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 何て素晴らしい夢の時間だっただろう。  しかし、次は夢の住人たる「悪い魔法使い」ではなく、そう…――必ずや九条(クジョウ)(ヲク)松樹(ソンジュ)として、初恋の貴方とダンスを踊ろう。  ……などと心に決めながら、俺は三曲目の終わりに頃合い足を止め――。  そして、自然と間近な距離をもって向かいあっているユンファさんの、その俺の目をじっと見上げてくる、すでに潤んだ火照りを帯びている薄紫色の瞳を見つめかえしながら、さりげなく…ゆっくりと…(あか)いシルクに包まれた彼の細腰に両手をすべらせて…――抱きよせるというよりかは添えるように、その人の腰の裏で両手をかさねる。 「…はぁ…、…はぁ……」  と彼は少し息を切らしているが、ダンスという運動によっていく分か晴れやかな気持ちになれたのだろう、そのうっすらと汗をかいてなおそのなめらかな肌が白く映えた美貌に、無垢なほのかな微笑をうかべている。 「…ふ…、貴方は本当にお綺麗だな、ユンファさん…、……」  俺はこの目でその愛おしいほほ笑みを見られたことにも、また胸が燃えるように熱くなり、この両目をほそめて微笑を返しながら、そ…っとその壊れそうな細い体を丁寧に、壊さないようにと抱きしめた。 「…ぁ…」とユンファさんが、吐息のようなかすかな驚きの声をもらす。  だが彼の両手もまた、俺の両方のわき腹をかすめるように撫でながら上がり、そして背中から俺の両肩をやさしく掴んで――そうしてむしろ彼のほうから、俺の上半身にその体を密着させるように押しつけてくる。  ドキドキと乱れ恋しく高鳴るユンファさんの心臓の音が聞こえる。 「…………」 「…………」  俺たちは何も言わずに、ただ抱き合う。  静謐(せいひつ)な、どこか神聖な感じのする空気が、二人を取り囲んで見守っている。  硬いお互いの体から放たれるぬくもりが、密着した胸板や腕やに染みいってくる――香る桃の果実の甘さと、俺のムスクのまじるマリン調の香水めいたほのかな汗のにおい――二人の静かな、しかし浅い呼吸の音――まったく退屈とは無縁の、これだけで熱くなった肌が敏感によろこばしく緊張さえする、この至福のひととき……。 「……はぁ……」  と幸せそうなため息をついたユンファさんが、俺の片方の肩とそこをつかんでいる自分の手の指に、そっと片頬をあずける。 「…好きです…、貴方が…好き……」  そしてそう、ささやき声よりも控えめな吐息ばかりで言ってくれた彼はつづけて「きっと…」 「貴方は…、神様、なんでしょうね……」 「……神…ですか……」 「…はい…、……」  ユンファさんはそううっとりとした吐息で答えたあと、静かに一歩後ろへと下がり、そうしてするり…その一歩分ばかり、二人のあいだに距離をあけ――そして、可憐なはにかみ笑いをうかべながらその長いまつ毛を伏せつつ、自分の左頬にかかった長めの黒い横髪を耳にかける。  すると、そのときキラリと冴えた神聖な光を放ったのは、その人の左の耳たぶからぶら下がっている銀の十字架である。  ……やがて彼の耳もとにあった片手は下がり、その手はもう片方の手首をつかむ。 「こんなに幸せで素敵な時間…――僕はやっぱり、どうしても夢だとしか思えない…」  とユンファさんは目を伏せたまま、幸せそうに微笑みながら、しみじみとつぶやくように言った。そして、 「ですが、本当に…、本当に今夜は、ありがとうございました。……」  そう微笑んだまま上品に、少し腰を折るようにして、俺に頭を下げてきた。  しかし俺は仮面の下でわずかにムッとした。 「……過去形…、――しかし貴方は先ほど、俺を神だ、と仰言いましたね。」  俺は少々固い声でそう切り出す。  と、ユンファさんはきょとんとしながら目を上げて俺を見、「ええ…」と小さくうなずく。  ……俺はいささか不服な心持ちのままではあるが、しかし表向きは泰然(たいぜん)として、彼にこう告げた。 「それならば貴方は、()()()()()()()()()()()()()でしょう。」 「……、…」  すると俺に虚を()かれたユンファさんは、驚き顔のまま固まった。  これは聖書の内容にもあることだ。  神(イエス・キリスト)とその信徒は婚姻関係にある、とされているのである。  それすなわち神を花婿、信徒を花嫁として、永遠の愛の契りを結び、病めるときも健やかなるときも神とともに、いついかなるときも神と心をひとつに…――など、まあ要は永遠の信仰の誓いを婚姻のそれに置き換えた、比喩(ひゆ)である。 「…ぁ…あのいえ、でも、でもそれは、…」とユンファさんが困惑しながら否定しかかっているのも構わず、俺は悠々とほほ笑みながらこう言う。 「しかし、どうぞご安心を…――とはいえ何も、明朝に婚姻届を出しに行きましょう…とまでの無茶なことは、俺ももう言いません。」  もちろんそうできれば一番ではあるが、その条件ではどうせユンファさんは俺のプロポーズには応じまい。――もっとも俺は今、あくまでも「明日の朝に」婚姻届を出すつもりはない、と言っただけである。  いずれにせよ二人の婚姻届は必ず役所に提出する。が…これで俺のプロポーズに応じてくれたなら、彼をうまく俺の元へ囲いこめたのち、この初恋の人と結婚をするにおいて非常に強力なカードになりうる――ので、…俺は今仕方なく妥協しているのだ。  さあ、そうしたわけで――。  俺はユンファさんの黒手袋をはめた両手を下から取ると、その長い指をやわく握りながらその場に片膝をついて跪き、(うやうや)しく彼を見上げる。  そして光り輝くイエス・キリストのステンドグラスの前、その困惑の表情の半面を神聖な光に照らされながら、伏せられた長いまつ毛の下、その美しい紫の瞳で俺を見下ろす美しい人――俺の初恋の美男子、俺の宿命の蒼い月、俺の運命のつがいたる銀狼、俺の唯一無二の月の男神――俺の月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)に、 「…ですから、ね…どうか…」と、この両目でやわらかく微笑みかける。 「ユンファさん――俺と結婚をしてください。」 「……、…」  しかしユンファさんはそれでもなお何も答えられず、やはり困惑にくもった表情で俺を見下ろしていた。――が…不意にハッとステンドグラスのほうへふり返った彼に、揺れた左耳の十字架のピアスがまたキラッと銀の光をまたたかせた。  そして彼はきわめて小さく動かす口の中で、ぼそぼそとこう神に語りかける。 「……、…もしや、主よ…、これ…も…――あなたの…、(おぼ)()し…なんでしょうか……」 「……、…」  俺もつっと横目にイエス・キリストを見やる。  ――灯る照明といえば壁に等間隔にならぶランタンのなかの、ろうそくを模したランプ程度のこの薄暗い部屋のなかでは、なお神々しく強く光り輝いている「彼」は、依然慈しみ深いやさしげな笑顔を浮かべ、その両腕を俺たちへむけて大きく広げている。 「……、…」  あなたから言ってくださいませんか。「そうだ」と。  いえ、懺悔はしましょう…――確かに俺は悪い男です。  ……だけれどこれはあなたの愛し子・このユンファさんを助け、救い、幸せにするための悪巧み…いいえ、あくまであなたの目前にあってなおも恥じるところのない、俺の(未来の)夫への献身の足がかりを得るため、そのための善なるプロポーズに過ぎません。  ですから、どうぞあなたのお力添えによって、俺のこの愚策を「神策」に――。 「……、…」  苦笑い…と見えるのはまあ気のせいには違いないが、  ……俺はふとユンファさんを見上げなおした。 「…………」  ユンファさんはいまだ俺へ、ぼんやりとした白い横顔を向けていた――すなわちまだイエス・キリストに見入っていた――が…、ここで神がかり的にちょうどよく、ふ…とおもむろに俺を見下ろした。  そうしてじっと、その落ちついた澄んだ紫の瞳で俺を見下ろしてくる彼の端整な顔からは、今や困惑の歪みが取り払われ――今はただ何かしらの神聖な存在のように、神々しいほどのやわらかな澄みきった無表情を浮かべている。  そしてしっとりとした彼の声は静かに、しかし確かにこう言った。 「わかりました…――そのプロポーズ、謹んでお受けいたします…。神の、御心(みこころ)のままに……」 「……、――…っマ゛、!?!? ……、…」  マジでっていや、…俺はつい口も目もかっぴらいてうっかりと「マジで」なんてカッコのつかないセリフをもらしかけたが、――幸い顔は仮面で覆い隠されたまま――またかつ、そのセリフ(マジで)に関しても即座冷静になったため(嘘である。驚喜(きょうき)のあまり息が止まったおかげで)、幸い未然に防がれた。 「……、…、…」  やっ…――奇蹟(きせき)、奇蹟、奇蹟、――俺はうなだれながら、おもむろにゆらぁ…と立ち上がる。 「や…った…、ふふ…――やった…、んふふふ…、…っく、ククク、…ククククク……」  そして仮面の額に指先をあてがい、俺はそうして見開いた目もとをユンファさんから隠して、なんとか窃笑(せっしょう)に留めようとおさえ込みながらも――しかし、腹の底ですさまじく沸騰してこみ上げてくる歓喜の笑いに、俺の上半身はぐつぐつと縦に揺れ、…弾けた。  俺は天へ顔を仰向かせ、両腕をひろげて、 「あっはははははははは! やったぁ! やった、やった、やったやったやったやったやった!! ――ユンファさんと結婚! ユンファさんと、ユンファさんと結婚!」  ……高笑いを…――して、しまった…ね、結局。 「……ふふふ……」  しかし、そう俺の前でユンファさんがもらした優しい含み笑いを聞いて、俺はハッと我にかえる。  はたと見ると彼は俺へ向け、くすりと目を細めた上品な微笑をうかべていたが、やってしまった…と決まり悪い俺の目と目が合うと、ふとはにかんだように目を伏せる。 「す、すみません…まさか、そんなに大喜びしていただけるとは思わず…、可愛いなと…つい笑ってしまって……」 「いやっ…はは、…こちらこそすみません、つい…その…、(よろこ)びの余り高笑いが…――いえ本当にありがとうユンファさん、ありがとう、…」  と俺は少々照れて笑いながら、またユンファさんの両手を下から取り、腰をかがめるに加えてその手を持ち上げ、何度も何度も「ありがとう」とくり返す合間に、仮面の唇で何度もその手の甲にキスをする。――音ばかりはちゅっ、ちゅっ、ちゅっと。  しかし…――俺はいまだ心臓がバクバクいっている、…いささか興奮をしすぎたらしい。 「………あ。ムラムラしてきた」  ……男のはなはだしい興奮とはもはやそれの種類は関係なく、勃起させることがあるものだ。いや、これはある種()()()()()()()よろこびでもあるけれど。 「……はは…、…? え…? …あっ…!」  俺はユンファさんのマントごとかっさらうように彼の体を横抱きにし、――チラリとイエス・キリストを見て、膝を折るように頭を下げてから――、早速、あの天蓋つきの広々としたベッドへと歩んでゆく。 「……、…」  するとユンファさんは少々不安げに俺を見上げながらも、じわ…とその真っ白な両頬に薄もも色をにじませる。――ハレルヤ!  ……晴れて神前で夫夫(ふうふ)となった俺たちが、…所詮人間の役人にハンコひとつで結婚を認められるよりも数億倍は意義深い、神の奇蹟によって、神の祝福を受け、神に認められし夫夫となった俺たちが。「今からどこで何をするのか」――彼もすでにそのことをよくわかっているのである。 「さあ俺の王子様…、どうぞこの俺の首に両腕を回して……」 「………、へ…ぁ…は、…はい…、……」  ぼうっと俺の伏し目に見入っていたユンファさんがはたと我にかえった。そして彼の両腕はためらいがちに、かつ遠慮がちにそう…っと俺のうなじに回される。  すると二人の顔が――二人の瞳が、近くなる。 「…………」 「…………」  自然と見つめあう――あやうくも…激烈な恋の視野狭窄に見舞われながら…――うっとりと…今やこの世に存在する色は水色と薄紫色、そのたった二つだけ…――ねっとりと…その二色を絡ませあうように――、そして瞳孔の奥底へまで、とろりと垂れて忍び込み、骨の髄にまで、いや、魂にまで浸潤(しんじゅん)……。  そのようにこの魂にまで()み入るこの薄紫色は、俺の瞳をたったひとつのことに熱中させる。 「……、…」  見つめあったまま…俺は壊れものを扱うがごとく丁重に、極めてゆっくりとベッドへ…ユンファさんのそのマントの背を下ろし――ギ、と不穏な音――、そしてそのまま俺に組みしかれたユンファさんは、俺を見上げてくるその不安げな顔を、みるみると真っ赤に染めてゆく。 「……、…、…」 「…ふふふ…――。」  ……俺は立てている腕の肘をおもむろに曲げながら、彼のその小刻みに揺れている濃い紫の瞳に、この水色の瞳を近寄せ――そしてじっと見つめながら、こう甘い低い声で囁く。 「――These eyes hunger only for you……」  この瞳が欲しているのは――ただ貴方だけ。

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