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要するにユンファさんは俺と結婚はおろか交際さえするつもりがない。毛頭ない。
――そして彼はあわよくば俺のほうから交際の申し出を破棄してくるようにと、ああした世間一般の価値観でいえば「最低な人物」を演じて見せてきた。
しかしこれはもしかすると――ここでゴリ押しをしたならワンチャン……大丈夫、気持ちというものは後からでもいくらでも芽生え、共に過ごせばそれだけでも立派に育 まれてゆくものだ。出会いがどうであれ、また交際開始の形がどうであれね。
このヤマトでは昔、政略結婚や親が一方的に決め込んだ見合い婚が主流であったが、といって冷えきったふうふ関係ばかりであったかというと、決してそうでもなかったことは歴史が証明している。
何より顕著であるのはそう――このヤマトにまだ王家が存続していた時代、我々条ヲク家の祖先たちは、国に生まれたオメガ属をそれというだけで「神子 」という側室として次々と娶 ったが、それも記録によれば、しばしば王族の寵愛のすえ正妻にのし上がったオメガたちも多くいたとのことである(なお以前はオメガ属男性もほぼ女性扱いであったために「妻(嫁)」とされていた)。
従って、ここで一旦「形から入る」も善 し――。
大体ユンファさんがこの俺に惚れないわけがない。俺が完璧な良い男であることもそうだが、何より俺たちは定められた運命で結ばれているからである。
というよりか、彼の自覚しない水面下ではあるものの、もう既に俺の目には愛らしい月下美人の芽が見えはじめている。
交際後の勝算はある。
あとはここをどうして押し切り交際に漕 ぎ着けるかだ。
――よし押してみようか。猛プッシュだ。
「…んふ…お考えは纏 まりました…?」
俺は自分の顎を人差し指と親指でつまんだまま、チラリと瞳だけを動かして隣のユンファさんを見やった。――彼は顔面蒼白の伏し目で何かしら考え事をしていたらしいが、俺にそれとなくせっつかれるとハッとその瞳を上げた。ただしその人の顔は追い詰められた渋い困惑顔であり、俺を見ないその切れ長のまぶたは浅いまばたきがいやに多くなっている。
「……あぁ…の、……あの…――えっと…」
明らかにその薄紫色の瞳は泳いでいる。
――しかし俺はあくまでも、ユンファさんの先ほどのセリフを嘘ではなく真実として扱うと決めているので(真偽はさておき、人は嘘をついたと決めてかかられるほうが不快だからだ)、同情的な優しい声でこう話しはじめる。
「…あぁご不安なのですね…それはそうでしょう、お可哀想に…。貴方は過去、愛する人に手酷く裏切られている…。そう…俺にご自分が受け入れられないかもしれないという貴方のご不安は、あくまでも当然のことかと…――ですがどうぞ御安心ください。…俺は貴方がセックス依存症であろうと買い物依存症であろうと、はたまた貴方が性奴隷であろうとも…――」
俺はユンファさんの黒スラックスの膝にかぶせられた彼の白い片手を取り、自分の胸の前でこの両手のなかに閉じこめた。彼の手は特に指先が氷のように冷たくなり、しっとりと冷たい手汗をかいている。
「――貴方が俺の理想の…いえ、言い換えれば俺の運命の男性であることには、何ら変わりがないのです。」
「……、…、…」
ユンファさんの生色い顔がゆっくりとぎこちなく俺から背けられてゆく。まるで油切れを起こした機械のようなぎこちなさだ。
しかし俺が「いけません…真面目なお話なのですから、どうぞこちらを向いて」と声をかけると、ゴキュリと緊張感のある喉の音を鳴らした彼の顔は、一応は前を向きなおす。依然こちらには向かないが。…それも俺から見てのその横顔は、やはり気持ちばかり俺のほうから背け気味だ。
「では…婚前契約ならぬ、交際前契約ということで…こういうのは如何 でしょう…? 貴方がセックス依存症で…俺一人の肉体ではとても満足出来ないというのでしたら、俺のほうで貴方の肉欲を満足させられるだけの人を何人でもご用意いたします…」
まあ追々俺一人で満足できるように調教はするけれど。――「は……」と疑問符さえつけ忘れたユンファさんの困惑が、その冷や汗をかいた横顔からもわかりやすく甚だしい。彼の切れ長のまぶたの下でチラチラと揺れている群青色の瞳はこう言っている――『いや…それ、…それは正直本当にやられたら困る…。なぜならそれは、僕の真っ赤な嘘だからだ…』
「…んふ…そして貴方が今背負われている借金は勿論 、俺が喜んで完済いたしますけれど……、そのあともどうぞ…貴方は欲しいものを欲しいだけ、有る限りの俺の金でご購入いただいて結構です。――正式な交際の暁 には是非 、貴方が俺の全財産をご管理ください。…当然、俺のクレジットカードキャッシュカード諸々 全てが入った財布も貴方にお預けいたします。」
と言いつつ俺はまた不意なときめきを覚えた。
……そういえば思えば俺は(具体的な数字は差し控えるが)このスイートルームの部屋代を見たとき、これだけの額(プラス宿泊中のあれこれ代)をユンファさんに捧げられるのだと、あのときも思わず勃起していたのだった。
「どうぞ俺を破産させて…んふふ……」
「……しょ、正気じゃ…」とユンファさんが呆然としながらぼそり、小声で言う。――『悪いが正直、正気じゃない…』と伏せられている彼の瞳が言う。
――『破産させて…? いやさすがに冗談だろうが……というか仮にも、桁外れのお金持ちの財布なんか預けられても僕が困る…。怖すぎるだろ、下手すれば銀行口座に何億とか入っているんだろ、それを引き出せるキャッシュカードやらクレカ入りの財布なんか、とても庶民の僕は怖くて渡されても持ち歩く勇気なんかない……し、ましてや財産管理なんか任されても本当に困るんだが、というかこんな素性の知れない僕に、それも使い込むとわかっている僕に、…いやもはやそれ以前に、恋人に全財産管理まで任せるのはさすがに、本当に正気じゃない……』
「…正直どうかして…」
「…何ですって…?」
「いやっな、何でもありません、…はは……」
かろうじて笑おうと、その桃色の肉厚な唇の端だけを上げたユンファさんの胸板がやや速く上下している。…それにしてもこう首を逸らし気味であると、その生白い首筋がより浮きぼりになって本当に綺麗。この凹凸 のしっかりとした鎖骨の艶 めかしい造形、もう少しで俺はこの麗しい月華の肉体を手にすることが叶う。
「…そうですか。では続けますが…――このお仕事に関してもそう…貴方のお幸せに必要な限り、交際中のみならず、俺たちが結婚をしたあとでもどうぞ…貴方が続けたい限り続けられて構いません。恋人…及び、夫の幸福に必要であるものを制限するということは、ともするとハラスメントにもなりかねませんからね」
「……、…、…」
ユンファさんの唇はまごついて何か言おうと開くが、しかし何も言わないで彼はただコクコク浅く頷く。というよりか何と返せばよいのかもわからないのだろう。彼は内心、相当狼狽 しているのである。
俺のこのセリフらが彼にとっては驚くほど想定外のことであるからだ。ただし彼の光の失われた群青の瞳はこう言っている――『いやハラスメントって…、何だか知らないが(それが何ハラスメントに該当するのかなど僕にはてんでわからないが)、僕は何なら今すぐにだってこの仕事は辞めたいくらいだ…。が、…いや、色んな意味で僕の自業自得か……でもまさかこんな展開になるなんて、誰が想像した…?』
「但 し……貴方のご主人様の存在だけは認められません。けれども御安心ください。――その方 には俺も明るいのです。寧 ろ貴方の今のご主人様よりも、もっと貴方をexcitingにご満足させられる自信があります。…」
「……、…、…」
ユンファさんは唇を薄く開けたまま言葉を失っている。――『エキサイティングの発音が良すぎる…いや、じゃあ意外にも彼、ドSだってことか…? それはそれで困るんだが……というか……』
「…あは…はは…、…、…、…」
瞳孔の開いた目で意味なく前方を見ているユンファさんの白い頬につーと汗が伝い、その白い喉がゴクリと生唾を飲み込む。――『気は確かかこの人…? まさかあの条件、というか…あんな最低でふしだらな人を(とはいえそれは僕なんだが)受け入れるどころか、意気揚々と解決案まで提示してくるとは……彼、さすがに全肯定が過ぎないか…? むしろドSどころか、被虐趣味があるのではとさえ勘繰 りそうな程度なんだが……』
「…あ、あはは…じゃ、じゃあその…、……」
と強いて笑ったユンファさんの目は力みのあまり見張られ、あまりの驚愕にその笑みはこわばっている。
しかも彼、このセリフのあとなんと繋ぐかもノープランでこれを咄嗟に口にしたのだ。
「……、…、…」
「ええ、俺たち相性ピッタリでしょう…?」
俺は思惑通りに彼の「じゃあ」のその先を創作した。するとユンファさんはこわばった顔に一瞬安堵のゆるみを見せ、俺に助け舟を出されたと一瞬錯覚したが、それが錯覚であるとはすぐにハッと気がついて目が覚めてしまったようだ。
「……あぁそう、…っとも言える、…かもわか…っらないですね、はは……いやどうかな、でもその…いや、いやぁど、どうでしょうね実際、いやあの、まだお互いに見えていないこともある…かも、? しれないですからほら…僕たちまだ出会ったばっかりですし、その…――お、ぉおお互いを知るところ、…から、というか、…あぁぉ、お友達、から、…とか…どう、です、っか……?」
俺を見ない目を剥いたまま首を傾げ、ユンファさんはそうして詰まり詰まりもなんとかその喋々 とした勢いで濁 そうごまかそうとしているようだが、しかし和やかな猪突猛進の勢力を弱めない俺は、彼のカタカタ震えている片手を胸の前で握りこんだまま、ずいと上半身を彼に迫らせる。
「お友達ですか…あぁそれは無理です。申し訳無いが。」
「……ぁ、おぉ…そ、そうですか…?」
すると彼は迫ってきた俺に思わず、引き攣った笑みのままチラと俺を横目に瞥見 したが、
「いやそれはすみません、僕の方こそ変な提案しt……いや…、……」
と自分の失敗に呆れ、なかば落胆して目を伏せる。
――『…しまった……違うだろ僕、どう考えても今のは違っただろ、何で謝っちゃったんだ…? “僕らお互いのことをまだよく知らないから、まずはお友達から始めましょう”というのは別段変な提案でもないだろう。むしろ交際を断るにおいての常套句というか……いやそれ以前に、“お友達からが無理なら交際も無理です”、だとか上手く断るチャンスだったじゃないか…? 何というかこの人、やけに人のペースを呑み込むような妙な特殊能力があるんだよな…(ある意味では魔性の魅力というか…)』
俺は両手で握りこんでいるユンファさんの片手を見下ろし、「貴方は手まで本当にお綺麗だ…」と話を逸らしておく。…最悪彼のその「断るチャンス」をやり直されたら面倒だからである。
「……まあいずれにしても…例えどのような貴方であったとしても、俺は愛します…、愛しています…。貴方と結婚を大前提にした正式なお付き合いが出来るのならば、俺は幾らでも、どのようなお望みであっても…貴方のお望みを全て叶えて差し上げましょう…? ――何故なら…愛する貴方が俺の隣でお幸せで在ることこそが、この俺の史上の幸福、我が人生の喜びであるからです。…俺は我が身の持ち得るその全てを、貴方という理想の男性に捧げます…」
「……ぅあは゛、はあ…、……あ゛ーー……」
いよいよ極まった混乱に変な喘ぎ声を出したユンファさんは、その黒い凛々しい眉をぎゅっと寄せ、険しくその切れ長のまぶたも閉ざした。…理解できない情報の過多により強制情報シャットアウトを自己防衛本能からしたようである。しかし――俺は不惑 に、さらにその人にずいっと迫る。
「貴方という美しい男性が片時も離れず俺の側に居てくださるのならば、俺はそれだけで幸福なのです。全く俺のこの目には貴方との明るい未来しか見えません。――俺の目にはもう…貴方しか見えません。」
「……ぅあぁ゛ああ゛ぁあ゛は…ははは、ははははは。…」
彼の「あはは」の始まりはもはや雄叫び、雄叫びからは完全に「は」と単に言っているだけとなり、ユンファさんは愛想笑いさえ上手くできなくなっている。お可哀想に。
「あ゛ーー恋はも、もうも、…盲目って、やつ、ですかぁ…っ? ん゛でもあっ明るい未来って、そ゛、…っうですか゛…? ぁぼ、僕は正直、そう…でもない、かも……?」
と薄目を開けてもつーと横に瞳を逸らしたユンファさんは、内心こう思っているのだ。
――『いや…僕は逆に、暗 い 未 来 し か 見 え な い よ う に 、差し向けたつもり、…だったんだが…? なぜこんなことに……なぜ、そうなった…いやなぜこうなっ……ほんと、なんでなんだよぉ…っ?!』
「…貴方もいずれ俺の隣で、我が目が見据えているものと同じ光を見ることになるのです。絶対に幸せにします…いえ、幸せになりましょうね、俺たち…」
「…ぃゃぼ、僕…」
もごもごとまた何か言おうとしているユンファさんに、俺は押す。
「さあ以上を以 って、貴方のご不安は全て解消されたことでしょうね…? いえ、勿論まだ何かしらご不安があるようでしたら、是非何なりと俺にお申し付けください。全てこの俺が何とかしてみせましょう…?」
「…ぃあーまだ何か漠然とした不安g…」
押す。
「と、いうことで――俺と結婚を大前提に交際していただけますね。」
「あのーなんかちょ…っよく、わからな…」
俺がぐいと更にその困惑の横顔に迫ると、ユンファさんのその頬に俺の仮面の鼻先がぷにと刺さる。するとユンファさんは、すっと俺を避けるように顔をかたむけた。だが俺は押す。
「結婚はノリと勢いだとよく言いますでしょう? ねえ、この結婚が過 ちであるか否かはそう…――まずは結婚してみないことには。わかりません。ね…?」
「……そ…そんな、こと、ないかと…多分…」
なかば恐怖から上ずった声でそう言うユンファさんの、その俺のほうを決して見ない薄紫色の瞳の揺れが憐れなほどグラグラである。可愛い。
「…多分…? おやおや…憶測で物を言ってはいけません。…貴方、結婚のご経験は…?」
「あり…ま、せんが…?」
上手いことユンファさんはたじろいでいる。彼、もはや激しく動悸するほど圧倒されているのだ。この状態の人は猛プッシュに折れる可能性が上がっている。
俺はこの好機を逃さない――押す。
「…つまり初婚なのでしょう。」
「しょ、…こ゛…?」
「ですから、俺との結婚が初めてなのでしょう。ご経験も無いのに何故“そんなことはない”と…? …あぁわかりました、失礼。要するにマリッジブルーというやつですね。」
なるほどマリッジブルーか。
俺は自分で言っておいて気が付いたのだが、思えば俺のような完璧な良い男と結婚しない理由などないのだから、ユンファさんのこの状態こそがまさにマリッジブルーの症状だということか。
「…え…まっマリッジブルー、?」
俺を見ないまま(俺の顔とは真反対にぐっと揺れる瞳を寄せている)ユンファさんが、ギョッとする。
「ぁいやぁちぃ、…がうような気もするんですけどぉ……」
「違う…? ではその根拠は。」
俺が「根拠」を求めると、ユンファさんは険しくその黒眉を顰め、なかば睨むようにしてやっと俺のことを見てくれた。めちゃくちゃな根拠を求めるな、という目である。
「…ッこ、…こっこ、こ、…こん…こん゛…っ?」
「…んふふ…鶏 さんかと思えば、こんこん…狐 さんですか。お可愛らしいことだ」
可愛い。食べちゃいたい。
……いけない――大変だ。ユンファさんのその(恐怖に)揺らぐ涙目、その白い頬が(困惑の)汗につやつやと濡れているのを見ていたら、ムラムラが再燃してきてしまった。
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