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俺たちはまたソファに二人並んで座り直した。
あのあと幸いなことに、ユンファさんは大皿のフルーツを半分と少しの量――しかしゆっくりと、またしばしば罪悪感に苛 まれながら、ほろほろと涙をこぼしながらではあったが――体内におさめてくれた。
……すると俺が頼んだこのカクテルは用無しかもしれなかった。――いや、かえって今の栄養失調状態のユンファさんには、いくらこのカクテルグラス一杯の少ない量とはいえど、下手にアルコールを摂取させないほうがよいかもしれない。
しかし…――。
ユンファさんは白いカッターシャツの袖口 、その手首の側面あたりでぐっと濡れた目もとをぬぐうと、いまだ潤んでいる澄明な薄紫色の瞳で俺を見て、その――赤いいちごのせいか、はたまた多少なり栄養を摂れたからなのか――ほんのりと幾分か赤味のさした肉厚な唇の、その両端をわずかに上げた。
しかし彼の黒い研ぎ澄まされたような眉は、その眉尻が申し訳なさそうに下がっている。
「…あの…、違ったら…、思い上がっておりましたら、ごめんなさい…――も、もしかして…ご命令、とはいえ…――僕の、ために……?」
「…ふふ…仰言る通り。――全ては愛するユンファさんのために。」
「……、…」
ユンファさんはその濡れたつやのある長い黒いまつ毛をそっと伏せ、そのまつ毛の下の蒼い瞳をまたじわりと透明な――美しいガラスのような――涙の膜でおおわせながら、
「ぁ、ありがとう、…ございます、…ごめんなさい…こんなに、優しく…――とても…僕なんかには、…とても勿体 ない……」
「いいえ…」――俺は彼の隙間なくあわさった黒スラックスの両ももの上、片手の指先をもう片方の手でにぎっているその人の、その青白い両手にそっと手のひらをかぶせ、やや彼のほうに前のめりになって真剣にこう言う。
「寧ろし足りません。…所詮この程度のことしか出来ず、俺は今大変歯 痒 く思っております…――ユンファさんは本来、俺のみならず、誰しもから崇 め奉 られて当然の、最上級の扱いを受けられて然 るべきお人なのですから…――しかし…、今夜ばかりはどうか…どうかこの程度でご容赦ください……」
「……、…? あ、崇め…? ふふ、…」
しかしユンファさんは、その極小の涙のしずくが宿る濡れたまつ毛を伏せたまま、――俺の「崇め奉る」がオーバーも過ぎると思われたばかりに、いっそ冗談と聞こえてしまったようで――少し笑いながら顔をおもむろに横に振り、またその拍子にほろ、と片目から涙をこぼした。
つー…とその涙は、彼のほんのりと紅潮している片頬をつたい落ちてゆく。
「そんな…そんな、…ふふふ…とんでもない、そんな…ことは…、決して……」
「……、…」
クスクスと上品に笑うユンファさんの、その涙を流しながらの儚げな微笑みは、俺が思いがけず戦慄 するほど大そう美しかった。
見惚れてしまう…――すると俺の喉もとには「何とお美しい」との「形容」が上ってきたはものの、しかし、それは今彼の思い込まされている「僕は不細工だ」という傷を刺激してしまうと即座飲みくだされ、――せっかく笑ってくださっているのだから…――その代わりに俺は、彼のその濡れた片頬を手のひらで包み込んだ。
しっとりとあたたかい。そして軽い力でこちらを向かせ、その頬の涙を親指の腹でやさしく拭う。
すると彼は潤沢な薄紫色の瞳で俺を見、…それもその切れ長の目を切なげなほどぽうっとさせて、俺の目を見つめてくる。
「……、…」
「ふふ…、……俺に惚れてくださったのですね…? となれば勿論……」
結婚。……あるいは…まあ……ひとまず、とりあえず、さしあたり、当座、…恋人…でもいいけれど…――しかしユンファさんは俺の「それ」を(危機感をもって)察し、ふと目を伏せて「あ…」と話を変える。
「あの、か…カクテル…、あの…、の、飲んでも……」
「ええ…それは勿論……」
俺はすぐさま頷いたが…またかわされてしまった。――なかなか厳しいね。
それにしても、――話を変えるに都合がよかったとはいえ――まさかユンファさんのほうから「カクテルを飲んでもよいか」と言い出してくださるとは、夢にも思っていなかった。
「だけれど、無理には…」
「…あぁいえ…あの…僕…お、お酒…これでも、好きなんです…。で、ですから…お許し、いただけるようであれば……」
と隣の俺に顔を向け、どこか怯えつつも微笑し、そう言ったユンファさんの言葉に嘘はなかった。が――彼のそのあわい紫の瞳を見たところ――もっとも彼は、何も自分がそのカクテルを飲みたかったわけではない。
彼の目には、俺が(命令をしてまで)どうしても自分と一緒にカクテルを楽しみたい、どうしてもそれを自分に飲んでほしいというように見えた(もちろんそれは遠からずな推察である)。
ために――ここまで幾度となく自分に優しくしてくれた俺への恩義から――正直自分なんかにはカクテルなどもったいないほど贅沢なものだが、といってこれでその俺の誘いに応じないのは無礼だ、と彼は考えたのである。
あとは何より話を変えたかった。俺(のプロポーズ)から逃げるためである。
……しかしまあ動機はともかく、俺はそれが嬉しかった。この両目でユンファさんに微笑みかけながら、こう答える。
「俺が許すも何も…それはユンファさんのために頼んだものですから、どうぞご自由に…――しかし、俺としては勿論、貴方とカクテルを楽しめるともなれば大変嬉しいのですが、――といって、フルーツも半分ほどしか召し上がられていないことですし、どうかお願いですから…俺と約束してくださいね。…無理は絶対にしないと、…もしお口に合わなかったり、ご気分が悪くなられるようなら、遠慮なくそれを残すと……」
「……はい…、ぉ、お約束…します…、……」
ユンファさんはその切れ長の目をうっとりと細めて微笑をふかめた。――『彼、どこまで優しい人なんだろう…』――彼の紫が濃くなったタンザナイトの瞳は、仮面をつけた俺の顔を惚れぼれと見つめていた。
×××
さて俺とユンファさんは、各々カクテルグラスの柄 を指でつまんで手に持っている。
透明なマティーニグラス――カクテルといえばの円錐形 に長い脚(柄)をもつカクテルグラス――に注がれているこの二杯のカクテルは、俺の瞳の色とユンファさんの瞳の色とに非常によく似た色をしている。
俺のほうは透明感のある薄紫色のカクテルである。
先ほどはやや濁りを帯びていたこれは、その実この透きとおった状態が真の姿であり、あの濁りは撹拌 のためにシェイカーではげしく振られたため、つまり出来たてゆえの濁りであった。
そしてユンファさんのカクテルも透きとおった水色のものである。
ちなみに、どちらのグラスのフチにも黄色いレモンと真っ赤なチェリーが飾られて――薄い輪切りのレモンを、丸いチェリーが羽織 るような形で、横からピックに串刺しにされて――おり、またその真っ赤に色付けされたチェリーの赤い細い茎は、ぴょこんと上に立ち上がっている。
すると、このレモンとチェリーはさながら雛 人形の男雛 のようだ。レモンという束帯 衣装(着物)を着込んだチェリーの男雛、ぴょこんと立ち上がった茎は男雛の冠 (男雛が冠 っている帽子)の、上に立った立纓 という飾りのようである。
……ただし雛人形とはいえ、カクテルという盃 を前に、女雛の代わりに向かいあって見つめあっているのは二体の男雛――さながら高貴な二人のお内裏 様が挙げた婚礼の儀式、というような様相である。
これは図らずも俺たちにぴったりの飾りだ。
「……、…」
ユンファさんは手に持つその水色のカクテルの水面をしげしげと見下ろし、『これ…何ていうカクテルなんだろう…? すごく綺麗だ…、まるで…』とぼんやり考えたのち、チラリと目を上げて俺の目を見る。
――『まるで…彼の瞳の色のようだ……』
「ふふふ…今夜は、お互いの瞳の色のカクテルを選ばせていただきました。――こうして二人きり、お互いに目を見交わしながら、お互いの瞳と同じ色のカクテルを愉 しむ…――なかなかロマンチックでしょう……?」
と俺はユンファさんに微笑みかけ、「何せデートですからね」と両目を細めた。
ユンファさんは少し目を丸くする。
「……、あ、ええ…、はい、そう…ですね、…とても…すごく…ロマンチック、で……」
そして彼の長いまつ毛はまた伏せられ、南国の海のような清冽 とした水色のカクテルを見下ろし――『言われてみれば…ロマンチック、……なんだろう、な……多分……』と、彼のその紫の濃くなった薄紫色の瞳は言う。…つまり一応同調してくれたはものの、いまいちピンときてはいないようである。
……まあいい。…何はともあれ、俺は自分の手にもつグラスをややユンファさんのほうへ寄せ、
「さあ乾杯しましょうか…――永遠に見つめ合うべき二人の瞳に…――乾杯。」
「あ、…はい、か、乾杯…」
すると慌てて俺の音頭に合わせてくれたユンファさんによって、その二つのグラスのフチがどちらともなくチン…と優しくぶつかり合う。
……そしてユンファさんは、早速その水色のカクテルを口もとに運びかけたが、…俺は「あぁ待って…」とそれの上に手のひらをかざして、一旦とめた。
「ちなみに…その実貴方のそのカクテルには、この悪い魔法使いめがかけた…――悪い悪い〝魔法〟がかかっているのです…。んふふ……」
「……、…え……?」
とユンファさんは目を上げて俺の顔を見、「魔法…?」と小首をかしげる。――俺は手のひらをカクテルの上から退かし、「そう…」
「しかし、そもそもそれ以前に…危ないじゃないですか…――迂闊 に青いカクテルを口にしてはなりませんよ、ユンファさん……?」
「……あ、…あぁそれは…、これでも、存じてはおりますが……」
ふふ…とあまりにも美しく、ユンファさんは俺を見ながら柔らかな微笑をその美貌にたたえる。
……ところが「知っていてもなお」彼は、俺のことをちっとも疑ってなどいないのである。
すなわちユンファさんは、俺がその水色のカクテルにデート・レイプ・ドラッグなど混入させているはずがない、と確信しているのだった。
ちなみになぜ青い酒を迂闊に口にしてはならないか、というと、往々にしてそれに該当する睡眠薬は――少しでも被害者を減らすため、もし混入されてしまっていても見分けがつくようにと――水色に色づけされているためである。
ただ、もちろんそうではない薬もある――それがたとえば危険薬物ともなると、いよいよ見分けのつかない無色透明のものもあるそうだ――が、…いずれにせよ、カクテルのように味の濃い酒はことに警戒してしかるべきなのだ。薬の味がごまかされてしまうためである。
「…ふふ…愛しい貴方の信頼を勝ち得ているようで、俺は大変嬉しく思いますけれど…――まあ実際、それには〝悪い魔法〟こそかけてはいますものの、そういった危険な薬の類 においては誓って入れておりませんし…――しかし、バーなどでは必ずバーテンダーが酒を作っている姿を自分の目で見て確かめ、また、バーテンダーその人から直接受け取ったものをしか口にしてはなりませんよ。」
またこの様子ではユンファさんも知ってはいることだろうが(おそらくツキシタ夫妻がそのあたりの教育をきちんと施しているものと見える)、飲み残したカクテルをカウンターに残したまま席を立つだの、注文し作られているあいだにちょっとお手洗い、だのということもしてはならない。――その隙に何を入れられてしまってもおかしくはないからだ。
「……、…」
ユンファさんは何か嬉しそうに――愛らしく――その薄紫色の瞳を輝かせ、素直にこく、と頷く。
可愛い…俺は――あるいは今後俺が彼を助けたのちに役立つときがくるかもしれない、まあもちろん一人でバーに行かせることはないだろうが、念のため…と――こう続ける。
「それと…近年このヤマトでも、〝エンジェル・ショット〟という暗号を採用しているバーも増えているそうですから…――身の危険を感じたとき、それをバーテンダーに注文をすることで、あたかも酒の注文をしている風に助けを求められる…というシステムです。」
「…へえ……」
ユンファさんはそうなんだ…と感心している。
「ええ。貴方はそれでなくとも、恐ろしいほどにお美しいのですから…どうぞ覚えておいてね。」
「……はは…、……」
しかしユンファさんは眉尻を下げて困ったように笑い、ふとまた水色のカクテルを見下ろす。――『本当に…何て優しい人だろう…、…酔わされて犯されることなんか、いままで幾らでもあった…。正直、その気持ちは泣きそうになるほどありがたいが、そのエンジェル・ショットというのは、ケグリ氏のバーで働かされている性奴隷の僕には、役には立たないものだ…。…だが……』
「…でも、そうやって…僕なんかにも親身になって忠告してくださるような方が…、一体このカクテルに、どんな悪い魔法をかけたというんでしょうか……」
「……そうですね…、ともすれば、薬よりもよほどタチの悪い魔法…かもしれません……」
と俺が含みをもたせて言うと、ユンファさんは無邪気な目をして、微笑みながら俺をまた見る。
「……どんな魔法なんですか…?」
「……ふふふ…、いいえ教えられません。それを先に言ってしまったら、貴方はお飲みになられないかもしれませんから…――そうでしょう、我が愛しの王子様…? 白雪姫とて…悪い魔女に渡されたものが毒林檎と知ってさえいれば、それを齧 るような真似はしなかったことでしょうから……」
「……いいえ…」
しかしユンファさんは手元の澄明な水色のカクテルをまた見下ろしながら、ふと柔らかく微笑する。
「たとえこのカクテルにどんな魔法がかけられていたとしても…、僕は、必ず頂きます……」
「……、…んふ、本当に…?」
仮面の下でニヤリとした俺は、ユンファさんのその無垢な美しさに、ちょっと彼をからかいたくなった。
「たとえば、そのカクテルにかけられた魔法というのが…――〝媚薬の魔法〟であったとしても……?」
からかっているとはいえ、これは嘘ではない。
×××
いつも応援いただきありがとうございます!
ちなみに本当に、最近日本のバーでも「エンジェル・ショット」っていう、緊急事態のときの暗号が普及しつつあるそうです(作中のソンジュが言っている通り、バーテンダーさんなど店員さんに注文すればこっそり?助けてもらえるそうです)。ちなみにユンファに対するソンジュの過保護っぷりを描きたかった+皆さまに伝えたくて盛り込んだやつなので、多分今後の伏線にはなりません! 多分だけど! ごめんなさい!
また「#8103(ハートさん)」に電話をかけると、警察の性犯罪相談窓口に繋がるそうなので、(こんなテーマのお話のあとがきで書くのもなんですが、)もし万が一何か身の危険を感じられました際には、よかったらぜひ覚えておいてくださればと思います。
ではでは、皆さまのお酒の席の思い出が、楽しいものになりますように!
鹿!
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