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「えっと、ごめんなさい…。まず結論から言って…僕は貴方とお付き合いすることは出来ません……」
と恐る恐る言ったユンファさんは、物憂げながらもその内に秘めた意思の強さが垣間見える、聡明な伏し目の横顔をうつむけている。
「……うん」
まあ…だろうね。
フラれちゃった。――俺としたことが人生で初めてフラれちゃった……いや、俺がこの件で玉砕したのはこれが初めてではなかった。
なんと同じ男相手、すなわちユンファさん相手にこれで二度目だ。――二度もこの俺をフるとは、全くさすが月下 ・夜伽 ・曇華 である。
しかし俺はユンファさんからの拒絶をあれほど恐れていたわりに、自分の予想に反して今はそう落ち込んでいない。
それこそ彼の拒絶を想像していたときのほうが、よっぽど恐ろしく不安であったくらいだ。――いや、往々にして不安に基づく人の恐れとはそういうものである。
ややもすれば、実際に起きた悲劇のさなかに在るときより、その悲劇が起こり得るかもしれないとあれこれ思いつく限りの最悪のシナリオを想像しているときのほうが、よっぽど恐ろしい不安が振り切れないで辛 いことも多いものである。
……だが大概はその「最悪のシナリオ」など起こらないか、あるいは起こったとしても、想像していたより肩透かしなほど軽い悲劇であることもままある。それこそ朝出かける前に何かしら不吉な予感がして、交通事故にあったらどうしようと考えながら道を歩いていたら、軽く電柱にぶつかったくらいの。
要するに、人の不安や悪い想像のほとんどは取り越し苦労だとか、杞憂だとかで終わることのほうがよっぽど多いということである。
まあ俺の場合は現在その「最悪のシナリオ」を割と迎えているとはいえようが、しかし自分でも驚くほど、実際その場面に直面している俺は今、全くといっていいほど落ち込んでいないのだ。
それは今粛々 とユンファさんのその拒絶を受け入れているこの俺が、『あくまでも一度フラれたら終わり、結果は出た、もう諦めよう』……というような馬鹿に潔い男ではないからであろうか?
いや、むしろ悲劇に直面した人はみな俺のようにこう考えたらいい。
ほとんどの物語には主人公のための敗北があるものだ。と――それも身も心も打ちのめされるような、目を覆いたくなるような惨 たらしい圧倒的な敗北である。
しかしその圧倒的な敗北というのは、あくまでも主人公のために起こる転機たる悲劇なのだ。主人公が経験するべき圧倒的不利の敗北、その惨敗の経験は主人公をより強く、賢く、また忘れがちであった胸にしっかりと抱 くべき大志をもより強固に忘れがたくさせ――すなわち主人公をレベルアップさせる。
――これはそのための一時的な敗北だ。
その圧倒的な敗北があってこそ、主人公は最後には大団円の完全勝利を得られる。
……しかしその圧倒的な敗北に怖気 づいて、もう自分には次などないとそこで諦めてしまえば――その惨敗だけが主人公の人生の「最終結果」として残り、その主人公は永遠に負け犬のままである。
つまりここで諦めてしまえば、その圧倒的な屈辱の敗北こそが物語のエンディングになってしまうということだ。
これはプロセス なのだ。あるいは始まりなのだ。
全てはプロセス なのだ。完全勝利さえもそうだ。
つまり――これはエンディング ではない。
あくまで――あたかもオープニング なのである。
「ただ、はっきりとお断りするのがその、…正直とても忍びなくて……」とユンファさんはその横顔に済まなそうな翳りを見せる。
「…だから僕はさっき、実は、貴方に僕のことを嫌っていただこうとしたんです…。つまり僕は、あれで貴方に嫌われようとした……そうすることで、出来る限り穏便に、貴方の方 から僕との交際を諦めていただきたかったんですが…――ただ、それはあくまでもお互いのために、と思ってのことで……」
「……なるほど…? ……」
先ほどはあれだけ狼狽して乱 り顔をしていたユンファさんのその横顔は、今や気高き騎士のように沈勇 としており、今はよりその顔立ちの眉目秀麗さが際立って見える。
そうして今では怜悧さを取り戻しているばかりか、先は俺がお耳でイかせて蕩散 させたというのに、最高潮に達したその天にも昇るような快感のさなかにも、ハッと確固たる自分の信念を思い出すとは――このままじゃナアナアで本当に俺と付き合うことになってしまう、という目の覚めるような警戒心もあったようだが(というかそれがほぼ占めていたようだが)――やはりこの男、一筋縄ではいかない誇り高き騎士様である。
「例え…その、万が一、…万が一、貴方のお気持ちが本当のことだったとしても…――実は……」
ユンファさんはそこで一旦、はぁ…っと薄くあけた桃色の唇から息を取り込み、思いきりの勢いをもそれによって取り込んだ。――そして吸い込んだ空気によって勇気づけられた彼の顔が、ふっと俺のほうへ向く。……彼は生真面目な真顔であるが、ある恐怖から、俺の目を真摯 に見るその切れ長の両目のまばたきは多くなっている。怖気づいてはいないが、悪い展開を想定した不安から緊張はしているのだろう。
「僕が勤めている“DONKEY”では、お客様とキャストの恋愛は禁止されているんです」
「……、なるほど…そうだったのですね……」
これというのはユンファさんの嘘ではない。が、うんうんと、あたかも「そうだったんだ」と気が付かされたふりをしている俺のそれは嘘である。
なお俺が彼の一旦の結論的な「本当の理由」に怒りや動揺のない納得をすると、彼は緊張から生真面目なほどになっていたその表情に多少の安堵のゆるみを見せ、胸の底にためていた空気を音もなくはぁと吐いた。
「勿論プレイ外で…という意味ではありますが…」とユンファさんがふと目を伏せながら、その顔もまた伏せ気味に戻す。――彼ははじめから俺を怒らせてしまうことを恐れていたが、しかし『気は抜けないにせよ、どうやら今のところは大丈夫そうだ』と、こう話を続ける。
「つまり“DONKEY”という店のキャストである僕が、お客様である貴方と個人的に連絡先を交換することや、僕たちがプライベート会う、とか…とにかく、プレイ外でお客様とキャストが恋愛関係になることは、店の方で禁止されているんです…――そしてそれは、雇用契約書の中にも含まれている禁止事項で……」
「……あぁ…、……」
俺は目を伏せながら胸の前で腕をくみ、うんうんと更に納得げにうなずく。
ちなみにユンファさんの勤めている『DONKEY』に限らず、客とキャストが恋愛関係になることを雇用契約書の禁止事項に入れている風俗店は多いという。
またそれ以前にも(恋愛関係だとかの如何 に関わらず)、客とキャストは個人的な連絡先を交換してはならない、という禁止事項が伴っている場合も多いらしい。
――つまり俺はそれをわかっていて何度もユンファさんに愛の告白をしていたということである。
それはなかば俺の自惚 れのせいだが(それでもこの俺ならば何とかなるだろうと)、もうなかばに関しては先ほどのヤケクソや感情の爆発のせいである。
「…何故そのような契約内容が含まれているかというと…」
とユンファさんが静かな声でさらに続ける。
「簡単にいうと、店の不利益になってしまうからなんです…――それこそお客様とキャストがプライベートで会うようになると、必然的にお客様は、わざわざ店を利用する必要がなくなってしまうので…、つまり店は、お客様を一人失うということにもなってしまいますから……」
「…なるほど、なるほど……」
うんうんと頷く俺は腕組みをしたまま脚も組み、背をトンとセピア色の革張りのソファの背もたれにあずける。ギィとソファが軋 んだ音を立てた。
つと見上げたクリスタルシャンデリアが金の光をチラチラと放ってまばゆい。
「それに…風俗店のキャストと、その店を利用しているお客様はプライベートで会うと…正直、その、売春行為に発展してしまいやすいそうで…――すみません、少しだけ内情をお話ししてしまいますが…――実はキャストは、店を通じてだと、お客様がお支払いの金額の50パーセントくらいしか、お給料として受け取れないんです…」
と話すユンファさんの声は、深刻な話をしているという自覚のある落ち着いた低い声である。
「ですがその一方で…例え違法であったとしても、お客様とキャストが個人的な売春行為をすれば、それこそやることは同じであったとしても、当然キャストは100パーセントの金額を受け取れるわけです…――ですから、そういった店の外での犯罪行為を防止する意味もあるそうです。…店を通じて出会ったというのがある以上、店にも責任の一端があると追及されないとも限らないですから……」
「…なるほどね…、……」
ところで俺はユンファさんに「危険人物」とさえ思われていたが、それであっても彼に信頼はされているようなのである。
というのも――ともするとこのような話を客にすれば、彼は客に「そうだよね、じゃあやっぱりプライベートで会おうよ。自分もお店にそれだけのお金を取られるの嫌だから、貴方に全額きちんと渡したいから」などと、恋人関係が駄目ならせめて体の関係だけでも、なんて食い下がられる可能性は高いだろう。
そしてユンファさんは経験則にしろその聡明な頭脳にしろ、その可能性に思い当たらないような人ではない。つまり俺は少なくとも「食い下がらない」という約束を守る人だ、というくらいには彼に信頼を置かれているようなのである。
「…以上の理由で、“DONKEY”はキャストとお客様が恋愛することを禁止しているんです。…」
とユンファさんが一旦は話を結ぶ。
しかし彼はすぐに「そして…」と話を続ける。
「それは僕の雇用契約書にある禁止事項でもあるので、…その…例えば仮に、僕と貴方が個人的に連絡を取り合ったり、店を通じて会っていることや……あの、た、例えばなんですが、これは例え話として、例えば、…その……」
やけに予防線を張っている上に言いにくそうなユンファさんだが、なるほど、彼はもう既に俺のことを「意識」はしはじめている。言うまでもないが「男として」だ。――仮面の下でニヤリとした俺は、シャンデリアのクリスタルの中にチラと小さい虹を見た。
「…僕と…貴方が、本当にその…仮にもぉ、お付き合い、といいますか……あの、いえ有り得ない、ことではあるんですが、…その…――とに、かく…そういうことが店にバレてしまった場合、僕は多額の違約金を、店から請求されてしまうことにもなりますし…――何より貴方もまた…その、店の方から、営業妨害などで訴えられてしまう可能性があります……」
「……ふふ…、……」
俺は仮面の下で緩やかにもう少し口角を上げた。
シャンデリアからふと下げた目線の先にある、卓上の焚き火のゆらめきさえ優しげと見える。――ユンファさんの話は少ししどもどとはしつつも、改めてこう結論に至る。
「だから…その、正直店の都合じゃないかと貴方は思われるかもしれませんが、…申し訳ありません…――とにかくそういう訳があるので、僕は…貴方は勿論、お客様と個人的な連絡先を交換したり、プライベートで会ったり…その、万が一というか…貴方と恋愛をすることも、付き合うことも出来ません…、……ごめんなさい。」
とユンファさんが潔く俺の隣で頭を下げる。
「……なるほど、とりあえずわかりました。…」
俺はなるほど、と思っている。
なるほど――この様子ではユンファさん、客からの愛の告白やプライベートでの誘いをこうして断るために、この説明をすることにもまた慣れている。
つまり彼のカードは例の「最低な男」の虚像のみならず、例えそれをああして客に破られたとて、彼にはまだ使えるこのカードが残されていたということだ。
いや、あの狼狽えようではそうそうそれも破られやしないのだろうが、あるいは相手を見てカードを使い分けているのかもしれない。
そうしてユンファさんには、あらゆるカードを持ち得るだけの経験則があるのだ。――これほどの美男の上に気取らず、賢く、思慮深く、誰しもに優しいオメガ属男性の彼では当然だろうが、やはり俺の他にも、ユンファさんのプライベートを求めてきた男は山ほどいたのであろう。
……しかしまあこれは完全に俺の優越感から言うことだが、それだのに俺は彼に「貴方は他のお客様とは何か違う、どうしたらいいかわからない(いつも通りすぐ躱 せばよかったものを、僕は何故かすぐにはそうできなかった)」と言わしめたのである。
――これは大分上手くいく気しかしないね。
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