674 / 689
134
各々が一つずつの枕に側頭部をあずけ、俺たちは向かいあって目線を合わせている。
ユンファさんは自分の顔の前、自分が頭をあずけている白い枕に力のぬけた左の手のひらを添えている。
一方の俺はユンファさんのその美しい澄明な紫の瞳を眺めながら、彼の黒い横髪をのんびりとくり返し指で梳 いていた。――するとそのうちに彼がリラックスをしてくれたおかげか、今やその人の涙は止まりつつあった。ただし完全に涙が止まったというわけではなく、その切れ長の目から涙がこぼれる間隔こそずいぶん開いてきたが、まだ時々彼のその目からはほろりと涙がこぼれ落ちる。
そして俺の目をその紫の涙目で見つめかえしているユンファさんは、まるで恋人の俺と床をともにしたあとのような――もちろん事実はそうではないが、まるで事後、まるで俺とこのベッドのなかでたっぷりと愛しあったそのあとのような――幸福そうな安らかな顔、もっといえば、その穏やかな目もとや頬をなまめかしい薄桃に染めた色っぽい顔をしている。
……『えっち気持ち良かったね、ソンジュ…。僕、いっぱいイッちゃった……』なんて…俺のいやらしい耳に甘い照れ笑いの幻聴が聞こえてくるほど、…とにかく今のユンファさんは淑 やかながらも色っぽい。
「…色っぽいな、ユンファさん……」
「……、…え……?」
俺のなかば独りごちたセリフに、彼がとろんとした夢見がちな目を不思議そうに明るませる。
「……色っぽい、って…?」
そうやわらかい微笑をするユンファさんの声でさえ、俺に体を許したあとのような気だるいなまめかしい甘さを帯びている。――俺にはどうも記憶がないのだが、もしかすると俺はもうすでにユンファさんを抱いたのかもしれない。しかし、とするとそのときの記憶を喪失したらしい俺は大分大損をしている。
……いやそんなわけがない、そんなことがあってたまるか、……そんな…よりにもよってユンファさんとのえっちの記憶なんて俺が一番覚えておきたい記憶に決まっているじゃないか、この俺が忘れるはずがない、俺の可愛いユンファのえっちな姿をこの俺が忘れるわけがない! まあ忘れたとて俺には「録 画 」があるけれど……。
「……、…」
「…色っぽいって…どういう意味、ですか…?」
ユンファさんが黙りこくった俺をいぶかり、もう一度そう尋ねてくる。しかし……正直に言えばいやらしい男だと思われそうだ。簡単にいうとムラムr……。
「…綺麗だ、ということです、要するに……」
「……でも…それ…誤魔化して、いませんか…?」
とたどたどしい調子ではあるユンファさんだが、そのたどたどしい弁舌がまたどこかあどけなくて可愛らしいやら色っぽいやら、…俺は困って右側頭部をあずけている枕のほうへ両方の瞳を寄せた。
「誤魔化してはいませんよ…、事実、ユンファさんはお綺麗ですし……」
「……、ふふ…もしかして、悪い魔法使いさんは…悪いから、嘘吐 きなんですか…?」
「……、…」
俺はまさかユンファさんが「悪い魔法使い」を用いて俺のことをからかってくるとは思わず、嬉しい反面おどろきながら目を上げた。彼は花がほころんだような微笑をうかべて俺を見ていた。
俺は嬉しいあまりにノリノリでこう応える。
「そう…そうなのです、世にも美しい王子様…? 俺は悪い魔法使いですから、嘘吐 …」
「じゃあ…やっぱり、誤魔化したんだ…さっき…」
とユンファさんが俺の目を見ながらニヤリとするが、その表情さえも綺麗だ。
「……ぐ、…」
しかし、しまった。俺としたことがハメられた。
随分おぼつかない意識状態のようだというのに、さすが彼はやはり賢い。
「そうじゃ……ない、…けれど……」
なんて言いながら俺は目を泳がせている。
するとユンファさんは、俺のパーカをまとう胸板にそっと触れてきた。一瞬俺の高鳴る胸の音かと思ったが、彼のトクトクと速まった鼓動もまた聞こえてくる。
「…僕…もし、貴方が…その……色っぽいって、いうのが…――その……もし…そ う い う 、こ と …だったとしても…、僕、嬉しいです……」
「……、…、…」
俺のズクズクと疼きはじめた心臓にともなうその鼓動を顕著に感じる「ある場所」を、…俺はしっかりと叱責して威圧しておく。――今はまだ駄目だ。いくら涙が止まりつつあるとはいえ、彼の意識は今およそ朦朧としており、その弁舌は危ういほどたどたどしい。
……これで抱いたらまるで酒に酔っている彼をたぶらかし、その肉体を騙取 しおおせているようではないか。正常な判断能力がない人を抱くということはほとんど強姦と同じである。
「……貴方になら、僕…何を…されても…」
とユンファさんがはにかんだ小声で言いかけたところで、俺はさっと彼を見て――彼は目を伏せたはにかみの微笑を浮かべていた――、あわててこう言う。
「そっそんな迂闊なことを言ってはいけませんよユンファさん、…危ないじゃないですか、もっとご自分を大切にしないと、…それこそ今の貴方は酔っているようなもので……」
俺のこの言葉なかばに、ユンファさんが目を伏せたまま悲しげな顔をする。
「……いいえ…大丈夫です…、お酒に…酔っている、ときも…よく…します……」
「……、…」
確かに――ユンファさんはそういった危険な行為を強いられていることもよくあるようだった。
それこそケグリどもが彼の信教を嘲弄 していた例の映像にも見るように、彼は遊び半分で度数の高い酒を飲まされたうえで犯されることもある。…しかし俺は、だからこそ今は彼を抱けないと考えているのである。間違ってもあんな奴らと同じ穴の狢 にはなりたくはない。
「僕…でも…」とユンファさんがそっと目を上げ、やわらかいとろんとした紫の瞳で俺の目を見る。
「今は…酔っていません…、…それに…、…そう言って、くださる…貴方、だから……僕、貴方に…――あの…、僕……魅力、ないです…、何にも…なくて…」
しかしそう言いながらまたすぐに目を伏せたユンファさんは、自信なさげな不安げな表情をうかべ、か細い声でこのように自嘲する。
「…ブスだし…、図体、ばっかり…大きくて…、おまんこも…ガバガバで…、体…臭 いし、汚いし…何にも…魅力は、ないんですが……」
「…そんなことはない。貴方は綺麗だ。」
たまらず俺は、ユンファさんの顔の前に置かれているその人の手の甲を上からきゅっとにぎった。すると彼はたちまち目を伏せたまま幸福そうな顔をし、じわぁとその頬の赤味を濃くする。
「……、…あ、貴方が…、もし…少し、でも……僕を、抱きたいと…思って、くださる、なら……だ…抱いて、ほしいんです…――僕…はじめて…、そう…思いました…」
ユンファさんはその美しい顔にふと浮かべたとろけそうな綺麗な微笑に、幸福そうな色香を漂わせる。
「…誰かに、抱かれたいって……僕、はじめて…思ったんです……だから…――」
とその透きとおった紫の瞳が上がり、じっと俺の目を見据える。その瞳につられて彼がわずかに顔を上げたその瞬間、上になっている彼の左耳に着いた銀の十字架のピアスがキラと光った。
「……抱いて…くださらないん、ですか…? 悪い、魔法使いさん……神様……貴方は、…僕の、こと……」
「……、…」
俺は赤面しながらためらう。
ユンファさんの瞳は純然たる無垢なそれだった。
彼の思考とその言葉は完全に一致している。むしろ彼は頭にうかぶ言葉をそのまま口にしているのである。
……どうも今のユンファさんは「月 」でも「性奴隷のユンファ」でもない。
今ユンファさんは――夢を見ている。
そう……彼は今夢を見ているのだ。
――もちろん「月」や「性奴隷のユンファ」を完全に忘れられたわけではないものの、おそらく今の彼は自分が自分ではないような、いや、というよりかは「今ここにいるのは夢の中にいる自分である」というような錯覚さえしているのかもしれない。…まあだとしてもそれは多少だろう(たどたどしいがきちんとした受け答えはできている)。
いや自分で言っておいてなんだが、やはり錯覚というよりかはもはや甚だしい脳の疲労から、いま彼の脳は今のこの現状――俺が創り出した夢の世界――を「あり得ない、馬鹿らしい、付き合っていられない」などと、リアリズムに即した処理をするだけの気力がないのである。
なおおそらくこれはユンファさんが意識的にそうしているわけではなく、彼の脳にはいま物事を複雑に考えられるだけの気力が残されていないので、ある意味では本当に童話の中の王子様のように、今のユンファさんは夢見がちなほどすべてを純粋に受け入れられる。
……そのほうが脳に負荷がかからない。要するに楽だからである。
つまりある意味で今のユンファさんは「性奴隷ユンファ」や「月」という世間体から解放された、月下 ・夜伽 ・曇華 ももっと自分に素直なその人、となっているのだろう。
というのも、まずユンファさんは常日ごろから過労働気味のうえに寝不足である。そうして日々彼の心身に蓄積されてきた疲労は、それでも彼が何とか持ちこたえようと気を張りつめていたばかりに、これまではそれほど表には出ていなかったが、その実彼はそもそもが疲労困憊状態だった。――またそのような状態につけ加え、あれほどの激しいパニックによる心身のいちじるしい混乱は、彼の脳をふくめた心身をさらに疲弊させたことだろう。
その上でユンファさんは、今にふっと気が抜けてしまった。
それは、彼がそれでもその並々ならぬたくましく強 かな気力と信念と意志とで何とか持ちこたえていたところを、俺があえて彼が今くらいリラックスできるようにと、さまざまな方法で彼のその限界まで張りつめていた気を緩めてしまったせいである。
すると今のユンファさんは、それこそ徹夜明けも三徹四徹の程度ほどぼーーっとしたあの感じ、いやいやこれは現実だ、とハッとするくらいの処理能力はあれども、ふとした拍子にまた「あれ…?」と夢なのか現実なのかが上手いこと判断がつかなくなるあの状態であろう。そしてその状態である彼に、俺はある意味では「ここは夢の世界だ」などと催眠をかけた。
……その結果、彼は今まるで深い眠りのさなか不意に途中覚醒してしまったときのような、なかば陶酔的な朦朧とした意識となっているようである。
――これでよかったのだ。
「……ふふ…、そうだな……」
と俺は困りながらも笑って目を伏せた。
ユンファさんにとっては「此処は夢の世界だ」という俺の言葉が、何よりの「ゆるしの言葉」だったらしい。
……まあ、俺は本当ならばユンファさんにはこの機会に大泣きしてほしい――これまでに彼が抑圧を強いられてきた感情を解放してほしい――と思っていたが、しかし思えばわざわざ痛む傷をほじくり返す必要もない。…少なくとも彼は自然と溢れては落ちてゆく涙をもう自分で咎めなくなっているので、それだけでもおよそ十分といえることだろう。
……いや、むしろこれでよかったのである。
ユンファさんの紫の瞳は無垢に今のこの夢のような幸福、夢の中であればこそ素直に浸れる幸福を、素直に享受して喜んでいる。――俺のほうはかえって夢の中であればこそ自分の不幸に浸ることができるのだが、一方の彼は逆に、今が夢だと思えばこそこの幸福に浸ることができるようだ。
人の幸福とは、ときに不幸に浸りきることでもあるが――いずれにしてもユンファさんが幸せならば、俺はそれこそが本望なのである。
とはいえだ――やはり今はまだ彼を抱けない。
「……、少し怖いから…まだ抱きません」
と俺は目を伏せたまま本音を言った。
するとユンファさんが、
「…怖い…?」
と聞き返す。俺は「ええ」と答えながら目を上げ、彼のそのぼんやりとした美しい顔を見て微笑する。
「これでユンファさんを抱いてしまったら、何か…この幸せな夢から二人の目が覚めてしまうような、そんな気がしてしまって……」
「……ふふ…、それは……僕も、そうかも……」
ユンファさんはそう困ったように眉尻を下げて笑い、そしてふと目を伏せた。――しかし、彼はわずかにももう夢から目が覚めてしまったようである。
ともだちにシェアしよう!

