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                   俺は彼に無理強いをするべきではなかった。  ……マインド・コントロールされている者というのは、概して他者の怒りや不満に人並み以上の恐怖心を覚えているものである――とはいえ、それは何もユンファさんのようなパターンばかりではない。例えばパワハラ・モラハラ被害者や、俺のように幼少期から虐待を受けてきた者などは、「他者の怒り」を必要以上に恐れていることが多い――。  そしてユンファさんはそういったケグリたちの暴言、暴力、精神的・身体的苦痛をともなう理不尽な虐待(彼が悪いことをしたと理不尽に心身に加えられる「お仕置き」)、威圧的な怒鳴り声や大声など、あいつらの「怒り」というものによって恐怖心を植え付けられ、コントロールされている。    今ユンファさんはこうした勘違いをしてしまった。  俺のやり方が悪かったともいえる。反省しているが……俺の「命令」に従おうとはしていたが、それの実行にのろまな自分がぐずぐずしていて時間をかけてしまったため、俺が「怒った」から「もう飲まなくていい」と言った――と彼はそうした勘違いをしてしまった。    今のユンファさんは、自分が本当に相手を苛立たせたのか否かも判然としない状況でさえ、「ごめんなさい、ごめんなさい」と平謝りをする。――理不尽か否かなど気にしていられない。    今のユンファさんが「他者の怒り」に触れるということは、ともすると「生死に(かか)わる」ことなのである。  それは常人が大目玉を食らったときの何十倍の恐怖とさえいっても過言ではない。なぜかといえば、その「他者の怒り」と、生命的な危機感を覚えるほどに苛烈な「お仕置き」とが、今の彼のなかでは紐帯(ちゅうたい)してしまっているからである。  ……浴槽に溜めた水に頭を沈めながらのイラマチオ、腹に赤黒いあざができるまで殴られながら、窒息寸前まで首を絞められながら犯される、真夏や真冬に、丸一日何も飲まず食わずで真っ暗な押し入れに閉じ込められる……それこそパニックになったユンファさんの「ごめんなさい」は、いわば命乞いのようなものなのである。   「…ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、…」    ユンファさんは相変わらず俺に土下座をしたまま、ひたすら「ごめんなさい」と泣きながら繰り返している。   「……、…」    しかし――そうだな。  あえて今のうちにユンファさんにいくつかの質問をして、俺は知っておくべきことがあるかもしれない。   「今から俺がする質問には、正直に答えてください。」   「…はい、はい、何でも正直にお答えします、…」    とユンファさんが土下座したままに命乞いをするような必死さで言う。――とても可哀想だが…申し訳ない、今のユンファさんならば何でも正直に答えてくれることだろう。と俺はあえてゆっくりとした調子で、   「…貴方は…ご主人様に…勝手に、何かを食べたり…、勝手に、何かを飲んだりすることを…、ご主人様に、禁止されていますか…?」    また俺は、あえて簡単な言葉を選んでそうユンファさんに質問した。今の彼にも理解しやすいようにである。   「…はっはい、…僕の(えさ)と水は、全てご主人様がお与えくださる物以外、許可無く口にしてはならないことになっております、…」   「……ふ…、……」    餌、ね。  ブタガエルの分際で、気高き我が銀狼に…餌。笑止とはまさにこのことである。  いや…まあその件に関しては俺も知っているのだが、これはユンファさんの頭に「その件について」であると認識してもらうための質問である。    さて――俺はさらに質問する。   「では次に…貴方は今夜、仮にもご主人様のその命令に背き…、勝手に何かを食べたり…勝手に何かを飲んだりした場合……どうなってしまうんですか…?」    するとユンファさんは土下座をしたまま、   「お、ぉ…おし、お仕置きを、していただきます、…ご主人様に罰をお与えいただきます、…」    とやはり、「お仕置き」というワードにはひときわ怯えながらそのように答えてくれる。俺は「なるほど」と明朗(めいろう)な声で答え、さらに次の質問をこうゆっくりと紡いでゆく。   「…しかし…、今ここに…貴方のご主人様は、居ません…。ここには俺と、貴方しか居ないのです…。すると、もし仮に…今夜、貴方がここで何を食べようとも……また仮に…貴方がここで何を飲もうとも…――貴方のご主人様には、そのことは…バレないのではないでしょうか…?」   「いいえ…、いいえ、いいえ、…」    ユンファさんのベッドに伏せられた頭がふるふると横に振れる。   「…それは……何故……?」   「……、…ご、ご主人、さまに、…全て、吐かされる、からです、…」    そう怯えきった震え声のさなかにも、彼の奥歯がカチカチと鳴っている。   「…吐かされる…か…、……」    俺のこれは「なるほど」というひとり言である。  しかしユンファさんが俺のそのひとり言を、その件に対する更なる言及を求められたと感じたらしい。   「ご主人、さまの、ぉ、おちんぽ様…喉のおくに…入れていただ…ぃ、いらまちお…していただい…ぜんぶ、何も…でなくなるまで…は、はかされ……ちぇ、チェック、していただく…ことに、なっております……」   「……、そうですか。わかりました、ありがとう。……」    とすると…と俺はすこし考える。  あまり消化に時間のかかるものを今夜ユンファさんに飲み食いしていただくわけにはいかない。  できる限りカロリーが高く、ビタミンやミネラルなども豊富な、栄養価の高いものでありながら――かつ消化に時間がかからないもの――となると、残念ながら脂っこいものやたんぱく質が多いものは駄目だ。  いや、そもそも突然そのようなものを口にしては、今の彼の体では驚いてしまって、消化吸収もうまくできないことだろう。それでは意味がない。  ……何がよいかは、ちょっと考えておきましょう。   「…質問は以上です。ご協力感謝します。…さ、どうぞ頭を上げてください。」   「……、…え…?」    ベッドに両手を着いたまま、おもむろに頭を上げたユンファさんは、怯えきった青ざめた顔で俺の目を見る。どうやら彼はそのまま俺に何かしら酷いことを言われたり、されたりするのではないかと思っていたらしいが、拍子抜けするほどあっさり「ありがとう」と質疑を終えた俺に、彼はなぜ、と不思議がっている。    俺はユンファさんに微笑みかけながらくっとその顔をかたむける。   「…ふふ…どうかなさいました…?」   「……、…、…――ぁ…いえ…、……」    その俺の顔をしばらく茫然と眺めていた彼が、ふと目を伏せる。――『そう、だった…』と彼の虚ろな黒紫の瞳が思い出す。   「……あの…あの…おねがいします…ぼ、僕のこと…れ、…レイプ…してください…」   「……もしや…それもご主人様の命令ですか…?」    俺はつい何の気なしにそう聞いてしまった。  するとユンファさんは怯えきった引き攣った顔で「いいえ、…いいえ、いいえ、…」とはげしく首を横に振ると、またガバリと俺に土下座してくる。   「…いいえ違います、ご主人様方は何も関係ありません、全部、全部僕個人の趣味で、…僕が淫乱だから、僕が全部悪いんです、僕が我慢できずに出掛け頼み込んでご主人様方に犯していただいたんです、中出しも僕が頼み込んで、あの文字も僕が全部考えて僕が書いていただいたんです、バイブも自分で勝手に挿れてきたものなんです、僕は救いようのない変態なんです、変態肉便器でごめんなさい、…」   「……、…」    なぜ、とはわかっているというのに、どうしても腹が立つ。  ――ユンファさんは更にこう泣き叫ぶ。   「っご主人様方は何も関係ありません! ご主人様方は何も悪くないんです、…僕個人が物好きなマゾの変態というだけなんです! 車の中で僕がザーメンオナニーを楽しむために挿れてきたもので、…き、気持ち悪いと思いますが、汚い肉便器まんこで申し訳ありませんが、まんこはきちんと念入りに洗いますので、どうかお許しください、――僕が全部悪いんです、僕が屑だから、僕が全部悪いんです、…ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」   「……、…」    貴方は無辜(むこ)にも(かか)わらず――。   「…いいえ、貴方は何も悪くない。…」    ……というのは、今のユンファさんには禁句か。   「いえ…もし仮に貴方が悪いのだとしても、俺は貴方の罪も含めた貴方の全てを()()れ、そして貴方の全てを愛します。――ですからどうか頭を上げ…俺の目を見てください。」    俺がそう言うと、ガタガタ震えながらぎこちなく頭をもたげたユンファさんは――引き攣ったその顔に、笑みを浮かべていた。   「…おかしてください…おかしてください…おかしてください…せいどれいのユンファ、おかしてください…おかしてください…おかしてください…おかしてください…」   「……、…」    俺はそっとユンファさんの頬を撫でてから、その頬を片手で包み込む。彼の汗でびっしょりと濡れた熱い頬はふるふると痙攣している。彼がまだ無理に笑っているからだ。   「…笑わなくてよいのです。…笑顔というものは…必要だからだとか、笑うべきだからだとか…そういった理由というものは何も要らない。…俺は貴方に、貴方が笑いたいときに笑ってほしい。…」    俺の脳裏に――“「セクハラって、何ですかそれ? いやそんなわけないでしょう、このシチュエーションでセクハラだとか訴える人なんか居ませんよ、…ははは…っ」”――先ほど心から笑ってくれた、ユンファさんのあの満面の笑みがふと立ちあらわれた。    眉月のように細められた切れ長の目、しっかりと口角が上がっていた桃色の唇、その横に引きのばされた上下の唇の隙間から覗いていた端整な白い前歯、尖ってつやつやしていた犬歯――肩を揺らして、楽しそうに笑っていた、俺の初恋の人。 「あ、貴方は、笑いたいときに、笑って…っ? どうかお願いだから、…そして、…そして、――とても笑えない、笑いたくないときには、…もう無理をして笑わないでほしいんです、お願いだから、…もう笑わないで……」    俺の声は少し上ずり、詰まっていた。俺は泣きそうだった。…しかしユンファさんは、   「…いいえ、僕は笑いたいんです、…」    と引き攣った笑みを浮かべたまま、その片目からほろと涙を落としながら言う。   「…笑いたいんです、僕は笑いたいんです、嬉しいから、有り難いから、気持ちいいから、幸せだから、…だから僕は笑いたいんです、…ごめんなさい、ごめんなさい、僕が全部悪いんです、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…――本当にごめんなさい…、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、…うまく笑えなくてごめんなさい…」   「……、…――。」    ユンファさんは今ここにある何をも見ていない。  格好ばかりその虚ろな黒紫の瞳で俺の目を見ているようだが、ユンファさんはもう、今は何も見えなくなってしまっている。  俺は恐怖に目を塞がれている盲者の彼を眺めながら、ひどく虚しくなった。    貴方はなぜ――自分を(おとし)め、辱め、虐待し、日々自分のことを陵辱してくるあのケグリたちを(かば)い、なぜそうして性奴隷の顔をしながら矢面に立つのですか。  自分の尊厳をさえあの粗末な肉塊で犯し、自分の何もかもを奪ったあの男たちのために、貴方はなぜそこまで健気になれるのですか。    ――あの下衆共が居ないこの場所でさえ、どうしてあの下衆共の顔を立てようとするのですか。  なぜあの下等な男たちが恐れるであろう俺の前で、あの下等な男たちを恐れるのですか――。    此処には俺と貴方しか居ないというのに――何故?    ユンファさんは身も心も魂までアイツらに縛り付けられ、すっかり飼い慣らされてしまっている。  彼は勘違いをしている。――自分が気高い銀狼であることを忘れてしまったユンファさんは、自分のことを躾けられた犬だとでも勘違いしている。  いや…厳密にいえば彼は、自分のことを躾の行き届いた()()()だとでも勘違いしている、というべきだろうか。    これは――悲しいことに、嫉妬だ。  俺がユンファさんの瞳に映る前に――恐ろしい独裁的な支配者、逆らえば容赦なく鞭を打ってくる残忍な主人という形ではあるにしろ――ケグリたちは俺よりも先に、彼の瞳に居座ってあぐらをかいていやがる。    とはいえ…まあ正直ケグリはぶっ殺してやりたいとは思うのだが、かといって思いがけない癇癪を起こすほど腹立たしいわけでもない。――何よりいまの俺にはあの男の企みなど絶対に成功させない、という堅固な意地があるのである。    俺は歪んだ笑顔を浮かべながら、その切れ長のうつろな目からぽろぽろ涙を流しているユンファさんの目もとにそっと片手のひらをあてがい、もう片手では彼の背をそっと抱き寄せた。       「もういいよ…。もういいんだよ――ユンファさん…さあ、目を瞑って…? 貴方はもうこれ以上、何も見なくてよいのです…。……――。」      辛いのなら――もう、何も見なくていいよ。  ……貴方を暗闇の安息に憩わせてあげたい。          ――俺は貴方の目を塞ぎたい。          

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