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                 俺の隣で頭を深く下げていたユンファさんは、慇懃(いんぎん)にもその下げた頭を少しのあいだその低さに留めたのち――またゆっくりとその頭を上げていった。  彼は俺に振り返らない。その真面目な横顔を伏せ気味にしている。   「ましてや僕は、この仕事はどうしても辞めるわけにはいかないんです」    と彼は問わず語りをする。いや、これは()()()だ。  おそらくだがユンファさんは、他のガチ恋客と同じような展開となったとき、その客に「じゃあお店辞めてよ、自分が(やしな)ってあげるから(または、…じゃあ昼の世界の仕事をしてよ)」などと切り返された経験があるのだろう。   「そもそも僕に、多額の借金があるというのは本当のことなんですが…」    ユンファさんはそこまでは生真面目なその伏し目で、卓上の焚き火をただ意味もなく眺めていただけだったが――次にはその眉を沈痛げに翳らせ、そして彼の長い黒いまつ毛の先はもっと下がる。   「…風俗店で働いている理由が…その、…本当に僕がせ、性奴隷だからなんです、――僕は本当にある人の性奴隷で…、そして僕はその人に借金があるので、それでこうして働いていて……本当に、本当に僕はそのご主人様の命令で働いているものですから、だから、勝手にこの店を辞めるわけにもいかないんです……」   「…それはそれは……、……」    もちろんユンファさんのこの言葉にも嘘がない。  しかし彼のこのセリフには、思い出される胸の疼痛(とうつう)からその調子がほつれ気味であったにもかかわらず、いわば切り札的なニュアンスがあった。    単に借金があると言ったところで、一夜切りの高級風俗店を利用するのにわざわざこのスイートルームを取ったような金満家の俺ならば、あるいは「じゃあ自分が借金を返してあげるから」と申し出ないとも限らない。…いや、彼がこれを切り札にしているということは、実際そう言ってきた客もいたのだろう。    ところがユンファさんはそれをさえ回避しようというのである。――それこそ自分が背負っている借金は、ケグリという第三者が絡んでいる借金だと明かすことで、いかにもこれで彼に手を出せばリスクや面倒事が多いだろうという、鬱陶しい印象を客の俺に与えようとしている。  ……また「多額の金を借りている主人の命令で風俗で働いている(働かせられている)」という説明は、「風俗に沈める」という俗な言葉もあるように、その彼の主人というのが何か裏社会的な危険人物なのではないか、と想像させるようである。      流石――お上手。     「ですが……」    とユンファさんはその目を上げながら俺のほうに振り返り、俺の目を優しげに見てきた。彼は俺の目を薄紫色の瞳で眺めながら美しく微笑み、しとやかな動きで小首をかしげながら、その秀麗な黒眉の眉尻をあえかに下げる。   「…どの道、僕はこの仕事を辞められませんし…、はは、個人的なご主人様がいるのに、まさか誰かと誠実なお付き合いすることなんて…それこそ夢のまた夢、というようなんですが…――もし仮に、貴方のお気持ちが本当のことだったとしても……もともと僕なんかでは、貴方のような素敵な男性とは全然釣り合いませんから……」    そして彼は俺にその儚い微笑を向けたまま、ふと寂しげに目を伏せる。   「…そもそも僕は…明るい太陽の下で、貴方の隣に居る自分がとても想像出来ません…――それこそ貴方のように素敵な人のお隣には、もっと美しくて…もっと賢くて…もっと性格が良くて、可愛らしくて、そして貴方のご身分にも相応しい…――貴方という素敵な人に相応しい、本当に素敵な人がお隣に居るべきです。…つまり、貴方のことを幸せに出来る人は、まさか僕なんかではなく……貴方に釣り合ったレベルの人だと思います。…」    と言ったあと、ユンファさんは目を伏せたまま顔を前へもどし、俯き気味に自分に呆れて笑う。   「…はは、これじゃ何だか、僕が貴方をフッてしまったみたいだ…。ごめんなさい、やけに上から目線な烏滸(おこ)がましいことを言ってしまって……」   「……、…、…」    いや貴方がフッたのだよ、  ……俺はぐっと喉元までこみ上げてきた言葉を飲み込んだ。ここでは否定も肯定もしない。するべきではないからだ。    俺に釣り合う人は貴方の他にはいない。  愛だ恋だに失望していたこの俺が唯一恋をし、そして今もなお唯一愛している男がこの月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)である、ということももちろんだ。    しかしそれ以前に、これほどの類まれな美貌の男が思慮深く誠実な性格で、かつ名門大学出の賢さをもちその言動は全く卒がなく上品(今でさえ何か(しと)やかな断り(ざま)だったろう)、そうして育ちもすこぶる良く血統まであの五条ヲク家と――ユンファさんは三拍子揃っているどころではない、全くもって間然(かんぜん)するところのない人である。  あまつさえ性奴隷とされていなかったら彼、いまだに誰しもにとっての高嶺の華であったことだろう。    そうそうそのような高嶺の華が、雑草のようそちこちに咲いているわけがないのである。  むしろユンファさんは高嶺の華であるが故あのケグリの薄汚い手で()み取られ、あの平穏で幸せな優しい月明かりの(もと)から盗まれてしまった――そしてそれだからこそ、今もなお血眼になって愛する華を探している月の光が当たらない地下、あんな地獄に彼は隠されている――とはまあ、ユンファさんは露ほども思い至ってはいない様子ではあるがね。    俺はそう言いたかったが沈黙した。  今ユンファさんの知らないところで、血眼で彼のことを探しているツキシタ夫妻のことを言う以前に、これで今「貴方の他に俺に相応しい人が居るわけがない」と食い下がることは約束に反する。  何より、まずはユンファさんの心をもっと砂糖漬けにするほうが賢明だと判断したためである。    ちなみに月下美人の花びらは元は純白であるが、砂糖漬けにするとなんと愛らしいピンク色になるのだ。  ピンクとは全く春めいた恋慕に似つかわしい色ではないか。しかもオクラのようなとろとろとした粘液が出てくるのである(なお俺の()()()()()月下美人の名はもちろん「ユンファ」だ。やはり「ユンファ」はとても甘くて美味しかった)。  しかし、砂糖漬けというのは当然それなりに時間をかけねばならない。然るべきプロセス(過程)がある。まずは砂糖まみれに、それから俺のその甘い砂糖がその純白の花びらに浸透し…やがて愛らしい桃色に、そしてその桃色からとろとろとした甘い愛液が出てきたなら――有り難く頂きましょう。    ……と、俺がなんとも言わずに思索を巡らせていたせいで、俺たちは自然と黙している状態になっている。   「…………」   「…………」    ちらと(うかが)えば、ユンファさんは軽くうつむき、物憂げに目を伏せているままだった。  ――『もしかしたら、出逢いが違ったら……』とユンファさんの伏せられた長い黒いまつげの下、憂いた群青色の瞳が思い惑いはじめる。   『……――いや、出逢いが違ったら…だって?    いや、僕はどこまで馬鹿なんだろう。  たとえどんな出逢い方だったとしても、こんなに素敵な人と僕なんかが恋人同士になれることはない。絶対に有り得ないことだ。  馬鹿らしい。僕はさっき、本当は少し期待していたんじゃないのか。…もしかしたら本当に……だとか、そういう有り得ない期待…――有り得ないだろ。    僕にどれほどの価値があるかなんて、僕自身が何より、誰よりも一番によくわかっている。  顔はコレだ。体だって、(かろ)うじてオメガ属だから相手をしていただける人がいるだけだ。馬鹿で世間知らずで頭も悪いし、何か得意なことがあるわけでもない。性格も卑屈で暗いし、全く可愛げもない。    可愛い…――?    僕は可愛くなんかない。むしろ真反対だ。  顔はもちろんだが、中身もそうだ。  どうして彼、こんな僕なんかと付き合いたいだなんておっしゃられたんだろう。    血迷ってしまったのかな。  誰でもよかったとか。――やっぱり恋人プレイか?    それか……――考えたくはないが、……僕を利用したかったのかもな。確かにオメガをたぶらかせば、如何(いか)ようにも利益は得られるものだからな……だが、僕はどうしても、彼のことは悪い人だと考えたくない。    仮に、仮にも、と僕は思ったんだ。  風俗店のキャスト、それも誰かの性奴隷で、借金まみれの僕なんかとじゃ、不幸にはなっても幸せにはなれない。そもそも不釣り合いだし、例えば二人で街を歩いても、きっと彼は街の人に嘲笑(わら)われてしまう。――あのブス首輪着けてるぞ、あんな不細工連れてどこに行くんだ?    彼は僕なんかにも優しくしてくれた。きっと誰しもに優しくできる、心優しい素敵な人なんだろう。    彼には幸せになってほしい。  だからこそ嫌われたかったんだが……あんまり上手くいかなかったな。    何にしても、今更どうこう考える必要はないか。  彼のあの言葉たちの真意がなんであれ、もう彼も僕と付き合いたいとは思っていないはずだ。    ただ、念には念を入れて…………』    とユンファさんはその切れ長の伏し目にやや厳しい色を持たせると、「あの」と誠実な低い声で俺に話しかけてくる。       「僕のことは、もう二度と指名しないでください。」           

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