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第2話 側に誰かがいるということ

 それから彼は毎日訪ねて来るようになった。  今まで一人きりだった空間に誰かがいるのは不思議な感覚だった。  他人が近くにいる慣れない感覚に戸惑い、オルビスはこっそりと彼を観察する。  最初の数時間は書物を読み漁り、しばらくすると疲れたのだろう眉間を揉む。  毎日資料と対峙し、疲れるのだろうな。  何か手伝えることはないか……。  真剣に資料と対峙する様子に、オルビスは次第にそう思うようになっていた。 「あの……お疲れのようですので、一息入れませんか? 高価なものではありませんがお茶を用意いたします」  オルビスの言葉に彼は驚いたように目を見開いた。  やはり余計なお世話だっただろうか。  オルビスは急に不安になり、眉を下げる。 「あ……お嫌でしたら……」 「いや、頂くよ。気を使わせてすまない」  テーブルにティーセットを置くと、彼は綺麗な顔で微笑む。 「君も一緒にどう?」 「え……わ、私は勤務中ですので……」 「私も勤務中だ。ほら、座って。話し相手になってほしいんだ」  目の前の椅子を指され、オルビスは仕方なく腰を下ろす。  誰かとお茶を飲んだことなど記憶にはなかった。  失礼がないかと緊張したが、彼は穏やかに茶を飲み、とりとめのない話題で場を和ませる。  僕が緊張していることに気がついているのだろう。  彼の配慮が有難かった。  最初は面倒だと思っていた。  成人直前からここに移り住み、ほとんどの時間を一人で過ごしてきた。  幼少期も両親に社交界に連れられることは全く無かったし、他人との関わり方なんてわからない。  そもそも両親といっても、血のつながりはない。  貴族孤児院から養子としてもらわれただけだ。しかもその後、実子が生まれると僕に用はないというように態度が急変。  魔力も少なく、血のつながりもない幼子を社交界に連れ出すなんて面倒なことをするはずもないのだ。  記憶の中で、彼はオルビスに対し唯一笑顔を向けてくれる存在だった。 「あー……疲れた。オルビス……慰めてくれ……」 「そう申されましても、生憎どうすればよいのかわかりかねます」 「えー。ほら、頭を撫でるとかあるだろう?」 「それは幼子への慰めでしょう?」 「んー、私はしてもらえると嬉しいのだが……」  彼は優秀で非の打ちどころのない貴族だと思っていたが、付き合いが長くなるにつれ、意外にも年相応の幼さを見せることがあった。  聞くところによると、彼は齢二十三。オルビスよりも四つ年下だった。  若干の幼さを見せる彼に、彼も人間なのか。  そんな当然のことが頭を過った。 「ねえ、いつも司書室で何をしているの?」  いつものようにお茶を出し、オルビスが腰を下ろすと彼は口を開く。  何の気なしに問うたのだろうが、オルビスは返答に困り口を噤んでしまった。  「絵を描いている」ただそれだけなのだが、答えてもよいものだろうかと迷う。  幼少期の養父母の言葉を思い出し、オルビスは眉を下げた。    あれは十歳のころだった。  その日は年に数回しかない外出の日。建国記念の日で街も賑わっており、神父様がお祝いだからと小さな包みを子どもたちに配っていた。  オルビスは養父母に見つからないようにこっそりとそれを受け取り、持ち帰った。  中には、小さな画用紙と赤、青、黄の絵具、筆が一本。  それから絵を描くことの楽しさを知った。混ぜ合わせる色の変化が楽しくて夢中になった。  しかし、数日もしないうちに隠れて描いていたのが養母に見つかってしまったのだ。 「絵を描くなんてくだらないことをしていないで手伝いでもしなさい!」 「男のすることではない。恥を知れ」  養父母は怒り蔑んだ眼差しをオルビスに向けた。  それから、絵具は捨てられてしまい絵を描くことは恥ずかしいことなのだとさんざん叱られたのだ。  別にこの歳になって今更馬鹿にされることが嫌だということもないが、何故だか彼に侮蔑の眼差しを向けられるのは耐えられそうになかった。 「ああ、言いたくなければ言わなくていいよ。詮索するつもりもないからね」  彼の声に我に返る。 「い、いえ……大したことではなく……その……絵を描いているだけです」 「絵を?」 「はい、申し訳ありません」 「何故謝ることがある? 絵を描けるとはすばらしい趣味ではないか。よければ見せてはもらえないだろうか」  そんなことを言われるとは思っておらず、オルビスは戸惑う。  でも、もしかしたら彼なら酷いことを言うことはないのかもしれない。  そもそも彼は上位貴族だ。その要望を断るのも憚られ、オルビスは描いた絵を持ってくることにした。 「すばらしいじゃないか! 君は絵の才能もあるのだな。いつか私の私室に飾る絵も描いてもらいたいものだ」 「そんな……恐れ多いことです」 「いや、私は本気だ。この国難が解決したらぜひともお願いしよう」  お世辞かもしれない。そう思ったが、今まで自分の絵を褒められた経験などあるわけもなく、オルビスの心は歓喜した。
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