82 / 244

最終話 桜の朽木に虫の這うこと

 桜の森での出来事(できごと)から一夜(いちや)が明けた。  ウツロはくだんの洋館アパートの自室で、身支度(みじたく)を整えていた。  はじめにここでもらった服はボロボロになっていたから、新しいもの――やはりスポーツパーカーとジョガージャージだったが――それを身につけた。  (かく)(ざと)では着物がほとんどだったから、こういう現代的な衣装(いしょう)はまだしっくりこない。  しかし、真田龍子(さなだ りょうこ)が用意してくれたものだから、身にまとうのは特別な気分だった。 「ウツロ」 「どうぞ」  真田龍子が入室した。  彼女も例により、桜色のブルゾンとロングスパッツの()()ちだ。 「ここのリーダー、特生対(とくせいたい)第二課の朽木支部長(くちきしぶちょう)……龍崎湊(りゅうざき みなと)さんだっけ……もう到着したのかな?」 「ああ、もうちょっとかかりそうだね。わたしもそそっかしいけど、あの人は()をかけてだから」 「もうひとり、ここの住人(じゅうにん)さんがいるんだよね? その人にもあいさつをしておかないと」 「武田暗学(たけだ あんがく)先生のことだね。あのおじさんなら、この時間はまだ寝てると思うよ。黒龍館大学(こくりゅうかんだいがく)(もと)・哲学教授なんだけど、いまは引退して自称(じしょう)三文文士(さんもんぶんし)なんだって」 「哲学教授か、気になるね……ぜひ、学問のご教授を……」 「やめといたほうがいいよ? なんていうか、偏屈(へんくつ)な人だし。まあ、悪い人じゃないけどさ」 「龍崎さんのほうは、どんな人なのかな?」 「このアパートに事務所をかまえてる弁護士の先生だね。もちろん、『表向(おもてむ)き』の話だけど。自宅で仕事をするから、『タクベン』なんて呼ばれるんだ。お酒が大好きで、いっけん頼りないけど、人情(にんじょう)には(あつ)い人だから、きっと、ウツロの力になってくれるよ」 「そう、か……よかった。ありがとう、龍子……何から何まで、やってくれて……」 「なーにをいまさら。それに、ウツロはもう、あ……」 「……」  真田龍子は調子に乗って、余計なことを言いかけた。  彼女の顔が一瞬くもったので、ウツロはフォローしようとした。 「いや、いいんだよ、龍子。これから俺が体験することに……これから俺が、歩いていく道のりに比べれば……」  ウツロが配慮をしてくれたことをうれしく思う反面、真田龍子は彼の今後(こんご)が心配だった。  さしあたってウツロは、特定生活対策室の本部へ送られ、身体検査や聞き取り調査などを受けることになっている。  そのあとは戸籍(こせき)を――当然、イレギュラーな形式でだが――それを与えられ、彼女らと同じ、朽木市内(くちきしない)の名門私立・黒帝高校(こくていこうこう)へ編入する流れだ。  当たり前というか、管理・監督される形で。  つらい目にもきっと、あうだろう。  それに彼が、ウツロが()えられるだろうか?  そんなことを考えると、真田龍子は胸が()めつけられた。 「龍子」 「え――?」  ウツロが彼女を見つめている。  笑顔だ。 「大丈夫(だいじょうぶ)、父さんと兄さんがついてるから。それに……」 「……」  彼は真田龍子をすくい取るように抱きしめた。  このときウツロは初めて、真田龍子への気持ちの正体を理解したのだった。  それは理屈ではなく、感情で。 「龍子」 「ウツロ」  身を寄せあい、(くちびる)を重ねる。  何度も何度も、舌を(から)ませ()う。 「ん……」 「あ、ふ……」    おりしも風に乗った桜の花びらが窓から(はい)()んできて(うず)を作り、二人をやさしく(つつ)()んだ。  これも魔王桜(まおうざくら)の意思なのか?  それは誰にもわからない。  ただ、その桜の渦は、ウツロと真田龍子の愛をしばし、世界から封印した―― 「ウツロ、苦しい……」 「ご、ごめん。キスなんて、その、慣れてないから……」 「これから少しずつ、ね?」 「うん、龍子。で――」 「ん?」 「このあとはどうすればいいのか、不勉強で、その……」  ウツロの顔面(がんめん)鉄拳(てっけん)炸裂(さくれつ)した。 「なに? このケダモノ! 最低っ! 毒虫じゃなくて、ケダモノだよ!」 「うう、アクタあ……俺はやっぱり、毒虫なんだあ……」 「ぷっ……」 「あはっ、あはは」  二人ははち切れんばかりに、笑いあった。  ウツロが笑っている、こんなに素敵な笑顔で……  真田龍子はそれがうれしくてうれしくて、しかたがなかった。 「ごほんっ……!」  いつの()にか部屋の入り口に、星川雅(ほしかわ みやび)苦々(にがにが)しい顔つきで立っていた。 「ノックくらいしたらどうかな?」  ウツロは毅然(きぜん)と、彼女の放つオーラを押しのけた。 「したんだけど。(いそが)しすぎて気づかなかったみたいだね」  星川雅はあからさまに「イライラしています」という態度を表明した。 「お楽しみのところ申し訳ないんだけれど、ウツロ。今後のことについてみんなで話し合うから、ちょっと顔、貸してくれない?」 「かしこまったよ、雅」  ウツロはどこか余裕(よゆう)のある感じだ。 「急に人間っぽくなったじゃん。なんだか生意気」 「君には負けるよ」  星川雅は「一本、取られました」というしぐさをした。 「これから俺は、概念の世界で生きていくことになるんだね」 「そういうことになりますわね」  ウツロは(りん)として、自分の決心(けっしん)を伝える。 「はめ込めばいい、(かせ)でも、(くさり)でも。概念がいくら俺を(しば)りつけようとも、俺は必死であがいてみせる。そして俺は、『人間』になるんだ――!」  ウツロの意志を星川雅は受け取った。 「見届けさせてもらうよ、毒虫のウツロ(・・・・・・)?」  それだけ言って、彼女は退室した。  ただ、その表情は満足感にあふれていた。 「君も」 「――?」 「見届けてくれ、龍子――!」  真田龍子は(ほほ)に流した一筋(ひとすじ)(なみだ)をぬぐい、とびっきりの笑顔を見せた。 「うんっ!」  彼は、ウツロは矮小(わいしょう)な毒虫にすぎないのかもしれない。  だがその毒虫は、確かにいま、()いはじめた―― (了)

ともだちにシェアしよう!