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「僕のことは、もう二度と指名しないでください。」
とユンファさんは眉間のあたりを険しく強張らせ、覚悟をもってこう続ける。
「今夜のプレイが終わったら、僕の方でも貴方のことはNGに入れます。僕のことはもう指名出来ないように。…ただ……」
俺はユンファさんが言いかけた「ただ」のその先を聞く前に、彼へ向けて首をかしげた。
「…それは何故です…?」
いや、俺の目にはなぜと聞くまでもなく、そう言ったユンファさんの真意は見えている。だが俺はぜひ彼の口からその理由が聞きたい。――するとユンファさんは俺に意思の固い真顔をふっと向けると、重々しい声でこう答えた。
「僕はいわゆる色恋営業はしたくない。…つまり、仮にも貴方が本当に僕のことを想っていてくださった場合、だからと店を通じて、僕に会いに来てくださるのは嫌なんです。――誰かの恋心を利用してお金を稼ぐなんて、そんなことは…少なくとも僕は、そういった色恋営業はしたくないタイプのキャストなんです。」
「……ふふ…、そうですか。……」
この高潔な銀狼 の顔、声、魂、言葉、俺はこれが見たかった、聞きたかったのである。
……まあこれで「迷惑だからと邪険にされているだけだ」と捉 える客もいなくはないことだろう。だがこの俺のように、逆にこの愚直なほどの気高い性格にもっと惚れ込む客もいることだろう。――なおユンファさんのこれは、彼の誠実な本心からの言葉である。
これこそがユンファさんの優しさにある芯――信念だ。
まあとはいえ、その色恋営業とやらの善し悪しはともかくとしても、そもそも他のキャストとユンファさんとでは置かれている状況が違う。
――彼は危険をおかした色仕掛けをしてまで得られる報酬を増やす必要はない。…いずれにしてもこの『DONKEY』で彼が稼いだ報酬の行きつく先とは、彼の銀行口座ではなく、あのバカガワ共の貪戻 な底なしのポケットなのだ。
それこそ愛憎のリスクを冒 してまで色恋営業をしたところで彼にメリットはない。それどころか百害あって一利なしというほどのものであろう。
が、何やらこの信念を確固たるものにした過程で、ユンファさんは…――ふと目を伏せたユンファさんは、その曇り硝子 のような群青色の瞳に、何か自分が深く傷ついた過去をほのめかせている。
「…………」
「……、…」
その色恋営業とやらに何かしら傷があるのか――。
……そういえばあのモウラは、ノダカワの実家に帰るまでうだつのあがらない底辺ホストであったらしいね。…あるいはあの薄汚いドブネズミに恋心を利用されたか…――ユンファさんはハッと俺の目を見た。彼の薄紫色の瞳は今現在に戻って光もまた戻っている。
「…そうだ、あの…――ただ……」
とユンファさんが先ほどの「ただ」の先を続ける。
「ところで、今夜はその、…どうされますか…?」
「…どう…ですか…?」
俺はニヤけた声で反問した。決まっているだろう、もちろんこのまま続行だ。――しかしユンファさんはふと不安げに目を伏せ、
「もしもうこれ以上は僕と一緒に居たくない、居づらい、とてもプレイは続けられないというお気持ちが貴方にあるようでしたら、僕はこれで失礼します…――ただ……」
と深刻げな表情で話し、一旦コクンと口内の唾液を飲み込んでから、彼は更にこう続ける。
「それですと勿論、貴方は損をされてしまうので…あの――これはちょっとした裏技なんですが、この後の店のアンケートで、僕に最低評価を付けてください。全部星一つで、とにかく最低なキャストたった、ということで……。あとお手数なんですが、出来れば任意のコメントの方にも最低な態度だったとか、物凄くプレイが下手だったとか、何か一言でもいいので…そういう酷評コメントも書き込んでいただけると確実かと……」
「……何が、確実なんです…?」
そう…ちなみに風俗店の中には、キャストとのプレイ後に客にアンケートを取る店がある。
そのアンケートによってキャストの働きぶりを店側が把握することで、店やキャストのサービス向上の目的や、またキャストの給料の引き上げが行われるということもあるというが――逆にキャストの接客態度に怠慢が無いかどうかのチェック目的でもあり、必要とあらば追加指導をするための指標でもあるという。そして『DONKEY』もまたその店の一つであるようだ。
しかし、なぜそれでユンファさんの評価を最低にしろというのか。何 が 確 実 なのか――。
その謎はすぐ彼の口から語られた。彼は決意を固くした鋭い伏し目でこうつづける。
「…そうしていただくと、僕が貴方をNGに入れる以前に、貴方は僕のことはもう二度と指名出来なくなります。――ただその代わり、指名料だとか店の利用料金だけは確実に、全額貴方のお手元に返ってくるんです。」
「……ふぅん……」
なるほどね、お詫びというわけか。
そんなことを公然と公式サイトに書いておけば悪用されるに違いないので、その旨 がどこにも記載されていなかったことは納得である。――まあそれに味を占める者もいなくはないことだろうが、とはいえ、それを馬鹿に連続してやればさすがに出禁にでもされるに違いない。
そこでさあ…と青ざめてゆくユンファさんは深くうなだれ、自分の腿のスラックスの布をぎゅうと握りしめる。
「……も、もちろん、このお部屋の…そ、その、決してお安くはないだろうお代金は、…無駄になって、…し…しまいますが…ごめんなさい、…あの僕、か、返せるだけの、…よ、余裕が、借金で精一杯なんです、本当にごめんなさい、――でも、せめてご利用料金だけでもと、思って……」
顔面蒼白のユンファさんは深くうつむきながら瞳孔を開かせ、は、と上がりそうになる息を止めると、きゅっと目をつむった。
「そうですか…ありがとう、その優しいお気持ちだけは有り難く頂戴いたしますね――。」
全くユンファさんはお人好しである。
結局これも彼の信念に基づいた提案ではあったのだが、彼の体のほうはその信念に反して怯え、カタカタと小さく震えている。
どうもそうして客に最低評価を付けられるなり、ユンファさんはケグリ共に例の惨たらしい「お仕置き」をされてしまうらしい。――しかしそれにしても、ユンファさんは優しすぎる。
自分が今に怯えてしまうほど恐ろしいお仕置きであっても、そうして自分が身の毛がよだつような虐待をもって罰せられることより、自分なんかにまで優しくしてくれた誠実な俺に損のないほうが、よっぽど自分には後悔が残らないというのである。
He is a real peach…(彼は本当に素晴らしい人だな…)――何て健気 な人だろうか?
俺にはとてもじゃないが、恋人でもなんでもない他人へそこまでのアガペーは与えられない。もちろん相手がユンファさんならば別だけれど。
嫌いになれとはそのほうがよっぽど無理だ。
――その美しい顔や体はもちろんだが、俺のみならず、彼は誰しもに惚れられて何もおかしいところはないじゃないか。…先ほど俺がこの目で見た彼のあの見誤った自己価値の認識…忌まわしきケグリ、あの男ほど俺の憎む存在もない。今の俺はよほど自分の両親よりもあの男が憎くすらある。
「…俺はね……」
と俺は、ユンファさんのスラックスの布を握りしめているこわばった手の甲に手のひらをかぶせ、ゆっくりとその人のほうへ上体を前のめらせた。
「…言ったでしょう…? ――貴方に破産させられたいのです…。ふ、ククク……」
ユンファさんの青ざめた顔がハッと俺に振り返る。
彼の涙目の驚いた顔に、俺はゆっくりと目を細めた。
「…Ecstasyを得ているのです…。愛する貴方に自分の何かを費やす、捧げる……いえ。費 や せ た 、捧 げ ら れ た と言うべきでしょうね…――仮にも貴方にお与えいただけた損は、それと共に俺に快感を与えます…。俺にとっては何もかもが、貴方にお与えいただいた大切なものなのです…」
「……、…、…」
ユンファさんの見張られた切れ長の目を見るに、ひとまずのところ彼は「お仕置き」への恐怖を忘れられたようだ。よほど俺のことを異質な者となかば恐怖混じりに見てきている。――これで貴方の瞳を独り占めだね。
「俺が全て独り占めしたいのです…。そんな…全額キャッシュバックだなんてとんでもない、この悦 びを奪われては困る…――それに…、……」
と俺は目を下げ、ユンファさんの片手を下からすくい上げた。その青白い手の甲にうかんだ色あせた青の太い静脈は、俺の犬歯の先を情欲に疼かせる。…これがキュートアグレッション――愛しすぎるからその血管を噛んでみたい――というやつか。
……しかし仮面をつけている俺は、その色っぽい手の甲にもう片手のひらを重ね、つと目を上げてユンファさんを見た。――彼は不穏な気配を感じとりながらも、ただ俺の「それに…」の先を待っている。
「…例えこのホテルの部屋代や利用料金など、貴方との素敵な夜を過ごすために俺が支払った金を溝 に捨てたとしても…――俺は何ら困りません。…まあそれくらいの余裕はある大金持ちなのです、これでもね。…ふふ……」
「……、…」
ユンファさんはしかし、だんだんと俺のことを見るその切れ長の両目に、ある種の安心感をやどし始めている。――その安心感とは、(言っている内容はともかく)自分が気咎めしないように自分に気を遣って、俺が自分にまた優しく接してくれている、という、ある意味これまでの俺の親愛を信頼しているが故のものだ。……俺は「何より」と彼へ小首をかしげる。
「…まさか好きな人と過ごせる貴重、かつ人生における至福の時間を、早く切り上げたいと思う男などいません。…いたとすれば腹痛諸々の事情がある男でしょう。けれども、俺はこの通りピンピンしています。そうでしょう?」
「……ふふ……」
ユンファさんがいよいよ緊張がほどけたように涙目で微笑む。それは俺の言葉が冗談っぽく聞こえたので、彼は気持ちが和 んだのだ。
ましてや俺が「冗談」を言ったと思っている彼は、なるほど、さっきの独り占めしたいだとかどうだとかも、自分を和ませるために俺が言った(わかりにくい)ジョークだったんだ、と落とし所をつけた。――実際あれは俺の本音だが――俺のことを好きになってくださるならばそれでも結構。
「次に俺は、神 の 前 で 嘘 は 吐 け ま せ ん 。――貴方は貴方が思っている以上にとても美しく、とても心優しくて、とても聡明な人ですよ。――間違いなく貴方は最高だ。…ましてや…ご自分の利益を差し置いてまで俺のことを慮 ってくださった貴方に、最低評価など付けようがありません。」
「……、…」
しかし、俺がまともにその薄紫色の瞳を見つめながら褒めたてたせいだろうか、ユンファさんはふと物言いたげに目を伏せた。『有り得ない』という自己否定の思いがあるのだ。しかし角を立てたくない彼は「いや」とは言わない。――その間違った彼の自己認識は追々是正するとして、俺はさらに彼へこう言う。
「…更に言って…そもそも俺はもう既に、貴方の人生の貴重なお時間を幾らか頂いています。――これで返せというのは、それこそ食い逃げと同じことかと。…料理に一口でも口をつけたのなら、客は金を支払わねばなりません。その料理が美味 かろうが不味 かろうが、ね。……何より…何の問題もない料理にケチをつけて、髪の毛が入っていた、髪の毛が入っていたから金を返せ、……ふっふふふ…そんな下賤 な真似は、俺にはとても出来ませんから……」
あのバカケグリじゃあるまいに。
「まあだけれど…」と俺はそこで思案ぶって目を伏せた。
「…“お互いのために”という貴方のお気持ちは尊重しましょう。――わかりました…俺は今後、もう二度と貴方を指名しないと誓います。」
もう必要ないからね。
――俺が今後わざわざ風俗店『DONKEY』を経由してユンファさんと会う、つまり月 としての彼を指名する必要がないからである。
こうした秘密の逢瀬 を楽しむのも乙なものだとは思うけれど、どうせ今年中には彼を迎えに行くのだから。その逢瀬が必要か否かを合理的に判断すれば必要ではない。
そもそも今夜俺が果たすべき目的とは、あくまでもユンファさんの「検体採取」だ。
――できれば俺に惚れてほしい、という欲は常に抑えきれないでいるが(俺はこの熱い恋心を抑える術など持ち得ない)、しかしそれは次点の、いわばあわよくばという目的であり、その次点の目的をいそいだ結果が虻蜂 取らずとなってしまっては何の意味もない。
急 いては事を仕損じるというように、間違っても俺が今夜に最優先するべきは「検体採取」である。――ひいてはそれによって、ユンファさんの恋心も獲得するに易くなる可能性があるからだ。
つまり俺は今夜ユンファさんの検体を採取できればそれでミッションコンプリートとなるので、今夜中にそれが叶わなかった場合を除いて、二度月 としての彼に会う必要はない。――しかし、俺は今夜中に彼の検体採取ができないかもしれないなどとは考えない。考えるだけ損である。
……できないと思って事を進めることの無益さよ、できないと思っている奴が本当にできるはずがない。
そんなマイナスな想定は非生産的だ。リスクヘッジはまた別として、事を成し遂げるためには、まず大前提に「できる」がなくてはならない。
「ですが、貴方をもう二度と指名しない、とはいえ…それは、俺が貴方を諦めたということではない。」
と言い切ってから目を上げると、ユンファさんが茫然としながらも驚いた目をして俺を見ている。彼のその薄紫色の瞳は潤み、その目元や頬あたりには可憐な薄桃色がじゅわりと滲んでいる。
「どうか勘違いしないで。俺はたったの一回貴方にフラれた如 き、何とも思っていません。…」
厳密にいえば貴方にフラれたのは二回目だけれど。
しかし、例え俺のその経験が二回から三回、三回から四回と増えていったところで、最終的にこの美貌の月の男神を手に入れられるならばそれが何だろう。
そもそも十一年間月下 ・夜伽 ・曇華 を諦められなかった俺という男が、今更そ れ く ら い の こ と で彼を諦められるわけがない。
ということで――俺は悠然とユンファさんに微笑みかけた。
「気持ちはちょっとしたことをきっかけにして、翻 るように変わるものですから…。…お待ちしておりますので、いつでも御遠慮なくどうぞ――YES」
「……、…あの、ですから僕…」
「さあ…では気を取り直して、今夜を楽しみましょう。…もちろん、“本当の恋人”としてね……」
俺はユンファさんの困惑げな目を上目遣いに見たまま、その人の手の甲を持ち上げ――下から持ち上げる俺の手にたわんだ彼の白い指の背に口付けた。ちゅっと音は立ったが、もちろん仮面越しにである。
「……、えっ、と……」
静かに驚いているユンファさんは俺を見ながら、その切れ長の両目をパチパチとしばたたかせている。
――『思うところが、ありすぎて……逆に、何を言ったらいいか、わからないな……』
「…ふっふふふ……では引き続き、二人で…二人きりで。今宵を素敵な夜にしてゆきましょうね――。」
――逆に燃えてきた。
逃げられるとむしろ追いかけたくなるのだよ。
土壇場にこそアイディアがポンポンと湧いてくる。
素晴らしい目標 を果たすためには、いくつかの素晴らしいプロセス が必要だ。――それはまるでフレンチのフルコースのように……ね。
まずはお砂糖から集めましょう。
……次の俺の企 みは――。
「……あぁところで、何だか喉が乾いてきたな」
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