で見てくる。
「…いえ」
「……あ、はは…」
よかったとユンファさんが笑う。俺が「いえ」と言ったので、彼はさすがにそれは冗談だったんだと少し安堵したのである。
「…何なら…やっぱり結婚してください。俺としては恋人関係をすっ飛ばして貴方と結婚をすることとて、何らやぶさかではありません。恋愛の最終目的地とは要するに結婚ではありませんか。――最終目的地から始まる恋があってもよいかと」
「……は……」
唖然としたユンファさんの顔にずいと俺は迫る。
「…俺と結婚してください。」
「……え…? ……???」
ユンファさんは当惑から俺から逃れるように瞳を上に向け、目をしばたたかせている。『えっと…も、もしかして僕……今、まさかとは思うが、プロポーズ…され……?』彼は今また脳内で状況整理をしているのだ。
「俺と結婚してください。とりあえず…」
「……、…はい…?」
ユンファさんの瞳が俺を捉える。
「明日 の朝一番、共に市役所へ行きましょう。」
言いながら俺はもっとユンファさんの顔に迫る。
「……、…ッえ、…は…?」
びく、としたユンファさんは、状況整理もままならず差し込まれた俺のプロポーズに『じょっ冗談だろ…? な、何がと り あ え ず なんだ……?』と疑わしそうな瞳で俺を見る。
「ですから…明日共に市役所へ行き、その場で婚姻届にサインをお願いします。――あぁ失敗しました。いっそのことはじめから此処へ持ってくれば話も早かったかな」
「……は…な、何を…」
「もちろん、婚姻届」
「…………」
うっすらとした笑顔で固まったユンファさんは思考停止している。彼の目からは光が失われた。要するに頭が真っ白というやつだ。
「明日の朝になったら…一旦職場の方 へ寄ったあと、すぐ俺のところへ帰ってきてくださいませんか。もう貴方を帰したくない――俺は貴方のことを俺 の 家 に 閉じ込めて、もう二度と離したくはないんだ」
「……、…、…」
呆気にとられたユンファさんはしいて浮かべた強張った笑顔の、その片頬をひくつかせている。
――『え…い、家…? 腕とか胸とかならまだ聞いたことはあるが、……閉じ込めるの、家…? 聞き間違いか、本当に家で合っているのか…? いやそれ、もし合っていた場合は正直た だ の 監 禁 じゃ……』
「間違えました。貴方のことを俺の腕の中に閉じ込めて、もう二度と離したくはないんだ」
嘘。――別に間違えてはいなかったのだけれど、どうやら少し引かれてしまったようなのでね(訂正しておかないとユンファさん嫌われてしまうから仕方なく)。
「……、…」
ぼーっとした顔のユンファさんは『何だ、なんか…正直取ってつけたような訂正だ……そもそも家と腕を言い間違えることなんてあるのか…? イエとウデは一文字もかすってないような……』とぼんやり思ってから、ややあってハッと我に返る。
そしてユンファさんはふいっと俺から顔を背けるなり、伏せた切れ長のまぶたの下で瞳を泳がせながら、
「……ぁ、あの、けっ…結婚? なんて…さ、ささ…流石に、…流石にその……」
と明らかに狼狽 している。
「…やはり急ぎ過ぎでしょうか?」
「あのそう…というか、…あの…」
その伏し目のなか『そもそも』とユンファさんは考えはじめる。『何がどうなって、こうなった…? 何故僕は今彼に突然プロポーズされているんだ…? こ、これはもしや…新手の…結 婚 詐 欺 か…?』
「…………」
なるほど。
神の忠告はすべからく聞いておくべきものだな。
結婚詐欺だなんて酷い勘違いをされてしまった。
「結婚だなんて、突然で驚かれましたよね…――つい気持ちが逸 ってしまって……」
「……あぁ、…その……」
ユンファさんは伏し目のまま少し顔を傾けて俺から逃げる。俺はそのぶん更に接近しておく。――『いや、まず……そもそも彼の気持ちは今夜のプレイの一環なのかどうか、からか。まず現実的に考えればそうだ。むしろそのほうがよっぽど現実的だ、そのほうが僕も信じられるし、まずそうに違いない。…』
そこでチラと俺の目を一瞥したユンファさんは、慌ててさっとまた目を下げた。『……と、思いたいところなんだが……ていうかち、近い、! 怖い……いやそう思いたいところなんだが、…まさか…まさかな……』
「では…まずお聞きします」
と俺は詰めた距離を一旦もとに戻す。
「…え…? ええ…」
ユンファさんは目を伏せたままどうぞと頷く。
「…俺のこと、一人の男として見られます…?」
「…いやそれはもちろ…」
「俺を貴方の恋愛対象になり得る男として見られるかどうか、その基準でのご判断をお願いします」
俺がそう付け加えたのには理由がある。
このユンファがやはりド天然であったからだ。
要するに今「それはもちろん」と言いかけた彼のその「もちろん」とは、あくまでも俺の性別が男性であるという意味での回答であった。――つまりどう見ても俺は男性である、女性には見えない、俺は全く一人の男性であるという意味の「もちろん」であったのだ。
まあ普通なら難なく察するところではあろう。
言うまでもないことだが、俺は今間違っても「俺は男性に見えますか?」などと聞いたわけではない(この体格に低い声、これでさすがに女性と間違えられた経験など一度もない)。――もちろん今の俺の質問の意味とは、俺がユンファさんの恋愛対象になり得る男か否かを聞いた。簡単にいえば、セクシャルな意味で俺のことを男として見られるかどうかを彼に聞いたのである。
が、なにせ相手はこのド 天 然 モ ノ 月 下 美 人 であった。それはそれで下界の人間の色恋にはてんで疎 い神のような、俺が終生守りつづけるべきとも思える神聖な愛らしさがあるものの、しかしこれは少々困ったものである。
「俺、どうですか。貴方の恋人にしてもらえるだけの男でしょうか」
「……、…」
ユンファさんは困ったように俺のほうへ顔を向けると、俺の目を観察するようにのぞき込んできた。しかし、俺にじっと目を見つめられると落ち着かない気持ちになった彼は、またさっと目を伏せる。
ユンファさんのその伏し目の中――そもそも自分のセクシュアリティからよくわかっていないのだという。つまり自分が男の俺のことを好きになれるゲイおよびバイなのかどうかも、今は判然としていないと。
「……とりあえず、難しいことは一旦抜きにしましょう。どうだって…何だってよいのですよ。もし貴方の心が俺の何かに少しでも惹き付けられているのなら、それこそが恋というものなのですから…ね」
ここはあえてどんぶり勘定がよいのだ。
自分は俺に恋をしたのだとユンファさんが自覚するために、恋の基準の間口は広く取っておかなければならない。
「……、…」
チラ、と俺を見たユンファさんの瞳は、
――それは、…とすぐまた伏せられる。
「………えっと…か、格好良いとは思います…それも凄く、完璧というくらい…。そもそも貴方が僕の恋人にしてもらえるかどうかなんて、とんでもない…――貴方くらい格好良い人で、とても優しくて…とても誠実で、チャーミングで……、とにかく…貴方のようにとても素敵な人は、僕なんかじゃなくとも…それこそ誰だって、というか…貴方なら誰しもの恋人になる資格は、あると思います…、……」
と言い終えたユンファさんは、ぎゅっと眉を寄せながら目を瞑った。――ややあって嗚咽を飲み込んだユンファさんは、パッと目を開けて俺の目を見た。彼は涙目だった。
「…っ正直…ど、どうしたらいいか、――貴方は他のお客様と違う、違うんです、…何かが…、貴方は何かが違う……」
「……、…」
ユンファさんは「何か」を感じ取っていた。
しかし、彼は自分の中にあるそ れ に明確な形を与えることを拒んだ。だから彼は「貴方は他の人と何かが違う」という言葉で誤魔化したのである。
「貴方はとても素敵です…。とても素敵な男性だと、僕は心からそう思います」
そう涙目で微笑したユンファさんは、ふと目を伏せて俺の手の中から自分の片手を抜き取った。彼はその手ももう片方の手も、不安げに両腿の間にはさんだ。そしてうつむいた彼は、「とても…」と呟くように続ける。
「…とても…素敵です…貴方は…。それこそ貴方と恋人になれたら、本当に……本当に、幸せだろうな…」
ユンファさんの伏せられた切れ長のまぶたの下で、小刻みに揺らぐ群青色の瞳が夢見がちにとろんとしている。
「…まるで貴方は…童話の中に出てくる、王子様のような人だなと思います……凄く優しくて、格好良くて…――貴方の隣にいると、僕はまるで…幸せな夢を見ているような、そんな感じがするんです……馬鹿みたい、だけど……」
「……要するに…――それこそが恋、なのでは…?」
俺はこう言わずにはいられなかった。
――はた、と少しだけその瞳を上げたユンファさんは、しばらく黙った。彼は俺を見ない。
「……、…、…」
それからややあって、彼は眉尻を下げた笑顔で俺に振り返った。
「そう…かも、しれないです、ね…はは…――ぼ、僕…貴方に恋を…して、しまったのかも……」
彼は恐れたように小さな声でそう言った。
そしてふっとうつむいたユンファさんは、伏し目がちにボソリとこう……。
「お付き合い…したいです…、僕も、貴方と……」
「…………」
……………………――え。
俺は一瞬理解ができなかった。しかし遅れてこみ上げてきた興奮に、俺は舌を噛みそうになりながらも、
「え、ぇッじゃ、じゃあ…俺と本当に、つき、つくっつっつき、つ、付き合ってくだ、ください、ます…? というか、つっ…付き合ってくださる、という、…こと…?」
とユンファさんに慌てて確かめた。
するとユンファさんはうつむいたまま、はにかんだような伏し目のままに――。
「……はい」
とこくり、頬を赤らめたまま頷いた。
「……、…、…」
う、嘘、ま――マジで?
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