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                「あ、貴方は、……」    と俺の片手に目を塞がれたユンファさんが、嗚咽まじりの悲しげな声で言った。   「…貴方は、…貴方は、僕のことを、ご、ご存知だったんですね、…」   「…………」    俺の手のひらに、ユンファさんの閉ざされたまぶたからこぼれ落ちた熱い涙がかすめる。  ……ユンファさんは先ほど、自分で自分のことをオメガ専門高級風俗店『DONKEY』のキャスト「ユエ」ではなく、みずから彼の本名である「ユンファ」と呼んでいた。そして俺も、そのあとに彼のことを「ユンファ」と呼んではいたが――パニックに陥っていたユンファさんには、自分で自分の本名を明かしていた自覚はなく、また、彼がパニックに陥っているなかで俺が彼の本名を呼んだその記憶も彼にはなかったようだ。    するとユンファさんは今、俺の手のひらのなかの暗闇に閉じこめられたその際、そのなかに多少の安息を見出したそのとき――俺が「ユンファさん」と彼の本名を呼んだことによって、俺が彼のことを知っている……。  俺が彼の『DONKEY』のキャスト「ユエ」の顔しか知らないと思っていたユンファさんは、今絶望している。俺が月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)、ユンファさん、――もっといえば「性奴隷のユンファ」である自分を知っていたことに、彼は絶望しているのである。    ――だが、きっとこれでよかったのだ。  俺はもう彼のことを「ユエさん」と呼ぶつもりがなかった。一度彼を「ユンファ」と呼んだそのとき、俺のなかにはあるエゴイスティックな想いが芽生えた。    ユンファさんにはもう(つき)の仮面を外してほしい。    俺はもう『DONKEY』のキャストである(ユエ)ではなく、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という人がこの目で見たい。  俺はいつだってその人をこの目で(じか)に見たいと願ってきたのである。この展開はある意味でよい契機だったのかもしれない。――今ここに居る人は、俺のこの目が望む蒼い月――俺の愛する月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)、その人である。    俺は貴方だけをずっと見つめ続けてきました。    俺の目を見つめてください。  太陽の俺と月の貴方――二人の目と目が合ったとき、俺の光に照らされて、貴方の全てが明らかにされます。    貴方が恥じらうその(あざ)も、貴方が隠したくて堪らないその傷も、貴方が醜いと正視を拒むものまで、何もかもが――しかし、黒い痣のような月の海をその白いからだに抱えている月の貴方は、その黒い月の海があるからこそ白い月として美しいのです。    白ばかりを美しいという者は全く夢見がちだ。  黒という色の美しさを、俺はよく知っている。    貴方は白い。だから黒がよく映える。  だからこそ貴方は美しく、完成されている。  黒は魔除けの色だ。黒は貴方を護る影の色だ。    その黒もまた貴方の一部だ。  貴方のその黒い月の海さえもまた、俺のこの目には大そう美しく映っている。    だから俺は――俺のこの目に、美しい月の貴方のすべてを見留めさせてほしい。    ……だから貴方はもう月の仮面なんぞ被らなくてよい。むしろ俺はもうそれを貴方に被ってほしくない。  誰しもが金を払えば手に入れられる月――貴方にはもう、そのpaper moon(偽物()の月)は必要がない。      ――なぜなら貴方は、俺の本物の月なのだから。   「…何故ご存知なのに、…」    とユンファさんは言いながら、彼の背中を抱きよせている俺の肩、彼の目元を片手で覆いかくしている俺の肩を、恐る恐る押して俺と自分の体を遠ざける。うつむいた彼の目は悲しげに伏せられている。   「何故性奴隷の僕をご存知なのに、…貴方は何故僕なんかに、何故こんなに優しくされるんですか、?」    そう言うユンファさんの悲しげな伏し目から、ほろ、ほろほろ、と涙のしずくがいくつも下へ落ちてゆく。この薄暗がりのなかでチラチラと光るその透きとおったしずくは、とても清らかな美しさがあった。   「……、…」    俺の喉もとまで、ある優しげな嘘がこみ上げてきている。  これを言えばユンファさんは、今のこの悲しい思いを多少なりとでも晴らせるかもしれない。その嘘、俺が今つこうかつくまいか迷っているその嘘とは、「先ほど貴方がご自分でご自分のことを“ユンファ”と呼んでいたので、それで俺はいま貴方のその名前、“ユンファ”という名前を知ったんです」――ユンファさんは俺に知られたくなかったのである。    もとより遂げられることなどないと諦めている想い、もう二度と会えることもない人、どうせもう嫌われて幻滅されて、失望されているに決まっているが、それでもただ少しだけ、少しだけ密かに想っているだけ――淡く悲しい恋心を先ほどわずかでも自覚した相手、その俺に、彼は自分の惨めで恥ずかしくて醜い姿、性奴隷の自分を知られたくなかった。  いや、俺にだけは知っていてほしくなかったのである。  ……例えば首輪に繋がれたリードを引かれて四つん這いで歩いている自分、物や玩具や犬のような扱いをされても受け入れている自分、どれほど虐げられても笑って喜んでいるような自分、何人もの男らの前で惨めな自慰をさせられている自分、犯されながら下品で卑猥な隷属のセリフを口にしている自分、…先ほどだって性奴隷らしい姿を俺に見せたユンファさんだったが、彼はそれでも、俺にはそうした惨めで醜い恥ずかしい自分を見られたくはなかった。   「……ユンファさん…俺…、…俺は、さっき貴方が……」    俺はやはり嘘をつこうと思った。   「……、……」    しかし、そこまで言って口を閉ざした。  その嘘は単なる一時しのぎの、単なる気休めではないのか?  俺がこの目で見たいのは月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という人なんだろう。そして俺は、性奴隷とされてしまったユンファさんのことをもすべて受け容れているつもりだ。  ――ならば、むしろ俺はそうした今の荒波を治めるだけの気休めの嘘をつくのではなく、真実として彼のありのままのすべてを受け容れると、そう彼に示すべきではないのか?   「…いや、そうですよね、…そうです、よね、…」   「……、…」    ユンファさんの伏せられた切れ長のまぶた、その涙に濡れている艶のある黒い長いまつ毛の下、黒いうつろな彼のその瞳からは、ほろ…ほろと涙が下へ落ちてゆく。――しかしその人の桃色の肉厚な唇の端がわずかに上がっている。その人は涙をこぼしながらも眉をひそめるのでもなく、険しく顔を歪めるのでもなく、また悲しそうな弱々しい泣き顔をその顔に浮かべるのでもない。  ――彼は凍り付いた無表情(微笑)、まるで美しい人形が備え付けられたあるギミックで涙をこぼしているかのような、そうした凍り付いた微笑を浮かべていた。   「…そうですよね、当然ですよね……そうですよね……」   「……、…――。」    こうして今のユンファさんは無表情にさえなれない。彼は今無自覚に口角を上げている。つまり今のユンファさんには、今自分の口元が微笑を形作っているその自覚はないのである。――恐ろしいからである。    ユンファさんの顔立ちには甘さもあるものの、基本的には冷ややかな鋭い狼のような美貌である。  たとえばその怜悧(れいり)げな涼やかな切れ長の目、たとえばその澄んだ透明感のある“タンザナイトの瞳”、たとえばその凛々しい黒眉、たとえばそのすっと鼻筋が通った高い鼻、たとえばそのシャープな細面(ほそおもて)、たとえばその長めの首、凛とした姿勢、手脚のながい痩せた長身、ひんやりと青みがかった白皙――彼の美貌にはそのふくよかな唇と、ぷっくりと膨らんだ下まぶたの他に丸みらしい丸みは見つけられない。    ましてや人形のように整ったその美貌は、その造形があまりにも完璧すぎるせいで、無表情を浮かべると「人らしくない」とさえ人にはゾッとされかねない。  よって――彼のその冷艶な美貌が完全な無表情を呈すると、良ければ高嶺の華というようではあるが、悪ければ人が近寄りがたいと思うような、冷ややかな高潔な印象を人にあたえる。    むしろ人によっては、その気高い美貌にどことなくサディスティックな色気を見ることもあるだろうが、しかしそれはあくまでもユンファさんが生まれついた顔立ちの印象である以上、彼自身のなかにそうした非情な冷ややかな感情があるないというのは、その冷ややかな無表情だけでは図りきれないことである。ぼーっと考え事をしているだけでも真顔となるのは、もちろん彼ばかりのことではない。  ……しかしあくまでもユンファさんを支配したい、彼をどうしてもマゾヒスト側に置きたいサディストのケグリらが、性奴隷である彼のそのような冷徹げな無表情を良しとするはずもなかった。  そもそもあいつらが彼に「お前は不細工だ」と言うその理由の一つに、彼のその顔立ちがある。    もちろんユンファさんの顔立ちが醜いのではない。他の小柄で童顔で丸目がちなオメガ属と比べて、彼のその美貌はあたかもアルファ属のそれである。  あいつらは彼に「可愛げがない、可愛くない」とも言うが、あいつらの言うその「可愛い」とは自分が支配しやすい小柄さ、自分よりも未熟にみえる子どものような童顔、要するに「支配しやすそうな(自分よりも)弱そうな相手」に向けて言っていることだ。  ――自分が安心感をもって支配できそうな相手を「可愛い」と言っている、あいつらは男としてかなり哀れな男らなのである。    ところがユンファさんの顔立ちや体つきは可愛いというより「美しい」ために、可哀想なケグリどもは彼に安心感など覚えられない。そのうえその完璧な美貌が冷ややかな無表情を呈すればなお、到底あいつらでは手の届かないような気高い至高の美人となってしまう。  ……だからユンファさんを「ブス」だというのだ。    そうしてユンファさんは無表情を失った。いや、これは厳密に「奪われた」というべきだろう。  感情というものを抑圧しなければ耐えられない過酷な環境のなか、まるでトリカブトの附子(ぶす)という毒で無表情を浮かべるしかないような彼が、自分を守るために鈍らせたその心通りの無表情を浮かべたなら――彼はたちまち「何だその生意気な顔は」と髪を鷲掴みにされ、「ムカつく顔をするな」と怒鳴られながら何度も何度も思いきり頬を叩かれる。  ……じゃあ彼はどんな顔をすればよいのか?    ――彼は「笑え」と言われ続けてきたのである。    ユンファさんはこれまでどれほど屈辱的な場面においても「〇〇してもらえて嬉しいだろ、笑え、喜べ、感謝しろ」と笑顔を強要されてきた。  そのせいでユンファさんはあのように、――これもまたトリカブトの附子の仕業のように、――引き攣った笑顔を浮かべて自己破壊を望むようなセリフを言うようになっている。    そしてそのせいで今のユンファさんは、この人形のように凍り付いた微笑こそを自分の無表情としている。  自分は真顔を浮かべたならその瞬間誰か、俺か誰かに張り飛ばされる。これは彼の自己防衛本能からのことである。だから今彼に自分の顔が微笑を浮かべている自覚はない。   「…そうですよね……」  何度も何度も「そうですよね」とくり返すユンファさんは、それによって自分を無理やり納得させようとしている。――『当然じゃないか』と彼の伏せられたまつ毛の下で絶望している黒い瞳が呟く。  ――『貴方も…()()()()()()()()()()()…。いや、当然じゃないか、当然じゃないか……何のメリットもないじゃないか、性奴隷の僕なんかにタダで優しくしたって、何のメリットもないじゃないか……あり得ないんだから、あり得ない、あり得ない、あり得ない、…当然じゃないか……』     「……、…」    違う。俺は違う――。  俺は己の心が腹のほうへと重たく沈みこんでゆく感覚に、この目が虚ろにぼやけてゆくのを感じている。しかし今の俺に「違う」と言えるはずがない。もし俺が今そう言えば、俺の目がユンファさんのその感情と思考を見透かしていると彼に露呈してしまう。   「…あの…大丈夫です…」とユンファさんが伏し目の凍り付いた微笑のまま、やけに落ち着いた声で言う。   「そのつもりでした……さっきから、ずっと…――ずっと…そのつもりでしたから…、何をされても…どうされても…僕には、何も文句はありません…。当然ですから……」   「……それは…どういう意味…?」    俺はその意味をわかっていて聞いた。少しでも早く「違う」と否定したかったからである。    ユンファさんは俺の優しさに()()()()()を見付けてしまったと、そのような勘違いをしている。  彼はすべてを俺におもねる諦観に身も心も凍りつかせ、()()()()()()()()の伏し目がちに()()()、静かにこういった。   「…あの…()()()ですから…――どうか生で犯してください……」   「……違う…」    俺はやっと言えた。   「違います、俺はそんなつもりじゃ…」    しかし俺のこの言葉を静かに遮るユンファさんの瞳、彼はふと目を上げ、俺の目を見ているようで何も見ていない虚ろな黒紫の瞳を形ばかり俺に向けると、凍てついた微笑の口もとをもう少し笑みらしく深める。   「むしろ生のほうが…僕が、生のほうが気持ちいいんです…。ですからどうか…不細工な汚いガバガバのおまんこで申し訳ありませんが…よろしければ僕の便所穴に、どうか貴方様の生のおちんぽをお恵みください…――勿論、責任は一切取らなくて結構です…。責任は僕が全部負います…。貴方様のザーメンをいっぱい僕のまんこのなかに出してください…。どうか僕に種付けをして、無責任に僕を孕ませてください……」    そこまでをなめらかな静かな調子で言いおえたユンファさんは、また俺へ三つ指を着いておもむろに土下座をしてきた。   「どうぞ今夜は…貴方様のお好きなように、僕の体で沢山遊んでください……」   「…勘違い、しないで。」    ()()()――。  いや…まあ無理もないか。俺はユンファさんに()()()()()をされてしまっている。   「…俺は別に、そんな()()()()()()()がしたくて、貴方を…――ユンファさんを、指名したわけではないのです。」    ナマナカ――()()()()()()()()()()()()()よ。ある店にマジでご主人様がいて、その人と繋がりあるから店長もNN(ナマナカ)黙認してるらしい』    あの体験談を語る掲示板にあまた書き込まれていたその「噂」――ケグリが経営する『KAWA's』『AWAit』から流れついてきた客、あるいは真偽はともかくそう主張する客相手に、ユンファさんはあのような定型文的セリフを過去何遍も何遍もくりかえし言ってきたのであろう。    ケグリの店でも一応彼は「ユエ」ということにはなっているが、しかしそれはあくまでも建て前である。彼はあの薄汚い店内では、ケグリをはじめとした客の誰しもに「ユンファ」と呼ばれている。  それこそ、その人の体に書かれた馬鹿みたいな卑猥な言葉のなかにも『ユンファを孕ませて』だの、『バカマゾメス奴隷ユンファ』だの、『中出し専用肉便器ユンファ』だのと「ユンファ」と本名で侮辱され、そしてその言葉を体に書かれている彼の陵辱のすがたを映した写真は、ケグリの店の公式サイトになんら憚りもなく掲載されている。    そういったわけで、ユンファさんのなかでは、「ユンファ」という自分の本名を知っている客は、イコールケグリの店で惨めな恥辱の目にあっている「性奴隷のユンファ」を知っている客だ、ということになっている。  ……そして彼は『DONKEY』の接客中、たとえば客に「ケグリの店から来た」と言われたり、あるいは「ユンファ」とその名を呼ばれたならば、たとえ店のルールでスキン無しの行為が禁止されていたとしても――むしろケグリの店から来たと主張する者のほとんどは、そのナマナカを目的として来ているため――その避妊具無しの性行為に応じざるを得ないどころか、むしろ自ら進んで「生で犯してください」と客に頼み込まなければならない。    大方ご主人様であるケグリに「私に恥をかかせるな」とでも言われているのであろう。また客の要求に応じなかったことをケグリに告発されれば、彼はまた「お仕置き」を課せられる。おそらく彼にはそれくらいならばどうせ、という思いもあるのだ。  ケグリの店では避妊具の着用は客の自由であり、客がそれを着けようが着けまいが自由にして構わないとされている店の性奴隷として働いている彼は、『DONKEY』の客がスキンを着けなかったところで「今更」だとさえ思っている。    お仕置きをされるくらいならば、むしろ自ら進んでその無責任な行為を求めるふりをしたほうがまだマシだ。  だからああしたセリフも何ら詰まることなく彼は言えた。今考えながら言ったことではなく、彼が過去に何遍も何遍もくりかえし口にしてきた定型文的セリフだからである。     「…俺、自分用のスキンを持ってきています。」    と、しかし俺は土下座しているユンファさんに固い声で言った。…なお、これでまた無理やり頭を上げさせれば、彼はまたパニックになってしまうかもしれないので、ひとまずのところはその土下座にノータッチである。  ……俺がスキンを持参しているというのは事実だった。むしろユンファさんに「着けてください」と言われるまでもなくそれを着けるつもりである。  もちろん()()()()が囁かれている彼とはいえども、ルールとしてスキン着用が義務付けられた店のキャストである彼のほうに、そのスキンの用意がないということはないだろうが――しかし俺はアルファ属の男であるために、何かと陰茎や射精において独特なところがあるため、専用の自前のものをきちんと持ってきているのだった。   「貴方を抱く際には、当然俺はスキンを着用します。…それが店のルールですし、何より……」    貴方のために――と俺が最後まで言うまえに、 「ご安心くださいませ…」とユンファさんが、俺に土下座をしたまま静かに言う。   「…店には言いません…。というより、店長も全て知っていますし…何なら、()()()()()()()ですから…――万が一そのことが店にバレてしまったとしても、何を言われることもないでしょうし…何より、僕がゴムの着用を個人的に拒んだということになりますから、この件では絶対にお客様の過失にはなりません…。お客様にペナルティが課されることはございませんので、どうぞご安心ください……」   「……、…」    俺の上まぶたが静かに上がり、仮面の下で俺の片頬が沸騰直前の泡の蠢きで、痙攣したように波打つ。   「…あ、貴方…貴方、店の店長とも……」   「ええ…」とユンファさんが頭を下げたまま、平然とした声でこたえる。   「……ご主人様の一人の、ご友人なんです…。僕の体をお気に召してくださっているようで…仕事終わりに、たまに()使()()くださいます…。ですから、店長のことも一人のご主人様として、精一杯ご奉仕を…」   「何を、…何を当然のことのように言っているの、貴方は、…」    俺は怒りから低い声でそう言った。  俺の怒りは、ユンファさんがあまりにもその搾取を「当然のこと」として受け入れていることに原因があった。いや、彼はそれをそのように受け入れる他にはないのである。むしろそれを受け入れたほうが、今の彼は自分のこと、自分の心を守れるのである。  わかってはいたが、…俺は怒りがこみ上げてくるほどに悲しかった。   「…当然のこと、だからです…。僕は本当に、性奴隷で……」   「貴方は性奴隷ではない。」   「……、…」    ユンファさんは土下座をしたまま言葉を失った。   「貴方は…ユンファさんは、性奴隷ではない。」    と俺は低い声で繰り返した。  ……するとユンファさんはおもむろに頭を上げ、目を伏せたあの凍りついた微笑で静かにこう言う。   「いいえ…僕は、性奴隷です…」   「違う、絶対に違う。貴方は性奴隷じゃない。」   「……いいえ、僕は性奴隷で…」   「いいや、ユンファさんは性奴隷じゃ…」   「っ違う、…違う!」    とユンファさんが突然怒鳴る。彼は険しく眉をひそめると、下方を見ながらも目を見開き、ゆらゆらと前後に揺れながら、   「違う、違う、違う、違う違う違う違う、…違う、違う、違う! 違うんだよぉ……っ! 僕は性奴隷なんだ、性奴隷、…っ僕は性奴隷だ、…性奴隷、性奴隷、…貴方に何がわかるんだよ…っ! 僕は、…っ僕は性奴隷なんだよ! ふざけるなよ、何も知らない癖に…っ!」    俺は狂気的なユンファさんの揺らめきを、虚しく眺めている。 「…知ってるよ…、俺は貴方のことを、誰よりも知っている……、……」      貴方は――月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)さん。        貴方は――俺の、初恋の人。         「…知ってる、知ってるよ、……貴方を知ってる、俺は、…ユンファさんのこと、よく知ってるよ……」        知らないはずが、ないじゃないか、  ……俺が初めて貴方に出逢ったのは今夜でも、何か月前でも、何年前でもない――十一年前、貴方に初恋の一目惚れをしたあの日なのだから――。          

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