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第4章:告白編 第1話

 初めての口淫は甘美な刺激をもたらしてくれる。 「あっ、あっ……」  せり上がる射精欲求。睾丸がキュウと縮こまり、中の精液を吐き出そうと騒ぐ。  熱くぬめる口内はまるで天国だった。中にいるだけで溶けてしまいそうだ。  あの形の良い唇が、同性の恥部を咥えている。その倒錯的な状況だけでも達してしまいそうなのに、舌技までもが上手い。どこで学んだのだと問いただしたいくらいに。 「あれく……ぅ……」  相手の滑らかな絹糸のような髪へと指を絡めた。指先が温かく気持ち良い。そのまま指の腹で頭皮を撫でる。  キュンキュンといななく直腸が欲している。まだか、まだかと。出番を求めて荒れ狂う。 「ん、はっ、ぁぁッ!」  思わず自らの下肢をアレクの顔へと押し付けてしまった。圭も経験済みではあることだが、強引に腰を入れられると喉の奥まで性器で塞がり、非常に息苦しい。  圭の性器の長さではそこまでの破壊力は望めないが。  そんな圭の強請りですら、歓待するとでもいうようにアレクが口を窄めた。ズッと吸われ、その吸引力で達しそうになる。 「ひぁぁぁっ、あ!?」  根本を握り込まれ、痛みが生じた。敏感な性器を手荒に扱われれば、男としてどうにもできない苦しみに悶える。 「や、あれく! あれくぅ!!」  首を左右に激しく振る。勘弁してくれ。痛いことや苦しいことには免疫がない。  男は亀頭の表面を舌のざらつきで愛撫し、鈴口から漏れ出る先走りをゴクリと音を立てて嚥下した。  フッと視線だけで見上げてくる、獣のような情欲に塗れた瞳。その目で見つめられるだけで屈服しそうになってしまう。  浅い息を吐きながら、この責め苦に至るまでのことを思い出した。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆  その日、珍しくアレクは朝から外出していた。  また人身売買会場のように暴れ回りに行ったのかと思えば、そうではないらしい。ユルゲンへと行先を尋ねると、彼は表情を曇らせ窓の外を眺めた。 「ああ……そう言えば、もう、そんな時期ですか……」  そう呟いたきり、答えは返ってこなかった。  分厚い鉛色の雲に覆われた城下町はこの日、しとしとと朝からずっと弱い雨が降り続いていた。  アレクがいないという事は、自然と圭は一人で食事をする羽目になる。久しぶりの孤食だった。やっぱり一人はつまらない。話し相手がいないと、どんなに美味しくても味気なく感じるものだ。 「あーあ、アレク、どっか行くなら一緒に連れてってくれたら良いのに」  もちろん、公務ならそんな訳にはいかないことくらい分かってはいる。それでも不満を言うくらいは許されたい。それくらい無味乾燥な時間を過ごしたのだ。  仕方がないから窓辺に置いていたウサ太郎をアレクの席へと座らせた。あの美丈夫が可愛いぬいぐるみへと変わり、吹き出す。 「ウサ太郎、今日は俺と一緒に飯な」  話しかけたところで、当然答える者はいない。返事が返ってきても怖いが。 「ウサ太郎、アレクはどこに行ったと思う? 俺はねー、近くの街の下見とかに行ってんじゃねーかなって予想するわ。一人だったら転移でも良いけど、みんなで行くやつ。ゾロゾロ~って。だから、みんな遅くて仏頂面で帰ってくんの。……じゃあ、今晩、お盛んじゃんってか? そうなんだよ! 俺って結構大変だろ~? 絶倫の奴が傍にいると、身が持たないっつーの!」  ぶつくさと不満を並べ立てながらサラダをモリモリ食べる。ちょっとだけ美味しく感じた。もしかしたら、言葉を発しながら食べると良いのかもしれない。傍から見れば、ただの頭のおかしい奴扱いだろうが。 「ウサ太郎には一緒に飯食ってくれる奴いる? 俺はねー、今はアレクと一緒に食ってるけど、アレクいないと一人っきりなんだ。でも元の世界に戻れば、とーちゃんもかーちゃんもじーちゃんもばーちゃんもねーちゃんもにーちゃんもみーんないるから、すげー賑やかなんだぜ? あと、豆しばのチビも! 毎日家の中超賑やかで、学校も友達みんな馬鹿で良い奴ばっかで楽しいし。……この城も、外から聞こえてくるのは楽しそうな声だけど、この部屋は……今は俺の独り言だけだな」  ポリンと音を立ててスティック野菜を齧った。その音が妙に大きく部屋に響いた気がして寂しくなる。コリコリと音をさせながら咀嚼し、飲み込んだ。  前言撤回。やっぱり味気ない。所詮はぬいぐるみ相手の奇行だ。人間相手じゃない。  握っていたフォークをテーブルへと置く。何だか食べる気が失せてしまった。  ウサ太郎を抱えて窓辺に座り込んだ。雨の中でも人々の往来があり、今日もいつも通りの風景が広がっている。祭りの日のような賑やかさはないが。 「ウサ太郎、いつかはアレク、俺のこともまた一緒に今度はいろんな所に連れてってくれると思う?」  両手でパタパタとウサ太郎の垂れた耳を動かした。ついでに裏声で「オモウヨー」と言葉を発してみる。 「あはは、ウサ太郎ありがとな。今はお前だけが俺の友達だよ」  ギューッとそのふっくらとした体を抱き締めた。  ウサ太郎の頭に乗せていた花冠を気まぐれに圭は自分の頭の上に置いてみた。  花冠を渡すのは「好き」の印。  でも、アレクはきっとそんなんじゃない。ただの気まぐれ。  でも、でも、もしもちょっとだけ。本当にちょろっとだけでも、圭のことを〝好き〟だと思ってくれているのなら。  その気持ちに、きちんと応えたいとは思う。  恋愛の好きか、友情の好きかはまた別の話だが。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆  アレクが城へと戻って来たのは日も暮れ闇夜が世界を包んでからだった。  一人きりの夕食を終え、風呂から上がった圭は戻ってきたアレクを見てギョッとした。  外の闇夜を吸い込んだような真っ黒い式典服のような格好をしていたから。  普段、アレクは真っ白い軍服を着用している。どうやら皇帝という職業はその白い軍服を着るのが常であるらしい。制服のようなものだ。  だから、アレクが他の色の服を着ているのが不思議で仕方なかった。 「お、お帰り……」 「……ああ、ケイか。今帰った」  ボンヤリとしていたアレクが、声を掛けられて圭の存在に気づく。あまりの珍しさにまたしても目玉が飛び出るかと言うほど驚いた。  アレクは気配に聡い人物である。それは戦場だけでなく、常日頃から周囲に対してピリピリと気を張っているらしい。  圭と共にいる時はそうでもないが、一人でも他の者が入ってくれば一気に空気が緊張で振動する。  アレクは思い耽ったような表情を緩めず、窓辺に置かれたソファへとドカリと腰を下ろす。そして、そのまま窓の外を眺めて微動だにしなかった。 「……どうしたの?」  声を掛けるべきか否か逡巡したが、気になって仕方がなかった。  それ以上に、今まで見たことのないアレクの様子に心配で仕方なかった。  チョイと服の裾を掴み、ソファの横の床に座り込む。何だか立ったまま上から見下ろすよりも、見上げた方が良いと思ったから。 「何か変か?」  苦笑され、コクリと素直に頷いた。その反応を見て更にアレクは困ったような笑みを深くする。 「きちんと髪を拭け。風邪をひく」  アレクの手が圭の後頭部を撫でる。いつものようにフワリと温風が舞い、一瞬で乾かしてくれる。こういう時、やはり魔法というのは便利だと実感する。 「俺が風邪ひいたら、アレクに移しちゃうから?」 「違う。そうじゃない。誰だって、身近な者が病に罹れば困るものだろう。病は魔法では治せない。……怪我は治せるというのにな」  いつものように脇の下に両手を差し込まれ、持ち上げられた。当然のように膝の上に乗せられる。もう、圭にとってもそこが定位置のようになっており、違和感などは何も仕事をしない。 「今日、何かあった? 嫌なことされたとか、言われたとか……」 「俺に対してか? 言ったりやったりする奴がいると思うか?」  ブンブンと大きく首を横に振った。この暴君相手にそんな命知らずなことをする奴は世界中どこを探してもいるはずない。 「じゃあ、どうしたの? なんか、いつもと違う。変」 「俺に対して〝変〟だなんて面と向かって言えるのは、世界広しと言えどもケイくらいだ」  プハッと吹き出した後、盛大に笑われる。少しだけいつもの雰囲気に戻った気がして嬉しくなった。 「そんなの、いつもアレクが怖い顔ばっかして、厳しいことばっか言ってるからだろ?」 「皇帝なんてものはそういうものだ。下手に舐められては威厳もへったくれもない」 「……でも、そんなの……ちょっと寂しくない?」 「寂しい……か……」 「そうだよ」 「……そんな感情は、とうの昔に置き去ってきたわ」 「え……」  同じような言葉を聞いた覚えがある。暖炉の温かさに満ちた部屋の中。あの綺麗で優しい彼女の、ちょっとだけ切なそうな声で。 「感情なんてものは持っていたって面倒なだけだ。そんなもの、ある方が付け込まれる。俺は、誰からも付け込まれる訳にはいかない」 「…………………」  硬い表情のまま、アレクは外を見つめている。もう真っ暗で何も見えない漆黒の闇を。  ガバリとアレクに抱き付いた。外の湿気を吸ってか、黒衣はうっすらと湿っている。気にせず、ギュウゥとその身をきつく抱き締める。 「ケイ?」  戸惑ったような声が頭上から聞こえてくる。咎める響きはないが、意図を測りかねているようだった。  何だか、今、アレクをここに留めないと、どこかに行ってしまいそうな気がしてならなかった。  せっかく近づけたのに。また手の届かない存在になってしまう。そうならないよう、引き留めなきゃいけないと脳が即時に判断した結果だった。 「ケイ、今日は雨で礼服も濡れているだろう」 「俺、そんなの気にしないし!」 「はは、俺が気にする。風呂に入らせてくれないか? そしたら、茶でも飲みながら少し話をしよう。……今は、誰かに聞いてほしい気分なんだ。誰でも良い訳ではないが」  そこまで言われて、腕から力を抜く。両肩を持たれ、やんわりと引き剥がされた。  見上げたアレクの表情は穏やかなものへと変わっていた。ホッと安堵し、肩の力が抜ける。 「じゃあ、俺、お茶用意してもらっておくね」 「頼んだ」  アレクの膝の上から飛び降り、部屋の扉付近に備え付けられているベル紐を引いた。この紐を引けば振動が使用人室へと伝わり、人を呼べるという仕組みだ。 「えっと、お茶を……うーん、どれくらいだろ? 15分……くらい? 後?に、飲み頃になる感じで、2人分。お茶菓子とかはいらない。多分、アレクもこの時間ならもう食べただろうし。寝る前だから、落ち着くやつが良いかなぁ。ちょっと話し込むかもしれないし、お代わり用のティーポットもついでに! 2~3杯いれられる感じで!」  使用人は深々とお辞儀をして去って行った。後は待てば良いだけの簡単なお仕事だ。  この世界に来てから、つくづく楽な生活をしているとは思う。元の世界にいた時には、チビの散歩や風呂釜と玄関先の掃除は圭の当番仕事だった。兄は既に働いて家に金を入れているし、姉はバイトをしているため両親から小遣いを貰っていない。たまに祖父母から小遣いを貰うことはあるようだが。  勉強とセックスだけの毎日というのも両極端で爛れた生活であるとは思うが、それ以外を望まれていないのだから仕方がない。  むしろ、何かをしたがる方が周囲にとっては迷惑なのだ。  ソファでダラダラしていると、部屋の中にノックの音が響く。ティーカップとポットを受け取って使用人を返した。注ぐだけなら圭でもできる。  多分、今日はその方が良い。他の人がいない方が、きっと上手くいく気がする。  ほどなくしてアレクが風呂から上がってきた。濡れた髪が貼り付き、男の色気がグッと増す。 「人には拭けって言っておいて、自分は濡れたままって、どうよ」 「ははは」  軽やかに笑う相手をソファに座らせ、後ろからガシガシとその髪を拭いた。途中からアレクは自分で魔法を使えるんだったと気付きやめようとしたが、乾かそうとする素振りが見られない。仕方なくある程度タオルドライするまで拭いてやった。  2つ分のティーカップへと茶を注いでいく。薄っすらとした黄緑色の液体がカップを満たす。フワリと香るハーブの匂い。スッと鼻の中に入り、気分を落ち着かせてくれる。夜分に調度良い茶だ。  アレクの前へとティーカップとソーサーを置けば、いつの間にか髪は乾いていた。やっぱり自分でできたのかと呆れながらも文句は心の中だけに留めておく。  湯気の立ったカップへと口を付けた。スッとした清涼感が口の中に広がる。悪くない味だ。むしろ好みのタイプである。今度、また淹れてもらうリクエストをしてみよう。 「……霊廟へ行っていた」 「れいびょう?」  足をパタパタ動かしながら茶を飲んでいたが、馴染みのない言葉に聞き返した。  ティーカップを置き、隣に座るアレクの方へと視線を寄せる。アレクはティーカップを持ったまま茶の表面をジッと見つめていた。 「母上が、眠っている」 「あ……」  その言葉で「れいびょう」という聞き慣れない言葉が墓を意味しているのだと気付いた。  アレクの両親が既に他界していることはユルゲンから聞いて知っていた。父親は前皇帝のことを指すことは聞いていたが、母親については何一つとして知らない。 「俺の母上は、北部の都市を治める中流貴族の出身だった。特段、特出した取柄のあるような目立つ人ではなく、性格も地味で人前に出ることを嫌うタイプだ。だが、その美貌だけは評判だった。噂が噂を呼び、それは帝都の父上のところにまで届いた。そんな話を聞いて、見たいと思わぬ男などいないだろう。当然のように母上も住んでいた北の中核都市からここ、帝都へと召し上げられた。母上には当時好いた幼馴染がいたようだったが、そんなものは当然考慮されるはずがない。一国の主の命だ。行かざるを得ないというものだ。行けば、その美貌に当然のように父上は虜になる。そして生まれたのが俺という訳だ」  流れるように淡々と話すアレクの言葉を一言一句漏らさず聞いていた。  圭の両親の馴れ初めとは全く違う。祖父母こそは見合い結婚だったが、学生時代からの大恋愛を経て結ばれた両親は結婚して二十数年経つ今でもラブラブだ。たまに二人きりでデートに行くと言っては、ディズニーランドの土産などを買ってくる。小学生の頃までは一緒に行っていたが、さすがに中学生になると友人たちと行くからと圭も行かなくなった。  父は母のことを「ちゃん」付けで呼ぶし、母も父のことが大好きでよく惚気話をしてくる。兄は苦笑しながらも聞くが、姉に至っては聞き飽きたとばかりに自室へと戻ってしまう。圭は、これも小遣い稼ぎの一つだと自分に言い聞かせながら相槌を打っている。  望まぬ結婚をするというのは、どういう気持ちで嫁いだのだろうか。  しかも、場所は見知らぬ土地。  好いた相手とも強引に引き離され、家と名誉のためだけに相手の子を産まされる。そんな非日常的な光景、令和の日本にはほとんどない。  少なくとも圭の身近では聞いたこともなかった。 「当時、父上には何人もの側室がいた。正妻に子が設けられなかったからな。そうなれば、勃発するのは跡目争いだ。母上はそんなものに巻き込まれるのを嫌ったが、父上が最も愛したのは母上だった。だから一番矢面に立たされたのは母上だ。強力な後ろ盾もなく、北部の中核都市レベルを治める中流貴族の女を後押しする馬鹿なんていない。そりゃあ酷い扱いを何度も受けてきたそうだ。それでも、母上は幼い俺がいたから逃げ出すことすらできなかった」  クッと口角を上げて皮肉な笑みを作る。その顔が悲しんでいるように見えて、ズキズキと胸が痛んだ。  幼い頃の圭は、歳の離れた兄や姉の後をついて回っては一緒に遊んでもらっていた。家には専業主婦の母と祖父母がおり、2人が学校に行っている時にはずっと誰かが圭の面倒を見てくれる。幼稚園に通うようになれば近くの子たちともすぐに仲良くなり、毎日楽しく遊んでばかりいた。家に帰れば母がおやつを作って待っていてくれていたし、祖父とベーゴマやメンコなどをして対決する。もう少し大きくなったら将棋のさし方を学び、一緒に対局するようにもなった。今でも年末年始にかけて「安達家戦」と称して家族全員で大会を開いている。大概、圭がドベなのは毎年変わらないが。圭の中では、将棋をさせない豆しばのチビが最下位だと思って自分を励ましている。 「母上を陥れようと近づく者からは裏切り、傷つけられ、毒で暗殺されそうになったことなど数えきれん。いつでも母上は何かに怯えているようだった。でも、誰も助けてなんてくれない。だから、母上はいつも俺に言っていた。『誰も信じるな』『何にも負けないくらい強くなれ』ってな。……今思うと、多分あれは母上が自分自身に言い聞かせていたんだろうな。そうでもないと、こんな伏魔殿で正気を保って生きてなんていけなかったんだろう」  グイッとアレクがティーカップの茶を煽る。本当は空になったカップに新しい茶を注いでやるべきだったのだろうが、圭は動けなかった。  もっとお金があれば良いなぁと思ったことなど、何度もある。宝くじの当たった話で友人や家族と盛り上がったことだってあるし、祖父母や両親を海外旅行にでも連れて行ってあげたいなんて夢物語を話した思い出は遠くない。  しかし、実際には金や権力のある場所には当然ながらそれを得ようとする者が集まり、醜い争いが起こる。その渦中に巻き込まれたのが目の前の男なのだ。その心中を察しろと言う方が難しい。圭の生まれ育った環境とは真逆なのだから。 「父上からの寵愛を受けたがために、側室の中に仲の良い友人なども作ることができず、ただただ母上は病んでいった。気力が減退すれば、それは身体にもいずれ不調をきたす。そんな時に起こったのが流行り病だ。召使の一人から感染し、あっという間に医者の手の施しようがないまでに悪化した。いくら後宮の一人と言え、国の人口の1割を失った病だ。医者だって有力な貴族の方から診察する。母上が診てもらえた頃には、すっかり虫の息になっていたさ」  空になったカップを持つ手が震えていた。この人がここまで感情的になるのは珍しい。怒りなどは、すぐに武力で発散する人だ。  それが、こんなに静かに怒りを湛えている。  どう言葉をかけて良いか、全く分からなかった。 「それから母上が亡くなるまでは早かった。みるみる内にやせ細り、最後はがりがりで骨に皮が付いたような状態だった。かつては『傾国の美女』とまで呼ばれた程の人が、見る影もなかった。まだ二十代だというのに、見た目は婆さんのように萎れてしまってな。……それでも、俺は母上が美しいと思った。ずっとその身で俺を守ってくれて、体中ボロボロで。それすらも、全てが美しいと、その時の俺は思ったんだ」 「もう良いよ!! もうやめよう!!」  思わず叫んでしまっていた。これ以上、痛ましい顔を耐えながら話すアレクを見ていられなかった。  カップを握る手をアレクの上からギュッと掴む。その震えを今だけでも止めたい。ツラい思いから解放したい。  そんな願いを込めながら。 「……最後まで、聞いてはくれないか?」  疲れたような、どこか達観した瞳で見つめられる。頷く以外の選択肢を持たなかった。 「母上の最期は俺と二人きりだった。母上に与えられた部屋で、ひっそりと。北の中流貴族出身の母上に宛がわれた部屋なんて、酷いものでな。後宮だというのに隙間風の入るような場所だ。第一側室の傍仕えの方がよっぽど良い部屋に住んでいたさ。……まあ、傍仕えと言えど、そちらの方が格は高かったからな。今思えば順当な配置だろ。帝都に来れば流行り病に侵されるなんて噂がたって、親族なんて誰一人顔を見せることすらなかった。召使だって病に倒れ、顔すら出さない。……いや、〝出せなかった〟が正しいか。大体はみんな死んだからな」  まるで他人事のように言う。……いや、実際にアレクにとっては他人事だろう。乳母や召使であろうとも、母親以外は全てが〝他人〟。口ぶりや視線がそう語っていた。 「父上は、あんなに溺愛していた母上を晩年は一度たりとも会いに来ることなどなかったな。特に病に侵されてからは忌避していたようだ。まあ、皇帝たる者、病に侵される訳にはいかないしな。それから俺はこの帝都で一人きりになった。一国の皇帝である父上にはそう滅多なことで会うことも叶わないし、父上には子供がうじゃうじゃいる。俺はその中の一人ってだけだ。普通に考えれば、いくら一国の皇子であろうとも、母上という唯一の後ろ盾をなくした俺がこの魔窟で生き残れる訳がない」  ゴクリと圭は生唾を飲み込んだ。確かに跡目争いの邪魔になるのであれば、すぐにでも殺されてしまっても不思議ではない。  しかし、アレクは生きて皇帝としてここにいる。 「俺は物心ついた頃から魔法が使えたからな。母上はそれがバレて早急に殺されるのを防ぐため、俺に人前で魔法を使うことを禁じた。それは英断だったと思う。だが、俺は誰にも知られぬよう、魔法の研鑽を重ねた。文字を覚えてからは自力で魔導書を読んで解析した。最初は何が書かれているかさっぱりだったが、俺には素質があったらしい。少し考えればすぐに理解できた。応用すれば、その先だって読むまでもなく分かる。あっという間にほとんどの魔術を体得したのが、確か母上が鬼籍に入ってから4年のことか」 「え、待って? じゃあ、アレクはいくつの時にお母さんを亡くしたの?」 「6つの時だ」 「えー……」  絶句した。そんな幼い頃に母親を亡くし、そこからたったの4年で魔術の多くを体得したなんて、とんでもない化け物だ。ユルゲンが言っていた。魔法は非常に難しく、まともに使えるようになるまできちんとした指導者の元で学んだとしても10年はかかる。それを独学でたったの4年。もはや人間技とは思えない。 「さすがに血を吐くような努力くらいは俺だってした。寝る間を惜しんで魔術書を読み漁り、その傍らで帝王学や歴史書なども読み解いた。魔法馬鹿になるだけでは意味がないから、剣術の鍛錬も合間を見つけて行ったな。どれもコツを見出せばそれなりにはできるようになった。だが、俺は何でも一番でなければならない。絶対的な力と知恵が必要だ。時間はいくらあっても足りなかった」  圭が学校帰りに道端でカエルを拾ってきて、母に土産として渡してキャーキャー騒いでいたような歳の頃、アレクは黙々と研鑽を重ねていた。  兄弟みんな集まって庭でスイカの種飛ばし大会を開いていたような頃、ずっと一人きりで本を読み、剣を振るっていたというのか。  あまりにも違い過ぎる差に、呆気に取られるばかりであった。 「人間というのは現金なものでな。力があると分かれば、それを利用しようとする輩が現れる。だから逆に利用してやった。使えるものは何でも使う。生きるために。俺が明日を生きて迎えるためには必要なことだった。互いに利用し合い、使えなくなれば捨てる。それの繰り返しだ。次第に俺に歯向かう奴がいなくなった。そりゃあそうだろうな。何をしても俺に勝てない。まとまってかかってきたとしても、誰一人として相手にすらならない。そこまでくれば、後は気楽なもんだ。後継として指名されるのを待つだけで良い。その頃には有力な貴族たちの弱みくらいは根こそぎ握っていたからな。後は父上が死ぬのを待つだけだ」 「まさか……」 「いや、殺しはしていない。病に倒れて勝手に死んだ。ただそれだけだ。良かったのは、あいつも馬鹿じゃなかったことだ。きちんと俺を後継指名して死んだからな。側室たちの悔しがる顔は見ものだったぞ。自分たちよりも下位の貴族、それも、親すらいない俺が国の頂点に立ったんだからな。だが、全員が分かっていただろう。自分たちの子供よりもよほど有能だってことはとっくに証明されてるんだからな。悔しければ、俺よりも優秀な子を産めば良かったんだ。それに、地位にかまけて努力もしない連中。あいつらは論外だ。全ては自己責任だろ」  吐き捨てるように言うアレクの顔には、侮蔑の表情が浮かんでいた。簡単に言ってはいるが、ここまでの道のりは相当茨に塗れていたはずだ。この手が傷つき、血に塗れ、治してはまた傷つくことを繰り返してきたであろうと察する。  アレクの握っていたカップを置き、その手をギュッと握り締めた。 「……ありがとう、教えて、くれて……」 「寝物語くらいにはなったか?」  皮肉な笑みを浮かべるアレクに胸が痛んだ。  この人は、とてつもない波乱の人生を生きている。誰も信じられず、自分以外に頼れる者もなく。力だけが全てで。  だからだろうか。あんなに破天荒なことをするのは。  人の命を全く顧みない所以に辿り着いた気がする。 「俺が……いるよ?」 「ケイ?」 「本当の家族にはなってあげられないけど、家族みたいなものには、多分……なれる、……気がする」  この人を包み込んであげたい。真綿で優しく。もう傷つかなくて良いように。 「アレクはさ、多分、子供の頃にすべきことを全部し忘れちゃったんだよ。だから、今からでも遅くない。取り戻しに行こう? 祭りがあったら一緒に遊びに行って笑い合いたいし、もっともっといろんな思い出だって作るべきだと思うんだ。素敵な景色があったら一緒に感動したいし、それこそ、天気が良いねって共感するだけでも良いと思う。いろんなことを見て、感じて、語り合って。多分、そういうのを、もっともっとやった方が良いと思うんだ」  そういうことなら手助けできる。綺麗な物を見て素晴らしいと思う感性くらいは持ち合わせていると思っているし、もしも足りなければそれは学び合えば良い。 「一人じゃできないことを、一緒にしよう? 俺もアレクにいろんなこと教えてもらいたいし、俺が知ってることなら何でも教えたい。二人だからできることをしよう?」  きっと遅くない。今から始めれば明日はもっと素晴らしくなるし、その先だって楽しみになるはずだ。「明日を生き残るため」に動くのではなく、「明日を楽しむため」に生活する。そんな日々を、この人と一緒に過ごしたい。 「ケイは……きっと、愛されて育ってきたんだな」  握り締めていた手を引き抜き、圭の後頭部へと回された。頭の形を確認するように撫でられ、心地良さに目を細める。 「こんな風に腕を伸ばされれば、俺は首を絞められるんじゃないかと危惧して敵意を表した。でも、ケイは違う。簡単に差し出す。きっと、考え方全てが俺とケイとでは違うのだろうな」 「アレク、考え方なんてみんな違ってて良いんだよ。しちゃいけないのは、それを〝違う〟って決めつけることだから。そういうのを、俺の世界では『多様性』って呼んでね、お互いに尊重し合うんだよ」  昨今、しきりに社会で叫ばれるSDGs。圭の学校でも当たり前のように学んだ。  他者を認める。それが発展に必要。授業で聞いた時にはよく分からなかったが、今なら何となく理解できる気がする。 「考え方なんて100人いれば全員違う。同じなんてことは絶対ないんだから。だから、むしろ、その違いを楽しめるくらいになった方がなんか得な気がしない?」 「得……プッ、そういうものか?」 「えー、お得ってみんな好きじゃん!」  安達家での言葉でみんなが好きなのは「特売日」だ。その日が休日なら、みんなでこぞってスーパーへ行き、賑やかに食卓のメニューを考える。試食を食べてうっかり買ってしまって、予算オーバーだとゲラゲラ笑いながら両手に買い物袋を提げて帰る。そんな当たり前の日々が懐かしい。  唐突に手と後頭部を引かれ、アレクの方へと倒れ込んだ。 「ケイがいると、俺の中の価値観が壊される」 「えっと、ご、ごめん??」 「違う。逆だ。今まで、誰も俺に何も言ってくる奴はいなかった。……まあ、物申す小うるさい奴らは全員粛清してきたからな。当然と言えば当然だが」 「ひぇっ……」  その言葉を聞き、圭は身を固くした。もしかしたら出過ぎた真似をしただろうか。 「俺は全て正しい。異を唱える奴は、そいつが間違っている。だから排除する。この繰り返しだ。……そうか、違いを楽しむ、か。ふふっ、そうだな。そういう考え方も案外悪くないかもしれない」  ギュッと抱き締められて、ドキンと胸が高鳴った。命拾いしたことへの安堵か、はたまた別のものか。今の圭にはよく分からない。 「ケイ、では明日はどんな一日にする?」 「えーっと、明日? 明日はー、えーっとぉ……」  突然振られても答えなんて早々持ち合わせていない。そんなキラキラ回答、普段から引き出しに入れて持ち歩いているほど賢くはないのだ。 「あ、明日までの各自宿題! にします!!」 「ははは、何だそれは」 「だって、今決めちゃったら、それにしかならないかもしんないじゃん。可能性なんて無限大なんだから、明日のことは明日決めたって良いんだよ」 「可能性は無限大か。良いな、気に入った。明日も明後日も、ケイの未来に俺はきちんといるか?」 「え? いるよ? 当たり前じゃん。何言ってんの?」  抱き締められる腕に力が籠められる。あまりの苦しさに腕の中で藻掻いた。 「ぐ、ぐるじぃ……」  このままでは窒息死? 圧迫死? とにかく何らかの死因により圭に明日は来ない。闇雲に藻掻いたことで、アレクの腕の中から抜け出せた。ゼーゼーと荒く息をする。 「ケイ、愛している」 「は?」  あまりに突拍子もない言葉に思わず眉間に皺を寄せてしまった。  こんなに脈絡のない「愛してる」など今までの人生で聞いたことがない。そんな言葉に繋がる状況などあっただろうか。 「なんて?」 「ケイ、あ・い・し・て・い・る」  今度は優しく抱き締めながら、アレクが一音一音はっきりと区切る。聞き間違いではない。これはもしや、愛の告白というものだろうか。 「えええええ!? いや、待って!? それっぽいの、あった!? いや、あった……ぁ? いや、でも、えっ!?」  まさか、こんなところで告白されるなんて思ってもいなかった。明確な回答など用意していない。 「ケイ……」 「え、アレク、ちょ、ちょっと待って!?」  ソファに押し倒される。見上げる先には陶然とした顔の美丈夫。 「あの、……あのぉ……」  逃げ場などなく、迫って来る顔をよけることすらできない。  せめてもの抵抗とばかりにギュッと硬く目を瞑った。

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