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「たとえば、そのカクテルにかけられた魔法というのが…――〝媚薬の魔法〟であったとしても……?」
と俺がちょっとしたいたずら心をもって含みをもたせたことを言うと、ユンファさんは、膝の上にグラスの底を置いているその清澄 な水色のカクテルを見下ろしたまま、じわりとその真っ白な両頬にあわい桃色をにじませる。
「び…媚薬…――あ、あのじゃあ、これをその…、の、飲んだら僕、…ものすごくむ、ムラムラ……」
「……、あ…え、…あぁいいえ、媚薬とはいえど、そちらの意味では…」
なかったのだが…しまった。
紛らわしい言い方をしてしまった俺が悪いのだが、しかし、ユンファさんはみるみる頬の赤らみを濃くしてゆきながら、目を伏せたまま、険しいくらいの真剣な顔をコクコクとうなずかせてこうまくし立てる。
「の…っ飲みます、それでも、飲みます、…それでも絶対に飲みます、…絶対、――むしろ…、…だがお薬でムラムラしてしまったら、…わかりません、から、…あ…貴方に、せ…迫ってしまうかも、…ごっご迷惑をおかけするかとは思いますが、…貴方こそそれ、それでもいいなら、――いや、……っ!」
とユンファさんはぎゅっと目をつむり、いきおいそのカクテルを煽り飲もうと、つまりおそらくは一気飲みしようとした――ところを、俺はそのカクテルをもつ手首を、優しく押さえるようにして止める。
「…どうかお待ちになって…。お気持ちは大変嬉しく思いますけれど…――ええどんどん迫って。それは大歓迎です…――だけれど……それを飲んでも、ムラムラはしません。」
「……え?」
ユンファさんが目を丸くして隣の俺をふり返り見る。
「…んふふ…可愛い人。――まあ、俺が紛らわしい言い方をしたのが悪いのですが…――俺がそれにかけた魔法はlove portion …――すなわち、〝惚れ薬〟の魔法です。」
そうなのである。
俺が言いたかった「媚薬」というのは、すなわちlove portion――惚れ薬――のことであり、今ユンファさんが考えていたようなaphrodisiac ――催淫剤――のほうではない。
……しかしユンファさんが「媚薬」と聞いて後者を連想したのは、もとより無理からぬことである。俺がとっさに言葉選びを間違えてしまったのが悪いのだ。
まあといって、いずれは「後者」をお飲みになったユンファさんとも楽しみたい、とは思うけれど(もちろん合意の上で)、――無論、俺が今夜そのカクテルにかけたのはあくまでも「魔法」であって、いずれにせよ「媚薬」とはいえ、実際に何かしらそれにあたる薬物を混入させたわけではない。
それに込めたのは、あくまでも「魔法」という名の「俺の気持ち」――あるいは願望――である。
「……ラブ、ポーション…? 惚れ薬……」
しかしユンファさんは何かがっかりした様子で、またその水色のカクテルを見下ろしている。
……彼のその黒い長いまつ毛の下で翳った蒼い瞳は、「媚薬」と聞いただけでほのかに立ちのぼった情欲の、そのとろめいた潤みの名残りがいまだある。が、今はそのある種の「期待」が砕けちってしまったので、彼は少し残念がっているのであった。
――『抱いて、いただけるのかと…思ったのに…、僕に媚薬を飲ませるということは……つまりそういうこと、なのかと…、…僕がおかしくなるくらいムラムラすれば、少しは…面白がってでも、唆 られてくださるのかな…と……』
ところがユンファさんは、ぼんやりとそれを見下ろしながらも、はたとあることに思い当たる。『あ…いや、もしかして……』
「…つまり…これが、そういう名前のカクテル、ということなんですか……?」
俺は「いいえ」と笑いながらそれを否定する。
「たしかに〝love potion〟というカクテルは存在はしますが…、…それは〝blue eyes blue〟というカクテルです。――酒言葉は、〝おふざけの恋に陥 らないロマンチシスト〟……」
もっともそれは俺 の 嘘 ――ここで本当のことをいえば、この美しい王子様はその「魔法のかかったカクテル」を、いよいよ警戒して飲んでくださらないかもしれない。
往々にして人は見かけに騙されるものである。
俺に、俺の魔法をしこんだこのカクテルに――仮面をつけているというのに――俺の「悪い魔法」はこの水色に溶けて、ユンファさんの目には見えなくなってしまっている。
ユンファさんは手もとのカクテルを見下ろしたまま、不思議そうな顔を少し傾ける。
「…酒言葉…、花言葉…のようなものでしょうか…」
「ええそう、まさに仰言る通り…」
「…へえ…、面白いな…――それに…ブルー・アイズ・ブルー、か……」
とそうふと微笑したユンファさんの、その小さい碧海 の水面に下ろされた眼差しは、夜空にひと際美しく輝く明月 の、己れを知らない憧れの月虹 をやどしている。
「そうなんだ…。何だか素敵ですね…、たしかにその名前の通り、このカクテル…貴方の瞳の色にそっくりな水色ですし…――すごく綺麗だな…、青い海のようで、ずっと見ていたくなる……」
「……、…」
まるで俺はその美しく澄んだ月を見上げているような気分である。――月は青い海をなんて美しいんだろうと言って、夜空からじっとその憧れの海に見とれている。
そして海も、こんなに美しいものは見たことがないと言って、月を見上げてばかりいる。――ところが、その二つの目は合うようで合わない。
月は知らないのである。
自分を周りの無数の星屑 らと同じ、いや、もはやそれ以下の大気中の塵 とでも思っている。
――自分を知らない。
「……、…」
その見とれている蒼い瞳は言うのだ。
――『カクテルなら…僕がどれだけ見つめても、きっと許されることだろうし……』
ご自分のその儚い微笑をたたえた横顔が、どれほど美しいのか――貴方は知らない。
だから海が鏡にならねばならないのだ。
「んふ…お褒めいただき光栄です。――だけれど、こちらのほうが美しいと思いませんか…?」
と俺は自分の持っているカクテルグラスを軽く掲げて示す。――するとユンファさんはふとその薄紫色のカクテルに目をやり、「ええ」とこのカクテルとよく似たその瞳を輝かせる。
「それもとても綺麗ですよね。…ちなみに、そちらは何というカクテルなんですか?」
「…これは……」
と俺は目線よりやや上の位置にグラスを持ち上げ、軽くその薄紫色を揺らして楽しむ。
するとまるで薄紫色のタンザナイトを光に透かし、その深い光の屈折を楽しんでいるかのような気分になれる。
ほの暗い部屋の中、真横の神聖なステンドグラスからの光に照らされて、なお透き通って見えるこの薄紫色――とてもロマンチックな色だ。
こうしてガラスの中に閉じこめられた薄紫色を軽く揺らすと、ところどころ薄紫色を透かす光が瞬 くように揺蕩 い、そしてその紫は、部分によって色が濃くも薄くもなる。
この透き通った薄紫色のカクテルは、艶やかでありながらも優しい夜空のようだ。
そしてグラスを揺らすたびまたたくように走る、グラスのふちの白い反射光はまるで流れ星のようだ。
「――〝Blue Moon〟です。」
「……ブルー・ムーン…、ふふ…何だかお洒落な名前ばっかりなんですね、カクテルって……」
そう笑ったユンファさんに、俺は微笑しながら顔を向ける。
「ええ。見た目のみならず、名前まで美しいでしょう……? ――まさに貴方。」
「……、……?」
ユンファさんがきょとんとする。
ほら見ろ、この月は自覚していない。
「本当…全く、このカクテルは貴方。」
「……へ…?」
俺はふたたびこの薄紫色のカクテル――Blue Moonを見上げ、それを不服まじりに見つめる。
「Blue Moonの酒言葉は〝叶わぬ恋〟…〝出来ない相談〟…――だけれどその他にも…〝完全なる愛〟…それから、――〝奇跡の予感〟というのもある……」
俺はそのカクテルグラスを中身をこぼさないよう慎重に、自分の顎より下の位置へおろし――その美しい薄紫色の水面を見下ろす。
「〝完全なる愛〟…、貴方って…もはや恋をさえ越えて、絶対に俺のことを愛しているのに…、どうして…? どうしてか俺の恋を〝叶わぬ恋〟にしようとするのです…――それは〝出来ない相談〟だ、とね……」
俺は自分のグラスのふちに飾られたレモンとチェリーに刺さったピックをつまみ、そして水面の上にレモンらを置くようにし、かつグラスのふちにレモンたちを引っ掛けながら、ゆっくりとピックを引き抜いてゆく。――するとやがて、輪切りのレモンは薄紫色の水面に円 い身をひろげてうかんだ。
ピックはポイッと後ろ手に捨てる。そして、レモンの下からぴょんと先を見せるチェリーの赤い茎をつまんで、そ…と引っ張りだす。
「……だけれど……」
ぽた…とカクテルがしたたるチェリーの赤い身を指でつまみ、俺はユンファさんに振り向きながらそれを、俺に顔を向けている彼の唇にふにっと押しつける。
……そして申し訳なさそうな「拒否」の表情をうかべるユンファさんの、その薄紫色の瞳をじっと見つめながら、この両目を細める。
「俺は必ず貴方の〝YES〟を戴きますよ…。だって、今宵にはしばしば〝奇跡の予感〟がするから……ね」
「……、…」
彼はふと目を下げながら、ふいっと顔をそむける。…チェリーは口にしないまま。
またフられちゃった…――チェリーはユンファさんの水色のカクテルに入れておく。
そして俺は、その美しい横顔をまともに凝視しながら、固い真剣な低い声でこう言う。
「貴方は俺の…奇跡のBlue Moonだ、ユンファさん。」
「……、あの……」
ユンファさんは気おくれした顔を深くうつむかせ、小さく縮こまる。
「思うに、相手を…その、ま、間違えているというか…、こんなに素敵で、ロマンチックなことをしていただいても、僕…、相手が、僕では……」
「貴方以外にはこんなことはしません。神に誓ってね――俺はあくまでも、〝おふざけの恋に陥らないロマンチシスト〟ですから。…んっふふ……」
そればかりは嘘ではない。
俺は「そもそも、」と続ける。
「これは貴方を俺の手中に堕 とすためのデートなのですから。…それも貴方のような手強 い奇跡のblue Moonには、撃 墜 ほどの勢いが必要でしょうし…――ねえ、ユンファさん……?」
「……はは…、……」
俺の隣の美しい人は困って笑うが、それでさえ美しい微笑である。
「えっと…、それで……ごめんなさい、…正直、結局、さっぱりわかりません…――あの、じゃあこのカクテルを飲んだら、つまり僕は…」
とユンファさんが水色のカクテルをぼんやりと見下ろしながら、困惑の表情で小首をかしげる。
「僕は…どうなってしまうんですか……? 惚れ薬って…その…――どんな…薬が……」
「…ふふ…、見くびられては困ります。…それには魔法以上の何が入っているわけでもありませんよ。」
「……、…それは、だから…どんな……」
と自分のカクテルをぼんやりと見下ろしたままのユンファさんは、いまいち俺の言葉を信じてはいない。
さんざん騙されてきた今の彼は、そうして懐疑的にならざるを得ないのである。
「いいえ、ですから言えません。ふふふ…――言ったら魔法の効果がなくなってしまうから……」
「…そう…ですか…、……」
「…ええそうです、我が愛しの王子様…、それでもそれをお飲みになられますか……?」
「……、…」
ユンファさんはその俺の瞳の水色によく似たカクテルを、何か諦めにも似たぼんやりとした眼差しで見下ろしている。
「どうします…、お飲みにならなくとも構いませんけれど……」
「……、…」
彼の艶を帯びた長い黒のまつ毛がもっと伏せられる。細長のガラスの柄をつまんでいる彼の白い手指によって、そのカクテルグラスはおもむろに持ち上げられる。
そのぽってりとした凄艶 な桃色の唇に、ふに…と透明なガラスのふちが押しあてられ…――やや上がった顎にきわ立つその白い美しい横顔のシャープな輪郭、そのほのかに紅潮の残った痩せた頬をさらりと流れた絹 の黒髪、不安げな憂いを帯びた凛々しい黒眉、その眉骨の深いくぼみの下で閉ざされている生白い痩せたまぶたの、その流麗なふちを彩る黒い上品な扇 ――高い鼻先のさらに下、ガラスの細いふちに口付けたその半開きの唇は、まるで何者かの舌を誘い込むような半開きである。
――絶美!
「……、…」
ごくり、ごくりと男らしい白い喉仏が上下する……俺は水色のカクテル をその口の中へ、その麗しい体内の中へ流し込んでゆく月の美男子の、そのあまりにも優麗 な、しかしあまりにも官能的な艶容 に、ただじっと目を凝らしている。
胸を高鳴らせながら…――まるで、白雪姫が毒林檎を齧るその瞬間に目を凝らしている悪い魔女のように。
Once in a blue moon――Shoot the blue moon.
奇跡の青い月――奇跡の青い月を砲撃す――有り得ない奇跡を成し遂げる。
「…………」
「…………」
いいや、しかしなかばは見惚れているのである。
――なんて美しい横顔!
このアドニス がバーでこのようにカクテルを飲んでいたなら、よほど彼に声をかけてくるのは多くの女神 たちのほうであろう。
それも全くこの美男子の取り合いになるに違いない。――ああ!
ムラムラしてきた。
今すぐにその切れ長の目をすっと薄く開いて、こちらをつぅと冷艶な流し目で見て、そして俺の目を射抜き――そのまま殺して!
最後の一滴が、その愛しい唇のなかへすべり落ちてゆく…――。
月下 ・夜伽 ・曇華 の唇に「俺の瞳」が触れたのだ!
俺の瞳が、俺が、そのなまめかしい桃色の口内に侵入し…――その喉を犯すように熱く擦りながら通って、そしてその美男子の体内に、
俺の瞳が! 俺が! 俺が!
やがて俺が月下 ・夜伽 ・曇華 の一部となり、その内側から突き上げ、震わせ、熱を生んで…――その美男子の肉体を火照 らせる。
俺と月下 ・夜伽 ・曇華 が一つになってゆく…――月下 ・夜伽 ・曇華 の、その高潔な細胞の一つ一つ、そのすべてが開眼された俺の目に支配され、たちまち俺だけのものになってゆく。
手に入れた!
じわじわと侵 すように、月下 ・夜伽 ・曇華 が『永遠に俺だけのもの』になってゆく……精神の前に彼の肉体が、肉体が犯されては彼の精神も、彼の体の一つ一つ全ての細胞に、俺が染み渡って組み込まれてゆく――俺の熱い陽光に照らされた月……、
月下 ・夜伽 ・曇華 の冷え切っていたその全身のすべては、今から俺に支配されて火照ってゆくのである。
俺の熱を帯びて艶めいたユンファさんの全身は、一体どれほど白く目映 く輝くことだろう!
「…貴方はご自分の意思で〝俺の目〟を飲んだのだから、…これで……永遠に……――。」
XYZの酒言葉は――『永遠に貴方のもの』
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