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俺はつい先ほど決めたのだった。
「――俺は今夜、ユンファさんを抱かない。」
……と俺は先ほどの己れのセリフを繰り返してから、クックッと喉を鳴らして笑う。
「んふふっ…これのこと…? しかし、俺はすぐその言葉にこう付け加えましたでしょう……?」
といって何も俺だって、今夜無条件的にユンファさんを「抱かない」と言ったわけではない。
「貴方が俺のものに…、すなわち俺の夫…――ないしは、まあ少なくとも恋人…――になってくださるまでは、俺は貴方を抱かない。とね……」
――俺は先ほどあの暗闇の中で、ユンファさんにまずこう言った。
『ユンファさん…、ところでお願いがあるのです。…どうか俺に……――チャンスを下さい。』
『……え…、チャ…ンス……?』
ユンファさんは俺の青白く光る両目を見上げ、弱々しい顔でそう聞き返した。俺は『そう』と決意の揺らがない声で答える。
『チャンスです。チャンス…――俺はその実、これでも貴方を得ることに命を懸けているのです。本当だ。』
『……は…』
ユンファさんはほとんど唖然 とした。その表情にうかんだ程度こそ少ないものではあったが。
しかし俺は構わずにつづけた。
『俺は在りし日にユンファさんに一目惚れをした…、そしてその日からずっと、俺は貴方だけが欲しかった。…俺は貴方に恋をしたのです。貴方を、愛しているのです。心からね…――ともなれば、無論俺はこれまで貴方の肉体の上にも、並々ならぬ憧れと願望を募 らせてきた…。貴方のことは抱きたい…。寧 ろ抱きたくて抱きたくて堪 らない…、それこそ本当は、喉から手が出るほどに貴方の肉体も欲しい…――愛する貴方のことを、こんなにも美しい貴方を、憧れてやまない貴方という人の麗 しい肉体を、俺が抱きたくないはずがない…――だが……』
この気持ちが単なる肉欲というだけのことであったのなら、俺は自らの欲望の成れの果てを、貴方の白い背中になすり付けるようなことはしなかったはず…――貴方の白い背中が鮮やかな赤、青、緑の細かいモザイクにぼやけて、俺はとても虚しかった。
――現実の貴方のそのなまめかしい白い背中に射精をしたら、決してそのような邪魔臭いモザイクなど浮かばないというのに……。
肉と心…俺の男の肉 がそれで満たされて清々するのならよかったが、どうもそうはいかない。
沈痛、鎮痛、沈静、鎮静を装う俺の心と体を乱すのは、淫魔のように俺を誘うその白いしなやかな肉体であったが、精神の乱れを正すためにという建て前も十分にその蠱惑 的な肉体を夢で征服しようと、貴方の幻惑は少しするとまた俺の元へ、その夢の白く美しい肉体をともなってやってきた。
そうして何度殺しても殺しても、俺の肉 は死に絶えなかった。――俺はそのたび、何度貴方を心頭滅却の思いで犯したか知れない。
これは全く貴方のせいだ――だけれど、なぜ貴方以外の淫魔が俺の元へ訪れなかったのか?
それは至って単純な理由である。
俺がただ月下 ・夜伽 ・曇華 という美男子のみを渇愛しているからだ。
たとえその美男子の艶姿 に一時的なエロスが満たされたところで、俺の心はその美男子のアガペーを渇望しているままだったからである。
俺は貴方の肉体を精神で求めていた。
そして俺は肉体で貴方の精神を求めていた。
――今も、なお……ね。
俺はやっと自分の本心を知ったのだった。
俺はなぜここまでに訪れた幾度かの、夢にまで見たチャンスを棒に振り、この夢の美男子を抱かなかったのか――。
それは――俺 の 心 が あ た か も 聡 明 で あ っ た か ら だ。
本懐たるはその美男子とのセックスではない。
その麗しい月の美男子…――月下 ・夜伽 ・曇華 のすべてを手に入れること、である。
チャンスがどうのと言い出す前、俺はふとそのことに思いいたった。
そもそも今しがたも彼を抱くチャンスはあった。
それも言ってしまえば、あれは俺がユンファさんを妊娠させられるかもしれないチャンス――もっといえば、それによって彼と結婚できるかもしれないチャンスであった。
それこそ我ながら下衆 な話、あれではいはいとユンファさんを抱き、彼に腟内射精をし…――そこまでくればもうこちらのもの、「かもしれない」であったとしても、俺はそれだけできっと彼を夫にできた。
なぜかといえば、俺が九条 ・玉 ・松樹 だからである。
その俺が「危険日」のオメガであるユンファさんの膣内に射精した――その事実だけで十分、なぜなら彼のお腹には「九条ヲク家の大事な跡取り」が宿っているかもしれないから…――そこまでくれば、あとはああだこうだとそれらしい理由付けをもって彼を言いくるめ(あるいは煙 に巻き)、そうして結婚を押し切ってしまうのなんか訳ないことなのである。
だが俺はそれをしなかった。
そして今もしようとは思っていない。
なぜなら、俺はユンファさんの「全て」――その人の愛を含めた「全て」――が欲しいからである。
……ま あ 最 悪 そ れ は 最 終 手 段 と し て 取 っ て お く と し て も ……――少なくとも今は、真っ向からユンファさんを「愛そう」と、正攻法で彼のすべてを手に入れてみせようと、俺はそうして己 れ の 純 情 に か け て 決心したのであった。
『ここで本懐を見誤ってしまっては、およそ一生の後悔にもなり得る…――そして俺のその本懐とはそう…言うまでもなく、ユンファさん…――貴方を手に入れることだ。…すなわち貴方と結婚をすること…――俺が欲しいのは、まさにそのチャンスです。』
俺はそう言ってから、この暗闇から彼ともうそろそろ出るべく、どこかにやったはずの仮面を探した。そうしてあちこちを見渡しながら、こう声ばかりは低く引き締めてつづけた。
『つまり、貴方が俺との結婚を承諾してくださる…――ないしは、俺と結婚を見据えた恋人関係になってくださる…、尤もそれに関しては〝少なくとも〟というべきですが…、とにかく、その俺の長年の夢を叶えるための…――チャンスですよ。俺が貴方に与えていただきたいのは、そうしたチャンスなのです。……』
やっと見つけた。
……俺はその仮面を手に取り、自分の顔にかぶせた。――そしてこのベッドを暗闇にしているカーテンを開け、先にまぶしいほど明るい外へ出た。
そして背後、白いシーツやかけ布団のみだれたベッドの上で片肘をつき、なかば起こした上半身を俺へ向けているユンファさんへ、顔だけで振り向き、その人の困惑顔を横目にじっと鋭く見つめた。
『断っておきますが、俺は本気ですよ。――俺の一番に叶えたいその夢は、貴方ほどの麗人との刹那的かつ享楽的なワンナイト、それによる余りにも贅沢な快楽や、風俗店のNo.1キャスト、かつ絶美の容姿と精神を持つ貴方から手篤 いサービスを受けられるという、そのいたれりつくせりの満足感さえも到底及ばない…――それこそは俺の人生をもがらりと変える、至上の幸福を齎 す……』
俺は長いこと貴方を渇愛していた…――我が信奉を捧げる神の三位一体、我が神の肉体 が、我が神の精神 が、我が神の魂 が、俺は、俺の唯一神たる月下 ・夜伽 ・曇華 のすべてが欲しいのだ。
『いいえ…寧ろその夢をさえ叶えられれば、貴方の肉体とても俺だけのものになるのですから…。んっふふふ……――ですから俺、決めたのです。』
『……、…』
ユンファさんの白い切れ長のまぶたがもろく震えている。――俺の言葉が撃たれた彼の紫の瞳は、危うい儚げな振動が生まれ、じわりと潤んで光を孕む。
『――俺は今夜、ユンファさんを抱かない。』
それから俺は体ごといまだベッドの上にいるユンファさんへ振り向き、仮面の下で微笑しながら小首をかしげた。
『……とはいえ、少なくとも俺がそのチャンスを掴むまでは…――貴方が俺に、〝YES〟と仰言ってくださるまでは…、ね……?』
『……、…』
するとユンファさんは驚きなかばにも眉を顰 め、俺のことを険しい切れ長の目で凝視した。『信じられない』というのである。『馬鹿らしい』というのである。『有り得ない』というのである…――。
「…ふっ…ふふふ…――。」
確かに…――俺は、なかなかの馬鹿だ。
俺は星のきらめく天井にカクテルグラスをかかげ、それの中の薄紫色のカクテルをかるく揺らしてみる。
やはり俺というのは、どうも初恋の美男子の前であると、やたら直情型の男になってしまうようだ。
当初の目的にそ れ はなかったどころか、俺は此処にきた本来の目的を果たす――検体採取、そして体の相性を確かめる――チャンスまでもを自ら棒に振ろうとしている。
だがまあいい。――それも致し方がないことだ。
十一年前のあの日、俺の心臓に金の矢を打ったきり俺にsaudade を与え続けてきた初恋の人――月下 ・夜伽 ・曇華 という神秘的な美青年とこうして接しておきながら、一体どうして俺が直情的にならないで済むというのか?
神の前では所詮俺も人間である。
ましてや、この俺にとっての唯一無二の神を手に入れられるかもしれないチャンスを前に、俺が傲慢で貪婪 な男にならぬほうがどうかしている。我ながら…――。
「……、……」
それに…――そもそも検体採取をしたいのだって、要はユンファさんを手に入れるための材料として、であるし……体の相性? 確かな運命で結ばれている俺たちのそれが悪いはずがない。
要するにこれで彼から「YES」さえもらえれば、検体採取だって二の次でいい。体の相性がどうのだって、――そもそも悪いはずはないが――そのうち必ずわかる。――その本懐さえ遂げられれば万事よいわけである。
「あ、あの…ですが僕……」
「……ん…?」
横目に見やると、ユンファさんは隣の俺にその美しい顔を向けてくれてはいるが、真剣なあまり冷ややかな眼差しで俺を見、そして、力みすぎてたどたどしくこう言うのである。
「…あ、貴方に、…この、このお部屋の料金もそっそうですが、――貴方に、…僕は、…っ言うなれば僕は、僕は貴方に買われたんです、…体を、…体を買われたんです、…貴方は僕の体を買ったんです、それも決してお安くないお代金を頂いて、…それなのに、」
「いいえ。」
と俺は横目に見ていた彼のその顔から、またいささかにごりを帯びた薄紫色のカクテルへ目を転じ、それを恍惚と見上げる。
「俺が買ったものは貴方の肉体ではありません…。…そもそも、それでは法外な人身売買となってしまいますしね……」
「そ、それは……でも、少なくとも貴方は僕のその、…に、肉体的な…といいますか、その、貴方はふ、風俗店のキャストを……ぼ、僕は、仕事をしなければ…、ぼ、僕、…僕、そのために此処に、…そのつもりで、此処に……」
「ええまあ、そうでしょうね。…しかし、そんなことはもうどうでもよいではないですか。…」
そもそも俺のほうは、はなから風俗店のキャストと単に遊びたくてここへ来たわけではない。――その風俗店にキャストとして勤めている、初恋の美男子を手に入れるためにここへ来たのである。
細かくいえばそれの準備のために、ではあるけれど。元は。
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