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                 俺は自分のスーツケースから一枚のグレーのボクサーパンツを取りだしたあと、綺麗に畳まれたそれをそのままパーカのポケットに押し込んだ。    そしてユンファさんの待つベッドへ戻る前に、一旦ミニバーへ寄る。――ユンファさんの気持ちを落ち着かせるため、まずは彼に水分補給をしてもらおうかと思ったのである。    とはいえ今のやつれ気味のユンファさんには、ただ水を飲んでもらうというだけでは物足りない。  せっかくならばほっとできるような甘味があり、しかし水分補給としてスッキリとゴクゴク飲めるような爽やかさがあり、かつビタミンやミネラルなど栄養補給もできる――そう、フルーツジュースが好ましい。  ……だがその前に、俺はまず手を洗おうと思った。ケグリどもの精液が付着している手でユンファさんに差し出すコップには触れられない。ということで俺はまず、ミニバーの棚の横のテーブル――コップ類やウェルカムスイーツなどが置かれている横長のテーブル――に続いてあるシンクで、備えつけのハンドソープをつかって手を洗った。シンク下のタオル掛けにある白いタオルで濡れた手を拭く。    そのあとシンク横のテーブルに伏せられて置かれていた背の高い透明なコップをとり、さらにその隣のミニバーの棚にある冷蔵庫の扉をあけた。  そしてそのコップには、血のような深紅の柘榴(ざくろ)ジュースを九分目までたっぷりと満たす――ちなみに柘榴は栄養豊富な果実なのだ。柘榴にはビタミンB群やビタミンC、ナイアシンや葉酸、カリウムや亜鉛、オレイン酸やリノール酸などの脂肪酸、またクエン酸などさまざまな栄養素が豊富にふくまれている――。  それとついでになん粒か俺の好きな丸いチョコレートをパーカのポケットに入れて、俺はその真紅が満たされたコップを片手にユンファさんの待つベッドへもどる。    こうして俺はユンファさんの確認もとらずに勝手に柘榴ジュースを選んだが、しかし半ばはそうする他になかったのである。  というのも、おそらく今のユンファさんは俺が「好きなものを選んで」といっても何も選ばない。「何が飲みたい?」と聞いても、彼からは先ほどと同様の「僕は水道水でいいです」というのしか返ってこないことだろう。ともすれば、彼はそれにさえ一切口をつけないかもしれない。    さて――俺が天蓋付きのベッドまで戻ると、  ユンファさんは白いレースカーテンの洞穴のなか、ボタンをすべて閉めた白いカッターシャツだけを着て、またそのベッドのうえに横座りをしていた。彼はぼんやりとした表情で目を伏せている。ちなみに彼の股間はシャツの長めの裾に隠されていて際どいが見えない。――それにしても、そのカッターシャツ一枚の姿がまた何とも色っぽい。  ……俺は彼のほうに腰をひねりながらベッドの縁に腰かける。そして「どうぞ、これ下着です。」と、パーカのポケットの中から取り出した、綺麗に畳まれたグレーのボクサーパンツを彼に差し出す。   「勿論洗い立てのものではありますが…しかし未使用ではありませんので、それに関しては申し訳ない」    するとふと目を上げたユンファさんは、ぼんやりとした光のない黒紫の瞳で俺を見た。   「……ぁ、あの…いえ、僕は…下着、なくても、大、丈夫です…。やっぱり、お借りする…だなんて……汚して、しまいますから……」    やはりまだ怯えているユンファさんは、自己防衛本能からその頭の働きが(にぶ)くなっているせいで――頭が冴えていればなお苦厄(くやく)をそれとして鋭敏に苦痛を味わってしまうことともなるため、あえて脳の働きを鈍らせることでその苦痛や苦惨(くさん)をやり過ごそうという自己防衛本能である――、彼のそのセリフの調子はたどたどしく、また少し震えている。   「…慣れて、ますから…大丈夫、です…お気遣い…」   「ふ…お忘れですか…? 俺はどうしても…自分の下着を、貴方に穿かせたいのです。その方が興奮するから…ね。――ですから、どうぞ穿いて」    俺はあえて先ほどのような変態的なセリフを言い、どうぞとユンファさんに畳まれたグレーの下着を差し出す。――すると彼はぼんやりと鈍った表情ながら、困った色をその黒紫の瞳にうかべる。   「……それは…命令、ですか…? それとも…あの…僕、なんかに、お優しく…されて……」   「ええそう…命令です。」    嘘である。  俺はただ、もうユンファさんにあのような下品な下着を穿かせたくないだけだ。別に彼の意思で、俺を興奮させるために穿いてくださったというのなら、あれでも俺は喜んで興奮したことだろう。  しかし当然そうではない。むしろユンファさんは恥辱に苦しみながらあの下着姿を俺に見せた。彼を苦しめていたその淫蕩の罪、あのケグリの罪を、彼はもう背負いなおさなくてよい。――むしろ俺が、もうそんな穢れたケグリの罪など彼に背負ってほしくはないのである。   「……わかり…ました…、……」    ためらいがちにもコクと頷いたユンファさんは、ぼんやりとした目を伏せながら、カタカタと震えている生白い手を伸ばして俺のその下着を受けとった。  そして彼はそのグレーの下着を手もとに寄せ、それをぼんやりと眺めおろす。   「……、…」    きゅっとユンファさんの青ざめた桃色の肉厚な唇がむすばれた。彼は震えながら深くうつむく。   「……っ、…は、……、…、…」    ユンファさんの両手が、ぎゅっとグレーの下着を握りしめる。   「……ひ、…ごめんなさ、…、…っ」   「…………」    ぽた、ぽたと、彼の両手が握りしめているそのグレーの下着に、黒い丸がにじむ。ユンファさんは嬉しくて泣いているのである。――この頃ではその「普通の男物の下着」さえも、彼は穿くことを許されていない。    悲しいことだが、ユンファさんはあまりにも嬉しかったのである。彼はああした下着を身に着けることが、本当は恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。  毎日のことなのだからもう慣れたはずだ、慣れよう、慣れなければならないと頭で何度くりかえし独言(どくげん)したところで、彼はもちろんつい一年前までは「メス奴隷」などではなく、あたかも健全な普通の男性として生きてきた以上、その二十数年に(つちか)われてきた男としての誇りや、自他ともに自分を男として扱いながら生きてきた記憶は、当然いまの彼のなかにも残っている。  そうした普通の若い青年が、ある日突然あんな下品で恥ずかしい下着を毎日毎日穿かされるようになり、それもその下着姿を馬鹿にされながら、加虐趣味のある残虐な男らの性の食い物になっているのである。    それだから今ユンファさんは、普通の男物のボクサーパンツを穿けることが、以前までのその自分の「普通」を俺に与えられたことがあまりにも幸せで、泣いてしまうほどに嬉しかった。  そして悲しかった。彼はあまりにも今の自分は惨めだと思ったのである。しかし――男である俺が自分の男物の下着を彼に貸した、つまり俺があたかもユンファさんを男扱いしたことが――あくまでも当然のその扱いが――、「メス奴隷」の彼はあまりにも嬉しかったのである。   「ごめんなさ、…」とユンファさんがうつむいたまま、指の背で目もとをゴシゴシと拭い、   「…ぁ、ありがとう、ございます、…ありがとうございます、…」    ペコペコとそう俺に何度も頭を下げてくる。   「…いいえ、とんでもない。…はは、()()()()()()()ですから。…」    ちょっと本当。  好きな人が自分が普段穿いている下着を穿いてくれる、それには俺も興奮しないこともない。  俺はベッドのふちに腰かけたまま、一旦ユンファさんに背を向けた。見ないようにである。   「……ということですから、貴方こそどうぞご遠慮なく。……、……」    ……何ならその下着は差し上げます…と言いたいところだったが――あんな下着はもうユンファさんに穿かせたくないからである――しかし俺はそれを言わない。  今夜ユンファさんが俺のもとへ来てくれることに応じてくれない限り、つまり彼が今夜中にあのケグリのもとから離れると決意してくれない限り、朝が来たならば俺は、一旦彼のことをあのケグリのもとに帰さなければならない。  すると彼は少なくともその帰り際、またあのショッキングピンクのビラビラとした下着を穿いておかなければ、まずケグリの怒りを買ってしまうことだろう。  ……ましてや俺の下着なんて彼が持って帰ったなら、どうなってしまうことやら…――。           ×××            俺の背後、ベッドの上に立っているユンファさんが、俺の貸した下着とスラックスを穿きおえた音がした。その音とはスラックスのジッパーがジーッと上げられた音である。  ……そして彼はふたたびベッドに座りなおしたか、ギッとベッドスプリングのきしむ音がした。    俺はふたたび腰をひねって彼にふり返る。   「……ぁ、…」   「……ぁ、…」    すると声をそろえた俺たち、お互いの少しおどろいた視線がぶつかる。俺はユンファさんの顔が思いのほか近かったので少し驚いたのである。  彼は俺のすぐ後ろで四つんばいになっていた。そして彼は彼で、俺に声をかけようとしたその瞬間に俺が振り向いたために少しおどろき、今は目を丸くしている。  ……はは、と照れくさくなって笑った俺は、手にもっている柘榴ジュースの入ったコップを彼に差し出した。もちろん俺はそれに口をつけていない。   「…どうぞ、飲んでください。…泣いていたし、喉も渇いていらっしゃるでしょう。」   「……え…?」    とユンファさんは一瞬きょとんとしたが、   「…あ、あ、ぃ、いえ…いえ…」    ユンファさんは怯えながらもぎこちない微笑を浮かべ、その顔をふるふると小さく横に振る。彼は後ろに引いてゆく。そして前に手をついた正座となったユンファさんの、その伏せられた切れ長のまぶたの下、その黒紫の瞳の奥に――ガタガタと震えながら怯えている()()()()がいる。   「…ご、ごめんなさい…僕、フルーツが、苦手なんです…」   「……、…」    それは彼の嘘だ。  ……俺がこの目を凝らせばしかと見えてくる。  怯えた銀狼(ぎんろう)、錆びついた檻の中、さらに首に嵌められた赤い首輪から伸びる鎖にまで繋がれて、その血まみれの銀毛の体を伏せ、耳をべったりと伏せて怯えている、傷だらけの銀狼が――どうか上手くいって、どうか許して、どうか気が付かないで……ちらと俺の目を懇願の目で見てくるその怯えた獣は、鞭を持たない俺を前にしても鞭打たれることを恐れてガタガタ震えている、南京錠つきの赤い首輪を着けられた血まみれの銀狼である。   「お気持ちは、有り難いんですが、…ごめんなさい……きらい…嫌いなんです…フルーツ……」   「…そう…じゃあ尚の事飲んでほしいところですね。これは命令です。」    俺は体よくまた「命令」という嘘をついた。  ある程度は致し方ない。――このままではユンファさんは倒れてしまう。  ……するとユンファさんはふと虚ろな黒紫の瞳をその柘榴ジュースに下げ、ガタガタと震えている片手をおずおずとそのコップに伸ばしてゆく。   「……、…は、…は、…は、…」    それを見下ろす彼の瞳孔が開かれ、その呼吸は胸を押しつぶされそうなほどのストレスに浅く速くなり、その人の心音もあまりの恐怖に甚だしい速度と強度で荒立っている。   「……、やっぱり結構です。飲まなくていい」    無理だ。  これではどの道ユンファさんはこれを飲めないばかりか、またパニックに陥ってしまう。――と俺はそのコップを持ったままベッドに乗りあがり、ひとまずはベッドヘッドの棚にそれを置く。  ……すると俺の背後で、震えた吐息のような声で彼がこう言う。   「ごめんなさ…飲め…のめます…ごめんなさい…」   「いいえ、飲めません。今の貴方では、とてもじゃないが……」    と俺が振り返ると――すでにユンファさんはパニックに陥っていた。彼は土下座している。   「っごめんなさい、ごめんなさい、…のめます、のませてください、のませてください、…」   「……、…――。」    ユンファさんの瞳の中で震えていた銀狼は――『ご主人様の命令に背いて勝手に飲食をしてしまったら、僕はご主人様にお仕置き(鞭打ち)をされてしまう』と怯えていたのである。  そして『どうか上手くいって、上手くいかなければ僕はまたお仕置きされてしまう。どうか許して、断ったことを怒らないで。どうか気が付かないで…僕が()()()()()()断らなければならないということに、そんなこと何も関係ない彼がそのことに気が付いてしまったら、きっと彼は怒ってしまう』と、彼はあのぎこちない笑顔の裏でかなり怯えていた。    

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