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                「…本当にごめんなさい…。貴方はまるで、何も知らない純粋な少年のようだ…――僕は、優しくて誠実な貴方を騙している……」    俺に組みしかれているユンファさんは罪悪感に翳る伏し目でそう言いながら、体を起こそうとベッドに手を着き、それから両ひじをついてなかばそのあらわな白い胸を起こす。――俺はほとんどこうなることをわかってはいたので、動揺も何もなくゆったりとうしろに腰を引き、ベッドの上であぐらをかく。  ……するとユンファさんもまた横座りでベッドの上にすわり、俺たちは座った状態で向かいあう。  彼は悲しげに目を伏せ、うなだれながら俺にこう湿り声で言う。   「ごめんなさい…、本当にごめんなさい――やっぱり、貴方に抱いていただけるような、…僕の体は、そんな体ではありません…。ましてや優しく抱いていただくなんてとんでもない、――僕の体は決して綺麗ではないんです、…むしろ、凄く汚い体なんです、…貴方に優しくしていただく価値なんて、本当に無い体なんです、…」 「…そんなことは……」    ない、と俺は言いたかった。  ユンファさんがなぜ自分の体を、俺に抱かれるにふさわしくない体だと思っているのか――俺は「その理由」を知っている。…俺の目は、俺の耳は、俺の鼻は、彼が思っているその何倍も真実を見、真実を聞き、そして真実を嗅ぎ分ける能力をもっている。  しかし俺の「そんなことはない」という否定を、純然な廉恥心(れんちしん)から「いえ、…」とさえぎったユンファさんは、カタカタと震えている青ざめた桃色の唇で、こう怯えた震え声でいう。 「…僕の体は、貴方が思われているような、そんな綺麗な体ではありません、…むしろ、本当に…――僕、実は此処に来る前に……」    ユンファさんは誰よりも清らかだった。  ――俺がなぜ彼の輝くような肉体にあの『壊れた甕』を連想したか。……それは、   「…今日だけで…もう既に二十人以上の方とセックスを、…し、しているんです、――ごめんなさい、…しかも僕は、その方々の全員から、…中出し…されています、……」   「……、…」    俺は知っていた。  ……知っていた上でああして「綺麗だ」と泣いたのである。それは例えばあの『壊れた甕』に(えが)かれた少女のように、潔白とされている未経験の体をもたない彼であっても、事実その体はあの少女の初々(ういうい)しい体のように綺麗だった。    ――だからである。  だから俺はあのときその絵画を思い出した。    性奴隷として数多(あまた)の男に抱かれている彼の肉体であっても――世の中の人々が、どれほど彼の肉体に(けが)れた下等な安っぽい体だと眉をひそめようとも――それでも彼の体はまるで蒼白い月華でできているかのように光り輝き、清廉で神聖で神秘的で、とても素晴らしく美しかった。誰の体よりも、誰の体よりも綺麗で素晴らしかった。    ――性とは果たして悪であろうか、本当にそれとは穢れなのであろうか?    こと膣をもつ人々は、知識や他の経験とは違って、性の経験が豊富であると「穢れている、安っぽい、淫乱だ、どうかしている」と見なされがちである。    しかし経験とは単なる積み重ねた記憶でしかない。  役に立つこともあれば役に立たないこともあるが、それはもしかすると今だけのことかもしれない。    性に限らずいずれの経験にしても――たとえばその経験をしているときに、どうして自分はこんなに苦しまねばならないんだろうだとか、こんなに辛い経験はしたくなかっただとか、あるいは、自分はなんて馬鹿なことをしてしまったんだろうだとかと思えたとしても――その経験の全てはその人の(かて)となり、力となり、賢さとなり、全て決して無駄にはならない。  ……のちのちその経験が思いがけず役に立ってハッとすることもあれば、あるいは知らぬ間に自然と今の自分の役に立っていたりもするものである。    ましてや経験とはその人それぞれ、その人の人生の歩みそれぞれのことであり、一概に多ければ良いとも少なければ良いとも決めてよいことではない。有ろうが無かろうが、ゼロだろうが百だろうが、人の経験の(かさ)をもって一般論の善悪や価値の尺度を決め込むべきではない。  ……ちなみにこの俺の持論と矛盾している、俺がユンファさんに童貞だと勘違いをされて恥ずかしかったその理由は――単純にまた俺の(ユンファ)コンプレックスのせいである。また年下の少年だと男として彼に(あなど)られそうな危機感を覚えたのだ。    さて…何よりも重要であるのは、そのあらゆる経験のなかで何を得て何を捨て、最終的にどのような人と形成されたかである。  ――たとえば処女であれば清らかで純粋で可憐な乙女で、あるいは処女とは経験するべきことを経験していない、誰にも求められない可哀想な女としての価値がない女で、また娼婦であれば卑しい穢れた淫乱の毒婦と見なされがちなこの世の中では、人の性的な肉体の価値、ともすればその人自身の価値までもがその経験回数ばかりで速断されてしまっている。    しかし人の肉体の価値は経験になど左右されない。  結局のところは処女の肉体の価値も、経験を済ませた女体の価値も、娼婦の肉体の価値も、また経産婦の肉体の価値も、みな同じである。もちろん男にしてもそうだ。男娼だろうが童貞だろうが、経験済みの男体、また父、経産夫であろうがみな同じ、人の肉体にはみな自他に愛されるべき尊い価値があるのである。    ゆえに娼婦・男娼の肉体を淫売の穢れた体と(ののし)るなかれ。  そもそも多くの人の目に触れた肉体を安価として、誰の目にも触れていない肉体を高級とする価値観は、今の時代には忌み嫌うべき処女信仰に基づいている。  まあ以前はそれも必要だったのだよ。DNA鑑定がなかったからだ。以前は性を忌み嫌うべきだったのだよ。それを善とすれば、治療法の確立されていない致死性の性病や疫病を広めてしまう原因ともなり、また強姦や不倫や性にまつわるトラブルを正当化することにもなってしまったからだ。    しかし医療が発展し、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の流れが際だつ現代においてまで、不倫だの何だので誰かに迷惑をかけているのならばまだしも、誰に何の迷惑をかけているわけでもない経験豊富なだけの人々が、なぜ人よりも豊富が経験というだけで悪や穢れと見なされてしまうのか。――それは人々が潜在的に性というものを悪だと勘違いしているためである。  だが性というものの根底には快楽がある。  食事や睡眠と同じく性にも快楽がベースにあるのである。その快楽というのを分解していえば、性もまた本来は心地よく楽しく幸せなことだということである。  すると人々は性というものを取るべき食事や睡眠とおなじく生理現象として受け入れ、むしろもう少し罪悪感なく気軽に楽しんでみてもよいのかもしれない。たとえば美味しい料理を食べるように、たとえば整えられた寝具で気持ちよく眠るように――とはいえもちろん、あえて危険な冒険をしてみろと言っているわけではない。また誰かに危害を加えるだ迷惑をかけるだというような行為を正当化しているのでもない。  相手がいるいないなどは問わないうえで、人々は自分の肉体をよく知りよく愛するという意味合いにおいて、自分の性や肉体を、あるいはいるならばパートナーの性や肉体をも、もっと楽しんでみてもよいのではないかということである。    あの『壊れた甕』の少女の顔を刮目(かつもく)せよ。  彼女の半顔は自信に満ちあふれた凛としたレディの顔、そしてもう半分は生意気なほど利口そうな微笑をたたえている。彼女は生娘(きむすめ)ではなくなったが、だからといっても堕落はしていない。むしろレディとしての理性を破瓜をもって得たようですらある。また彼女は女としてより賢くより美しくなった。  (ただ)しく自分の性を取り扱えれば――それの経験とは人の自信となり、賢さとなり、自己愛となる。  性とは根本的には悪ではない。  取り扱い方を間違えなければむしろ幸福、…善である。  たまには好きなものを好きなだけ食べるように、たまの休日には好きなだけ惰眠(だみん)をむさぼるように、性においてもたまにはちょっと羽目をはずしてみてもよい。――とはいえもちろん、たとえば食においても睡眠においても過剰となれば悪にもなるように、それにばかり依存をしない程度に、またいるなら相手や自分の安全、そして自他のセーフティラインはしっかりと守りつつ、自分自身の性というものとも上手いこと楽しみながら付き合ってゆきたい。  ……せっかく人間として生まれたのだから、自分たちの肉体においても楽しまなければ損じゃないか。     「――それでも貴方は綺麗ですよ。」    と俺は嘘偽りのない真心から優しい声で平然と言った。――それでもユンファさんは綺麗だ。ユンファさんの肉体は綺麗だ。誰よりも綺麗だ。  むしろ今にもっと彼は美しくなったかもしれない。もっと色っぽくなったかもしれない。――彼を取りまく辛く厳しいその現状を肯定することは俺にはとてもできない、正直にいえば俺は(いきどお)りを感じてさえいるが、しかしその現状に(から)くも身を置いているユンファさんのことは肯定したい。    とはいえ、今のユンファさんに「もっと性を楽しもう」なんぞともとても言えない。彼は強いられたその性に今もなお傷つけられ、苦しめられている。  ましてやクリスチャンのユンファさんであればなお辛かろう。彼の性に対する罪の意識はそれによるところも大きいに違いない。仏教においても邪淫戒(じゃいんかい)というのがあるのだが、キリスト教もまた多淫(たいん)や淫売を許されざる罪としている。  ……それ故に、海外文化の流入とともにそれら宗教の影響を潜在的に受けているヤマト人は、その宗教の信者であろうがなかろうが性を潜在的に罪悪と捉えてしまいがちなのである。    だが、いつかは俺と(こころよ)く性を楽しもう。    今のユンファさんには「ゆるし」が必要なのだ。  性とは本来苦しいことでも悲しいことでも悪いことでもなく、かえってそれに傷つけられ、縛り付けられている今こそが間違っているのだと――本当は自分の体は俺や自分自身にも愛され、崇拝され、尊重されるべき綺麗で尊い神聖な体なのだと、本来なら性というものはもっと楽しんでもよく、もっと気持ちよくなってもよく、もっと心地よさに浸っても(ゆる)されるべきことなのだと――本当はセックスというのは幸福な行為なのだと、俺は貴方に教えてあげたい。    いつか――教えられたらいいね。  今の貴方には、俺は「それでも貴方は綺麗だ」と言うことしかできないが、……しかしユンファさんは、俺が「それでも綺麗だ」とそう言えど――自分のひらかれたカッターシャツのボタン部分をぎゅっと握って体をかくし、目を伏せたうつむいたままの泣きそうな顔をふるふると横に振った。   「……でも僕…公衆便所、みたいなものなんです…。皆さん、まるで僕の体を、トイレを使うようにご利用なさいますから…」   「…それでも貴方の体は、()()()()()ではありません。」と俺はユンファさんを見据えて冷静に断ずる。   「…公衆便所というのは、用を足せればそれでよいという無料の場所です。…この件でそれに該当するものとは、いわば妄想によるオナニーですよ。…」   「……、…」    ユンファさんは凍り付いた無表情――虚ろな伏し目、青ざめた蒼白い顔、しかしカタカタと震えている肉厚な唇はその両端だけわずかに上がっている――をうつむかせて何も言わない。  俺は彼のその顔を眺めながらさらに言葉を続ける。   「…また、幾ら性欲の強い男らとはいえ…貴方が多くの男に求められてきたというその事実は、決して貴方の肉体がインスタントなものであるからというわけではない。…むしろ貴方は誇ってもよいのです。貴方はあえて選ばれたのですよ。…」    俺の目はこう言ったとき少し潤んだ。  ――誇ってもいい? 残酷な言葉だったかもしれないが、…これ以外に何といえば彼を肯定できるのか、俺にはわからなかった。   「……とはいえ…勿論貴方としては選ばれたくなどなかったことでしょうが、少なくとも――貴方の体には、そうして数多の男に求められるだけの価値がある。――それだけ多くの者が貴方の価値を認め、欲しいからとあえて金銭を払ってまで、美しく綺麗な貴方を求めたということなのですから。……」    こんなのは気休めである。  もちろんそうだ。抜本的な何にもならない。  ――しかし今のユンファさんを、俺はどうにか肯定してあげたいのである。俺はどうしても、強いてでも、彼の全てを肯定してあげたい。  彼の伏せられた凍り付いた無表情(微笑)にはその通り、凍り付いているように微塵も変化がない。俺はつづける。   「そして、例えその男らが貴方にそのような暴言を吐いてきたのだとしても…――それというのはその男らが、本来高嶺の華である美しい貴方であればこそ、なお許されざる背徳の(はずかし)めを与えて楽しんでいたというだけのことです。…要するに単なるプレイ(お遊び)ですよ。ただのSMプレイだ。」    しかし俺はわかっている。  ――今のユンファさんがケグリに背負わされている罪とはこれではない。この多淫と淫売の罪ではない。  いや、彼は常日ごろからこの罪を背負わされて苦しめられてはいるが、現在の彼が()()()()()()()()()()()()()()()()()()とプレッシャーを感じているその「ケグリの罪」は、そして彼が今に耐えきれなくなり、本当に俺に打ち明けたいその「罪」とは、また別のものなのである。   「…貴方は綺麗だよ。貴方はそれでも綺麗だ。愛しています。」    俺は確固たる声でユンファさんへのこの愛念を押しとおす。   「例え貴方が誰の性奴隷であったとしても…例え今日の内に、貴方が何人にその体を(あば)かれてしまっているのだとしても…そして、例え貴方の体の中に…――()()()()()()()……ね…――しかし貴方の体は依然として綺麗なままだ。貴方は綺麗だよ。」   「……、…、…」    ユンファさんは凍り付いた青ざめた顔を伏せたまま、ふるふると小さい振り幅で首を横に振る。  そして彼は、ガタガタと大きく震えている蒼白い片手の長い指先を、自分の黒いスラックスのポケットに差し入れた。――なんら平静のまま、ぎこちない彼の手のその動きを眺めている俺は、彼が何を取り出そうとしているか、それをもうわかっている。  ……やがてユンファさんの白い指先につままれて出てきたそれは、ガタガタと震えながら俺に差し出された。――俺はそれを受けとり、手元でまじまじと見る。     「……、ふふ…――。」    ショッキングピンクの細長い長方形――これは遠隔操作可能なバイブのリモコンだった。        

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