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「命令だユンファ…――さあ、お舐めなさい……」  俺は自分の両ももの上にまたがっているユンファさんの、その痩せた生白い両頬を手のひらでつつみ込み、また彼のそのほとんど恍惚とした群青色の瞳を見つめながら、命令らしい(おごそ)かな低い声で彼にそう命じた。 「…はい…」とユンファさんは凍りついた微笑を浮かべる。 「貴方様のどこをでも…いつまでも…――やめてよしとのご命令を頂けるまで、心を込めて舐め続けさせていただきます……」 「……そう…いい子だ…。…それでは、舐めていただきましょうか…――?」  俺はこの両目を細めて微笑する。 「――カクテルを、ね」 「……、…え……?」  するとユンファさんはたちまち正気に戻り、目を(みは)る。 「んっふふふ…、貴方は何でもしてくださるんでしょう……?」 「……、…え、ぁ、あの、命令って……」 「ええですから、」と俺は驚いているユンファさんに、小首をかしげて見せる。 「俺からの命令はこうです。〝カクテルを舐めろ〟――それを言い換えれば、〝一杯俺に付き合ってくれ〟…ということですよ。」  ()()()というだろう? カクテルも。 「……、…、…」  ユンファさんは唖然としながら、そのチラチラと揺れる薄い(あお)の瞳で、何か理解しがたい奇妙なものでも見ているかのような、いささか疑わしげな目つきで俺の両目を眺めている。  まさか先ほど「抱かない」と宣言したばかりの俺が、自分の体のいずこかを舐めろ…だなどと命令するとでも? ――そもそも俺は今ユンファさんとデートをしているのだし、そういった「()un and ()oonプレイ」は、少なくともこの今の甘美であるべきシチュエーションにはまるでふさわしくない。  あぁしかし、…と俺はユンファさんに人さし指を立てて見せる。 「…だけれど…すみません、もう少し命令を付け加えても…?」 「……へ…、ぁ、は、はい…どう、ぞ……?」  するとユンファさんは怪訝な面もちで動揺しながらも、そうコクコクと浅くうなずいてくれた。ので、俺は更にこう「命令」を付け加える。 「恐れ入ります。…それでは…――〝フルーツやナッツもお食べなさい。お水もきちんと飲むように〟…――〝なおこのスイートルームにある飲食物も、食べられる限り食べ、飲んでよいものとする〟……」 「……は、はあ……」  とユンファさんはやはり疑わしそうに表情をくもらせ、顎を引きながらふとその長いまつ毛を伏せる。 「……、あの…そ、それが…ご命令、なんですか……?」 「ええいかにも。…これは貴方が必ず従わねばならない、俺からの命令だ。――勿論従えますね。」 「………は、はい…、えっと…あの…はい…、ご、ご命令と、あらば…――。」  すると目を伏せたまま、こうしてユンファさんはコクンと首を縦にふる他はなかった。  やはり――「性」奴隷としては――腑に落ちないようではあるものの、といっていずれにせよ「命令」と言われてしまえば、彼は自分はそれに従う以外の選択権を有してはいないのだから、と思うようになってしまっているのである。    ×××  さて俺たちの前、その焚き火のやわらかなゆらぐ灯火が幻想的に照らしている木製のローテーブルの上には、水色と薄紫色のカクテルが一杯ずつ、それとそのグラスの木かげそれぞれにミックスナッツの小袋、さらにカクテルとカクテルのあいだには、フルーツ盛り合わせの大皿が置かれている。  その白い円形の皿の中央、華やかに飾りつけられている赤いいちごとさくらんぼ、そして黒っぽいブルーベリーまでは果実丸ごとのすがたであるが、その他のメロン、パイナップル、マンゴー、びわ(種が抜かれ半分にカットされている)、オレンジは食べやすいよう一口大にカットされている。――そしてそれらには粉雪のような粉糖がまぶされ、さらにあちこちに散らされたミントの緑が美しく、また中央に盛られた色とりどりのフルーツを囲うように(えが)かれている赤いフルーツソースは、その円の終着点である下部でリボンのような蝶結び――するとこれは、まるで皿の上に平たく盛られた春の花束のようである。 「……、…」  俺の隣でどこか肩身せまそうに膝をそろえ、小さくなって座っているユンファさんは、しかしそのフルーツを渇望の眼差しで見下ろしている。  ……当然であろう。――この頃の彼はろくなものを口にできていない。  今のユンファさんの日常――調教風景――を映しだした例の動画をみる限り、彼がここ最近で口にできているものといえば、あのノダガワ(オス豚)共が食いのこした汚らしい残飯と精液、それも、それだってまともな形では食べられていない。  床に置かれた犬用の(えさ)皿から四つんばいになって直食い、それもそのさなかに犯され、(ののし)られ、嘲笑(ちょうしょう)され、後ろ頭を踏みつけられ、――思い出すだけで息苦しくなってくる。  ……しかしあの動画の中の彼の目つきにせよ、今の彼のこの目つきにせよ…――あれというのが動画撮影のためのパフォーマンスなのであればまだよかったが、…どうもあの悲惨な食事風景…いや、もはやそれとも言えないあれこそ、今の彼の日常であるようなのだ。  たとえどれほどむごたらしいことを強いられ、どれほど悪辣な状況下におかれ、またどれほど酷いものを「お前の餌だ」と差し出されようとも…――動画の中のユンファさんは、その餌皿のなかのものにゴクンと喉を鳴らし、それをじっと渇望の眼差しで凝視する。  それを得られるためならば、――生きるためならば、――彼は何でもするのだ。  いつか必ずお前ら全員まとめて養豚場にでも送り込んで同じ目に合わせてやる……いや、  となれば当然、栄養だって足りていない。  一応日に三度とはいえ、いずれも成人男性の一食分にも満たないノダガワ共の残飯のみ――それどころか、酷ければ精液のみ――では、あきらかに今のユンファさんは栄養失調状態であるはずだろう。  ……すると、本当であればもっとカロリーが高いもの、栄養豊富かつ美味な、あたたかい料理を食べさせてあげたいところではあるのだが…――それこそ俺は当初はそのつもりではあったのだが…――今夜ばかりは、非常に悔しいが、これが限界である。  あわよくばこのまま連れ帰りたい…とはいえ、そうできなかった場合を考えれば、本当に、本当に悔しくてたまらないが、これが今の俺にできる精いっぱいなのである。 「……、…」  ユンファさんはぼーっと輝かしい色とりどりのフルーツをながめ下ろしながら、ゴクンと喉を鳴らす。  可哀想に、お腹が空いているのだろう。食べたいのだろう。  しかし彼の両手は、自分の黒スラックスの、その閉ざされた細長い両もものうえから微動だにしない。――それは並大抵の遠慮ではない。  ノダガワの家に戻ったなり「チェック」される――吐かされる――以前に、もはやユンファさんの精神には、あのケグリの命令が染み付いてしまっている。…要するにおよそ今の彼には、自分自身の意思での飲食はできない。  たとえば「食え」と命じられれば、ユンファさんはどんなものでも食うが、逆に「食うな」と命じられれば、彼は餓死するまで何も食わない――というか、食えなくなっている。  それはケグリなどの命令なしの飲食をすれば(あるいは飲食を拒絶すれば)、そのたび必ず彼は「お仕置き」をされてきたためである。――すなわち彼の精神には、「自分の意思決定での飲食は悪いことだ」という、異常な悲しい固定観念が染み付いてしまっている。  ……ために俺は先ほど、苦肉の策で「フルーツなどを食え」と彼に命令するほかなかったのだ。  それも、彼はケグリから離れられたのちも、およそしばらくはあの男のかけた精神の呪縛に苦しめられることだろう。――といって、無論いつまでも(俺、ないしは誰かの)命令ありきで食事をしてもらうわけにはいかないが、そうした抜本的な治療および問題解決は、少なくとも今夜中になせる(わざ)ではない。  ――今はこうするしかないのである。 「……、…」  仮面の下、俺の眉がひそめられる。  その横顔を見ていると、俺は切なくなる以上に憤りをさえ覚えてしまうのだ。――だが、それでユンファさんを怯えさせてしまわないようにと、声をやわらげて彼に微笑みかける。 「どうぞご安心くださいね。――たとえ貴方がこのフルーツやナッツの全てを平らげてくださったとしても、貴方のご主人様に、そのことがバレてしまうことはありませんから。」 「……、…え……?」  ぼんやりとしていたユンファさんがはたと我に返り、そう俺に弱々しい顔を向けてくる。  俺は彼を見る両目で微笑しながら、優しい声をつくってこう説明する。 「フルーツは消化吸収が非常に速いのです。またアルコールとはいえ、カクテルも飲み物ですから消化は速い…、ナッツもこの二袋の量なら、消化にはカクテルと同等の時間しか要しないことでしょう。――そうですね…、まあ遅くとも二時間後にはもう、貴方の胃の中は何も残っていない状態になるはずです。――つまり、貴方が此処で俺と過ごしているうちに口にしたものは、夢のように無かったことになる……ということですよ。」  そう…しかししっかりとした料理ともなるとやはり四、五時間消化に要する以上、俺は消化吸収の速いフルーツを頼む他にはなかったのだ。 「とはいえ…」と俺はフルーツの皿を見下ろす。 「フルーツはビタミンや炭水化物など、わけても栄養豊富な食べ物です。――それに…サービスでつけていただけてこれは全く僥倖(ぎょうこう)なことでしたが、ナッツにおいても良質な脂と多少のたんぱく質、ミネラルなども()れますから。――いや、何よりこれらは、貴方のお口にも癒やしを与えてくれることでしょう。…つまり美味しいのです。…甘くてね…――ですからどうぞ、是非遠慮なく召し上がって。」 「……あの、いいえ…でも…」  とユンファさんはささやくようなか細い声で言う。  ふとまた隣を見ると、深くうつむいている彼は、真っ青な顔をして怯えきっている。 「ごめんなさ…、ごめんなさい…――ごめ…なさ……いいえ…――もったいな…、僕…僕のような奴隷には…」 「命令です。…お食べなさい。」  言いたくはないが、…こう言うしかないのだ。  するとユンファさんはビクッと体を跳ねさせ、ガタガタと(ふる)えながら肩をすくめると、口の中で、「本当に、いいんですか…いいんですか…」と声もなくぶつぶつ繰り返している。 「勿論――きちんとそこにお座りになったまま、フォークで召し上がってください。勿論お好きなだけね。……」  俺はこれらと共に運ばれてきていた、ベージュの細長いかご――カトラリーケース――から銀のフォークを取り出し、それの先に一口大の緑のメロンを突き刺す。  そして「さあ、どうぞ…?」とユンファさんの目の前にそれを差し出す。 「……、…、…」  ユンファさんはゴクンとまた喉を鳴らした。  彼のうつろな群青色の瞳はメロンを見つめ、いや、渇望のあまりそれをしか見られないでいる。は、は、と引き攣った呼気をもらす彼の肉厚なもも色の唇は半開きになり、カタカタと震えている。そして彼の右手は、そのメロンの刺さったフォークを受け取ろうとしている。  ……しかし――ガタガタと痛ましいほどその手は大きく震え、するとその震えのあまり、その銀の柄に触れることすらできないでいる。 「……、…」  やはり――カクテルが必要…かな。  俺の推測では、酔えば多少紛らわされるはずなのだ――その腹の底から込み上げてくる脅迫的罪悪感も、酔えば…おそらくは、…もっとも、もちろんそれだって今夜ばかりの処置にとどまる話だが…――とはいえ…――俺はユンファさんの震えている唇に、そっとメロンをあてがった。 「命令だ。お食べなさい、ユンファ…」  いずれにせよその前に、ある程度なにかしらを胃の中に入れておいてもらわないと、俺の愛する美男子の体のためにならない。  ……ユンファさんは光を失った紺の瞳で、やや下方をうつろに眺めながら、唇をもう少し開いた。俺は優しく彼の口の中にメロンを押し込む。 「……、…、…」 「口を閉ざして…」  しかし口も前歯も閉ざせないでいるユンファさんに、優しくそう声をかける。――それでも彼の震えている唇も前歯も閉ざされない。 「口を…閉じろ、ユンファ…」 「……、…」  それでやっと恐る恐る、しかし機械的に合わさったユンファさんのふくよかな唇に、俺はそっとフォークを引き抜く。  ……これは「命令」が仇となっている。今の彼の心理状態が性奴隷のそれである以上、唇ひとつ、今は命令に従うことしかできないのだろう。  しかし…――。 「ありがとうユンファさん…、どう、美味しい…?」  と俺がともかく微笑みかけると、 「……、…、…」  ユンファさんの曇っていた群青色の瞳が、じわじわと透明感を帯びてゆく。そしていよいよほろ、と彼の片目から、またたく涙の粒がこぼれおちた。 「……、……っ!」  ユンファさんはにわかに歪んだ顔を両手でおおい隠し、腰を丸めて嗚咽しはじめる。 「……ユンファさん…、……」  俺はフォークを彼のほうへ柄を向けて皿にカチャ…と静かに置き、ひ、ひ、と小さく跳ねているその丸まった背中を、やさしく撫でさする。  今のユンファさんにとって、このメロンのさわやかな甘味は、どれほどの救いだったのだろう? 「っは、…、……っは、……ごめんなさ、…」 「……、…」  たかがカットフルーツのメロンである。  いくらここが高級ホテルとはいえ、このメロンにおいては何も高級なそれではなかろう。  およそスーパーでも三百円かそこらで売られているようなメロンである。――そのたかがメロンが、今のユンファさんにとってはとても「たかが」などとは言えない、(あわ)れにも贅沢なほどの「救い」なのである。 「ちょっと失礼しますね…、……」  俺はユンファさんのわきの下を持ち上げながら立ち上がった。彼は抵抗もなく俺とともに立ち上がり、そして、すぐさま俺の二本の(かいな)にその震えた体を抱きしめられる。 「食べられて偉い…。よく口に入れてくれましたね、本当にありがとう……」  ユンファさんの後ろ頭を肩のうえに抱き寄せ、またゆっくりと撫でながら、俺は彼の耳にそう優しくささやく。 「しかし次はそう…そのメロンをゆっくりと噛んで…、それから…飲み込んでみましょうか……?」 「……、…、…」  ユンファさんはコクコクとむせび泣きながらうなずく。――泣いていては咀嚼するのも大変だろうが、そうはいっても、口内にメロンの塊を入れたまま、というのも苦しいだろう。――しかし彼は「は、…」と苦しそうに喘ぎつつも、なんとか咀嚼してくれている。 「そう…上手です、いい子だ…」  と褒めながら彼の後ろ髪を撫でていると、次第に俺の目にも思わぬ涙が上ってくる。――奥歯を噛みしめると、うなじがツーンと痛んでくるのを感じる。 「……、…」  咀嚼をしてくれて嬉しい。ユンファさんは飲み込もうとしてくれている。生きようとしてくれている。嬉しい。――嬉しいが、…あんまりだろう、…こんなのはあんまりだ、――ひと欠片のメロンを食べるのでさえこんなに苦労して、……ゴクン、とその音を聞く。  ……俺は震えたため息を鼻からもらした。 「……飲み込めましたね…? すごく偉いよ…――ユンファさん…涙が治まってからで構いませんから、乾杯の前に、いくらか俺と一緒に食べましょう。……わかりましたか。」 「……、…それは、…ご命令…ですか、…」 「……、…」  違うよ…――俺は喉もとまでこみ上げてきたその言葉をそっと呑み込んだ。 「はい。命令です…」 「……かしこまり…ました、…」  するとユンファさんはコクンとうなずく。 「そう…、いい子だ……、……」  ……いずれはこんな命令などなしにも、お腹が空いたら食べる――自分が食べたいから食べる――、この俺がその正常な自然の状態に戻してあげよう。  それもまた、俺がユンファさんの夫として、愛をもって取り組むべき使命のうちのひとつである。  まあマインド・コントロールとはなかなか根深いものである。――時間はかかることだろうが、何十年かかろうが問題はない。俺はその点でいえば根気強いほうだ。 「……さあ、次は何がいいかな…――。」  俺はふとローテーブルの上、フルーツの皿を見下ろした。

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