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               俺はまくらに側頭部をあずけたまま、目の前にあるユンファさんのまぶたを伏せた不安げな顔からふと目を伏せる。   「…ユンファさん……、貴方は今、もしかすると盲目になっていらっしゃるのかもしれません。…というのは勿論、単なる比喩ですがね…――貴方はどうもご自覚されていないようだ。…ご自分の並外れた美しさや素晴らしさ、聡明さ…、貴方という人はいつだって完璧だったというのにね……、……」    ……ユンファさんは先ほどはたと思い出した。  そもそも彼がなぜ俺にああしたこと――俺はいつ、どこで、どのような状況で自分のことを知ったか。つまり自分たちの初めての出逢いとはどのようなものであったか? ――を問うたか。    まずそれの起点とは俺が言った「貴方に一目惚れをした」というその「一目惚れ」の部分である。  それというのはそもそも、自己認識が歪んでいる今のユンファさんは――誰にでも体を許すような醜くうす汚い浅ましい性奴隷の自分、容姿にしろ頭脳にしろ性格にしろ能力にしろ何らの取り柄もない自分、それもこと自分が性奴隷としての痴態(ちたい)やら醜態(しゅうたい)やらをさらしているケグリの店で俺と初めて出逢っていたならば、なお自分のようなのに俺が「一目惚れをした」とはあり得ない。――と、そう考えているばかりに、その俺のいう「一目惚れ」とやらの真偽を確かめたくなった。    そのためユンファさんは、俺に「自分をどこで知ったのか?」という質問をしたのである。  ……今彼が思い出したこと、それは自分がした質問の起点――いうなればそう、彼が一番に確かめたいところの「一目惚れ」の部分において、たとえ俺が場所やら何やらを覚えていないにしても……。    せめて時期的なものは聞き出せるのではないか?    大学生、大学院生のころの自分か、    それとも性奴隷となったのちの自分か、    あるいはもっと前、それこそ高校生やら中学生やらのころの自分か――。    ……仮に俺のいう「一目惚れ」が事実であったにしても、少なくとも俺は「一目惚れをした貴方しか見えていなかった」――要するに出逢ったときの自分の姿ばかりでも、俺は鮮明に覚えているらしい。  ならばそのときの自分の姿を聞き出せば、出逢った時期においては大まかな特定ができるはずだ。――たとえば大学生、大学院生の頃ならばあたかも「普通の青年」のようだったろうし、もしくは高校生や中学生の頃ならばおよそそれらしい制服を着ていたことだろうし、…そして自分が性奴隷になってから、つまり俺たちの出逢いが最近のことであるのならば、自分は俺の前でみすぼらしい性奴隷らしい醜態をさらしていたことだろうし……。    ところがユンファさんは「じゃあ貴方は、初めて見た僕の姿がどんな感じだったか、覚えていますか」という質問を俺にしようとして――できなかった。    ――恐ろしかったのである。    俺は「何処で出逢ったかは覚えていない」と言った。――俺のその曖昧な回答には、曖昧であるからこそ今のユンファさんを苦しめる側面もあったが、その反面、今の彼が感じとれるかすかな希望も存在していた。    ユンファさんは、俺が性奴隷としての痴態や醜態をさらしている自分に「一目惚れ」をした――というのが仮に真実であった場合を恐れている。  ……だからこそ彼は今「じゃあそのときの自分の姿は?(いつ頃の自分と出逢ったのか?)」という質問をしようとした。――それは俺のほうから「性奴隷になる以前の貴方と出逢った」という情報が引き出されることを願ってのことであった。    性奴隷となる以前のことならばまだしも、あわい恋心を抱いている俺が、彼が思う自分の性奴隷としての痴態にもし「一目惚れをした」と言っているのならば、いよいよそんなことはあり得ない。    たとえば首輪に着けられたリードを引かれて獣のように四つん這いで歩いている自分、たとえば裸に首輪だけで犬の芸をさせられている自分、たとえば恥ずかしい衣装を着せられてあたかも淫乱らしい言動を取っている自分、たとえばステージの上野次を飛ばされながら強ばった笑顔で自慰をしている自分、たとえば人の足もとに土下座をして頭を踏みつけられている自分、――こんなに惨めで醜い自分の姿に「一目惚れをした」なんぞと言う人は、当然本当の恋心からそう言っているはずもなく、おおよそ自分のことを色仕掛けで騙し、オメガ属の自分の体を利用しようとしているだけの人だ。    だが――。    ユンファさんは俺のことを悪人だとは思いたくない。――俺のことを愛しているからだ。  俺への彼のその恋心は叶わないとも確信し、また叶えようとも思っていない恋心だが、彼はそれでも優しい俺のことを愛しているからである。    しかし俺の優しさ、俺のことを疑いたくはない反面、彼の中にある「(時期などもはや関係なく)自分のような不細工に一目惚れをしたなんてあり得ない」という歪んだ自己認識は、「きっと彼(俺)も自分の恋心をもとにオメガ属の自分を利用したいだけか、あるいは馬鹿な自分をもてあそんで面白がっているだけだ」という黒い結論の色を深めてしまう。  ……それだからユンファさんは口をつぐんだ。    いっそのこと時期やら何やら、それこそ俺がどの時期の自分に「一目惚れ」をしたかというのは曖昧なままにしておいたほうが――いっそのこと真実なんて知らないほうが――、自分はまだ俺のことを信じていられる。…仮に俺たちの出逢いが最近のことであったなら、きっと自分は俺の優しさを信じられなくなってしまう。  ……真実を知ってしまうのが怖い。だから、やっぱり曖昧なままにしておきたい。     「――今から言う俺の言葉を、貴方は信じてくださいますか」    と俺は目を伏せたままにそっと尋ねた。  ――少なくとも俺たちの出逢いの真実というのは、ユンファさんが恐れているようなものではない。  もちろん俺は、今の性奴隷とされてしまった彼と初めて出逢ったにしても、その美男子の悲劇の色香ただよう美貌に一目惚れをしたと断言できる。  ただそういった出逢いを望まない彼には全く朗報なことに、俺たちの出逢いの真実としては、そう…――十二年前の俺の「夢の中」というのを抜きにしても――十一年前の「あの日」、…あの日こそが現実で俺たちが初めて出逢った日、それこそが俺たちの「出逢いの真実」である。    ただし――何よりの問題は、今から俺が語ろうとしているその「真実」を、ユンファさんが信じてくれるか否かということである。  ……今のユンファさんでは到底信じてくれやしないだろうと俺は先ほども憂慮していたが、しかし――その真実が彼にとっての朗報ならばひょっとすると、彼は少なくとも十一年前のあの日のことは案外信じてくれるかもわからない。    半々の可能性といったところだが、とまれかくまれ、それの丁半は俺が(さい)を投げてみないことにはいつまでも明らかにならない。  ……投げてみようか。   「……ええ…、……」    俺の言葉を信じてくれるか、という俺の問いかけに、ユンファさんは自信なさげにもそう答えた。  ……俺はユンファさんの顔の前、まくらに添えられている彼の片手をやさしく取り、鷹揚(おうよう)に俺のほうへその男らしい大きさのある手のひらを向けさせる。――そして眺めている彼の生白い手首に四本指の爪の腹をあて、彼のゆるやかに曲がっている手のひらをその四つの爪のはらで撫で上げながら、その人の長い指のゆるい曲折(きょくせつ)を伸ばしてゆき――そうしておもむろに二人の手のひらを、ぴったりと合わせた。   「…ふふ…綺麗な手…――だけれどどうやら…俺の手の方が、少しだけ大きくなったようですね…。……」    あの日の十三歳の俺の片手をすっぽりと包み隠してしまったユンファさんの手――あれから十一年の時を経て二十四歳ともなった俺の手は、せいぜい指先一、二センチばかりのことではあるにしても、彼の手よりも少しだけ大きくなっていた。   「……、……」    この暗がりにも多少は目が慣れてきているのだろう、ユンファさんは自分の爪の先から少しはみ出した俺の指先をじっと見つめている。ただはっきりと見えているというわけでもなさそうだが。  ……俺は手のひらを合わせているユンファさんの片手を、両手でそっとやさしく包み込んだ。彼の手は冷たい。今や脂肪がほとんどない彼の手は、やわらかいみずみずしい皮膚の下にある骨の形が触れただけでもよくわかる。感触も骨っぽく硬く角ばり、また筋っぽい。    あの日とは違って、今のユンファさんの手は、まるで長い闘病生活を終えた死人のような悲しい手だ。  ――そしてあの日とは違って、…俺の手のほうも随分と大きくたくましくなり、今では彼のこの男らしい手をもこの両手ですっぽりと包み込めてしまう。   「……こうすると…、俺は貴方に“本当の恋”をした日のことを思い出します……」    と俺はそれでも探り探りに語る。  端から「十一年前に出逢った」と真実の明言をしてしまうことには、さすがの俺でもいささかの気後れがある。そんな事実などなかった、とユンファさんにきっぱりと思われる、言われてしまうのは怖い――だから、ユンファさんの様子を見ながら少しずつ明かしてゆくつもりだ。   「……、…」    なおユンファさんはまるであの日の十三歳の俺のように、俺の両手に包み込まれた自分の片手を虚ろな眼差しで見下ろしている。――なおその人の瞳がいま虚ろになっているその理由は、今は怯えているとかなんだとかではなく、およそ単純にこの暗がりでは俺たちの手がぼんやりとしか見えていないせいである。…現に彼は今は何も考えていない。  まずはただ俺の言葉を――俺に要は「信じてほしい」と言われた俺の言葉を――今は何らジャッジせず、ただ聞きおいていてくれているのである。   「…ふふ…、…こうして俺に手を握られたところで、貴方はきっと…別に嬉しくも何ともないのでしょう…?」   「……、…え…?」    ユンファさんがふと目を上げて俺の目を見る。  今俺の目は青白く発光しているために、俺の目ばかりは彼もまともに見られる。――彼は「そんな…」と俺のセリフを否定しかかった。    彼の澄んだ紫の瞳に追憶の影はない。  ……やはり、どうやらユンファさんは十一年前のあの日のことは覚えていない。当然だろうが――まさか十一年前、十三歳の俺の片手をこうして自分が包み込んできたばかりか、そのさいに自分が今の俺と同じようなセリフを言ったことなど、どうも彼はまるで覚えていないらしい。   「…貴方は“あの日”のことを覚えてらっしゃらないのですね。…ふふふ…忘れてしまわれるだなんて酷いな……」   「……、…あ、あの…ほ、本当に…それ、僕…でしたか…? 人違いじゃ……」    とユンファさんはもはやちっとも思い当たる記憶がないために、あるいは俺が人違いをしているのではないかと、そう訝っている。――『というか』と彼のうろたえた紫の瞳がいう。『さっきと話が違う、ような……?』  当然である。先ほど俺が彼にした話など所詮嘘なのだから。   「おやおや…――まさか俺が、酷い勘違いをしているとでも…?」    俺はユンファさんをからかうように細めた両目を、ふと自分の両手が包みこむ彼の片手に下げる。  ……貴方はあのとき、“「…でも君は、きっと…僕が思うに君はきっと、()()()()()()()()()()()()()()だけだ。今は変にドキドキしてるんだろ? 僕がなぜか魅力的に見えるんだろ。――でもそれは…()()()()()()()()。」”と言って、十三歳の俺の恋心なんてまともに取り合ってはくれなかった。   「…この恋心は一時(ひととき)の狂おしい気の迷い…、このときめきは貴方の桃の(かお)りに惑わされたが(ゆえ)の、血迷った悲しき迷妄(めいもう)だ…――俺の貴方への恋心は、決して“本当の恋”などではない……」    そう……貴方はあの日、俺にそう言ってきた。  ――しかしあの日の俺は、いや、俺は今もなお、ずっと貴方に言ってやりたかった。   「…その実俺は…、“あの日”貴方に自分の本当の気持ちを伝えなかったことを、ずっと後悔していたのです…。…ずっと、ずっと後悔していた…――俺は今改めて、どうしても貴方に伝えたいことがある…、……」    つー…とおもむろに青白く発光する瞳を上げた俺は、初恋の美男子の息を呑んだ大きな紫の瞳をじっと見つめる。     「“嬉しかった”」     「……、……え…?」    しかしユンファさんが拍子抜けして目を丸くする。  どうも彼の目をみつめる俺の両目は真剣なあまり鋭くなっているようなのだが、その獲物に目を凝らす獣のような俺の鋭い眼光に両目を射抜かれながら「嬉しかった」と穏やかなほど好意的なメッセージを伝えられた彼は、今そうして肩すかしを食らったように思えたのである。  ……しかしそれはまた俺の想いを(あなど)っている。    事実俺は、ともするとあの日のユンファさんにやや怒りさえ覚えているといってもよいのかもしれない。  それだから彼の拍子抜けした無垢な紫の瞳をじっと凝視する俺の目は強ばり、そしてこう言葉を続ける俺の声はまるで彼に自分の悔しさを押し付けるような、多少の恨みがましい低音を帯びている。   「…“嬉しかった”…――今も貴方の手に触れられてとても嬉しいけれど、俺は“あの日”からずっと貴方にそう言いたかった。――貴方の両手が俺の手を包み込んだそのとき、俺はとても嬉しかった。…恋をした人のその美しい手に触れてもらえた喜びは、俺の小さな心臓を生き生きと(よろこ)ばせました。…」    僕は、貴方の両手が僕の手に触れてくれたこと、僕の小さな手を貴方の綺麗な両手が包み込んでくれたことが――本当に嬉しかった。  ……それなのに貴方は、“「こうやって僕に手を握られても、別に嬉しくないだろ? きっとドキドキはしても、嬉しくはないはずだ。」”と僕に言って、僕の気持ちを勝手に決めつけた。   「……嬉しかった、本当に……本当に嬉しかった…、とてもとても嬉しい、嬉しくって嬉しくって堪らない、僕は貴方の綺麗なこの手にまで恋をしてしまった……」   「……、…」    俺の両目がかける圧力に耐えきれなくなったユンファさんが、その紫の明眸(めいぼう)をふと伏せる。――しかし俺のほうはその人のその長い艶美な黒まつ毛を見つめながら、なかば泣きそうなふるえた吐息の含まれた声で続ける。   「貴方は僕のことなんか、ちっともその美しい瞳に映してはくれなかったけれど……僕は貴方に、“本当の恋”をしたのです。…勘違いだとか今だけの気持ちだとか、そんなはずはありません。…」  “本当の恋”じゃない――?    仮にもあの日俺がこの美男子にした初恋が、単に多感な少年の勘違いだとか、あるいは彼が言ったとおりその人の官能的な桃の薫りに一時的に惑わされていただけだと、つまり“本当の恋”ではなかったのだというのならば――俺は十一年の時を経たのちの今にこうして、貴方に会いに来ることはなかった。       「貴方への僕のこの気持ちは、間違いなく――“本当の恋”です。」          ぼくはずっと――あなたにこう言いたかった。          

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