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121 ※微

              「……ユンファ、俺の目を見て…――っ!」    と俺は狼が吠えるような低い大声を出した。  それも俺は彼のことを「ユエ」ではなく「ユンファ」と呼んだ。――これはよんどころない最終手段である。今のユンファさんに大声、怒鳴り声はいわば禁忌(きんき)だ。今の彼は他者の怒りに尋常ではない恐怖心を感じてしまうからである。    それは俺もわかってはいたのだが、むしろ()()()()()というところもあった。  それだけ今のユンファさんは人の大声に敏感になっているということ、ひいては大声のほうが今の彼の耳には届きやすいということだからである。    ましてフラッシュバックに苦しんでいる人をその泥濘(でいねい)から引き上げるにおいては、こうしてその人が一番に「自分の名前だ」と認識している名前をよび、ハッとするような大声を出すことも有効な手段の一つなのだ。――もちろんこんなのはそう頻繁にやってよい方法ではない、これはあくまでも最終手段的な荒療治(あらりょうじ)ではあるが。  ……すると案の定ビクンッと怯えたユンファさんは「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」とまだぶつぶつ繰り返してはいるものの、ガタガタと震えながらも俺の目を見あげてくれた。  少なくとも過去の記憶からは引き上げられたようである。   「…そう…いい子です。…さあ俺の目を見て……」    と俺はおもむろに片腕の肘をつき、ユンファさんの目にもっとこの目を近寄せる。彼の黒にちかい紫の瞳は見るに堪えないほど恐怖からふるえているが、俺の大声が「命令」と聞こえた彼は、従順に俺の水色の瞳を見ようと努めている。   「…大丈夫…貴方は今落ち着いても大丈夫です…。何も怖いことは起こりません…――これから貴方が…辛い思いや、悲しい思い、苦しい思い、痛い思いをすることは絶対に、絶対に有り得ません。…大丈夫…ね。大丈夫だから、貴方は俺の目を見ていてください…」   「……は…、…、…、…」    すると彼は見ひらかれ強ばった目で俺の目を見ながらこくこくこくと浅く何度もうなずく。   「…ふふ…ありがとう…いい子ですね…、……」    俺はユンファさんの黒紫の瞳をやさしく見とめながら、そっとその人の膣口に中指の先をあてがい、くる…くる…とまずは指先の腹で撫でる。ぷにぷにとやわらかい。ひくひくと収縮しているそこは、あたたかくぬるぬるとしている。  このぬるつきは精液のせいもあるだろうが、ともすると彼の自己防衛本能から分泌されている愛液もまた要因の一つかもしれない。   「……、…、…」    ユンファさんの顎の筋肉がうすい皮ふの下にあさく隆起し、そうして食いしばっていてもなおガチガチと彼の奥歯が鳴っている。  ……俺はさっと仮面を取り払った。驚いたユンファさんはとっさに目をぎゅっと瞑った。手にもつ仮面ごとまくらに手を着いた俺は――。   「……んっ…」   「……、……」    ユンファさんの唇に、ぐっと唇を押しつけた。  彼の唇にはぎゅっとかたいハリがある。唇まで強張ってしまっているのだ。可哀想なくらい冷えきっている。少しカサカサと荒れている。   「……、…」    俺はため息が出そうだ。  残念だが、感動で、ではない。  ――俺はもっと情緒的に、もっと素敵な二度目のキスを、ユンファさんとしたかった。  まさかケグリのせいで怯えたユンファさんと、こうした二度目のキスをせざるを得なくなるとはね……だけれど、やっぱり嬉しいかもしれない。  ……唇を押し付けているうち、ユンファさんの唇から強ばりが解けはじめる。彼はドキドキと胸を高鳴らせている。ふに…と形がくずれるほどやわらかくとろけた彼の唇は、少し上がったその人の顎によって、ふるふると震えながらもう少し俺の唇に押しつけられる。    ユンファさんの唇――やわらかいな。   「……ふふ…、……」    俺はゆっくりと唇を離し、その唇を彼の耳もとへ寄せると、静かに「大丈夫だよ、怯えないで…?」とささやいた。  それから急いで仮面をその人の耳もとでつけ直す。   「……、…よし。…じゃあ続けますね」    と俺はユンファさんのうえに戻った。   「……、…」    先ほどまで怯えきっていたユンファさんの顔は今ぼうっとしている。それどころか青ざめていた彼の頬は今、やや濃いめの桃色に紅潮している。今しがたのキスが奏功したらしい。ただキスのさなかに涙をこぼしたのか、彼のまなじりからこめかみに真新しい涙の道が照っている。  そして今に見えた俺の水色の瞳にたちまち魅せられたというべきか、何か現実というより夢を見ているような感覚になってきたらしい。   「…ふふ、綺麗だよ…」    俺がこの目で彼にそう微笑みかけると、「僕…」と彼は声もなく言い、その桃色の肉厚な唇をあさく開閉させる。   「……ん…?」    と俺はやさしい甘い所作で小首をかしげたが、しかしやはり彼は唇をあさく開閉させるだけである。   「……、…、…」    俺を見上げるその明るんだ群青色の瞳に、じわじわと涙がたまってゆく――彼のまなじりから、ほろ、と涙がこぼれてその人のこめかみに伝ってゆく。  彼の鈍くなった思考が見える――『キスが……あんなに……幸せな……初めて……あんなに、ドキドキ…して……、僕は……もしかして……彼の、こと……』   「……、…はは…貴方の許可も取らず、いきなりキスなんかしてすみません。…じゃあ指、入れますね…、……」    と目を伏せた俺は、中指の先をつぷ…とやさしくその人の膣口に押し込み、ぬぷぷ…ゆっくりそのなかに中指を挿れてゆく。――俺への恋心を自覚しはじめたユンファさんに、もちろん俺は内心かなり喜んでいた。  ……しかし今は駄目だ。今だけは駄目なのだ。今は、彼はそのことを自覚するべきではない。    悲しいけれど、今は俺への恋心なんて忘れていたほうがよいのだよ――ユンファさんはそれによって、きっと自分を責めてしまうから。   「……っは、……く、♡ …ぅぅ、ん…♡」    俺の中指がぬぷぷ…と挿入されてゆくと、ユンファさんが泣き出しそうに目を細め、その眉をひそめながら、鼻から上ずった艶めかしい声をもらす。彼は夢見心地で油断していたのである。   「…ぁ、ご、ごめんなさい…」    しかし強迫された勢いで、ユンファさんはまた自分の口元を手で覆った。目を伏せた彼は口の中で「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きそうな声で謝る。   「変な声を出してごめんなさい、…」   「…謝らないで…凄く可愛い声だった…。気持ち良くなってもいいんですよ、当然ですから…、……」    俺はゆっくりとユンファさんの耳もとへ仮面の唇を寄せる。   「…大丈夫だからね…、俺の背中に抱き着いて…?」   「……、…」    するとユンファさんの両腕がためらいがちに上がり、恐る恐る俺の背にまわる。   「…いい子だ…、……」    そして俺はつぷぷ…とさらに中指を進め、やがてその指の根本まで差し込む。    ――なるほど、確かに評判通りの名器である。  いくら男の太さがあるとはいえ、俺の中指一本にまとわりついてくる彼の膣内のやわらかい肉、入り口においては殊に俺の指の根本あたりにきゅっと食らいついてくる。前立腺の輪もザラザラとした質感が際だっており、瑞々しいが硬く締まりがよい。  前立腺の奥の(ひだ)はひとつひとつの谷が深め、まるで無数の舌のようである。さらにもとより膣壁が(せま)く細いので、その襞は俺の指に粘液とともににゅるにゅると絡みついてくる。  ……しかし俺の長い中指であっても、オメガ属特有の器官「子宮門」へはその入り口が多少俺の指先にふれる程度である。コリコリとした花びらの先のような薄い出っぱりには触れられるが、しかしそのチューリップの花を逆さまにしたような「子宮門」のなかまではたどり着けず、すると当然その奥の子宮口にも俺の指は届かない。    窄い細道ではあるが、その道は長いのか。  細く長い道…なるほど――ユンファさんはそもそも体が大きいので、こと今は性的興奮をしているわけではないことも手伝ってか、その膣においても他の膣を有する人々より長さはあるようである。   「……凄く窄いね…ガバガバだなんて、真っ赤な嘘じゃないか…」    つい俺はそうつぶやいた。俺のこの本音はまったく呆れた物言いである。  ――よくもこの極上の聖地に入りこんでおいて「このガバマン」などと(うそぶ)けたものである。   「僕の汚いおまんこを気に入っていただきありがとうございます。不潔な便器穴ですがどうぞ好きなだけお使いください」   「……、…」    機械的にそう淡々と言ったユンファさんに、俺は言葉を失った。胸が痛かった。あまりのことに一瞬気を飲まれてしまった。彼の凄惨な日々を痛感したようだった。いま彼は無意識に、反射的にそう言ったのである。――しかし俺はすぐに気を取り直し、彼の耳にこう囁く。   「…お可哀想に…貴方はそういう酷いことを沢山言われ続け、そして言わされ続けてきたのだね…。だけれど、ここは貴方の大切な場所でしょう…? 汚くないよ…。不潔でも、臭くもない…。とても綺麗…とても素敵…――大丈夫…貴方のここは、とっても綺麗だからね……?」   「……、…ご、ごめんなさ……」  ユンファさんはピク、とすると――ぎゅうっと俺の背中を抱き寄せ、ひ、としゃくりあげた。   「……っ、…ひ、……ごめんなさい…っ、ぅ、…ごめんなさい、……」   「…辛かったよね…いや、辛いよね…――大丈夫だから…、泣いていいんだよ……」    今度のユンファさんはすぐ我に返ってくれた。  それだから今泣けているのである。いや、むしろ自分が今何を言ったのか、彼は俺の言葉でやっとそれがわかったのだろう。   「綺麗だよ…、貴方は綺麗だ…」   「いいえ、っ綺麗じゃ…」   「ううん。」と俺は鼻歌を歌うように否定した。   「とっても綺麗だ…。貴方はとっても綺麗…」   「……っ、…は、…~~~っ」    ぎゅう…ユンファさんの両手が、俺の肩甲骨あたりの布を握りしめる。――泣きやむまで頭でも撫でて待っていてあげたいところだが、…むしろいまの彼の()()()()を早いところ清めたほうが、ユンファさんの気の咎めも多少はマシになるだろうか。   「……大丈夫だからね…。指、増やしますよ……?」   「…っはい、…」   「…ありがとう…、でも、痛かったらすぐに言ってください…?」    俺はぬー…と一旦中指を引いてゆき、薬指を添えて、再度ユンファさんの膣内に指を押し込み――ゆっくりと二本の指をその人のなかに差し込んでゆく。 「……は…っ、…~~~っ」    すると俺の肩甲骨あたりの布をもっと握りしめるユンファさんは、ぞくぞく…と腰を震わせる。   「…痛くないかな…大丈夫ですか…?」   「……、…、…はい、全然…痛くありません…」    ユンファさんがコクコク頷きながらそう言い、彼の膣内はきゅうっと俺の二本の指が開けないほど圧迫してくる。――くちゅ…くちゅ…と小さい音が立つ。  ユンファさんの腰がもぞもぞと揺れ、俺の指をその膣で扱いているためである。   「むしろ……」とユンファさんが虚ろな声でいう。   「…ばかな…ちょろい、やがきで……ごめんなさい……」   「……いいえ」    やはり俺の危惧は当たってしまった。  ユンファさんは疑念という程度であっても、俺への恋心を自覚しはじめている。彼は『むしろ気持ちいい…この人に抱かれたい…』と一瞬思ってくれた。だからこそあのようなセリフを口にしてしまったのである。  しかし俺は、それだからといって冷たくするつもりはない。ケグリ如きに俺たちの恋を邪魔されるだなんて御免だ。――俺は彼の耳に、愛を込めてこう囁く。   「…可愛いよ…、ふふ…俺も貴方を愛しています…」   「……ぁ…ッ!♡」    するとユンファさんの腰がビクッと跳ね、その人の膣内もぎゅっとより窄くなる。そしてくちゅくちゅ、俺の指がずりずりとせまい範囲出入りするほど腰を揺蕩(ようとう)させる彼は、   「…ぁぁィ、!♡ っごめんなさ…――ッ!♡」  膣内を強くはげしく収縮させ――天に達する。  ひ、ひ、と喉笛を鳴らしてしゃくりあげながら、ユンファさんは泣きながら絶頂の快感に身をこわばらせ、俺の背をぐうっと抱き寄せてくる。   「ひ、ごめんなさ、…っごめんなさい、…ごめんなさい、…」   「…謝る必要はないよ。…可愛い。…ありがとう、ふふ…俺、むしろ嬉しいな……」    本当に嬉しい……にゅるにゅると俺の指に彼の膣内のひだが絡みついて絞め上げてくる。ここに入り込めたなら、現世を忘れるほどの極楽へ導かれるのだろうな…――俺は白状をすると、実はいま勃起している。しかしそれは当然だった。好きな人とキスをして、その人の白い綺麗な肌を見て、その人の甘い声を聞き、その人の膣内に触れているのだ。  ただしもちろん俺の理性は依然として保たれており、どれほどユンファさんが愛おしかろうが、またどれほど自分が興奮しようとも、俺は今はユンファさんを抱くつもりは毛頭ない。     「……落ち着いてきた…?」    とユンファさんの耳にささやき声で確認をする俺だが、俺の指につたわる彼の膣内の収縮は大分ゆるく、またそのテンポも()が開くようになっている。つまり彼の絶頂のその波はもう()ぎはじめている。  とはいえ、俺はあくまでもユンファさんのペースを守りたいのである。   「……は…はい…、……」   「…よかった…。ふ…じゃあ指、動かしますね…」    と言いながら俺は指を動かし、いよいよ彼の膣内に溜まっている穢れを掻きだしてゆく。  二本指の第一関節をゆるいフックのように曲げ、指先ですくう粘液は愛液であろうと精液であろうと引き寄せ、とろ…と膣口から外へ逃がす。  そうした俺の指の動きはかき出すための動きであるが、どうしても指先で彼の膣内をかるくひっかくようになってしまう。すると「はぁ…」とゆるく息をのんだユンファさんは、ぞくぞくぞく…とわななきながら、ゴクンと喉を鳴らす。   「……は…ご、ごめんなさい…、汚い肉便器に、触れていただくなんて……」   「…いいえ。決して貴方は汚くなどないし…汚い肉便器だなんて、そんなこともあり得ない…。貴方はとても綺麗だよ…、……」    このやり取りは繰り返し繰り返しになるが、俺は別段何度でも繰り返して構わないにせよ、ユンファさんがその件どうしても気になってしまうのは当然である。なぜならユンファさんが「汚い肉便器」と思いこんでいる彼の膣に、俺が今触れているからだ。    ここは気を逸らしてあげようか。  俺は丁寧にその人の膣内から精液をかき出してゆくなか、ユンファさんの耳にこのような質問をする。   「…ところで…貴方は、何がお好きなんです…?」   「……、……え…?」    とユンファさんがあえかな声で聞き返す。  唐突に日常会話的な質問をされたからである。しかし気を逸らすにはむしろうってつけであろう。   「…例えば…そうだな…――何か…御趣味はありますか…?」  俺のこの質問に、ユンファさんは戸惑いがちな か細い声でこう答える。   「……、本を…読むのが、好きでした…」    ユンファさんのその回答は悲しい過去形であった。  しかし俺はあえて「そうですか」と明るい声を出す。   「俺も読書は好きなほうなんです。…貴方はどんな本を読まれるんですか…?」    俺のこの質問に、ユンファさんは答えなかった。  そのかわりに怯えた震え声でこう言った。   「…ごめんなさい…僕、馬鹿なので……本なんて、生意気ですよね…、ごめんなさい……」   「……、…」    ユンファさんは恐らくケグリに「馬鹿の癖に本を読むなんぞ生意気だ」とでも言われたのであろう。マインド・コントロールの手法の一つである。対象の趣味を奪うことによって、その人の「生きている意味」をも奪い、そしてその空きスペースに間違った価値観を植えつけるのである。  ……ロクに本も読めないのはお前だろうがこのドブガエルめ。   「…いいえ。誰だって読書を楽しんでよいのです。…本を読んではいけない人など、この世には誰一人として存在しませんし…、むしろ…そのような人は、存在していてはならない。…誰しもが本を読む喜びを享受して(しか)るべきですよ。――ね……ですから、貴方だって堂々としていてよいのです。自分は本が好きだ、と」    俺が快活な声でそう語ると、は…とわずかな音を立てて息をのんだユンファさんは、   「……、…、…」    トクトクと胸を高鳴らせ、俺の肩甲骨あたりの布をきゅう…とつかみ直し、俺にしがみついてくる。  ……この手ごたえは俺を喜ばせた。依然として俺は指を動かしながら、もう少しこんな話をする。   「……ふふ…それにしても、素敵な御趣味ですね。――そうだ…今度、俺が書いた小説を読んでくださいませんか…?」    と俺がいうと、ユンファさんは「え…」と意外そうな反応をする。   「…あの…小説を、書かれるんですか…?」   「…ええ。…()()()()()()()」   「……凄い…、格好良い、ですね…」    するとユンファさんは、わずかだが声を明るませてくれた。よかった…――。   「…頭が、良いんですね…。そう…ですよね、とても…貴方は、頭が良いから……」    辿々しいが、彼は回らない頭で一生懸命これを言ってくれているのだ。愛おしくてたまらない――。   「…いや…まあ小説を書いているというだけでは、格好良いとも賢いともありませんけれど……ふふ、ありがとうございます。……」    よし…――と粗方ユンファさんの膣内から精液を掻き出せたであろうと――頭をもたげた俺は、ゆっくりと指をユンファさんの膣内から抜きとった。  そしてベッドヘッドの棚にあるボックスティシューから白いティシューを何枚か引き抜き、「拭きますね…」と声をかけてから、その人の膣口まわりをやさしく丁寧に拭き取る。   「……ん…、ぁ…あの……」   「……ん…?」    ふとユンファさんの顔を見やると、彼は俺が自分の膣口あたりをティシューで丁寧に拭いていることによって、俺が自分をこのまま抱かないこと――先ほど俺が言った「やっぱり貴方を乱暴に抱くことにした」というセリフが、自分の気持ちをなだめるための嘘であったと――(さと)り、戸惑いがちに俺の目を見上げてくる。   「……あの…、……」    ふたたび「…あの…」とあえかな声で繰り返したユンファさんの片手が、そっと俺の硬くなった陰茎を服の上から包み込む。   「…あ、あの…よかった…ら、このまま……」   「…いや…。ふふ…俺はよいのです。どうぞお気遣い無く。」   「…洗って、きます…だから……」    とユンファさんは切ない顔をし、俺の目を小刻みに揺れる紫の瞳でじっと見つめながら食い下がる。…彼の真意がどうも判然としない。その瞳には何か「自分はそうするべき」とも、「自分がそうしたいから」とも、その両方がゆらゆらと揺らぎがちに見える。――しかし何にしても彼の中に「べき」というのが少しでもあるのならば、俺は今はそれに応じるつもりがない。   「違いますよ、そうではないのです。貴方の体が穢れているだとか、だから貴方を抱きたくないだとか…決してそういうことではない。――そうではなくて……」    俺はユンファさんの片頬をするりと一度撫でてから、その人の手から逃れるように、しかしゆったりと後ろへ腰を引き、ベッドから降り立った。   「今はただ…貴方の辛いであろうお気持ちを、少しでも(やわ)らげられたらよいなと……いわば、それだけのことだったのです。…すみません、先ほどは嘘を言ってしまって。――ですから、まずはお気持ちを落ち着けましょうね…」   「……、…」    え…と声もなく俺のほうへ顔を向けたユンファさんは、天蓋のレースカーテンの薄暗がりのなか、そのアメジストのような紫の切ない瞳で俺をながめている。  ……俺は仮面の下でニコッと彼に笑いかけた。   「…ということで、一先(ひとま)ずはお洋服を。…ただ、あの下着ですとどうも落ち着かないでしょう…? 幸い替えの下着を持ってきているので、俺のものでもよければ、貴方に下着をお貸ししますね。」   「いえっそんな、…」    それは悪いとユンファさんは上体を起こすと、ベッドに片手を着いて俺へむけ腰をひねり、   「お借りするだなんて、そんなこと、とても出来ません…」と悲しげな顔をし、俺のほうに気持ちばかり前のめる。   「いやむしろ…俺は、俺の下着を穿いている貴方に興奮します。…はは…ですからどうか。」   「……、…わ…わかり、ました……」    とユンファさんが目を伏せる。  彼は一応それが客の俺の要望と見て引き下がったのである。  ――俺は「ということで、少し待っていてくださいね」と彼に声をかけたあと、ソファのほうへ――俺はソファの肘掛けの外側に沿わせるよう、そこの床に自分のスーツケースを置いたため、あの談話ゾーンへ――向けて歩きだす。    

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