705 / 709
166
「――さあ、」
と床に跪 いている俺は、今ソファに座っているユンファさんの足下からおもむろに立ち上がり――しかし腰は低くかがめたまま、彼に片手を差し出す。
「お手をどうぞ、俺の王子様。」
「……、…」
すると、そうした俺を上目遣いぎみに見やったユンファさんは、その湯上がりに透明感の増した白い頬をパッと赤らめ――それは俺のこの振る舞いにときめいたのもあるにはあるようだが、何よりほとんどは気恥ずかしいためである――、やがて目を伏せながらうつむく。
……しかし、恐る恐るとためらいがちではありながらも、彼の黒手袋をはめた片手は俺の手のひらの上にそっとのせられた。――俺は大切にその手を両手ではさみ込み、腰を正しながら、誘導ばかりの力でやさしく引き上げる。と、ユンファさんはそれに従って立ち上がる。
ユンファさんは今、まさに「王子様」のような衣装を着ている。
ゴージャスなこの衣装の基本色調は、柘榴 のような深みのある暗めの赤と漆黒、その二色である。
――上から順に見ていこう。
まずはこの黒い筒状の襟 だ。
生地は上品なこまやかな艶の美しいベルベットである。これはユンファさんの長めの美しい首をすっかりとおおい隠す、それこそ彼の顎先すれすれまで高さがあり、また中央、縦にならぶ金のボタン二つで留められている。――もっともこの襟は彼の肘まであるケープのものであり、かつその黒いベルベットのケープは、鎖骨下から極ゆるやかな八の字をえがいて開かれている(彼の胸板から下はあらわになっている)ので、…要はそれの黒い布は彼の両肩から二の腕をまでしか覆っていない。…なおその黒いケープの裾 からは、金糸で編まれた房 飾りが、櫛 の歯のように欠けなく垂れさがっている。
そしてそのケープの両肩には大そうふくよかな、銀狼のそれを思わせる輝かしい精巧なフェイクファーが取り付けられ――またかつ、その黒ベルベットのケープの裾、そのずらりと横ならびになった金の房飾りの下からは、床に引きずるほどに長いベロア生地のマント(内側は漆黒、外側は柘榴色)が、艶麗なベロア独特のしとやかな光沢やひだを見せながら広がっている。…つまりこのケープを含めたマントは、インバネスコートのような構造になっている、ということだ。
さて、そのアウターの下にユンファさんが着ているのは、その美青年のしなやかな細身のラインをよりあでやかに彩る、タイトな漢服風の衣装である。
もっとも柘榴色のシルクのチャイナドレスの下に、ややふくらみのあるスカート状の黒い袴 を合わせた簡易的なもの、と思ってもらえればよい。
そのチャイナドレスは深みのある赤色にシルクの光沢が何とも優麗であり、かつ(ケープの黒ベルベットに覆い隠された)鎖骨下から胸板中央にかけて切りぬかれたダイヤ型から覗く、その目も眩 むようななめらかな白皙 が、――その細腰 を強調する、ゆるく巻かれた二本の金の綱のベルトが、――さらには、腰骨の始点からくるぶしの裾まで入った深い左右のスリットが、なんとも色っぽくてたまらない、…
……とはいえ、そのスリットから覗いているのはあくまでも彼の長細い生脚ではなく黒い袴なのだが、…これは脱 が せ た あ と を思って言うことである。
ちなみにダイヤ型の切り抜きやスリット、そしてくるぶしまである裾のふちには、銀の縁 飾りが縫いつけられている。
また、その左右のスリットの始点に縫いつけられた月下美人の銀の組み紐細工、それから一本、スリットの割れ目の上に垂れさがるオーロラガラスの銀と赤のビーズが、彼の歩みにあわせて揺れながら優美にきらめくのがまた大そう美しい。
そしてこのチャイナドレスは長袖なのであるが、そのやはり銀の縁飾りのなされた袖口はラッパ型にひろがり、かつ上腕の中腹まで片側にのみスリットが入っているので、今に手渡して着けてもらった黒革の手袋と、彼の白皙のなまめかしいコントラストも楽しめる。
……また今しがたまで俺が、ソファに座っていたユンファさんの足下に跪いていた理由――それは、当然スリッパで俺のもとへまで来た彼に、黒革に靴底が金塗りのロングブーツを、俺が手ずから履かせてあげていたためである。
さて、ユンファさんは脱衣場からここへあらわれたとき、すでにこの衣装のほとんどを身に着けていた。
なぜといえ、それはこれしか着るものがなかったためである。
というのも、先に風呂からあがった俺が、彼が浴室でシャワーを浴びているそのすきに、こっそりとこのホテル備え付けのバスローブを隠し――その代わりこの衣装を、あたかもホテル備え付けのそれのように、脱衣場に置いておいたためだ。
なおケープつきマントにおいても、はじめからチャイナドレスの肩にある内ボタンと連結させておいたので、彼はそれとは知らずにそのままこれを着た結果、このフルセットで俺のもとへ現れたのに違いない。
……ここで俺は改めて、ユンファさんの頭からつま先までをじっくりと観察してみる。
「……、…」――彼はどこか居心地わるそうにうつむいている。が、
「……、…なるほど…――。」
マントは少々長い…が――その他はこのサイズでおおむねは問題なし、といったところであろう。
……なお、その実この衣装は、五条ヲク家の民族衣装――を、拝借したものである(条ヲク家には家ごとに一族特有の衣装があるのだ)。…訳あって、ね。
ただしこれはあくまでも正装ではなく、これでもわりに簡易的なそれであるのだが、…なるほど――まあ微調整は必要だろうものの――うん。これなら……。
さて…俺は仮面の下でユンファさんに微笑みかけ、深緑のスーツの片胸に右手を――左手は腰の裏へとまわし、背筋を伸ばしたままおもむろに頭を下げる。
「お綺麗だ…。大変よくお似合いです、我が王子様……」
「……へ、?」としかし、うつむいていたユンファさんはハッと顔を上げ、みるみる赤面しながら見開いたその両目で俺を見る。
「…あ、あ、――え、えっと、…あり、ありがとう、…ござい、ます……?」
と…そして、そうあわあわしているユンファさんのその気恥ずかしさは、俺のこの丁重かつロマンチシズム全開な「王子様扱い」ばかりか、今自分が身につけている――身につけざるをえなかった――この華美な衣装にも起因していることなのである。
……現に彼が脱衣場からあらわれ、そのときソファから立ち上がった俺のもとへ、小走りで駆け寄ってきたのち――俺も迎えに悠々と歩みよっては行ったが――、「お待たせしてしまってすみません、…」の次なる言葉に選んだのは、「実はこれしか着るものがなくて…、このホテル、こういうバスローブ…? まで凝っているというか、何というか…」という、困惑と羞恥のそれであったくらいだ。
……まあとはいえ、俺がそののちソファへまで横抱きにして運び、さらには自分の足下にひざまずいて、手ずからブーツを履かせてあげたそれに関しても、ユンファさんは忍びがたい気恥ずかしさ(と、申し訳なさ)をおぼえ、その時点で――(なぜブーツを履かねばならないのかわからないが、履くにしても)自分で履けますよ…などと――困惑してはいたのだが。
しかしいずれにせよ、ユンファさんにしてみればこのような衣装、極めて非日常的な印象をしかいだきようもないもの――それこそ(否応なく)コスプレをしているような感覚にしかなれないのであろう。
……だが、ユンファさんは自覚なくとも五条ヲク家の子息には違いなく――いわば彼はまさに王子様の身分に違いなく――さらにこれが五条ヲク家の衣装ともなれば、本来はこれこそ彼にもっともふさわしい衣服には違いないのである。
まあ、いずれ彼にもそれがわかる日がくることだろう……俺は腰をかがめたまま、ユンファさんの黒手袋をはめた片手を下からそっと取り――己れの仮面の唇へまで持ち上げて、コツンと手の甲にキスをする。
そして腰を正しながらその手を引き、ゆっくりと歩み導く――暗がりの中で一層まばゆいステンドグラスの前へ――俺は流れるような所作でユンファさんと向かいあい、片手は彼の腰の裏へ、もう片手は彼の手をのせたまま、肘よりやや高い位置にかまえて、
「さあ俺の王子様…――どうかこの俺と、ワルツを一曲踊ってください。」
と低く真剣な声で、初恋の美男子に宿願のダンスを申し込む。
――すでに今にもダンスがはじまりそうな体勢を取らせておきながら。
「……え……?」
するとユンファさんはそう、どこかとろんとした目で俺を少し見上げたが――すぐさま「いえ…」とその長いまつ毛を伏せ、申し訳なさそうに表情を翳らせる。
「ごめんなさい…僕、ダンスは踊れないんです…」
「…それならご心配なく。――貴方は俺のステップに合わせてくだされば、それだけでよいのです。…さあ、どうぞこの俺に身を委 ねて…、……」
と俺はユンファさんの片手を、自分の肩へ添えさせ――目を閉じた。
「I think you already know this but I've covered my eyes.(君も知っているとは思うけれど、僕は目を塞いできたんだ。)――but now is the time to look with eyes firmly open.(でも、今こそしっかりと目を開けて見るべき時だ。)―― I want to gaze into your eyes.(僕は貴方の瞳を見つめたいんだ。)」
……これは「合図」なのである。
「――Open your eyes.(目を開けて。)」
俺はゆっくりとまつ毛を上げ、俺を見るユンファさんの薄紫色の瞳を見つめる。
……すると折よく、壁にかけられたテレビから流れはじめた、少し切なげな、ゆったりと優雅かつ壮麗な音楽が、この薄あかるい広いスイートルームをロマンチックなダンスホールへと変える――スマートフォンの音声アシスタント機能に、俺がこの合言葉を言ったなら、事前に接続設定を済ませていたテレビから指定の音楽を流すように、と命令してあったのだ――。
さあ、ここは神秘と奇跡に満ちたダンスホール――高い勾配天井は今やどこまでも奥深い、数多のきらめく星々と惑星をはらんだ宇宙に変わった――そしてその下、白い柱に囲われたまばゆい光をはなつ五枚のステンドグラスは、それの下の水の流れる三段の石段にゆらめきながら映っている。
神が、石段に点在する蓮華と、ろうそくの火が――壁に等間隔で取り付けられたアンティークランタンのなかの灯火が――ゆったりとしたワルツ・ミュージックに合わせ、まずは小さな一歩を踏みだした俺たちを、ただ静かに見守っている。
「……、…」
ユンファさんは、ステップを踏みはじめた二人の足元を不安げに見下ろしている。俺はそうした彼へ、ゆったりとした微笑まじりにこうささやいた。
「ねぇユンファさん…俺の目を見て…」
「……、…」
すると彼のその不安げな薄紫色の瞳がつと上がり、俺の目を見る。
俺は初恋の人とそうして目があったなり、少しこそばゆいときめきを感じながら――ゆっくりとした小さなステップをくり返しながら、ユンファさんの瞳に、この水色の瞳を近寄せた。
「……ふふ……」
「……、…」
するとユンファさんの澄んだ薄紫色の瞳は夢見がちにとろめき、そして、俺の瞳の水色の光沢を含んだまま――まるで俺の瞳と固く抱擁しあっているかのように――、俺の瞳の前から動かなくなる。
……俺はそうしてユンファさんと見つめあったまま、ゆったりとした小さなステップのまま、二人の体を半回転させる。
「ドキドキ、されていますでしょう…?」
と俺はやわらかな声とこの両目で、ユンファさんに微笑みかけた。すると彼も少し照れくさそうに微笑んで、
「……はい…、ドキドキして…――へへ、体も…頭も…、何だか、ふわふわしているような…、……っうわ、?」
「はは、」――俺はユンファさんの胴体を両手でつかみ、持ち上げながらいたずらに笑った。
そのままくる、くると回ると、彼のマントや袴の裾がひるがえり、美しくはためく。
「あはは、…」とユンファさんが支えに俺の両肩を掴みながら、楽しそうに破顔する。
「お、下ろしてください、…もう、…」
「…ははは、…――これは失礼しました。」
……俺はそっと彼を床におろした。
するとその端整な白い前歯を、ふくよかな桃色の唇から覗かせて笑うユンファさんは、
「はは、凄いな…やっぱり見かけによらず、力持ちなんですね。…このマントだけでも結構重たいのに…――ましてや僕、その…無駄に、図体が…、……」
と眉尻を下げて、やがて俺に申し訳なさそうな笑顔となったが――さなか俺が彼の背の中腹を抱きよせ、胸板を密着させて――その細い体を大切に抱きしめながら、後ろに一歩、彼を抱きよせながら歩くようなゆったりとしたステップを踏むと、彼は閉口した。
……だが言葉の代わり、俺の脇からまわした両手でこの背中を少しだけ抱きよせ、ドキドキと胸を高鳴らせながら、ただ俺の半回転しながら横へ一歩、後ろへ一歩…と、そのステップに足どりを合わせてくれている。
「無駄だなんて…」――俺はユンファさんの耳に、仮面の唇をよせてささやく。
「…貴方は背が高くて、スタイルがよいだけのことでしょう…――貴方はお体も大変魅力的…――ユンファさんはお顔もお体も…何もかもが、とてもお綺麗です……」
「……はぁ…」すると俺の耳もとで、陶然としたため息をもらしたユンファさんに――俺は彼の胸板に密着していた胸を少し引き、やや離れた。
またそれによって自然、俺の背中からわきの下へ移動してきた彼の片手をまた取り、横へとかまえながら――じっと俺の目を見てくる、そのうっとりとした両目を見つめかえす。
「…ふふ…、はぁ……」
そして俺はこの両目をほそめ、ただ優しく彼に微笑みかけては、甘いため息をこぼした――そうしてあえて何も言わないで、あえてこの目だけで、こう囁いたのだ。
……俺も今、思わずため息がもれてしまったくらいに幸せです、と――。
しかし俺は、ステップのうちにゆっくりと回転しながら――また、うっとりとユンファさんと見つめあいながら――こう、深い吐息のなかでこぼした。
「…かねてよりの夢だったのです」
「……? 夢……?」
「そう…愛する貴方とのダンスが」
俺がそう明かすと、ユンファさんはふっとあまりにも…――ミステリアスでありながら優しく、優しくありながらも妖艶で、妖艶でありながも慈愛に満ち満ちた――十一年前のあの日、あのあまりにも美しい微笑で――俺に微笑みかけた。
「…ふふ……」
「……、…」
すると今にも「バイバイ、ソンジュ」と、彼があの日と同じセリフを口にしそうな気がして、とたんに胸が苦しくなった俺だが――しかし俺の初恋の美男子は、あの日よりももっと甘い声で俺にこう言ったのだ。
「…僕も……どうしてかな…、貴方のその夢が、どうしてか…、自分の夢でもあったような気がします…――今は、不思議と……」
「……はは、……、…」
俺は嬉しくてたまらず、仮面の下でにこっと笑っては、笑んだまま下唇を前歯で噛んだ。
――それから照れ隠しに、明るい声で「さあ、」
「じゃあ今度は、少し大きなステップで踊ってみましょうか。――まずは後ろに、…」
と俺はそう声をかけた直後、そのとおりやや大股の一歩を後ろへ――するとユンファさんもやや大股に前へ一歩…――見つめあいながら、半回転しながら、後ろへ…横へ…前へ…、
「そう…、んっふふ…とってもお上手。」
「……ふふ……」
そしてその俺の楽しげな褒め言葉に、ユンファさんは嬉しそうに、幸せそうに目を細めて笑ってくれた。
このあと俺たちは結局、続けて三曲もワルツを踊った。
いたずらを仕掛けた俺のアップテンポなステップ、着いてくるのに必死になったユンファさんは、やがてそれさえ面白くなってきて、楽しそうに笑っていた。
するとはためき、ふくらんだ袴の裾、揺れていたスリットの始点のオーロラビーズはキラキラと輝き、そして空 を低く切るようにひるがえったベロアのマント、回転につられて生まれたそれのドレープは、オーロラのように美しく波うちながら――ステンドグラスからの光を孕んで、その赤い生地に上品ななめらかな艶を帯び、大そう優雅だった。
それからのスローダンスは見つめ合い、微笑み合い――時に体を密着させ、抱き合い、頬を寄せあい――ほんの少しのたわいない会話を、ひそひそ声で楽しみながら――夜明けを知らない、この宇宙の只中 で。
ともだちにシェアしよう!

