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第1章:出会い編 第4話
遠くに喧噪が聞こえる。薄っすらと目を開いた。ボンヤリと何も身に纏っていない自分の肌と、白い布しか見えない。明瞭に見えないのは、布越しにしか明かりが届いていないから。
その布も薄いものではなく、相応に分厚そうだ。
手の拘束は外されていたが、狭い袋のような場所に閉じ込められていた。体操座りで膝を折って入れられ、思うように身動きが取れない。
(何……ここ……。どこだよ……。今度は何だってんだよ……)
自分が置かれている場所の見当がつかないばかりか、どうしてこんなことになっているのか分からず困惑は深まるばかりだった。
いつものように学校へ行って、翌日の文化祭に向けて準備をしていただけだったのに。
いつもと違っていたと言えば、屋上から落ちて見知らぬ部屋の中で目覚めて、怖い男たちに体を洗われた。
どこからどうしてこんなことになったのか。最終的に今、圭は袋の中に押し込められているのだ。これで平常心を保てと言われる方が無理というもの。
「んっ、ぅっ……ッ?」
身じろいだ瞬間、体の奥深くがゾクリと疼いた気がした。今まで感じたことのない感触。痛みとは違う。強いて言葉にするのであれば、かゆいに近いだろうか。
ただ、そのかゆみのようなものを感じる場所が経験のない箇所であった。
(何、だ?)
戸惑ったまま腰を僅かに捻ってみた。
「んっ」
ドクンと心臓が大きく高鳴る。その鼓動を意識した瞬間、それまでよりも早く心臓が脈打ち始めたような気がする。
「うっ……ぁッ……」
気が付いてしまったことを切っ掛けとでもするように、全身が熱くなってきた。体の奥深くがムズムズと疼く。
「はぁっ、ぁっ……」
むず痒さを少しでも何とかしたいと腰を捻れば、その刺激に反応するかのように体の奥のかゆみは存在感を増す。
(何だよ……何なんだよ、これぇ……?)
既に半泣きになっていた。視界の潤みは、瞼を閉じれば零れ落ちてしまいそうだった。
だから、グッと堪えて下唇を噛みしめる。
泣き出してしまったら、そこから涙腺が決壊して止められなくなってしまいそうで怖かった。
怖いのはそれだけではない。この訳の分からない状況も、これから自分がどうなってしまうのかという不安も。全部が全部、怖い。
それに、言うことを聞いてくれない体すらも。己自身のことだというのに。
「はっ、はぁっ……ぁっ……」
段々と荒くなる息にすらも熱が籠る。じっとりと全身に汗が浮かんできた。
腹の奥が疼いて堪らない。もっと具体的に言うならば直腸内部全てだ。括約筋が喘ぐようにハクハクと蠢いている気がする。尻の中全体が熱を持ち、喚いているようだった。
「うぅ……うっ……」
嘔吐などとは違う気持ちの悪さに胸が騒めく。大声で叫び出してしまいたい欲求に駆られるも、口から出るのは呻き声のような声ばかりだった。
(何これ……? 気持ちわりぃよぉ……)
ズビリと鼻をすする。潤んだ視界に入るお世辞にも立派とは言えない陰茎が勃ち上がっているのが見えて、どうして良いのか分からなくなった。
目指すはAV男優並み! ……とまではいかずとも、いつかはせめて平均的な大きさになれば良いと願ってやまない己の分身。フルフルと震えながら存在を主張していた。
先端からは透明な液体が零れ始めている。
体の奥の変なむず痒さで気持ち悪いはずなのに、快楽を訴える分身の姿に混乱するばかりだった。
「何、で……なんでぇ……」
至って健康的な男子高校生である。彼女いない歴こそは年齢と同年数ではあるが、友人とだって猥談くらいするし、AVだって見たことある。好みのタイプのセクシー女優だっている。さすがに生まれて一度も自慰をしたことがないなんてことは言わない。年齢相応の興味くらいはあった。……友人たちと比べたら、淡泊かもしれないが。
つまり、精通だってしているし、溜まれば家族には内緒でこっそりベッドの中で手慰みくらいはしてきた。
生まれてからずっと寄り添ってきた相棒のことくらい、ある程度は理解できていると思っていた。
だからこそ、こんな風に暴走したことなんて今まで一度たりとて経験がなかった。
どうして良いか分からない。なぜこんな状況で高ぶっているのか。
恐る恐る両手を息子へと伸ばしてみた。やんわりと握ってみる。
「はぅんっ!」
ビクビクと大きく体が跳ねた。触った場所から全身にビリビリと雷が走り抜けたような衝撃に見舞われる。トプリと先端から僅かに白濁液が零れている。ちょっと触れただけでイってしまったというのか。
自分が遅漏だとは思わないが、いくら何でも握っただけで達するほど早漏ではない。そんな敏感では日常生活を送ることすらままならない。
ただ、今、大いに困り果てているのは過敏になりすぎている陰茎だけではない。
「うっ……ぁあっ……ぁっ……」
疼いて疼いて堪らない、後孔の中。暴れ回るように刺激を求めて蠢いているのが分かる。
何かで強く擦られたい。特に奥。ヒクヒクとわなないて救いを求めてやまない。
「やっ、ぁぁ……ぁっ……あっ……」
言葉にならない声ばかりが口から洩れる。口内に溢れた唾液が唇の端から溢れ出た。みっともないと拭うこともできない。
むしろ、その流れる唾液にすら僅かに快感を覚える。
(やだ……いやだ……)
瞬きをした瞬間、我慢していた涙が零れ落ちた。一度決壊した堰は止めることを知らない。ボロボロと大粒の涙が溢れてしまう。
「ひっく……うっ……」
高校生にもなって子供みたいに号泣するなんて恥ずかしい。嫌なのに止められない。より一層、情けなくなってくる。
言うことを聞いてくれない体がもどかしい。手の中の屹立をもう一度柔く握れば、再び広がる甘美な情欲。ゾクゾクと体が震えてしまう。
吐き出す吐息すら気持ち良く思えてくる。天を仰ぐように上を向いた。実際に見えるのは結び目へと繋がるのであろう布地にすぎないが。
右手で竿をゆっくりと上下させてみる。抗いがたい悦楽が性器から湧き出てくる。
「はぁ……ぁっ……」
クチュクチュと下肢から聞こえてくる水音すらも快感に繋がっている気がする。
こんな気持ち良さ経験したことがない。今まで自分がしてきた自慰は一体何だったのだろうか。
そして、同時に強くなるもどかしさ。
この程度じゃない。もっと気持ち良くなれる場所がある。
性器を握る右手はそのままに、左手を更に下へと滑らせてゆく。蟻の門渡りを指の腹が触れるだけでビクンビクンと体が反応する。
指先が、しきりに呼吸を繰り返す後孔の縁へと到達した。
「あっ……」
ドキドキと胸の鼓動が速くなる。中心へと窄まった皺の中心部。ヒクヒクと開閉を繰り返している秘孔へと指先を添えた。
「ああっ!」
粘度のある液体によって、しとどに濡れる菊門から得られる刺激は性器の比ではなかった。触れただけでまたしても白濁が出てしまい、腹を汚す。精液特有の饐えた匂いと、下肢から香る甘ったるい香り。混ざり合って嫌なはずなのに、嗅ぐだけで性欲が高ぶらされるような不思議な高揚感がある。
後孔に触れている指先で窄まりの皺をなぞってみた。ビクビクと反応を示す蕾。同調するように鈴口から零れる先走り。
下肢は自分で出した恥液で塗れている。全身にしっとりとかいた汗も混じり、せっかくあんなに嫌な思いを我慢してまで洗われたというのに台無しだ。
それなのに、もっともっとと体が求める。
より深い場所。そこに悦楽の泉が湧いていると。脳が何かに囁かれる。
導かれるように指先を窄まりの中へ向かわせるべく、グッと力を込めようとした瞬間だった。
「わっ!」
閉じ込められている袋が引っ張り上げられる感覚。置かれていた場所から浮遊する独特の感触に下肢から手を離す。
ブラブラと持ち上げられている感覚が頼りなくて、目の前の布地を握り締めた。
遠かった喧噪が次第に大きくなっていく。布越しの明かりも徐々に強くなるように感じた。
「ぎゃっ!」
頭上の口が開いたかと思ったら、布から強引に引っ張り出される。ゴロンと床の上に転がされた。圭へと向けられているスポットライトのような強い照明に目がチカチカする。
今度はどこだと周囲を見渡そうとした時、両手を左右から引っ張り上げられた。
「くぅっ……」
強引に引かれる手首は痛みを覚える。無理やり膝立の状態にされて、引っ張られる腕も痛い。
(おいおい、俺はアメリカで見つかった宇宙人じゃねぇぞ!?)
以前、ネットで見た両脇の男に手を持ち上げられている宇宙人の画像のような格好に思わず心の中でツッコミを入れてしまった。
何度も目を瞬かせると、段々と視界が明かりに慣れてきた。
ヒッと喉が鳴る。
目の前の暗闇の中、何十人もの人が座って圭の方を見ていた。そのほとんどが男性。全員が歴史物の洋画の中で見るような中世の貴族を彷彿させる衣服を着ている。一見すれば何かの映画の撮影のようだ。
演者のみしかおらず、肝心の撮影スタッフなどは全く見当たらないが。
貴族然とした者たちは酒やオードブルなどの乗った複数の円卓を囲むように座っているが、その視線の全ては圭の方へと向けられていた。
好色染みた笑みを浮かべながら。
煌々と照らされる明かりと、ステージのような場所に自分がいることを悟り、ゾッとした。
左右を見れば、手首を掴んでいるのは目の部分だけが穴の開けられた布のような物ですっぽりと頭全体を覆い隠した大柄の男たち。体格や服装などから、意識を失う前に体を洗われていた二人組とは異なることが分かる。
「それでは、本日のメインディッシュでございます」
カンカンと木製の木を叩くような音が鳴り響いた。圭から3メートルほど離れたステージの端に立つ男が鳴らしていた木槌だった。仮面で顔の上半分を隠したオールバックの男が盛り上げるように高らかな声を上げる。
「博識な皆々様におかれましても、御覧になったことはないのではないでしょうか。当会におきましても、かつてこのような商品が出品されたことはございません。世にも珍しい黒髪黒目の少年にございます!」
客席からどよめいた声が上がる。値ぶみされるような視線が痛い。
「こちらは未使用、少々薬を塗って拡張はしておりますので、すぐにご使用いただけます」
「ふわぁっ!」
両手を離され、背中が地面についたかと思うと、今度は左右から足首を持ち上げられる。パカリと大きく脚を開かれ、普段は公に晒されることのない場所へと大勢の視線が突き刺さる。
両の尻タブを左右に引かれ、後孔が露わになった。ヒクヒクと蠢く括約筋に羞恥が募る。
「やだ、やめ……」
咄嗟に股間を隠そうと手を下肢へと伸ばしたが、その手すらも阻まれ、足首と共にまとめて掴まれてしまった。
「ひぃっ!」
括約筋の縁に左右から指がかけられる。ゆっくりと開かれ、中を覗かれているような格好に泣きたくなった。
「断言いたしましょう。この機会を逃せば、金輪際出回ることはないであろうことは確実にございます。まだ幼いこちらの少年、皆様好みにいかようにも躾けてくださいませ。それでは早速入札にまいりましょう。これほどまでに珍しい逸品にございますので、値が張るのはご了承くださいませ。70からのスタートとさせていただきます。それでは皆様、どうぞご入札くださいませ!」
カンカンと再び木槌の音が響く。途端に「90!」「100!」と数字の応酬が始まった。数字が跳ね上がる度に、どよめきが起こる。最初の頃は複数人の声が聞こえていたが、徐々に声の主は減っていき、二人の男の声が会場内に響くようになる。
「ひぁんっ!」
括約筋を引っ張っていた指が一本、中へと挿入ってきた。グリッと抉るように触れた場所からもたらされた衝撃に胸を突き出した。
「ああっ! あっ! あっ!!」
何度もぐりぐりとその場所ばかりを押されて嬌声が迸る。性器からは白濁が飛び出していた。ガクガクと体が激しく震える。
吐精したのに体の高ぶりが全く衰えない。むしろ、吐き出したことによって、更に体の奥の熱が高まっている気さえする。
「や、め……んぁあっ!」
体の中の快楽スポットを容赦なく押され、口からはひっきりなしに喘ぎ声が漏れていた。
こんな刺激、体験したことがない。射精に直結する、直接的な快感。ささくれだった男の武骨な指によって無遠慮にもたらされる強制的な悦楽。その場所を押される度に胸を反らし、陸へと打ち上げられた魚のようにビクビクと跳ねてしまう体を止められない。
自分の意識など及ばぬところで好きにされている現状が嫌で嫌で堪らなかった。
「出ました! 160!! これ以上はございませんか? ……いらっしゃらないようですので、これで落札とさせていただきます!」
カンカンカンと高らかに木槌の音が鳴り響いた。
「んぁっ!」
その音と共に、ズボリと一気に中に挿入されていた指が引き抜かれた。体の中を占めていたモノがなくなり、後孔が激しく収縮を繰り返す。
足りない。もっと、もっと。深い場所も擦ってほしい。こんな中途半端な刺激じゃ満足なんてできやしない。
腰を捩って奥の疼きを静めようとしてみたが、焼け石に水とは正にこのことだった。眠っていた快楽にまで火を点けられたように奥がキュンキュンと嘆く。
「ふぁっ……ぁぁっ……あぁ……」
もどかしすぎて堪らない。圭を照らすまばゆい程の照明にすらも感じてしまいそうだった。
誰でも良い。この疼きから解放してくれるのであれば何者であっても構わない。そんな気持ちになってくる。それ程までに我慢ならなかった。もはや苦しいとすら思える。
過ぎる快感も、更に高みを望む欲求も。どれもが今までに経験のないものばかりだったから。
しかし、求めるばかりの心の奥底に、ポツリと小さく残る欠片のような物が僅かながらに訴える。
誰でもではない。この身を委ねるのであれば、自分がきちんと納得できる人でないと嫌だと。
ちっぽけとも捉えられる小さな小さなこだわり。でも、譲りたくない。執着にも等しい想い。
そこだけは何人にも代えられない。唯一の者しか受け入れたくはない。
腕を引っ張り上げられ、再び膝立の状態へと戻される。薄ボンヤリと見える客席のような場所。そこにはおぞましさしか感じられなかった。
嫌だ、違う。ここにはいない。自分の全てを委ねても構わないと思えるような、そんな相手は。
更に無理やり立ち上がらせられるも、力の入らない脚は自分で立つことすら叶わなかった。薄汚れた大きな白い布袋が手の届きそうな位置に落ちているのが視界に入る。打ち捨てられたその袋が、まるで今の自分のようにみすぼらしく見えて気持ちを萎えさせる。
「ちっ、自分で歩けねぇのかよ」
「ぼやくな、商品だ。それに160だぞ。こんなガキに。大したお宝様だ」
右手を引っ張る男の苛立ちに萎縮する。握られる右手首の痛み。こんなに嫌悪を向けられるのは、いつぶりだろうか。
圭の周りには気の良い友人しかいない。学校の友達も、通っていた体操スクールの仲間たちも、家族も、親戚も、近所の人たちも。誰もかれもが良い人ばかり。たまに掃除の時間にクラスメイトたちとふざけて女子から文句を言われることなどはあったが、それでもこんな風に強い不快感を露わにされることなど記憶になかった。
ポロリと、涙が零れ落ちた。
自分は至って普通だと思っていた。普通の日常。普通の家庭。別に裕福ではないけれども、楽しい学校生活に、美味しい母親の手作りごはん。優しい家族と居心地の良い家。今考えれば、何の文句もつけようのない、幸せの塊のような日々。
どうしてこうなったのだろう。自分が何をしたのだというのだ。……いや、何もしなかったからだと言うなら、何をすれば回避できたのか誰か教えてほしい。
(やだ……やだ……嫌、だ)
家族の顔が頭をよぎる。
「それでは、次は骨董品の部門に移らせていただきましょう」
オールバックの男の声が高らかに響いた後、引きずられるようにして舞台袖へと連れて行かれる。潤む瞳に映る床。深紅の絨毯がぼやけている。
これから自分がどうなってしまうのか。何にも分からず胸を覆うのは重苦しい絶望ばかり。
(神様、仏様、……誰でも、誰でも良いから……助けてくれよぉ……)
引かれる腕の痛みが現実を教えてくる。自分ではどうにもできない状況。何かに縋らなければいられなかった。普段は無神論者で、何かを崇拝したことなんて一度としてないというのに。
「全員、動くでない!」
客席の後方からバタンと大きな扉の開く音が響いた。ワァワァと大勢がなだれ込んでくる。悲鳴や怒声、多くの足音。それに、ズバズバと何か重苦しい音が聞こえてくる。
そして漂う血の匂い。
項垂れていた頭を上げた。暗闇の方へと目を向ける。多くの人が入り混じって混沌に満ちていた。
床へと身を伏せ、無抵抗を示す者。闇雲に暴れている者。ゲームの中などでしか見たことのないような長剣を振るう者。ステージの明々とした照明の光に慣れてしまった目には薄暗い客席の様子を鮮明に見ることはできないが、秩序などというものとは対極の状態にあった。
そんな中でも分かることはある。今、客席は二つの人種に分かれているのだと。
元から会場にいた者たちと、黒い軍服のような服を身に纏い、武器を持った男たちに。
「な、何だこりゃぁ!?」
「馬鹿っ! あの服は帝国軍のもんだろ!! 早く逃げろ!!」
「うっ」
手を引いていた男たちがその言葉とほぼ同時に圭の手首を離す。重力に逆らうことなく、その場に転がった。
四肢に力が入らない。仮に立てたとしても、体の奥の耐えがたい疼きによって、まともに歩くことなど叶わなかっただろうが。
それでも、この混沌とした状況下で一人何もせず、うずくまるばかりとなっている場合ではない。
震える体を叱咤して上半身を起こした。
「ぎゃあああああ」
すぐ近くで雄たけびが聞こえたきた。
目の前へと何かが転がって来る。
「……………ッ!!」
思わず右手で口を覆った。そうでもしないと、今度は自分の口からとんでもない声が漏れそうだった。
球状の物体はコロコロと転がり、床について体を支えていた圭の左手へと当たって止まった。反射的に左手を床から離して後方へと数センチ後ずさる。
単純に、その物体から距離を取りたかった。
たとえ僅かであったとしても。
球体には、鈍色の布が被せられていた。二つ開けられた穴から見える血走った瞳。球体が転がってきた経路に点々と続く真っ赤な液体。先程まで自分を引っ張っていた男の一人だと分かった瞬間、吐き気が込み上げてきた。
頭部であった物を見ていたくなくて、床から顔を上げる。瞬間、後悔する。
視線の先にあったのは、長剣を振るっている男性の姿。
この場にいる軍服姿の男たちは全員が黒を身に纏っているというのに、その男性だけは目が覚めるような白だった。
返り血だろうか、ところどころに赤が跳ねてはいるが。
涼しい顔をして大きく振り上げられた長剣は圭を先ほどまで引っ張っていたもう一人の男へと向けられていた。
「うぐぉおおおおっ」
低い断末魔と共に、大きな音を立てて男が後ろへと倒れる。ピクピクと少し痙攣していたが、すぐに動かなくなってしまった。
舞台の端には先刻まで木槌を派手に打ち鳴らしていたオールバックの男も倒れている。深紅の絨毯ゆえに目立ってはいないが、よく見れば腹部付近から流れ出る血が床の色を染めていた。ジワジワと、その染みは広がっていく。
「……チッ、この程度か。つまらん。腕鳴らしにもならん」
綺麗な眉に皺を寄せ、白い軍服姿の男性が手にしていた長剣を振る。フォンッと風をきる音と共に付着していた鮮血が床へと散った。
男性の視線の先は客席。ほとんどの貴族装束の者たちが黒い軍服姿の男たちに制圧されている。長剣を向けられ床にうずくまる者。手に縄を掛けられ、男たちの入ってきた扉から連行される者。暴れたり逃げたりする者は既に見えなかった。
白い軍服姿の男性が振り返る。
目が合った瞬間、ドキリと大きく心臓が跳ねた。
その強烈な存在感に圧倒されたのか。その端麗な顔に魅了されたのか。
はたまた、そのどちらもか。
見当はつかなかったが、どちらにせよ目を離すことができなかったことだけは確かだった。
襟足の少し伸びたブロンドの髪。サラリとした髪は艶があり、照明を受けて天使の輪が輝いていた。意思の強そうな細い眉は綺麗に整えられている。スッと高く伸びた鼻。引き結ばれた血色の良い唇は、男性の放った「つまらない」という言葉を体現するように口端が下へと向いていた。
そして、何よりも目を惹き付けて離さなかったのが、瞳だった。
髪と同じくブロンドの長いまつ毛が縁どっている瞳の色は、エメラルドグリーン。まるで高貴な宝石のように輝いている。
見惚れると同時に息を飲んだ。こんなに美しい人間は未だかつて見たことがない。テレビでも、雑誌でも、ネットでも。映画俳優やモデルだって、実物こそは見たことないが、写真や映像でいくらでも『美しい』と評される人間なんて見かけてきた。
それでも、ここまで人間離れした秀麗な存在などお目にかかったことがない。
(やっぱ俺、屋上から落ちて死んだ……?)
ハァと一つ息を吐いた。人間は満足感に満ちると脱力する生き物なのかもしれない。この完璧を欲しいがままにしているような存在を前に、何をする気にもなれなかった。
ただただ、その存在を目に焼き付けていた。
(神様? それとも天使? 俺のこと天国から迎えに来たとか? ……それとも、俺が助けてくれって神頼みしたから??)
男性のことを見つめることしかできなかった。もう、この瞬間を逃したら、お目にかかることなど今後一生できる気がしない。それ程までに稀有な存在だった。
「……奴隷か?」
バサリと白いマントをはためかせ、男性が近づいてきた。股下の長い脚は一流モデルを彷彿とさせる。近くに来ると、その男性の身長の高さをより一層実感した。他の者と比べても抜きん出ていることは分かっていたが、傍目から見ているのとは違う。
きっと、その圧倒的な存在感も相まっているのだろう。
男性が圭の前でスッと膝を折った。見下ろされていた時よりもその存在が近くなり、またしても大きく心臓が跳ねる。
近くで見れば、より一層その完璧な美しさに圧倒されるばかりであった。
フワリと鼻孔をくすぐる清涼な香り。血生臭さに満ちたこの場にはそぐわず、いつまででも嗅いでいたくなるようなスッキリとした清々しさがあった。
「おい。口をきけないのか」
「あっ」
男性の手が近づき、顎を取られる。硬く男らしい手に思わず声が漏れた。ビクリと体が反応する。
不躾な視線で呆けたように見つめていたから、気を悪くさせてしまっただろうか。謝った方が良いのかもしれない。何となく、そう思わせる威圧感に似たものがあった。
まるで、彼の前に存在する者全てをひれ伏せさせるような、絶対的な風格がある。
16年間の人生の中で、ここまで威厳溢れる人間に出会ったことがなかった。自分の周りにいるのは、割と楽観的で、のほほんとしていて、一緒にいて気楽な者が大半を占めていた。
学校の先生などの中には厳格な人もいるが、そんな人らですら柔和に見えてくる。それほどまでに圧を感じる人物だった。
「ごめんなさい」と、たった一言言おうとした、その時だった。ズクリと体の奥が主張する。
「あっ……ぁっ……」
目の前の人物に気を取られていた時には完全に忘れていた刺激が再び訴えてくる。咄嗟に両手を股間の前についた。
見られるのが恥ずかしかった。浅ましく頭を擡げ、鈴口からトロトロと粘液を零し始めている恥部に気づかれてしまうのが。
「……ッ!」
疼きを噛み殺そうと必死に唇を引き結ぶ。しかし、意識しだしてしまうと、そこが気になってしまい仕方がない。直腸の奥まった場所が体の感覚の全てと言ってしまっても過言ではないという程に圭の中を席捲していた。
「……この甘ったるい香は……淫液でも使われたか」
機嫌を損ねたように眉間の皺が更に深くなる。苛立たし気な様子にビクリと体が震えた。
神がかる程の美形の怒りというのは、迫力がある。圭が悪いわけではないけれども、まるで自分が怒られたかのように感じて萎縮してしまった。
「……黒髪に、黒目……か。まるで逸話にでも出てきそうな見目だな」
圭の顎を取っていた美丈夫の手が顔の輪郭を確認するように肌を沿い、頬を撫でる。先ほど見た大男を殺めた人間と同じとは思えないくらい手付きは穏やかだった。
男性の親指が圭の目尻付近を軽く擦る。同時に髪の毛へと差し込まれていた指もサワサワと耳の後ろ付近を撫でられ、その感触にホゥと息を吐いた。
とてつもなく気持ちが良かった。ただ、顔と頭に触れられているだけだというのに。嫌悪感など微塵もない。あるのは心地の良い陶酔感ばかり。
「……なるほど、奴隷というものに興味など持ったこともないが……分からないでもない」
目尻をくすぐっていた手が再び下へと降りてきた。頬を包み込んだかと思うと、親指を圭の口の中へと入れてくる。男らしい硬さの指先が舌をくすぐった。それだけでもビクビクと震えた体は屹立の角度を増していく性器へと訴えかけてくる。
まるでそうするのが正解だと本能で察したのかもしれない。唇が意思とは関係なく窄まる。舌が勝手に動き、入れられた美丈夫の親指へと絡みついた。チュウと吸う。彼の親指の指紋を確認するように舌を蠢かせる。
指なんてなんら美味い食べ物でもないというのに。強いていうなれば、汗に近いようなうっすらとした塩味があるばかりだった。
それなのに、その指を美味しいと脳が感じ取ってしまう。味も、形も、弾力も。全てが愛おしいと、胸がキュウキュウ締め付けられる。
こんなこと初めてだった。そもそも、自分の体内に他者の肉体が入り込んで来たことなどない。幼い頃、両親にキスをされたことはあるが、それは唇同士が軽く触れ合うだけの情愛による行為であった。
夢中になって男性の指を吸う。与えられたご褒美であるかのように。離したくないと。意思表示するかのように。
「はっ、これはたまげた。こんな子供に、なぁ?」
美丈夫が形の良い唇を皮肉気に持ち上げて笑った。唐突に指を引き抜かれた。男性はその場から立ち上がると、手にしていた長剣を慣れた手つきで腰の鞘へと納める。
失ってしまった褒美に喪失感が募る。
もっと欲しい。もっと、その身を与えてくれ。
キュッと彼のズボンの端を握った。無意識だった。離れて行ってしまうのが嫌だった。
置いて行かないでほしい。どうなるか先行きの分からない不安に苛まれるのは耐えられない。握る衣服に皺が寄る。簡単に振りほどかれないよう、強く握りしめていた。
ジッと男性を見上げる。親指が引き抜かれた時、口の中に満ちていた唾液が端から零れ落ちてしまうのも全く気にならなかった。
圭の意識の全ては目の前の男性ただ一人に向けられていた。
敵か味方かも分からない、圧倒的な力によって人を殺していたこの人物に。
「手練手管か? 奴隷のような卑しい身分の者は、庶民などよりも生きるのに手段など厭わないと聞くしな」
蔑まれるような瞳。絶対零度を思わせる冷たい視線を浴びて、言いようのない不安に襲われる。
それでも、ここに取り残されて、またあのような男たちに良いようにされるのは絶対に嫌だった。
言われたことの意味が正直よく分からなかったというのもある。体を苛む疼きに耐えながら、意味が理解できないと小首を傾げた。
彼が立ち上がってしまったことにより、その存在が少しばかり遠くなってしまったように感じて寂しさと焦燥感で心臓がグルグル喚いていた。
触れられていた時には圧迫感にすら似た威圧感があったというのに。たかだか立ち上がってしまった程度で不安に怯える。
「やぁ……」
行かないで、と。言おうとしても脳が上手く働かなかった。熱い息ばかりが零れる。もう片方の手も彼のズボンを握り締めた。コトンと、額もズボンに付ける。僅かに顔を左右に動かしてみると、額が擦れて上質な衣服の感触が分かる。
なぜだろうか。言い知れぬ安心感に満たされるのは。彼の素性も何もかも分からないというのに。身を任せれば、全てが上手くいくような気になってくる。
人恋しかったのかもしれない。信じられる人がいなくて、不安ばかりに襲われて。
助けてほしかったのかもしれない。
きっとそうだ。藁にも縋るではないが、賢明な判断なんて、この時の圭にはできていなかった。
彼の纏う白い軍服の感触が心地良い。ズボンを握り締めていた指を解き、その脚へと絡ませる。成人男性ならではの太くガッシリとした肉感を生地越しに感じながら、右頬をズボンへと押し付けた。ギュッと両腕で脚を抱き締める。スリッと頬を生地へと撫でつけた。彼の体温がほのかに伝わってくる。それは何よりも圭に欲しい物を与えてくれた。
『安心感』という、絶対的なものを。
「この俺に、ここまで思わせるとは……大した奴だ」
自嘲したような声が頭上から聞こえてきた。腰を掴まれたと思った瞬間、フワリと体が浮く。
「えっ?」
浮遊感に驚いたのは一瞬のことだった。目線が高くなる。自分の体が美丈夫の右肩に担がれていると分かり、今度は混乱が渦巻いた。
「フィリップ! 俺は帝都へ戻る。後は任せた」
「はっ、お言葉のままに! ……陛下、その肩の者は……」
「たまには土産を持ち帰るのも一興だろう。今日は肩慣らしにもならなかったからな。この程度では腹ごなしの運動にすらならん。もうひと運動くらいしないと寝れやしないだろう」
「御意」
美丈夫がハキハキとした野太い声の男性と話しているのは分かるが、圭の視界に広がるのは彼の身に纏っているマントばかりだった。
「うわっ」
美丈夫が歩き出す。カツカツと音をさせる度、その振動が圭にも伝わってきた。
緩く勃起した性器が彼の服へと擦れた。刺激に後孔がクパクパと開閉する。肩に担ぎ上げられていることによって、丸だしの尻が衆目に晒されているような気がして恥ずかしさに両手で顔を覆い隠す。
「報告は明日で良い」
そう一言言い残すと、美丈夫は立ち止まった。赤い光を感じて顔から手を離す。
茶色い床に赤い線が描かれているのが見えた。その線が光り輝いていたのだ。
どういう理屈なのかは全く分からない。そこに電飾のようなものはないし、床に描かれた線が発光しているように見える。
プロジェクションマッピングか何かだろうかと思うも、その線は何かに投影されているようには思えなかった。
その場に赤い線が浮き上がり、自ら発光しているように見えてならないのだ。
圭を担ぐ美丈夫の声で小さく何かを呟いているような言葉が聞こえる。何を言っているのだろうと不思議に思っていると、赤い線は更に放つ光を強くした。
「うっ」
眩しくすら思って目元を覆った瞬間、フワリとした浮遊感に襲われる。目も開けていられない程の光に包まれ、ギュッと目を閉じた。
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