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                 ユンファさんは嗚咽をしながら、俺の胸板にすがるよう額をそこに着けつつも、   「……っ、…っごめんなさ、…」    と俺にまた謝ってきた。  彼は自分の涙をまた罪悪と見なしてしまったのである。――俺はまずゆっくりとまくらの一つに自分の片耳をあずけた。そして両腕でゆるくユンファさんの頭を抱えたあと、目を伏せながらその人の頭頂部にちゅ、とキスをする。   「…何故謝るのですか…?」    俺は優しい声でその謝罪の不当性をそれとなく指摘し、ユンファさんの後ろ頭をそっと何度もゆっくりと撫でさげながら、むしろ彼の涙の正当性をこのように彼に説きはじめる。   「“泣く”ということは、決して悪いことではありません…。むしろ泣くという行為にはストレス発散など、癒やしの効果があるそうです…――ましてや今此処には、貴方の涙を(とが)めるような(やから)は誰一人として居ない。…今貴方の側には、貴方の涙をゆるす俺しか居ないのです。…ですから貴方は今、泣いてもいい…。いえ、むしろ俺は、ユンファさんに……」    泣いてほしい、と言おうとした俺の悠々としたセリフを、しかしユンファさんがこう遮り、   「っで、ですが、…ごめんなさい、あの、…」    と彼は俺の胸板を弱々しい力で押し返そうとする。  彼はケグリに言われつづけている「男の癖に泣くのか」というのにもまして、今自分が泣いていることで俺に迷惑がかかっていると心苦しく感じている。   「…大丈夫、です、…僕、…あの、み、みっともなく泣いてしまって、ほ、本当にごめんなさい、…もう、もう大丈夫ですから、……」   「…みっともないですって…? ふふふ……」    もちろん俺はユンファさんのその手のひらになどたやすく勝てる。――そうして俺は、彼の顔が俺の胸もとから離れないように、両腕でゆるく抱いているその人の後ろ頭に、きゅっと優しい両腕の拘束力をかける。   「とんでもない…。貴方の涙は綺麗だ……」   「……は…――…、…、…」    すると静かに息をのんだユンファさんは言葉を失った。俺の胸のまえ、彼の肩はふるふると震えながら小さく縮こまり、俺の胸を押し返そうとしていた彼の手は、俺の胸もとでゆるくその指を曲げる。  ユンファさんはまた俺にときめいてくれたのである。…俺は単純にそのことが嬉しくて、目を伏せたまま微笑した。   「それに…はは、ユンファさんはまだ大丈夫じゃないでしょう…? どうかこの俺に甘え……」    しかし俺のこの言葉を、ユンファさんは慌ててまた遮る。   「で、でも、…ぼ、僕、…あ、甘えるだなんて、…」   「“いや”…“でも”…“だって”…“こうだから”…貴方は今、そうした余計なことは何も考えなくてよいのです。――ましてや…男性である貴方が甘えるということや、泣くということ…それらは決して恥ずべきことではありません。……」    ところで――「男は松、女は藤」ということわざがある。  それの意味とはこうである。――男は松の木のように強くたくましくあらねばならない。もちろんメソメソと泣くや誰かに甘えるや、また誰かに弱いところを見せるやというのは男が(すた)る「女々しい」ことである。  そして、一方の女はその松の木にまとわりつく藤の木のように、しとやかに優しく、また優雅に美しく、男を立てて、男にすがりつきながら生きてゆかねばならない。    男は女に自分を頼らせ、女は男を頼りに生きる。  それこそが男と女にとっての「支え合う」ということであり、またそれこそが、男と女の両方が幸せになる理想の関係性である――。    現代人のほとんどはこれを()()()()()()()()()()だと思うことだろう。それこそ「女々しい」という言葉もそうだが、もはやこれは女性側にしろ男性側にしろ、男女差別の象徴的ことわざだとさえいっても過言ではない。  しかしこれが「ことわざ」であるということは、そうした価値観が過去このヤマトには根付いていた――このことわざを一つの役立つ知恵として多くの人が心得ていた――ということを意味している。    とはいえ…もちろん現代においては、女性の社会進出は進みつつあり――また過去には男性がそれというだけで取っていたリーダーシップ、家父長制というのに従うしかなかった女性たち、酷ければ、有無をいわさず顔も知らない男のもとへ嫁がされていたような女性たちの自由、意志、そして人としての権利や幸せも、現代においては認められる向きの流れとなってきている。    しかしこれは俺の体感的な感想だが、女は必ずしも男にすがらなければ生きてゆけないようなか弱い存在ではない――と、そのように世の人々が認知しはじめている昨今において、そうして女性についての価値観のアップデートは日々刷新(さっしん)されてゆくなかでも、男性についての価値観のアップデートにおいては若干遅れているように思う。    いうなれば、女はもう今の時代藤ではないが――男はまだ松のまま、なのである。    たとえば街中を歩いていて、ぐずる男児にむけられた「泣かないの、男の子でしょ」と叱る声はふつうに聞こえてくるが、「女の子なんだから泣かないの」とは聞こえてこない。  ――もちろんその逆のパターンもよくあるのだが、…たとえば「女の子なんだから脚を開いて座らないの」と叱られている女児も多い(そして、もちろん男児に対して「男の子なんだから脚を開いて座らないの」と叱る声は聞こえてこない)が、その前置きとは本当に必要なのだろうか?  ……そもそも女だ男だではなく、公共の場においては誰しもが遠慮がちに座るべきである。またスカートを穿()いているときには必要な所作であるにしても、「スカートを穿いているんだから(パンツが見えて恥ずかしい思いをしてしまうよ)」で済むところである。    そうした「男の子・女の子なんだから」という言葉は、大人になってもなおその人を縛りつけてしまうことが多い。それらは必要以上に使うべきではない。  ……こうして男女の不平等というものは、いまだ女性側においての課題点も多くあれど、その実男性側にもその課題点が多くあるのである。    そして現代の女性たちが声をあげてくれるおかげで、世の中は彼女たちに対する価値観をアップデートしはじめている――が、しかしその一方で、男性のほうはなかなか声をあげない、あげても重要視されにくいので、なかなかその(ほう)の価値観のアップデートは遅れている…と、俺は体感している。  ……いや、かえって男性本人がその価値観に疑問をもっていないことも多いのである。    ――ユンファさんもその一人だ。  ケグリにさんざん古びた「男の癖に」という誤った価値観を浴びせられているとはいえ、それにしても彼は人に頼れない、甘えられない、自分だけでどうにかしなければ、自分は強くあらねば、自分が働かなければ両親が生活に困る――と、愛する両親に引き留められてもなお実家を飛び出したようではないか。  ……そして今もなお彼はそうである。「メス奴隷」だなんてとんでもない、皮肉なことに、むしろ彼は世の男性原理に基づいてその「メス奴隷」とやらになり、そうして彼は今もなおその苦惨(くさん)陵辱(りょうじょく)に一人耐えつづけているのである。    ……俺はユンファさんの頭頂部にまたちゅ、と口づける。   「……涙は勿論、男女という性別の隔たりなどなく出るもので…また涙には、性別による価値の増減などもありません。…それは男性であれ女性であれ、人にはみな喜怒哀楽の感情というものがあるからです。――そして…その感情によって、人の目からは勝手に涙が出るのですから……男性だから泣かない、泣くべきではない、男性が泣くのは恥ずかしい、情けないという価値観は、間違っているのです…。…ましてや人は、(みな)一人では生きてゆけません……」   「……、…、…」    俺の胸もとであいかわらずカタカタと震えているユンファさんは、時折わずかな音でひ、としゃくりあげる。   「…ですから、ユンファさんも泣いて…そして苦しいのならば、時には誰かに頼るべきなのですよ。…頑張り屋の貴方はとても立派だが、少し勇気を出して誰かを頼ること…それもまた、物凄く立派な行いなのです。……、……はは…、……」    しかし俺はそこで苦笑した。  じゃあ俺はどうだ? 俺は誰かに頼れているか?  ――俺は涙を恥じずに泣けているのか?    ……このセリフを言っていてハッとしたのである。  俺の中にも「男は松」という価値観が多少なりまだ残っている。もちろんそのあとに続く「女は藤」のほうは俺の中にはないが、自分にとっての「男らしさ」を追求すればよいとわかっていても、その「男らしさ」に弱くあってはならない、強くたくましくあらねばならないというのが残っている。  ……ユンファさんに対してならばいくらでも柔軟に、「男は松」というような価値観は間違っている、貴方はもうその呪縛から解放されて楽になってよいと言えるのだが――それを言う俺のほうも、いまだその呪縛からは完全に解放されていない。   「……俺だって、貴方の前で泣きましたでしょう…? 俺は…貴方に見せた自分の涙を、決して恥じてはいません…。……」    これは俺のちょっとした自己暗示的嘘だった。  ――俺はここで静かに息を吸いこんだ。  そしてユンファさんの頭頂部に唇を寄せ、努めて誠実なように、低い吐息を含ませたささやき声でこう続けてゆく。   「…したがって…貴方が涙を(こら)えるべき理由など、今ここには何一つとしてないのです。…繰り返しになりますが…貴方の涙を、恥ずべきものだと見做(みな)す者など此処には居ません…。…貴方は、今は決して自分の涙を殺してはなりません…、出るに(まか)せるのです…――涙を堪えるということは、ひいては、貴方の“大切な心を殺す”ということでもあるのですからね……」   「……っ、…、…、…」    俺のこのセリフに、またユンファさんの嗚咽が強まり、彼は俺の胸もとで忍び泣いている。  俺は彼の後ろ頭をやさしく…何度もゆっくりと撫でさげながら、さらにこう彼の頭頂部にささやく。   「ユンファさんは…誰よりも泣くべきですよ…。むしろ貴方は泣いて当然でしょう…――それだけ貴方は今、お辛い思いをされているのですから……貴方はそれだけ我慢をし続け、限界を越えてまでの無理をし続けているのですからね……、つまり…頑張り過ぎているのですよ、ユンファさんは……」   「……、…、…」    しかしユンファさんがここでふっと息を止める。  彼はそれでも自分の悲しみを殺そうと、いや、自分の「無理」から目を背けようとしている。――認めてしまえば、自分はきっとケグリのもとから逃げ出したくなってしまう。…しかし、ケグリは自分の愛する両親の生活費を払ってくれている。  ……自分は逃げ出してはならない。    耐えなければ…――ケグリの性奴隷でいつづけなければならない。どれほど辛くとも悲しくとも、たとえどれほど自分がケグリに壊されてしまったとしても、自分はケグリのもとから逃げ出してはならない。    愛する両親のために――僕は自分の限界を認めてはならない。  ここで地面に膝を着いては駄目だ。僕はもっと、もっともっともっと頑張らなければならない。  自分の命を捨ててでも――どれだけ自分を犠牲にしてでも――僕は、愛する両親に生きていてほしい。    ユンファさんのその気持ちは俺にも推察できるが、しかし、だからこそ彼は壊れてしまったのである。  ……緩めなければならない。ユンファさんはせめて今だけであっても、一度くずおれねばならない。   「…今だけは頑張り過ぎを手放しましょうね、ユンファさん…――貴方の涙が止まるまで、俺に…貴方の側にいさせてください…。俺が貴方に、ここにいてほしいのです…、どうかこの俺に、貴方の涙を拭わせてほしいのです……」    と俺はユンファさんの頭を抱えなおした。  しかしユンファさんはか細い声でこう返答する。   「いいえ…僕、…まだ…限界じゃ…、壊れても、いません……まだ、…まだ…大丈夫です、まだ頑張れます……」   「……、…」    殊勝だが……それはある意味での拒絶だった。  俺はある意味でユンファさんに拒絶されたのだった。…わかっている、彼は俺を拒んだわけではなく、自分にそう言い聞かせなければならないと思いこんでいる、自分で自分にそう言い聞かせなければ、それこそ自分はくずおれて、もう二度と立ち上がれなくなってしまう。――ここで自分が膝を着けば、自分は愛する両親を助けられない。  ……今のユンファさんにとっての「生きる意味」とは、今彼がそれでも何とか生きていられる理由、彼がこの苦境のなかで縋っているかすかな希望の光、それはあのツキシタ夫妻の幸せなのである。――拒絶ではない。    わかっていても、俺の伏せられた目もとに翳りが差す。       「……俺では、駄目…?」       「……、…え……?」    何のことやらわからないと、ユンファさんが俺の胸もとでか細い声で聞き返してくる。――俺はまるで幼い子どものようだった。理屈はわかっていても、まるでそれがちっともわからない子どものように、好きな人の拒絶がただ悲しかった。  だから俺は今にも泣きだしそうな震え声で彼にこう言った。   「…ユンファさんは確かに…いつもは誰にも頼れない状況下で、一人その苦境に耐え忍びながらも、何とか必死に頑張られているのでしょう…。俺もそのことは知っています…――だけれど…今はそうじゃありません…。…俺は貴方の側に居ます…、俺が、貴方の側に居るのです…。」   「……それは…」    とユンファさんが、それはわかっている、でも、とてもこれ以上俺には迷惑をかけられないとでも言おうとした。しかし俺は「ねえ…」と締めつけられている胸から出た切ない声で、彼にその遠慮を言わせない。   「俺が、居るじゃないですか…。俺じゃ駄目かな…、……俺じゃ、駄目ですか…?」   「……いいえ…そ、そうではなくて…」   「す、少しくらい、…俺に頼ってください…――今だけでも構いませんから、…俺は確かに、貴方から見たら頼りないのかもしれないが、…でも、今だけは……今は残念ながら…貴方の側には、…その…俺しか居ないのです…。…で、ですから、今だけは…――今くらい……少しくらい、…俺に甘えてよ、ユンファさん……」    俺は自信家だ。俺は自惚(うぬぼ)れ屋だ。俺は完璧な男だ。  ――そうした俺の幸福に生きるための自己暗示は、あの日俺を見下ろしていた初恋の美男子のある種の拒絶に、その効力を弱めてしまった。  俺のコンプレックス、それはユンファさんとはとても対等にはなれない、自分が彼よりも年下だ、ということに起因している。…追いかけても追いかけても、年齢というもので俺が彼を追い抜けることはもとより、追いつけることさえあり得ない。    頼りない年下――むしろ年上のユンファさんに頼らなければならない、年下。  ……俺の瞳のなかに満ちた青白い光に一瞬影がよぎる。…俺はその影を目で追ってはならない。    やけに卑屈な物言いとなってしまった。  俺はすぐさま自分のそれを忸怩(じくじ)したが、しかし――ユンファさんは俺の切実なその声とセリフにドキ、と胸を切なくときめかせると、ふと顔を上げて俺の目を見上げた。…彼のたっぷりと涙に濡れた紫の瞳のなかに、俺の目の青白い光の欠片が映り――その青白い欠片は、(まる)い紫の瞳の下部にやどる赤紫色の愛おしげな、俺を憐れんだような光の欠片を照らす。   「いいえ、…いいえそんな、とんでもない…、ぁ、貴方が側に居てくださることが、僕は今、ど、どれほど有り難いか…、……」    しかし彼は目を伏せながら「ただ…」と、かすかにしゃくりあげながら言う。   「こ、これ以上、これ以上貴方に、ご迷惑をお掛けするわけには、…」   「迷惑だなんて思っている男が、“俺に甘えて”などと言うものですか。…ユンファさん…貴方に甘えていただけるという光栄は、いわば俺の幸福の一つなのです。…俺の胸で泣いてください…――大声をあげたって構いません。…俺に甘えてください。」    と俺はぐっと、ユンファさんの頭を胸に抱えなおした。――するとビクンッとしたユンファさんが、また俺の胸もとでカタカタと小さくただ震えている。   「……で、でも…、あ、あの……あの……ゃ、優しく、されると、僕……」    ただし、彼の胸はドキドキとその鼓動を春めかせている。彼のその胸の高鳴りは、俺の胸板が今の彼にとっての「たくましい男」のそれであるという証拠だ。  ……とたんに自信を取り戻した俺は、にんまりと口もとを笑ませた。好きな人のときめきが俺の傍らにあることを、俺は単純に喜んでいるのである。   「俺のことを好きになってしまうかもしれない…、そう仰言(おっしゃ)られたいのなら、俺からの返答は先ほどと同じです――早く俺を好きになってください、ユンファさん。…」   「……あの…でも…、ぁ、あの…ご、ご迷惑…」    とユンファさんは俺の胸もとで小さく首を横に振るが、俺は明朗(めいろう)な声でこう言いつのる。   「俺との幸せな未来を信じてほしいのです。どうぞ安心して俺を愛してください。…俺、ユンファさんに愛されたいのです。…はは、俺は本当に、本当に貴方と付き合いたい…――いえ、勿論俺の最終目的とは貴方との結婚ですよ。…こんなにも美しく聡明なユンファさんと結婚が出来たら、どれほど幸せか……貴方がいれば、俺はどんな苦境に置かれていてもきっと幸せです。」 「……そ、それは…、……」    ユンファさんが言いよどみ、ず、と鼻を啜る。  そして彼は俺の胸もとの布をぎゅうと握りしめ、コツンと俺の胸板にその額をぶつける。   「…幸せ……、し、幸せ…でしょうね、確かに……幸せ、でしょうね、――お付き合い、…貴方のように、…優しくて、素敵な方と、…お、お付き合い、出来たら……」    ユンファさんのたどたどしいその言葉は、嗚咽まじりではありながら、幸福な未来に微笑んでいる。   「貴方と、結婚、出来たら、…きっと、…凄く、…凄く、幸せで…――きっと、もう…何にも要らない、んだろうな、…」   「……うん…俺も…――俺もユンファさん以外、本当に何にも要らない……」    俺は彼の頭をこの胸にいだきながら、しみじみとそう呟くように言った。――俺は期待していた。  少なくともユンファさんは俺に恋をしてくれている。そして彼は、今にも俺へ向けて「僕も好きです。僕も貴方とお付き合いしたいです」と言ってくれそうな、泣きながらもやわらかい幸せな未来を夢みた微笑を、その詰まり詰まりの声に含ませてくれている。   「……きっと、…貴方と、居られたら…他には何にも要らない、……きっと、…貴方とお付き合い出来たら、……お付き合い、――僕も、…貴方と、お付き合い……っしたい、な……」   「……は…、……」    俺はこの神秘的な宇宙の暗がりのなかで、神がもたらす奇蹟(きせき)の光が俺の目もとに差すのを感じた。   「ほ、本当…? 本当、ユンファさん、?」    ユンファさんは「はい、…」と答えてくれた。   「…したいです、…僕も、貴方と…お付き合い……だから、…」   「……、…、…」    ……俺は目をつむった。  ユンファさんは声を詰まらせながら、こう言った。     「貴方は、本当に優しくて、とっても、…っとっても素敵な人です、…だから、…きっと、……きっと…」      そこではぁ…っと息を吸い込んだユンファさんは――握りしめていた俺の胸もとの布を、そっと手放した。         「…貴方と、お付き合い出来る、……その方は、――お幸せ、っでしょうね、……っ」         「……、…」    それでもユンファさんは、未来が信じられなかった。――まだ目に見えない未来ほど疑わしいものはない。  ……こと幸福な未来ほど疑わしいものはなく、幸福な未来ほど信じられないものはない。    幸福な未来を信じてしまうことが恐ろしい。  幸福な未来を信じて、今安心してしまうことが恐ろしい。――安心してしまってから、いざその幸福な未来が自分の目に映らなかったら……?      自分の目に映った未来が――期待していた幸福な未来などではなく――不幸な未来だったら……?      今のユンファさんでは無理もないが、彼は俺との幸福な未来、そして――俺を信じきってはくれなかった。     「……はは…またフられてしまいました…、……」        だけれど俺は信じるよ。  ユンファさんが、いつかは俺と同じ幸せ――俺と同じ幸せな夢を見てくれることを、今の俺は、無謀にも信じ切るよ。  ……俺は貴方と絶対に幸せになりたいからだ。      

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